2011-08-22

このブログを印刷し三茶小の先生へ郵送

印刷媒体でしか三茶・駒中クラブを見ることのできない世代の皆様には、印刷媒体でしか伝達できない
そこで三分の一ほどを印刷し郵送することにしました
当初からこれをするようになると覚悟をしていましたが、印刷し製本する手間が面倒で二の足
しかし、嫌なことというのは向こうから寄ってくるもので、紙にインクをなすりつけて、製本と輪転機と機械をひさしぶりに動かした
自前で所持しているので面倒がらずにやればいいのだが、ブログの簡便さと映像・音声まで出せる面白さを思うと、どうにも気持ちが重い
でも、恩師の皆様に往時を思い出していただければ幸い
先生方も元気な盛り、色々とあったことと想像
それにつけても世田谷の中心、三軒茶屋のなつかしいこと
楽しいことばかりではなかったけれど、なんとも心楽しくなるひびきがある
三茶、私たちの町でした

2011-08-04

ブログの宣伝

6月23日から方向性を求めて色々と模索
中野さんからもご意見を頂き、宣伝不足だとの結論に達し、見本紙を作製しこれを新聞社の支局にもちこみ記事掲載を願う
商店街の古い写真などを集め、ブログならではの写真を中心とした世田谷郷土史を作成してみたい
三茶小第三期の卒業生が始めたブログを若手も参加できるものにするべく、もうひと努力をします
見本紙の印刷も昨日終了、幹事諸氏の努力をもって暇をみながら新聞社を廻る
また、10月からは茶沢通りのホコテンでチラシを撒くように千枚を印刷
夏は暑くて撒いているうちに倒れそうなので秋からにした
紙媒体も大事だが、やはり時代はインターネット
恩師の皆様もご高齢になられ、新時代の利器には疎遠
この見本紙は恩師の皆様にも送付します
今、NHKの朝ドラマで戦後間もなくの女教師の話
まさに恩師の皆様の時代
懐かしく思い出していただけるよすが(手段)となればありがたい

2011-06-23

上馬の三奇人 タマエさん

玉電通り真中寄りに立石という氷屋があり、冬には壷やきいもを売っていた。あの頃はやきいもは高級なおやつだった。三茶小で同級の中西君は「お前の家にはもう行かない、やきいもしか出さないから」と言った。やきいもの美味さを知らないのだと思った。実際やきいもは高かったが、中西君には粗末なものと見えたのだろう。それでも我が家では最高のもてなしだった。
その手前に平河屋のそばやがあり良く手入れされた調度品が黒光りしていた。ここのそばは滅多に食べられなかった。両親がメリヤスの仕事で忙しく食事を作る時間を惜しんで作業すると、この平河屋で食べてきなさいと、妹と共になにがしかの金を渡され、その範囲のなかで品書きの木の札の中から食べたことのないものを選んだ。妹は小学校に入ったかそこらで、椅子によじのぼって座った。外食券食堂などの文字が並んでいた。
平河屋は文化の臭いがした。かつお節と醤油のなかに、食べる楽しみを教える文化の臭いがあった。
この平河屋の横を入ったところにタマエさんの家があり、通りを覗いているぎょろぎょろとした眼に出くわす。鞍馬山の義経が登り、そこで剣術の稽古をしたと言われる。六韜三略(りくとうさんりゃく・中国の兵法書)を覚日阿闍梨から学んだといわれる。その剣術の稽古をつけたのがからす天狗。眼ばかりぎょろぎょろして色浅黒い、この風貌がタマエさん。アーチャンも彼女を知っていて、買い物袋を手にして、中から石を取り出してぶつけてくるんだよ、嫌なばばあだったという。土屋さんに「あんたがいじめるからだよ」といわれブツクサ。
タマエさんの名誉にかけて言うが、あの人はそんな凶暴な人間ではなかった。毎日上馬から三茶方面を流して歩いているため、土方人足、駕篭かきのように日焼け、何をして食っていたのかは不明だが、泥棒かっぱらいの話も聞かない。それなりに暮らしておられたのだろう。あのころはこうした上馬ウロチョロ族が結構いた。ロケットしんちゃん、背の高い襟付き学生服に名前を書いた聾唖者、指先の溶けた男、吟遊詩人、鍋欠けつぎ、傘の骨直し、金魚売りに雑貨や、これはリヤカーに骨組みして、鍋、釜、大根おろしの板、湯呑など、今の百円均一のような行商、これの若い衆が泣きながらオバサン連に聞いている。錦糸町は遠いですかね、売れるからってんでお客さんがあっちへ行け、こっちへ来いというので、ウロウロしているうちに、此処まで来ちゃったんですけど、此処はどこですか、私は誰? そうは言わなかったが、今日中に錦糸町に帰れますかネって聞くけど、帰れるわけはないよね。
昔はこうして歩いて方々で歩いたもんだ。糖尿病患者なんてのは極マレ、歩いていりゃ糖尿病なんてのとはおさらばだ。私もヘモグロビンA1cが10もあったときは心筋梗塞で倒れた。豆食って歩いて今は5・2だ。糖尿病増加率と車の増加率が同じ、楽して車に乗ってガソリンと税金、車検に保険に車代金と金を使って病気になって、挙句に心筋梗塞じゃ馬鹿の見本だ。車は処分し歩くのが一番。毎日二時間ウロウロしている。タマエさんのように歩いているが、あれれ、タマエさんも糖尿病だったのかな、そんなわけもなかろうに、ハイ、お退屈様。第一話はこれで終了。第二話をするかどうか、26日の会合で決定します。しばらくお休み、さよなら、さよなら、さよなら。

2011-06-22

上馬三奇人 オナミさん

上馬停留所の前に小島屋という呉服屋があった。大きな店で繁盛を極めていた。ここの主人は養子で、番頭が直ったとも言う。ここには美人姉妹がいて、その番頭を競ったとのこと。それに姉が負けたのか妹が勝ったのかは知らないが、恋の争奪戦が火花を散らしたのだろう。
畠山みどりという歌手が「恋は神代の昔から」を唄ったのは昭和37年、恋の鞘当が同じ家で起きると、これは激烈を極める。畠山は北海道稚内の産、世田谷区上馬での恋の鞘当はオッカナイ。
負けた方がとうとう精神のバランスを崩して、座敷牢に入れられた。小島屋の裏手、生駒さんの隣の白鳥という家。ここにユウジという一年上の男の子がいて、この人の目つきが実に暗く、また性格もネチネチとして嫌な奴だった。三茶小を卒業し私立中学に行った。この子とバーどりあんの子、漫画の天才の勝比古さんが仲良しだった。後年、勝比古さんは父親が若い女と駆け落ちし、殺してやると探し回っていた。不幸な話だ。その点、三茶小の石塚先生はそうした追い回されることもなく亡くなった。世の中は不思議なところだ。
ないものねだりのような場で、子供がいない夫婦は欲しいと願う、子が多く、自分を付け狙うようになれば、いないほうが良かったと思う、自分がしでかしたことを棚にあげて考えるところに面白さがあるのだが、当人はそうは思えないもの。
さて、恋に熱を上げて破れし平家の公達あわれではないが、青葉の笛ならこうした文句だが、負けたのがオナミさん。白鳥の家は広く、玄関は改正道路に面していて、シェパードのジョンというのが放し飼いになっている。小島屋と床屋の国太さんの横丁からも入れる。やぶ蚊が多くて、鋭い高音を立ててすぐに飛んでくる。犬も怖かったがやぶ蚊にも悩まされた。あの頃は蚊帳がないと暮らしていけないほど。
蚊取り線香なんてのに負ける蚊はいないほど。ワンワンと飛んできた。その庭をオナミさんはウロウロする。そして奥まったところに肥溜めがあり、そこで用をたしていた。オナミさんの便所は外にあった。
オナミさんは礼儀正しい人で逢えば必ず挨拶する。髪の毛がぼうぼうで眼が赤く光らなければ普通の人とそんなに変らない。でも、着ている着物がヨレていた。そのオナミさんが時折風呂敷包みを持って出かける。後をつけてみると、パーマ屋のボンを通り、石川さんの家の前を抜け、高砂湯に入った。土屋さんもオナミさんを知っていた。このオナミさんは長生きをしたそうで90歳を越したという。
幸せではなかったろうが、人生は過酷な道場でイヤイヤでも長生きしなければならない。丁度今頃、梅雨の雨がしとしと降るのにもめげず、やぶ蚊に悩まされながらも、オナミさんの庭でグミをもいで食べた。ほろ酸っぱい味はオナミさんの人生の味だった。

2011-06-21

上馬三奇人

上馬に奇人が三人いた話を書いて一応第一話の完結とする。インターネットが伝達媒体の有力な手段だと信じていたが、我々世代は時の流れに乗れずに埋没。閲覧者の数も伸びることなく終る。時代は変りインクと紙媒体の伝達手段にしか頼れない我々世代なのだろう。若手の閲覧を期待したが三月経過しても一向に増加しないので、休止の宣言だ。
我々世代に昔は良かったと語るのは易いが、それでは郷土史としての意味がない。我々世代を踏み台にして、若手の書き込みの中で、積層する世田谷・三茶・駒中を立体化できないかと考えたが無理のようであった。
さて、年寄りの嘆きは置いて、上馬の奇人一番は「ロケットしんちゃん」昨今はクレヨンしんちゃんだが、それよりも前に登場した。
この人は玉電とケンカをするのを信条としていた。いつも浴衣を着ていた記憶がある。右手に竹杖を持ち、玉電の軌道敷近くで電車の来るのを待ち構える。電車が近づくと左のふくらはぎを右足先でこすり始める。
間合いを計っているのだ。佐々木小次郎の燕返しではないが、しんちゃんの心臓がドキン、ドキンと音を立てているのだろう。この様を近所の連中も心臓の音をドキン、ドキンとしながら見守る。当れば即死、そこまでいかなくとも怪我は間違いない。
足かきが忙しくなり、そして、5・4・3・2・1ドカン!
しんちゃんロケットの発射。
見事電車の前を通過し、反対側に逃げ込む。運転手がボウっと音を立てて危険だぞ、馬鹿野郎の代わりに警笛のプレゼント、それをにやりと笑う不適さ。
このロケットしんちゃんは弦巻まで名が響いていた。高校の友人の姉が上馬? ならロケットしんちゃん知ってるでしょ?
有名人だったのだ。それにしても、何であんな危ないことを得意としていたのか、それが謎だからこそ、ロケットしんちゃんなのだろう。
それでも時折、かわしそこねて電車に撥ねられてオイオイと泣いているのを見たことがある。交番の巡査もロケットしんちゃんだけに、電車の運転手の肩を持つ。それも当然だが、泣いているしんちゃんは哀れだった。
玉電の架線の修理に盆踊りの櫓のようなトロッコが来る。いつも夏の近くだった。これが生駒さんの近くに夜間放置される。今度はこれに登って大騒ぎをしたもんだ。改正道路で寝転んで星を眺めたこともある。冬になって空っ風が吹くと凧揚げで走り回った。車も来ない改正道路は子供たちの天国だった。
それが環七になり、寝転んでいれば殺される。悪い時代になったもんだ。どうも時代は悪くなっているような気がする。時代に取り残された我々はインターネットの波にも取り残された。玉電とケンカをして負けたロケットしんちゃんのような気分だ。

2011-06-20

駒中の話22

生駒さんが通学途中に声をかけてきた。「三橋美智也の東京見物、あれいいよね、負けずに島倉千代子が東京だよ、おっかさんというのを出してきた、三橋のは男ぽいけど、島倉のは女らしさが出ていて、あれもいいよ」
実にその通りだ。この曲は昭和32年、もはや戦後ではないと言われた時機、それでも総理大臣のそんな発言をよそに、子を亡くした母の哀れは消えずに、靖国神社に足が向かった。島倉の泣き節は彼女の八の字眉と同じに、女の嘆きを見事に現した。作曲は船村徹、この人は時折、胸に沁みる歌を作られる。日本人の琴線に触れる見事な歌をものされる。
歌謡曲衰退と言われる昨今でも、やはり、浪曲が日本人の心の原点であるように、時に触れ折にあたっては耳の奥で唸るような響きが聞こえる。それが日本人の心なのだろう。
福島の相馬、ここには相馬の野馬追いの伝統行事があり、農家はこのために一年間馬を飼い続ける。雲雀ケ原で甲冑をつけ馬を駆り、旗指物を背に本気になって一番を競る。
狼煙と共に空中高く打ち上げた神旗を落ちてくるところに馬を走らせ、ムチでそれを奪い合う神旗争奪戦もまた眼に焼きついてはなれない。
相馬にはこうした祭りを延々と繰り広げてきた馬を愛する風土があった。それが、東京電力の粗相で原発被害で中止になった。
人類は良くなっているのだろうか、悪しくなっているような気にさえなる。我々の子供の頃は貧しくとも楽しかった。今は高いビルで窓を締め切り、冷暖房がなければ仕事にならない。まして、階段を昇降するにはエレベーターなしでは仕事にならない。だから、電力を多量に必要とする。昔は裸電球だった。それが蛍光灯になりLEDと変った。冷房なんてのはなく、皆が団扇であおいでいた。それが扇風機から冷房装置へと変り、我慢を忘れてすぐにいがみあうようになった。ささいなことでキレル。情けない話だ。
愛ちゃんはお嫁にの鈴木三重子の父親が唄う新相馬は何度聞いても胸に沁みる。日本人の原点だ。今はその地から追い出され漂白の民とされた。情けないことだ。東京電力は大罪を犯した。しかし、その詫びの言葉もないのはどうしたことだろう。
日本人はいつしか、詫びる心、責任をとる始末をつけるを忘れてしまった。戦争中、多くの若者を特攻隊で死なせたことを詫びて阿南中将は割腹、戦争犯罪人の汚名をきることはなかった。
日本人には美徳があった。それも死後となってしまった。でも、この船村の歌のように、時折、我々の忘れてしまった心を思い出させるものがある。昨今では吉田旺作詞の紅とんぼ、これに船村がいい曲をつけた。諸君らもご記憶のことと思う。1988年テイチクから出た。
空にしてって 酒も肴も今日でお終い 店じまい五 年ありがとう 楽しかったわいろいろお世話になりましたしんみりしないでよ ケンさん 新宿駅裏 紅とんぼ思い出してね 時々は
歌謡曲は日本人の原点、アメリカンポプスもよかったが、歌謡曲も忘れられない。

2011-06-19

駒中の話21

水道部の建物は洒落た欧州を思わせ何度見てもあきることがなかった。この写生会があり巧みな絵を描いた人が多かった。その写生に横山君と共に出かけた。ともかく描いて提出したが、鉛筆がなくなり絵の具で名前を書いたが美術の樋口先生が提出しなかったと叱った。名前のない絵の中にそれがまぎれていた。
竹やぶの仕返しをされた気になったもんだ。駒中は昼休みになると校門を閉めて生徒を外に出さない。弁当を忘れただかで、瀬戸物屋の佐藤君と抜け出してそばを食いに行こうと二人で裏門へ廻った。
人の居ないのを確かめて私が先に門をまたいで出た。来いと手招きしたらイヤイヤと首を振った。何だろうと後ろを見ると富田先生が立っていた。慌ててもとに戻って、その日は昼飯抜きになった。
クラブ活動が終ると腹がへって、駒沢駅の近くでクラッカーを買って店の前にたむろして喋りながら食べた。「あたり前田のクラッカー」と藤田まことの真似をした。テレビが茶の間に入りこんだ。テレビCMに毒されていたのだ。
後年、藤田まことはあまり売れずに鶯谷のキャバレーなどでお茶を濁した。その時、客席から「あたり前田のクラッカー」と声がかかった。藤田は嬉しそうに「あの頃は当っていました」と返して笑いを誘った。
その後、仕置人などでヒット、押しも押されもしない役者になった。人生楽あれば苦で、一筋縄ではいかないところが面白い。この藤田も役者ではあたったが、女房が手がけた事業で多額の借銭、その支払いに終生追われた。昨年76歳で逝去。
「てなもんや三度笠」のあんかけの時次郎役が眼に浮かぶ。ラジオから流れ出たCMソングがアニメとなってテレビに登場、CMソングの女王と呼ばれたのが楠トシエ、あまり歌手としては当らなかったがCM界では女王、色んな女王がいるもんだ。
お笑い三人組というNHK番組があり、小金馬、猫八、貞鳳の相手役の三人娘の一人に楠、この人は東京神田の生まれ、三菱銀行に入り、三木鶏郎の誘いでNHKラジオの日曜娯楽版に出演しNHK専属タレントのはしりになる。同期に黒柳徹子。
楠の大ヒットCMにかっぱ黄桜、これはパンチも効いて面白い歌。
富田先生にみつかって、その日は昼飯を抜いたが、その後もしばしば昼のテレビが見たくて抜け出した。三平のお昼の演芸、これで三平が売り出した。爆笑王と呼ばれるようになったが、当時はまだ駆け出しだった。
この三平の真似を同級生の村岡君としたもんだが、中学生はラジオやテレビの刺激を敏感に察知、それを真似して楽しむが、他愛のないものだ。テレビやラジオしか刺激がなかったが、いよいよ実人生に踏み出すとこれは刺激が多すぎた。酒に女に金と何処を向いても刺激だらけ。その中で身を持ち崩さずに今日まで来れた諸君は幸せ者だ。
そんなこんなを楠トシエの黄桜のCMで思い出してもらいます。

2011-06-18

駒中の話20

横山君とは三年生の時同じクラス、この子は三茶小の卒業生、おとなしく余り騒いだりもしない真面目な生徒、普段は居るんだか居ないんだかはっきりしないけど、言うべきときにはピシャリとやらかす。由比君という賢い子がいて、後に東工大に進学し、喫茶店を経営したという変り種、この人も三茶小の卒、矢沢君という駒沢の角に薬局があり、そこの経営者になった人は瀬戸物屋の佐藤君と仲良し、ヤジャワとかオヤジと呼ばれていた。いつもニコニコとしていて人に不快感を与えない。
同じクラスに浜野さんがいて、この人はラファエロの絵に出て来る聖母マリアのような顔立ち、少少太り気味だが優しいしゃべりかたで、男の子から人気を得ていた。それに矢沢君がはまって、浜野、浜野となにかと言えば浜野の名前を出す。どういうわけか矢沢君は結婚もしなかった。角の薬局も違う店に変った。矢沢君はいつもと同じように眼を細めて同期会にも出てくるが、浜野さんは顔を見せない。あれだけファンの多かった人だけに残念至極だ。
三年間一緒だった生徒に野間さんがいる。この人は後年医者になられた。無類の賢さで、負けん気も強く、スポーツもと万能、この人の賢さに期待する教師も多く、他の生徒はともかく野間さんに判るようにと、いつも教師の視線は向いていた。と、いうことは野間さんの近くにいない生徒は適当にできたわけで、有難い存在でもあったが、近くに座ると絶えず教師の眼がサーチライトのように遊弋(ゆうよく・艦船が海上を往復して待機すること)するので、おちおちできない。これは情けないものだ。緊張感が解けないだけに時間が長く感じられる。
この頃、ドリスデイの先生のお気に入りという歌が流行った。ドリスの名を高めたのはヒッチコック映画の「知りすぎた男」のケセラセラ、この歌の導入の見事なこと、一躍世界のドリスに躍り出た。この頃はドリスの時代だった。
何だかで、野間さんと言い合いになって、横山君が「何言ってんだ、ティーチャーズ・ペットが」とやらかした。これは「先生のお気に入り」の歌を指した。あまりのタイミングの良さに思わず吹いたことがあり、後年、これを野間さんから詰られたことがあった。三年間も同じクラスにいながら、私を擁護・弁護してくれても良いのではないのかの意味がこめられていたが、軽妙洒脱な一語に参ってしまった。
横山君はその後、地下鉄に勤務され、立派に勤め上げたと聞く。この人とも卒業以来逢ったことがない。松本アチッチが昨年、自分の大病復帰の会を催し、それに浜野さんも出席したという。その浜野さんを見て、自分のことも忘れ、あの美人の浜野があんなになっちまったと嘆いた人がいたという。
若い頃と異なり、頭ずりむけの禿げやビヤダル腹を突き出す様を、今更嘆いても始まらない。昨日や今日体型が変ったのではないのだ。積年の報いで今更、泣くな嘆くな男じゃないかだ。子供の頃は酒もタバコもやらなかった。それを毎日飲めば、毒を飲むのに等しい、生きているだけでもよしとするべき。

2011-06-17

駒中の話19

野沢君という切手を沢山持っている子がいた。なんでも祖父が集めたもので、それを得意そうにみせびらかしていた。それは立派な蒐集帳に入ったもので、年季の程を示していた。野沢君から二代前、今の我々が、その祖父と同じだから、野沢君の孫にその切手は渡ったのかもしれない。つまり五代に渡って、その切手が受け継がれたのだろうが、その切手を売って大儲けしたという話もきかない。
つまり、切手のような印刷物は多量に出回っているため、それほどの価値はないのだ。カポネの拳銃がオークションに出たが、それとても大した意味がない。それでも好事家は涎をたらす。マリリンモンローが日本に来て、帝国ホテルに泊まった。ボーイが風呂場の金髪を盗み売却した。ありそうななさそうな話だが、高値で売買されているという。
こうしたありそうな話はおもしろおかしく伝わる。体操の木村先生のあだ名は雷魚、その先生が泳げなかったという嘘のような本当な話がある。
赤デブの宮本君はクラスの後ろのほうで、休み時間に一人で踊っていた。自分で歌を唄いながら、カモナマイハウス、マハイハハてなことを言いながら怪しく身体をくねらせている。妙な子供だと思った。
こうした子だけに、西沢の池でフリチンで泳いで、咎められてパンチを食らった。いつでも何処でもマイペースなのだろう。陽気な能天気な子だった。あの頃は子供の数も多く、昼休みになると中庭に飛び出して相撲をとって遊んだ。それがあふれんばかり、今は子どもの数も減ったので、あの賑わいはないだろう。
三茶小の石塚先生が、何かの用事があったのだろう。駒中に訪ねてきた。自転車で中庭に入り込んだのを昼休みに見つけた女の子が「石塚せんせー」と呼んだのがきっかけで、三茶小を卒業した子が窓辺に寄って、大声で口々に先生の名を呼んだ。
石塚先生も体育、開いているんだかつぶっているんだかわからない、渥美清のような眼で、自転車に乗りながら、窓から顔を出す生徒たちに手を振って合図を交わした。先生の連呼はしばらく続いた。卒業したばかりの四月の陽光の中、石塚先生は眼に涙を浮かべて、中庭を一周、そして消えて行ったが、先生の連呼はしばらく続いた。
石塚先生はバイクで怪我をして入院、奥さんを放っておいて、看護婦と逃げて、小田原で焼き鳥屋をされていたという。
それでも後年教え子は先生を慕って小田原の焼き鳥屋でクラス会をしたという。メチャクチャな人生に見えるが、先生にとっては当然の帰結だったのかも知れない。そうした武勇伝もない我々は長生きはしたものの、どこか、そんな武勇伝に憧れるものを持つ。
どうにもならない切手を後生大事と持ち続け、いつかこれが大バケして大金を摑むような夢の中でしか楽しめない人生。それに引き比べると、石塚先生の教師としての人生の晴れ舞台は、駒中での先生コールの嵐、あれが、あの先生の最初で最後の教師冥利を味わった瞬間だったのだろう。
その栄光はマリリンモンローの幻の毛のように、確かにあったと思えばある、無かったと思えばなかったのかも知れない。

2011-06-16

駒中の話18

小学6年生のとき西沢の池でクチボソ釣りを生駒さんとしていた。この池は真中から国立病院に向かう途中にあり、この池で溺れて死んだ子供がいて、ここでは泳ぐなと言われていた。三越グランドの近くのような気がする。大谷石の洋館があり、これは帝国ホテルを建てたフランク・ロイド・ライトの設計ではないかと思われる。似た造りで、池袋にある自由学園とも似ている。その建物は紛れもなくロイドのもの。先ず間違いはなかろう。
そこの池で釣りをしていると、同い年格好の子供が泳ぎ出した。
釣りの邪魔になるのは間違いがない。この子供はやめろと言うのもきかずにバシャバシャ。するととがめだてした子が、そいつをひっぱたいた。泣きながらパンツをはいてどこかに逃げていった。しばらくして、仲間を数人連れて仕返しにきたが、叩いた子はさっさと逃げたあと。
釣りをしている生駒さんと私に、「お前らか、こいつを殴ったのは」と背の高いのが居丈高に叫んだ。「違う、殴ったのは逃げた。こいつが釣りの邪魔をして泳いだから殴られた」というが、そんなことは耳鼻に入らず、背の高いのは鼻息が荒い。
中学校に入ったとき、生駒さんが「あいつだよ、西沢の池で殴られたのは」と指差して教えてくれたのは宮本君、通称赤デブ。色が浅黒くて太っているから。そして背の高い鼻息の荒いのが竹花君、この人は後年警視庁勤務しパトカーで走り回った。
その赤デブのお母さんというあだ名の先生がいた。それが以前にも記した旅行好きな沖先生、若くして亡くなった人、この人が色浅黒く太っていたので、赤デブのお母さん、うまいあだ名をつけるもんだ。いいえ、決して私がつけたのではありません。
三年生の時村岡君と同級になった。この人の頭の良いのには驚嘆した。人まねも上手く藤村有弘をやらせると達者、やーですねえなんてことを言い合った。インチキ外国語を駆使し、ヒョッコリひょうたん島のドンガバチョの声を担当。
この藤村は糖尿病が悪化して急死、48歳だった。本格テレビ時代を迎える前の急死、タモリなど足元にも及ばない芸達者。長生きしてたら日本の喜劇界も変っていただろう。
村岡君は早稲田学院高校から大学に進み、神戸製鋼勤務、石川さんのご主人も同じ勤務先、この村岡君は同期会には来たことがない。どんな人生を送ったのか、達者な喋りをきかせて欲しいものだ。
殴られた赤デブの消息もわからない。なんでも自営業をしているとか。それも二十年も前の話。皆元気で何処ぞの空の下で這いずり廻っていることだろう。どこかでばったりとでも逢えたならいいね。

2011-06-15

ブログについて

このブログは今の形式では6月23日まで掲載。この文章は小川が記載、自身の見聞したことを羅列。これでは奥行きが乏しく、もっと世田谷三茶のことを写真入りで掲載したい。昔の町並みの写真などを中心に展開できれば、世田谷郷土館に負けない面白いものができる。皆様の押入れの奥に埃をかぶったアルバムがある。それは個人的色彩の強いものだが、同時に普遍性をも含んでいる。店先でとったスナップ写真に、往時の町並みの一部が切り取られているのだ。
こうした写真をインターネットのブログはいともたやすく掲載可能。一枚の写真は千言万語に勝る。また、インターネットを利用していない人も多く、その人々にどのように伝達するかが課題。ブログ開始当時は三ヶ月は見る人がいようがいまいが関係なく継続する。そして、三月目に見直しをしようと始めた、その三月はあっと言う間に過ぎ去る。
私は輪転機を持っているので、文章と簡単な写真は印刷可能、しかし、これは時代に逆行、今更白い紙にインクをなすりつけるのを媒体とするのかの疑問。
昨今はDVDの時代、個々人の持つ写真を中心に、DVDを作成し、それをインターネットに掲載、また、インターネットを利用しな人にはDVDを回覧するなどの方法もあり。
開始前にこのことも土屋さん、アーチャンと協議したかピンとこなかった模様。
いよいよその見直しの時期が来た。6月26日(日)午後一時を予定し、三茶の喫茶店で会合を開く予定。名前はシャノアールだったか、場所が確定したら再度呼びかけます。
文章を中心とせず、三茶、駒中の話、友人の消息などを定期的に記録する予定ですが、もっと違う角度から地域と人を活写する方法を考案した人がいれば、そのアイデアに従います。
お知恵拝借、是非ご一考を願います。来れない人はブログにコメントを願います。
参加できる人は土屋さんまで連絡願います。090-7729-8764

2011-06-14

駒中の話17

エノケンの野口君は気のいい人、卒業旅行で諏訪湖に行ったと思う、途中泊でペレスプラードのマンボを大合唱、そのとき野口君が踊り出し、それに続いて数名が、さらにそれにと大きな輪になって従う、テキーラという曲があたり、これを唄って大行進、掛け声のテキーラのところで野口君が隣の人のタマを握って「デケーナ」と声を出して大笑い。今度はそれで大合唱の大行進、互いに隣のタマを握ってデケーナ、こんなたわいもないことが本当におかしかったもんだ。
機を見て面白いことを探り出すエノケン野口君には笑わせられた。中学を出て渋谷でパチンコの景品買いをしていたとの話も聞いた。生きるのが下手だったのかもしれない。お金の話は学校では教えない。保証人のこと手形決済、裏書と振り出し保証など、難解な話は学校では教えず、社会の波に揉まれながら覚える。行け行けの人口増の時は、かなりな危なっかしい話でもOK、しかし、昨今のような景気後退では商売を継続するだけでも容易ではない。
世田谷通りの若林陸橋の近く、柳文具店は三代に渡る。中学同期の柳君の父君が初代、そして今は倅さんの代になり三代目、この柳君は実に誠実な人、腰も低く相手に不快感を与えることがない。また女房が出来た人で、いつも笑顔を絶やさず、駒中関係者が立ち寄っても気軽に声をかけてくださる。場所も決して良くはないが、誠実な商売が客をひきつけて、この不況下でも順調。
世田谷通りを抜けるとき、視線が柳君の店に行く。シャッターが開いているのを観るだけでしかないが、それでも頑張っておられるんだと安心する。友達が元気でいてくれると思うだけで何やら嬉しさがこみ上げるのは歳を取った証拠、あっちが悪いこっちが痛いと故障だらけ。それでも生きていることに飽きてはいけないので、何とか自身を励ますのだが、長生きがいいものやら悪いものやら判らない。まして、津波で福島原発の事故、あれは原爆が落ちて大爆発ではなく、チョロチョロ漏れているだけに終息には時間がかかる。
我々年よりはいいが子供たちが心配。甲状腺をやられはじめれば大惨事は間違いなく起きる。こうした妙なことを観るのも情けない。友達の店のシャッターが開いているのを観て元気を貰うのと訳がちがう。
人口の膨張拡大期に少年時代を送った我々、楽しいことがたくさんあった。その頃、世田谷はミニ田舎、水道部の建物の写生に樋口先生と行進中、路上の砂利を拾って竹やぶに投げ込むとカンコンと孟宗竹の当っていい音。それを繰り返すと奥から農家の人、樋口先生をとっ捕まえて、「生徒に石を投げさせるな、竹にキズがついて売り物にならない」、先生は平謝り、気の毒なことをしたもんだ。昨今はそんな竹やぶは何処にも見当たらなくなった。

2011-06-13

駒中の話16

ラジオに齧りついていた頃、東京放送で竹脇昌作ってアナウンサーが独特な語り口で「東京ダイヤル」のパーソナリティーをしていた。これに痺れたのが生駒君、竹脇は渋谷のパンテオンの地下に10円で観れるニュースだけを見せる映画館があり、同じフィルムを何度も見た。そのニュースのアナに竹脇がでると、途端に観衆がどっと沸く。それほど絶大な人気を得た人。
この人の倅が竹脇無我、温厚な感じで森繁と親子競演のテレビが人気になった。この無我氏は鬱病を患いしばらく仕事を休んでいた。親の昌作氏は48歳で自殺された。体調が思わしくなく、マダムキラーと呼ばれた看板番組も芥川隆行と交替、復帰も考えていたが、無収入で税金が支払えずそれを苦にしたと言われる。
インターネットで竹脇昌作の声を探した。あった、名調子を共に味わっていただきます。生駒君が見てくれると嬉しいのだが…。
あの埃くさい駒中の渡り廊下ですれ違うたびに「東京ダイヤル、竹脇昌作です」と言い合ったのを思い出す。
ラジオなしに中学時代を語れない。ラジオこそ世間を繋ぐ一筋道、いいことも悪いこともラジオから学んだ。エルビスの歌もダイアナのポールアンカも、皆、このラジオから飛び出してきた。音声だけだったが、それでも充分に楽しかった。それが、昨今は映像までインターネットで見られる。長生きはするもんだ。毛利君という駒中きっての秀才がいた。人品骨柄まことに供わった人、新宿高校から東大、そして朝日新聞、柳君が中学の時代に毛利君が書いた作文を見せてくれた。それは立派なもので大学生でも書けるだろうかと思うほど、まことに秀才の名に恥じぬ人、多くの同級生の女子の心をときめかせた。
色男で優秀、それも人も羨むような一流会社、さぞかしおもしろおかしい人生を送ったと思うが、世の中は不思議、ソ連が崩壊したとき、前途を悲観して自殺された。余りに頭のいい人物の考えることは凡人には理解しがたい。
中学生のとき、毛利君と擦れ違った。後ろに護衛の菊池君がついていた。「オイ、毛利」と声をかえたら、菊池君が割って入り、「毛利さんと言え、毛利さんと」と凄んだ。何を言っているのかと顔を見ていると、毛利君が「いいんだ、こいつはいいんだ」と声をかけた。菊池君は不承不承、渋面をつくったがそれきりだった。あんなに慕われていた毛利君が死んだ。牧山君は葬儀に出たという。惜しい人材だった。

2011-06-12

駒中の話15

中根君と一年生の時同じクラスだった。少し向こう気の強い子で負けん気を見せる。それでも決して嫌な印象を与えることはなかった。綿貫真也君という中学校の脇にある都営住宅に住む子が級長、その子はハキハキとして利発、運動神経も良く200メートル走で良い成績を出した。三軒茶屋の仲見世に天麩羅屋があり、そこに中村君という一塁手がいた。この子は名手で帝京高校へ進学、その後がどうなったかを野球の原君に訊いてもサッパリだ。にこっとすると正に破顔一笑で、この笑顔に勝てる者はいなかった。狭い店の二階から顔を出し、仲見世を歩く人を眺め、友達に手を振った。
三茶を通ると中村君の店とおぼしきあたりに立つが、本当にここだったかと疑問になる。時間は流れ、確かに居た中村君の消息もわからない。戦後間もなくの頃、NHKのラジオが「尋ね人の時間」を放送、陸軍○○部隊の▲さんをご存知の方は…と流れていた。
戦争もなかったが、一度離れ離れになると、なかなか逢えないものだ。この様な放送があればとも思うが、インターネットがその役を果せそうな気にもなるが、それは無理。年寄りはインターネットをしない。
そうすると、このもどかしさは我々どまりかも、というのは、若い子は達者にパソコンを操作、ブログを利用し知りたい情報を手に入れることだろう。
三茶商店街の天麩羅屋の倅、中村文夫さんをご存知の方は連絡願いますで、直ぐに消息が知れることだろう。わからないからこそ、恋しいのかも知れない。逢ったとて、何を語らなければならぬのでもないが、とにかく逢いたい気持ちが先に出る。おかしなものだ。
三茶の商店街で油にまみれて働いた親たち、あんなに賑やかだった仲見世も中村君の店が見えなくなって寂れてきた。
葛飾区に立石というところがあり、駅前商店街が鉄路の左右にあるが、仲見世の方はすっかり灯が消えたようになった。まるで三茶のようだと嘆いている。
さて、中根君の家は世田谷通りの若林交差点の近くだったような気がする。柳文房具店の裏手だったようだが、アーチャン、土屋さんい訊いてもわからないという。柳君夫婦に訊けばわかるのだが、最近は顔出しをしていない。柳君は駒中の同窓会の幹事をされており、その同窓会は来年開かれるという。同窓会には多くの人が集まりそうだが、そうでもない。何か企画がなければ全員がそれっと集まることは難しい。年代・世代を超えて熱くなるような仕掛というのを考案するのは難しい。
中根君の家は質屋を営業していた。「お金の中根」だ。中根君は性能のいい写真機を持っていた。林間学校で日光に行ったとき、綿貫君と中根君と共に写真におさまったことがあった。その写真も持っているはずだが、度重なる転居で見当たらない。確かにあったのだが、今はない。まるで三茶仲見世の商店街だ。
中村君は綿貫君の名をメンカン・シンセイと読んで「この人は中国人だと思った」と語ったことがあった。中学一年生だもの、こうした間違いもある。その中根君も亡くなったという。四十代とも聞こえてきた。

2011-06-11

三茶小の話16

裏門の近くに森戸さんの家があり、そこはお医者さん、その近くに凸型レンズを使って金属に文字を掘り込む作業場があった。朝板に並べた凸レンズと金属板をしっかり固定し、日の出ている間、それを並べている。酸で処理をするのか、いつも、その工場からは水が流れ出ていた。
森戸さんは同じクラス、大人しい子でいつも居るのか居ないのかがわからないほど。それでも勉強になるとハキハキと答えていた。あんじみよこという珍しい名前の子がいて、その子の家は中野君の家から改正道路を少し下ったところにあり、前が竹内鉄工所。生垣のある大きな家だった。
6年生の時、雪が降って体操の授業に雪合戦をした。あんじさんは雪を固めて玉を作った。それを男の子が投げ合ったのだが、あのころは結構寒く、地球温暖化などは夢のまた夢、こうした嘆きが来るとは少しも知らない。寒かったけどあの頃は楽しかった。暖房も火鉢しかなかったけど、子供は風の子で手袋もせずにはしゃいで廻った。
及川さんという子がキスノ君の家の近くにいて、この子の笑顔がとても可愛いかった。最近八千草薫っていう往年の女優が、健康食品のCMに出ているが、この女優の笑顔に及川さんが重なる。随分と逢っていないけど、変らぬ笑顔を見せていることだろう。キスノ君が死んだことをアーチャンに伝えてもらった。
友達が死ぬのは淋しいことだ。まして、死んで半年も経って知ったのはより淋しいものだ。生きていると何時でも逢えるような気になるけど、何時でも逢えるは何時も逢えないでもある。
同期会のチャンスを逃すことなく、逢っておきたい人との会話を楽しみたいものだ。あれがどうして、これがこうなってと、記録にも残らない記憶だけが頼りの話を。
キスノ君が生きてる頃、同期会の連絡で電話すると女房が出て、ひとくさり最近の出来事を批判がましく言う。聞くのに疲れを感ずるほどだが、死んでから電話したら、「あんないい人はいなかった」と、変われば変るもの。
女房と喧嘩ばかりしている人も、死ぬといい人になれる。もっとも死ねば仏になれる。仏ほっとけ、神かまうなって俚諺もある。死んでからいい人なんて言われないように、生きているうちから女房に孝行を尽くすべきかな。

2011-06-10

駒中の話14

真中パンの前側に角田米屋があり、そこの次男坊にみっちゃんという笑顔の綺麗な子がいて、一年生の時同じクラスだった。この子は何となく外人ぽかった。そこでロバート・ミッチャムとあだ名をつけた。本人もいたく気にいっていた。そのロバート・ミッチャムが大当たりの映画に出た。それが「眼下の敵」、この映画をみてからすっかり潜水艦映画のとりこになった。ショーンコネリーの「レッドオクトーバー」も良かったが、「眼下の敵」の構成にはかなわない。爆雷を落とす水兵がヘマをして指を切断、「これで除隊ができるな、ところで職業は何?」「時計の修理工です」のフレーズに残酷さが出ている。戦争なんてないほうがいい。市民が否応なしに狩り出される。そして防具もつけずに殺しあうのだ。
この映画は1958年、みっちゃんのミッチャムの頃は、撮影中。
生駒さんにみっちゃんのことをミッチャムに似ているかと聞いたことがあった。本人が傍にいたので生駒さんは似ているといったが、雰囲気はピッタリだと思う。
その駆逐艦の艦長をミッチャムは好演、歴史に残る名作となった。米屋のみっちゃんはその後どうしたのだろうか。ロバート・ミッチャムの名を聞くと米屋のみっちゃんを思い出す。人なつっこい笑顔のみっちゃん、笑うと眼が細くなって、それが可愛らしさを際立たせた。
昔は映画を見るには映画館に行くしかなかった。それがビデオが出て借りて家で見れるようになった。ところがDVDになり、一枚100円で借りられる。それもHDDに入れられて、2テラのHDDには300本入る。これにこって1000本をHDDを買い足し、DVDを借り足しして達成。
もちろん「眼下の敵」も入っている。みっちゃんとは逢えないがミッチャムとは取り出せばいつもの顔で好演する。DVDは面白いものだ。頭マシッロになったが、いい時代を迎えられた。上馬にメトロという映画館があったが、今は駐車場、そこにあったのは映写機と椅子、映画のフィルムは借りていた。
1000本のフィルムを持っていると言ったら、その当時の人々は信用するだろうか、でも、本当のことだ。
プレスリーはマイケルジャクソンの上を行っていたんだとつくずく思う、今はインターネットの時代、ハウンドドッグの腰の振り方を当時の映像で確かめることができる。昔は写真でしか確認できなかったが、今は動画だ。時代の変遷、面白い世の中になった。類推・憶測など不要、知りたいことがいつでも手にできるが、エルビス・プレスリーは42歳で死んだ。名誉と金を手にしても、この時代の変遷を知らずに死んだ。もっとも、酒もやらずにタバコものまず百まで生きたバカも居るという諺もあり、まずいもの食って嫌々長生きするのと、美味い物たらふく食って直ぐ死ぬのとどちらがいいかは判断しだい。
それにつけても、インターネット、「ビーバップルーラ」のジーン・ビンセントが片足不自由だったとは知らなかった。あの頃インターネットがあれば、牧山君も私も寝る間を惜しんでエルビスを追いかけたろう。また、ヒット曲も山ほどあった。いい男で全米の姉ちゃんたちがキャアキャア言ったのもわかる。

2011-06-09

駒中の話13

磯崎みどりさんという沈まない太陽のような人がいる。こうした存在感のある人をたまにみかける。気さくで面倒見がよく他人のことでも放っておけない、いわゆる下町気質というのか肝っ玉かあさんというのか、ともかく女としては最高の部類に属する。
磯崎さんい元気をお出しヨと言われ背中をポンと叩かれれば、嫌なことや気になることなど途端に飛んで行ってしまう。
テレビの世界なら京塚昌子さんの役割だ。ともかくこせこせしない。人一倍嬉しがりやで、人情にもろい。三茶育ちという言葉があれば、この人こそ、それに相応しいだろう。この人は熱海湯の裏手におられた。近くには粕谷君、松成君などがいた。駒小に通学しておられ、小学校のころから存在感があった。中学生になっても、男の生徒が弱い者いじめをしているのを見ると、つかつかと寄って「いじめるんじゃないヨ」と平気で言う度胸のある人。
だからと言ってでしゃばることもない、つつましやかなところもあり、硬軟使い分けるというか、理不尽なことを眼にすると我慢ができないというのか、下町の人情を地で行く人。
同期会でも遠くにいても、ああ、おられると思うだけでほっとさせるものをお持ちだ。これを人間の徳といわずに何と表現するのだろうか。
東急のバスの車掌を務められた。昨今のバスはワンマン、むくつけき男が気の利かない案内をムスっとして車内に流す。昔は美人の車掌が大勢いたもんだ。今は時代が悪くなった。大井町にお住まいで、ここも下町、幾つになっても雀百まで踊り忘れずで、磯崎さんの沈まない太陽は周囲を明るく照らしているのだろう。
大井町、磯崎なんて名前を聞くと直ぐに思い出される。しばらくお逢いしていない。同期会というのは普段逢いたいなと思う人と声をかわすところに良いところがある。別段特別に伝えなければならないこともないのだが、どうしてる? 元気?なんて、とりとめのない話に無沙汰を詫びる気持ちがこめられている。
上馬停留所から真中に向かい、右側に平河屋というそばやがある。そこを右に折れると二股に道、それを左にとると伏黒さんの板金屋があった。そこの娘さんが三年生のとき同じクラス、同期会に彼女は遅れてきて、松井ちえさんと逢った。そのとき彼女は抱きついて泣いた。気のいい人なのだろう。松井さんは彼女の家から四、5軒先、幼馴染なのだ。松井さんいは弟がいて、剣道をやっていた。なかなか敏捷で、先の頼もしい子だったが、そのうち剣道はしなくなったそうだ。伏黒さんの家の近くからは引っ越した。それゆえ彼女は逢えて嬉しかったのだろう。人情の風はこうした、ふとした折に吹くもので、それがまた嬉しいものだ。
茶々若が担任だった二年生の遠足で、バスの中で宮沢さんがプレスリーのラブミーテンダーを歌った。煌めいた眼の賢い子だったが、その後をどうすごされたかを知らない。三年間押し込められた駒中をそれぞれが信ずる方向に飛び出していった。放された鳩か、猟犬のように、そして、今は人生の最終コーナー、どれもこれも懐かしく、あれもこれも知らないことだらけだ。

2011-06-08

駒中の話12

三年生の時、牧山君の担任は辻先生、数学の教師で指導熱心、いつも物事を正しく見ておられた。生徒の能力をいかに高めるかに苦心をされていたように見えた。三年生の時、私の担任は大国先生、このクラスに庄子君がいた。数学の得意な人で試験が終ると早速辻先生のところに行き、自分の採点結果を訊いていた。私は数学も得意でなう、気後れしながら庄子君に誘われるまま職員室に向かった。
得手不得手を見定め、それを伸ばす努力を庄子君はされ、横浜国立大の造船に進み、自衛隊に入られ大佐まで昇進したのを見た。それは同期会で知ったのだが、その後は知らない。オームのサリン事件の時だった。庄子君の父君も海軍に行かれた。戦争で亡くなり美人の母親と祖母に育てられた。立派な屋敷で長押に槍がかかっていた。
学問で身を立てる、この言葉を見るたび庄子君を思い出す。自身の得手を伸ばし、それを持って世に出て、駆逐艦を設計し、それを海に浮かべた。造船技師としては最高な栄誉。
若い頃から自分の才能を信じまっしぐらにそれに向かった庄子君は立派だった。
そして、数学好きな生徒を育てられた辻先生の教育熱心に脱帽する。この先生も戸田先生と同じく生徒に気配り目配り心配りをされた。
学校は楽しくはなかったが、こうした先生を見ることができたのは幸せであった。だから卒業しても、戸田先生にお目にかかったとき、先生は立派な先生でしたと礼の言葉が言えた。これもありがたいことだ。
人生は多くの人に支えられてある。自分一人で勝手にやってきたような気になるが、それは間違いだ。その世話になった一人ひとりに私たちはありがとうの感謝の言葉を伝えることができたのだろうか。
先生方もご高齢におなりで、同期会にお呼びすることを憚るようになった。しかし、ありがとうの言葉は伝えなくてはならない。それが直接口から出ずとも、文章につづればそれでもいい。嫌な教師も確かにいたが、それはサラリーマン教師で、心から生徒のことを考えていない。それを敏感に中学生が感じていたのだ。
高安軍治君は眼のクリクリとした利発そうな子で、いつも笑顔を絶やさなかった。この人はどういう不遇の風の下にいたのか、天理教の教会におられた。中学を卒業して四年目だかに、秋葉原に友人とでかけたことがあった。そのとき不二家だと思うが喫茶店に入った。背の伸びた高安君が銀のお盆を持っていらっしゃいませと客を迎えていた。すると、高安君がそこの勘定を代払いしてくれた。つまり高安君におごってもらった。それっきり、あれから五十年も経って、借りがそのまま残っている。去年、土屋さんに高安君の住所を教えてもらいはがきを書いた。借金が残っているので、おごってお返しをしたいので連絡下さいと。しかし、妙なことをされるのではなかろうかと警戒したのか、返事はなかった。これもまた借りになったままだ。
小さな親切が忘れられないのだ。高安君とて高給をとっていた訳もなく、たまたま顔見知りが入店し、気をつかって金まで使ったわけだが、それが今でも心に残る借金となった。

2011-06-07

駒中の話11

ヤマコウは石原裕次郎が大好きで、レコードを買ってきては一日中それを聞いていた。電蓄などは高くて手が出ない、それをヤマコウは持っていた。レコードも何枚も買い込んでくるのだから、ヤマコウは小遣いを豊富に持っていたのだろう。
電気以外のことは余り興味を示さず、放課後は陸上競技に汗を流した。ヤマコウは英語の時間が嫌いでいつも大人しくしていた。ヤマコウと同じクラスになったのは二年生の時、英語の教師は茶々若だった。小柄で青山学院の英文科を出てきた。発音をうるさく教える教師、この頃英語の動詞の不規則変化を習っていた。
同じクラスに牧山君がいた。この人の人間としての大きさには、今でも敬服する。何がどうしたというのではないが、ともかく物の見方が正しく、細かなことより幹を見ろと教えるタイプ、それも説教臭くなく、いかにも親切にこうではないのかなと諭すタイプ。
長いこと生きてきて、知り合いが総理大臣になったのも見た。それは小泉総理、この人は人物的には牧山君の半分にも満たない。が、時世時節でするすると登った。この人より人物的には秘書の飯島勲氏のほうが大きい。物事の筋目を通す眼力を備えておられる。しかし、飯島氏にどんなに力があっても、首相の座はめぐってこない。
牧山君も立脚する足場が違っていれば、この人は大物になったことだろう、それも歴史の一ページに名を残すような大きな仕事をされたことだろう。しかし、世の中はどんなに力量があろうとも、その発揮する場を間違えればあたら、その才、人物の大きさを発揮できずに終るもんだ。
生涯に二人と出会わぬ人物の大きさを持つ牧山君は第一生命に骨を埋められた。が、まだ人生が終ったわけではないので、どこかの時代が彼を要求しないとも限らない。惜しい人材だ。今回の震災復興などの大役をふれば、彼は目覚しい仕事をしたろう。ところが時の政府は牧山君の存在をしらない。有能な人材を野に埋もれさすのももったいない。
この牧山テルオ君は恰幅がよく、背も高く人品骨柄とも申し分ない。
中学の頃からそうで、そのことを「テル・フトール・フトール」と私が囃していた。
告げるという英語のテル・トールド・トールドを揶揄したものだが、ヤマコウが茶々若に指された。テルの活用を言え、すかさずヤマコウが答えた。「テル・フトール・フトール」。
声が小さかったので茶々若はワマコウを誉めた。「やればできる」
授業が終ってヤマコウが私を見てニヤリと笑った。
牧山君もヤマコウを見ていた。ヤマコウは石原裕次郎が大好き、牧山君は成績優秀、高校から慶応に進学するほど、エルビス・プレスリーがいいと熱をこめる。なんたって真剣に唄っているからいい、丁度プレスリーが飛び出してきたころ、牧山君が予言したように、エルビスは世界のエルビスにジャンプアップした。
牧山君を思い出すとエルビスがついて来る。エルビスの歌を聞くと牧山君を思い出す。私にとっては切っても切れない仲に思える。

2011-06-06

駒中の話10

ヤマコウのことはいつまでも忘れない。気のいい奴だった。養鶏場の中に小屋を持っていて、無線室にしていた。ヤマコウに刺激され鉱石ラジオを作ってみたがうまく鳴らなかった。ヤマコウはハンダこてを起用に使い、ラジオをこともなく作成する。能力の高さに驚いたもんだ。ヤマコウには姉さんがいて、時折小屋に菓子やゆで卵を運んでくれた。ヤマコウは取り立ての卵を呑めというが、何だか悪い気がして呑めなかった。
ヤマコウは運動神経抜群で、爽やかな風が吹いているような感じだった。ある日ヤマコウがこんなことを言った。男で一番いい男の出るのは何処だろう、アメリカかよ、男らしいのはアイヌだなと言うと、俺は今日からアイヌだと言い出した。
ヤマコウは電気のことなら何でも知っていて、戸田先生が電気の授業をして、黒板に電気抵抗を書き始めた。皆がわからないというと、ヤマコウを指して、「山内、これを解いてみろ」、普段は授業というと下ばかり見ているヤマコウが、黒板の前で、考えもせずにサラサラ。難しい電気抵抗の問題を見事に解いた。
嬉しそうな顔もせずヤマコウは自分の席に戻った。戸田先生が「山内は大したもんだ、やればできるんだから、何でも電気と同じだと思ってやる気を出しなさい、お前は出世するんだから」と言われた。戸田先生は東北大、実にいい先生で、生徒の誰彼ということなく声をかけ、どうだ、やっているかと訊かれる。どれほど、この先生の言葉に背中を押していただいたことであったか。後年、駒中の同期会で先生にお逢いして、礼を述べた。そのとき先生は「俺は良い教師だったのかな」と自戒の言葉を言われた。私は即座に牧山テルオ君を呼んで、「戸田先生は素晴らしい先生だったよな」と同調を求めた。
牧山君は「そうですよ、先生ほど、生徒に声をかけてくれた人はいませんでした」。すると先生は「そうかな、そういわれると少しは自信を持っていいのかな」と言われた。
戸田先生ほど素晴らしい教師には、その後、二度と逢わなかった自分を不幸だと思いながら、戸田先生と逢えたことを深い喜びとした。
死んだヤマコウも戸田先生を好きだった。先生の姿をみただけで、何やら嬉しくなるような存在であった。こんな充実した存在感を示す先生は他にはいなかった。人は誰かに何かを伝える。それがいいことでもあれば悪しきことでもある。戸田先生は生徒にとって見上げる星のような存在であった。
ヤマコウは吹き抜ける爽やかな風、高校に行ってからヤマコウの家は上町の方に移転、三軒茶屋の停留所で立ち話をしたことがあった。ヤマコウは白いワイシャツ、糊が利いてうかにも伊達男だった。精悍な顔立ちは変らず、何処かの高校の帽子を阿弥陀に被っていた。それが彼を見た最後だった。
ヤマコウの小屋で聞いた石原裕次郎の「錆びたナイフ」、ヤマコウの声と共に心の中から消えることはない。

2011-06-05

駒中の話9

ラジオにかじりついて音楽を聴いた。そのうち歌謡曲より小坂一也に興味を持つようになり、ウエスタンという曲種があるのを知る。つまりアメリカの民謡だ。小坂一也に導かれるようにウエスタンを唄った。抑揚に独特なものがあり、これがアメリカの風だと思った。ハンクウイリアムスは泣き節といわれるほどに、男心の泣きを言う。偽りの心は何度聞いても心に刺さる。日本で言えば森進一、声の調子はまったく違うが、この曲にはしびれた。この男は昭和28年に29歳で死んだ。
しかし、小坂一也はウエスタンからロカビリーへと流れる。時代がアメリカ民謡からリズムの激しいものに変化していた。
日劇は毎年2月がヒマ、そこを埋めようとナベプロの渡辺美佐が1958年に「ウエスタンカーニバル」を開催、これに若い娘が押しかけてワイワイきゃあきゃあ、それを見た評論家の大宅壮一が、あんなところで騒いでいる娘の親の顔が見たい。ところが、その大宅の娘がそこにいた。それが映子、白髪頭でテレビに出てる。我々より三つ下。駒場高校へ進学した人は知っているはず。
ロカビリーは元はウエスタンであったことの証明がこれ、日本では小坂一也の動きと軌を一にする。このカーニバルにキンゴロウの倅が出た。それが山下敬二郎、ミッキーカーチスなどといい加減な歌を適当に唄っていたもんだ。そこから平尾昌明など実力派も誕生し、和製ポップスの火がチョロチョロと点き始める。
昔はアチャラカの歌を真似して唄っていた。それでもテレビやラジオが取り上げた。早いもの勝ちの世の中、デーオの浜村美智子はカリプソ娘、時代は日本人が日本語で自分たちの心を歌い上げる方向へと少しずつ変わっていった。
その流れに乗り切れず小阪一也は相変わらず腹の出たのをギターで隠し、ウエスタンやロカビリーを唄っていた。若者からは遠くなり、中年・老年の懐かしの番組でお茶を濁した。
時代の潮先から落ちこぼれ、波は渚めがけてまっしぐら、それに乗れずに落ちて、ポチャポチャと次の波を待つ間に、次第に老いぼれて泳ぐ力も失せてしまうのだ。
時代の先端をまがりなりにも走った人々、我々のように先端にも出れず、それをただ星の如くに見上げて人生を終る庶民、これが楽しいんだ。可もなく不可もないような人生だが、落ち目になった悲哀を味わうこともないが、絶頂もしらない。それでも毎日ワイワイ騒いだ。山内君は自分のラジオを持っていた。彼は無線に興味を持ち、竹棹を立て電波を拾っていた。大きな家で養鶏場を経営、その臭いのはたまらなかったが、広島君の家の前、そこに出かけて電蓄をかけた。ヤマコウというあだ名で、精悍な顔つき、ひとえまぶたが薄情にみえた。この人が陸上の長距離をやらせると敏捷に飛ぶ。須山君や原君、水上君などがいい走りをした。一学年上に萩原さんがいて、この人の走りは凄かった。この人が一緒に走ろうと誘うのが玉井君、色あさぐろくスポーツマン丸出し、この人が萩原さんを負かすような走りをする。それだけに萩原さんが珍重したのだろう。
ヤマコウは石原裕次郎にいかれていた。格好がいいよな、オレ似てるかなと本気のような冗談のような話をした。そして、レコードを擦り切れるまで廻した。
ヤマコウはロックンロールにも興味を示した。バルコニーに座ってのエディーコクランはいいと、鼻歌を唄った。
そのエディーはアメリカでロカビリーの熱が冷めイギリスに渡り交通事故で死んだ。21歳だった。ヤマコウも交通事故で死んだ。谷先生らと渋谷で逢ったあとだそうだ。いい奴だった。二十歳代だったろうか。

2011-06-04

駒中の話8

タマキという蛤女王のような音楽の教師がいた。グラマーな女性で芸大を出てきたと思う。この人の授業を停めたことがあった。何だか気に入らずに大騒ぎをして授業にならないほど、あまりにひどさに泣きながら校長室に走った。そして校長と教頭を従えて戻ってきた。形勢逆転で生徒は静かになった。校長の名は静夫といった。効き目があった。
タンチ山に音楽室があったように思う、土屋さんもそう言っていた。昔の高校受験では9教科の試験があり、音楽も無論含まれていた。馬鹿な話だが本当のことだ。タマキ先生もプリントを作成し、それを配った。つまり、タマキ先生に音楽を習ったのは三年生の時となる。そのプリントを試験問題だと思い込み持ち帰ろうとした奴がいて、ただのプリントと知ってがっかりしていた。
この先生を後年府中で遠望した。相変わらずのグラマーな姿、手に買い物袋を持っておられたので、近くにお住まいだったのだろう。声もかけなかった。嫌な思い出しかないだろうからと遠慮。どうも学校の授業はどれも面白くなかった。家庭にそろそろとテレビがしのびこみ、ラジオからばかりでなくテレビもコマーシャルソングを流した。
明るいナショナル、暗いマツダ、東芝の電球はマツダという。何故マツダなのかを最近知った。「マツダランプ」 は1910から1962年頃まで使われた株式会社東芝の電球の呼称です。現在は「東芝ランプ」で東芝ライテック株式会社に引継がれています。
丸の中に「マツダ」のマークは、その後は傘マークのToshibaをへてTOSHIBAになっています。例外として光を計測する元になる東芝標準電球には「マツダ」のマークを引続き使用。「マツダ」は「MAZDA」からきており、ゾロアスター教の光の神様「アフラ・マズダ」で元はインドの「阿修羅」が各地に伝えられ名前が変化したといわれています。
このようなことからMAZDAは、Edison MAZDA Lampなど欧米の電球にも使用されていた時期があります。
インターネットの力でこれを知った。私たちも時の潮騒に押し流され、たった三年間の駒中生活から叩き出されて、それぞれの道を歩んだ。好むと好まざるに関わらず。そして、あのほろ酸っぱい時間は二度と戻らない。でも、このインターネットのように、長生きしているうちに時の潮騒が大きく変り、その恩恵に浴することができる。多くの人に共有する時間、共通する知識などを印刷媒体なしに届けることができるようになった。昨日の小坂一也の歌入り、映像入りで。これが現代なのだ。間もなく我々もご先祖様の仲間入り、それでも、私たちはくした時間の中を旅行してきました。当時に駒中はこんなところでしたと、今を生きる同じ駒中の生徒たちに、興味もなかろうが記録しておけば、どこかで役に立つような気がして毎日記録。
それにつけても歌はいい。それも学校で教えないような歌は。愛ちゃんはお嫁には鈴木三重子、この人の父親は民謡の大家、鈴木正夫、新相馬節で知られる。実に朗々としていて聞いてて涙がこぼれるほど、この三重子が歌ったがヒットせず、ペギー葉山にとられた歌が「南国土佐をあとにして」、人間運不運、どこに幸せがあるとも限らないから精々宝くじでも買うことだ。嫌気を起こさず。

2011-06-03

駒中の話7

吉川という音楽の教師がいた。この人も新人教師、ピアノを得手とされたのか、作曲をしてみろと言い出した。おおくの生徒は尻込み、それはそうだ、音楽とは唄うこと、楽器を鳴らすことくらいしかできない受身の授業、それを作曲とは論理の飛躍ははなはだしい。でも、松本アッチチのように、詩を見て曲を想像できる人物もいたが、それを譜面に落とすのは難しい仕事、それを無理強いをするのだから生徒は困惑。作曲のイロハ教えずどうして出来るのかと不思議に思った。それが教師にも伝わり、それは沙汰やみになった。ほっとしたもんだ。
この頃の中学は古い教科書を順送りにし、新しい教科書を買わずに父兄の負担を減らす方法、その音楽の教科書にフォスターの曲が載っていた。黒人霊歌をベースに置く「おお、スザンナ」は爆発的に人口に膾炙され、彼の才能を示したが、貧困から抜け出すことはできず、「金髪のジェニー」「オールドブラックジョー」と名作を幾つも残すが、経済的な不安から脱却できず、37歳で没した。名曲、「おお、スザンナ」はわずかな金で出版社に渡り、作曲家としての生活は確保できなかった。
吉川という教師が、このフォスターの歌を教えた。三茶小の飯川先生のように作曲家の解説もなくいきなり歌に入ったような気がする。アメリカ音楽の祖とも言われるフォスター、幾つもの解説・説明があってもよかったとおもう。あるいはされたのかもしれないが、おそらく判り易いものではなかったのだろう。
少し赤ら顔の若い先生は作曲家を目指していたのかもしれない。それが成せず教師の道を選んだのかもしれない。芸術の道は難しく、そこで成功することは渚に落としたブローチを探すようなもので、なかなか手にすることは難い。それゆえ、二足のわらじの教師生活に片足を置くが、それが本業になるのは堕落、しかし生徒の側からはこれは迷惑な話、いやいや教師、でもしか教師に巡り合うのはまさに不幸以外の何物でもない。
先生の弾くピアノに合わせていやいや歌ったもんだ。どれもつまらない音楽に聞こえた。草競馬のような軽快な曲ではなく、つまらない歌だった。それでも一年生の音楽の時間は確実に来て、そして、それも通り過ぎた。
音楽室が何処であったかも忘れた。土屋さんの話だと校門を入って左の校舎の二階ではないかとの話。そんな気もする今夜の私だ。学校の音楽の時間はつまらなかったが、ラジオから流れてくる曲目にしびれた。歌謡曲全盛の時代を迎え、あまたの歌手が虎視眈々、我こそはキングにクイーンにと折りあらばの姿勢、まだテレビが家庭に入り込む前、ラジオだけがメディア、なかなか自分のラジオが持てない時代。それでもラジオから流れ来る曲目に耳を澄ませた。
小坂一也という成城高校の不良が歌手になり、これがロカビリーと転じ世間を騒がせた。ウエスタンの「ワゴンマスター」で大当たりをとり、十朱幸代と結婚するも破局、62歳で没、和製プレスリーと呼ばれた。染物屋の生駒さんの親戚に、この小坂に似た人がいて、タケちゃんと指差して似てる似てると言ったことがある。

2011-06-02

駒中の話6

一生のうち新築の家に入居できるということは、そう滅多にあることではない。気概を持ち自分の力で家を新築する、できるは男子一生の本懐。まあ、こうしたことは運命の巡り会わせもあり、そう簡単ではないが、駒中で図書館の新築にでくあわした。
タンチ山のてっぺんに図書館が建ち、それはモダンな建物、ガラス部位が多く、外光をふんだんに取り入れたもので、林校長が無音館の名を冠した。得意満面であったことだろう。
三茶小の三上先生が駒小の百周年で校長になっておられ、その栄誉を拝した。こうしたことはなかなか巡りあわないもの。
世の中の金と女のようなもので、太田蜀山人が言う。「世の中は金と女は仇なり、どうぞ仇に巡り会いたい」
それに巡り会ったのだから、これは少々ならず得意の絶頂、しかし、こうしたことも長く生きてきたからこそ理解できるが、当時の中学生にはさっぱりわからぬことでもあった。
今井ムツオ君という短距離で滅法早い人がいた。この人はフライング気味に走り出す。アレレ、でもセーフかという走りで、見ているほうは気が気ではない。
この人が世田谷区の中学対抗陸上競技のリレーの選手、アンカーが原君、野球の名手、今井君がスタートをフライング気味に出て、一回目の警告、二回目もやらかしファウル失格、それを知らないリレーの選手、号砲一発、各ランナーが一斉に勢いよく、放たれた犬のようにまっしぐら、ところが今井君がそこにイマイで、唖然・呆然と立ちつくす、結局オジャン。
図書館が新築なったので、珍しく早く学校に行く気になった。新築の建物が気になっていたのだ。私が一番先に来たと信じていたら、今井君が芝生で足を投げ出し、本を読んでいた。人の気配を感じて読んでいた本を閉じた。声をかけると何やら恥ずかしそうにしている。読んでいた本は分厚い聖書だった。クリスチャンでもあったのか、それを訊くのがはばかれて、その場を退散したことがあった。
この今井君と三十代の終わりに偶然、新大久保で逢った。彼は中村屋のスーパーの店長をされていた。いつも店先で商品を並べたり販売したりと忙しそうだった。顔を見るたびに声をかけたが、相変わらず人の良さそうな笑顔をみせてくれた。
私も新大久保に疎遠となり、今井君のその後は知らない。新大久保の名を聞くと、今井君のことが思い浮かぶ、駒中でもなく山手線の新大久保が今井君との接点になったのも、妙なものだ。
人生は色々なことに出くわし、様々なことに振り回される。都度、泣いたり喚いたりするけれども、過ぎ去ってみるとほろ酸っぱい味がする。今井君とはそれ以来逢っていないけど、何処かの空の下で、ぽっと又会えるような気がする。

2011-06-01

駒中の話5

小学生の時は担任が全ての教科を指導、ところが中学校は専門分野の先生が指導。小学校は家庭の延長上のようなもので、父親なり母親が指導しているようなものだが、中学校は世間と同じで大人の世界をかいまみるようなもので、実にこれが新鮮だった。
雷魚の木村という体育の教師は、後年クラス会に呼ばれ、そこで長生き体操の話を一席ぶった。当時、木村の雷魚先生はどこだかの体育大学教授、これは大した出世、話の呼吸も飲み込んだ先生だけに、実に生徒に受けたそうだ。ところが、すぐに亡くなった。長生き体操をしても効果がなかった。おかしいけど事実。
人の生き死にだけは誰も決めることはできないものだ。人見君という実に真面目な子がいた。成績も優秀で教師になったそうだ。佐藤君と仲が良く、店に遊びに来たそうだ。佐藤君は駒沢停留所のそばで瀬戸物屋をしていた。結婚して中目黒で果物屋を営んだ。そこに、人見君が顔を出した。なんでも勤務先がその近くだったようだ。
いつも談笑するのが、なんだかろくに話もしないで返ったそうで、その後に自殺したという。生きていることに飽きてしまったのだろう。ロマン・ローランが言う。「ねえ、君、人生ってのはね、生きたり望んだりすることに飽きてはいけないのさ」と。
長生きも芸のうちの言葉もある。無芸大食漢でも長生きできれば芸があったということだ。どんなにつまらなく、面白味のない人生でも、過ぎてしまえば短い。それをネエ君、ことさら短くすることもなかろうヨとロマン・ローランが言いそうだ。
体操の先生に沖という女性がおられた。旅行好きな先生で夏休みを利用して各地を飛び回る。立山というところでトロッコ列車に乗ったのヨ、その切符の裏に命保証せずって書いてあるの、凄いところもあるものよ、ネエ。授業の合間にそんな話をされた。その先生も若くして亡くなった。
世田谷の深沢に日体大があり、そこから講師が来た。坂口という筋骨隆々で苦みばしったいい男、体操が終って深呼吸するとき、腕を大きく上から下に下ろし、それを左右に拡げて呼吸を整える、その時に「隣のを握るなヨ」という。皆が笑うと受けたとニヤリ。隣の人の金玉を握るなという意味。何度言われても皆が笑ったもんだ。性に目覚める頃だけに、そんな話は馬鹿うけだ。その坂口先生も若くして死んだ。体操の先生は早死になのだろうか。三茶小の石塚先生もそうだった。血の気が多いのは何となく理解できるが、生き死には実に不思議なものだ。
駒中に金子という憎めない顔の好青年が教師として赴任してきた。元気の塊のような人で人気もあった。この人は髪の毛を気にされて、いつもポマードで固めておられた。ところがほどなくして河童はげになられた。世の中は一字違えば大違い、はけに毛があり、ハゲに毛が無し。生き死にと同じに毛のあるなしも自分で決めることが出来ないのも妙。
大見川先生という職業家庭科だったかの教師がおられ、この先生は実に包容力のある先生で、駒中の近くに部屋を借りておられ、そこに遊びに行った。リンゴ箱を利用して窓から出入りしておられた。住宅事情の悪い頃で、アパートが借りられず、普通の家の一部屋を借りておられたのだ。玄関は大家の部屋に近かったのだろう。皆、苦労しながら生活されたものだ。あの頃と今とでは天と地ほどの開きがあり、住宅事情も改善され、どの家も水洗便所になった。その分人間関係も希薄になり、何でも水に流れて壊れて消える。

2011-05-30

駒中の話4

教室に英語の先生が入ってきた。どうしても英語を勉強して熱海湯の裏のお姉さんのように言葉を理解し、人の役に立ちたいと張り切っていた。背の低い、あまり風采の上がらない人で、髪が長く鼻にかかるようなのを手で時折もちあげていた。
黒板に自分の名前を書いたら皆が笑った。井出孫六、六番目の孫なのだろう。長野県出身で東大文学部仏文科を出た。この先生は他の先生と異なり、何かキラキラと光るものがあった。風采は上がらず茶色の背広がことさら格好が悪く見えた。でも、何か違うものを感じ、英語の授業が面白かった。先生は黒板に絵を描きながらHAT、帽子だと思えと下手くそな絵を描く、都度、皆が笑う。あまりその笑いが長いと、手で制しながら静まれ、静まれという。静まれも古風な言い方だと思ったが、七人の侍で、このセリフが出てくる。先生は代議士の倅だと噂が流れた。
そんなような雰囲気もあったが、中学生にとってはそんなことは大した問題ではなかった。夏休みだか、冬休みだったかが終って学校に行くと、別の先生が出てきた。ニワという熊本県仙波山の産の人だった。途端に英語に興味がなくなった。この人の授業は面白くない。次第にやる気が失せて、英語の成績はふるわなくなった。
勉強は教える側の熱意を生徒が敏感に受け取るのだろう。井出先生がやめた理由は中央公論に入社したからだという。中央公論の何たるかも知らなかった。
そして、その井出孫六の名を昭和50年の新聞で見つけた。直木賞をとったのだ。その本を読んだが面白くないものだった。それでもやはり、あの先生の中に光るものがあったのは間違いがなかった。とても嬉しくて、誰かに話してみたかった。高校時代の友人に話したが、「そうか」で終った。
先生の中で弾けるような光を感じたのは私だけだったのだろうか、浜畑賢吉さんも井出孫六先生の素晴らしかったことをNHKのラジオで語っておられたことがあった。あれは昭和51年か2年、毎朝の番組だった。浜畑さんが三茶小、そして駒中の話をされ、それがとても懐かしく、そして誇らしく感じた。テーマ曲も厳選されたもので、南仏を思わせるような響きがあり、ラジオがあんなに豊かな時間をくれたのは、その時だけだった。NHKには駒中の同期の五十嵐さんが、今でもラジオに出ておられるが、こちらはお座なりで面白くも何ともない。やはり個性なのだろう。人を惹きつける役者を長くされている浜畑さんは、そこのコツをつかんでおられるのだろう。
井出孫六先生もご健在で健筆をふるっておられる。地味な作風ではあるが、鋭い視点が世に受けているようだ。駒沢中学にたまたま赴任された御縁ではあるが、私にとっては生涯の宝物の時間でもあった。それが一年にも満たない時間ではあったが、静まれの言葉と、帽子だと思え、牛だと思えと言いながら、黒板に向かって白墨を動かす姿が今でも眼に焼きついている。

2011-05-29

駒中の話3

1年C組に大石君という笑い顔に特徴のある、いかにも人の良さそうで、いつも頬の横に手のある人がいた。優しい喋りで顔とピッタリしていた。この人の家に学校の帰りに寄ったことがあった。大人しそうな妹さんがいて、水上君の結婚式だかに同席したとき、その妹さんのことを訊いた。すると声を落とし、顔をくもらせ、「妹のことを覚えていてくれたの、そうか、ありがとう、でもね、妹は死んだんだよ」と淋しそうに言った。まだ二十歳代だっただけに、落胆は大きかった。その大石君の顔を同期会で探したが、見当たらず友人に聞いたところ、大石君は車を運転中に心筋梗塞で亡くなったという。それも道端にキチンと車を停めてだ。いかにも彼らしい死に方だと納得しながら悲しかった。
中学生の頃から妙に大人びて、ネクタイ姿を想像させるような優しい喋りが、いまでも後ろから「元気かい」と声をかけてくるような錯覚にとらわれる。
人は誰でも死ぬ、これは摂理でどうしようもないが、短い長いが問題ではなく、どれほど真剣に生きたかが問われる。大石君の人生は短かったけど、爽やかな印象を与えた人だった。
このクラスに源玲子さんという、これまたこぼれんばかりの笑顔の綺麗な人がいた。ライオンというあだ名の美術の先生がいて、喋る言葉が「ウオー、ウオー」というまるで訳がわからない人がいて、いつもボサボサ頭だった。この先生は芸大出で腕は優秀だったおだろうが、絵を描かれているのを見たことがなかった。この先生が状差しを作れと言った。手紙入れのことだ。彫刻刀を使い思い思いの作品を作る。隣のクラスを校庭から覗いたとき、源さんが真剣に彫刻刀をたくみに使い、鎌倉彫ばりの牡丹花を見事にえぐり出した。その冴えの良さ、大胆な構図に息を呑んだ。中学一年生でこうした作品をものすることが出来る人がいるんだと、感心を通り越して、その才能を妬んだ。
自分の作品とくらべると天と地、月とすっぽんで、世の中は広い、素晴らしい人がいるものだと頭が下がった。
この人は女子美高校に進学された。どんな作品を作られたのかは知らないが、才能を開花されたのではと推測するばかり。ライオンは佐野先生と言った。この人の審美眼は実に面白く、好きだった。先生はプラタナスの幹の皮が剥げるのをしげしげと見つめ、美しい、一つひとつが違っていて、同じものがないと、実に嬉しそうに教えてくださった。
あんなつまらない物がどうして美しいのかと不思議に思ったが、今となっては先生の言われた意味がわかるようになった。
佐野先生は長く駒中におられたようだ。卒業して一度もお眼にかからなかったが、実に印象深い先生だ。
美術の先生には樋口先生がおられたが、若くやはり芸大出で、自分でも制作に励んでおられた。夕陽にカラスの絵を描かれ日展に出すんだと、張り切っておられ、その大きなキャンバスを山内君と上馬の駅まで運ばされたことがあった。その絵は日展に通って、先生は満面の笑みをこぼされたが、運んだ人物のことはすっかり忘れておられた。

2011-05-28

駒中の話2

陸上カバのあだ名の先生のクラスに三茶小から来た宮坂みさおという女の子がいた。この子は活き活きとした瞳の顎がほっそりとした利発な人で、中学生だというのに、ほのかな色気があり、この人は大人になったら男を悩ます存在になると思った。何で見たのか日本妖婦伝のようなものに、高橋お伝というのがあった。その挿絵が宮坂さんに良く似た美人、これだと思って学校で友達に話した。多分、小林ヒロシゲ君だとおもうが、一決して「お伝」の仇名となった。「何であたしがお伝ばのよ」と怒っておられたが、誰もが「お伝」と呼ぶようになり定着した。
高橋お伝は嘉永3年、群馬県みなかみの産、仮名垣 魯文が高橋阿伝夜叉譚(たかはしおでんやしゃものがたり)として書いて大当たり、芝居でも大当たりとなった。墓は南千住の小塚原、鼠小僧次郎吉の隣、また、谷中の墓地にも芝居で大当たりをとった礼として守田勘彌、尾上菊五郎らが寄付者となり建立。
この宮坂さんは成人して、そんな浮名の立つこととは全く無関係で、堅実な良妻賢母となられて、中学生の推察するような人生は歩まれなかった。
この1年D組に松本アッチチがいた。この人はアキユキという名で、小学生の頃、自分の名前がはっきり言えず、アッチチのあだ名になった。国語の時間、宇佐美先生が詩の解説をされ、「からたちの花」からたちの花が咲いたよ、白い白い花が咲いたよ、からたちのとげはいたいよ、青い青い針のとげだよ。
北原白秋のことを教えていただいた。福岡県柳川の人、早稲田大英文科に進学、新詩社に参加。与謝野鉄幹、与謝野晶子、木下杢太郎、石川啄木らと知り合う。『明星』で発表した詩は、上田敏、蒲原有明、薄田泣菫らの賞賛を得た。この詩に曲をつけたのが山田耕筰、東京本郷の産、東京芸大卒、岩崎小弥太の支援でドイツに留学、日本語の抑揚を活かしたメロディーで多くの作品を残した。
この「からたちの花」も山田が作曲、この歌を唄える人がいますかと宇佐美先生がきいたとき、松本君が手を揚げて、しきりに恥ずかしいなを連発しながら唄ったのは、聞いたことのない歌。彼はこの歌を知らずに自作の曲をつけていた。歌が違うと批難の声が生徒から上がるも、「え、これに曲があったの?」とケロリ。松本君の無知を笑うより、その才に驚いた。どのように作曲しようとしたのかはわからないけど、詩をみて、これに曲があればもっといいと思ったのだろう。そして自作の曲を発表、だから恥ずかしかったのだ。
しかし、彼はその才を生かすような道には進まれず、福島県の飯坂温泉に居住されている。何故福島県に行かれたのかは知らない。片雲の風に誘われ流浪の旅の表現もあり、私も人のことを云々できず、青森県八戸の片田舎にいる。懐かしい東京世田谷に継続して居住の出来なかった人々にとって、三茶や駒沢は郷愁の地、長谷川伸の「瞼の母」、番場の忠太郎ではないけれど、遠くにいても瞼をとじれば、あの駒中の誇り臭い古い校舎、友の呼ぶ声が今も聞こえる。

2011-05-27

駒中の話1

駒中には立派な鉄製の門があった。その門に校章が飾られていた。中学生になったという実感とともに、その校門をくぐった。そして、その3年間はあっと言う間であったが実に楽しい時間であった。
校門の前は麦畑が広がっていた。陸稲が風にそよいでいたこともある。校門の横には広い下水が流れていた。校門から出ると右手にだらだら坂が上り勾配であり、そこを陸上部がダッシュをしていた。陸上競技というのも妙な競技で、ただ前に進み、ルールも規則もなにもない。ただひたすら足を回転させるだけ。フィールド競技になると高くとか遠くまでなどのアレンジもあるが、球技の面白さからは遠く離れて、かなり原始的な運動だ。
陸上カバというあだ名の先生が担任、うまいあだ名をつけたものだと関心、喋ると声が裏返って、その都度生徒が馬鹿にして笑った。身体がごつく、顔はまさにカバそっくり、それが突然、女のような声になるから奇妙奇天烈、生徒の失笑をかうが、ご本人は至極まじめ。面白味のない先生だったが、授業は熱心に展開。生物部を受け持っておられた。そこには千田君がいた。千田君の家は玉電通りの上馬、中里寄りでデカシさんの前側にあたった。お父さんが歯科医、千田君もそれを継いだ。同期会にも熱心に顔を出されたが先年亡くなられた。特徴のある笑い方をする人で、いつも、この人は本当のことを言っているのだろうかと、眼の底がキラリと光る癖があった。飯川君と中が良かった。
三年生の時、クラブ対抗リレーがあり、生物部は昆虫採集の長い網をバトン替わりに使った。1メートル半もある長いものだけに、もたもた走っていてもバトンを渡すたびに先に出る。うまいことを考えたものだ。
駒中はタンチ山の裾を校庭にしただけにあって、校庭はかなり広かった。運動会は熱心だったが、学芸会はなかった。生徒が湧くように中学に押し寄せ、校舎を増設した。もとの校舎は二階建てだが、オンボロだった。中庭に二面のテニスコートがあり、横溝さん、宮崎君、山口淳子さんたちが白球を追っていた。宮崎君はかなり達者な球あしらいの出来る人だった。平賀先生がテニスの指導をされていた。少々キザな感じの人、テニスの巧拙は知らないが、よくコートの隅に立っておられた。その中庭の端に小屋があり、そこが卓球部の練習場になっていた。錦織君が練習をしているのを覚えている。どの子もキラキラと光っていた。中学生になったことを自覚し、精一杯好きな運動をしようとの意気込みに溢れていたのだろう。
弾むような声があちらこちらから聞こえた。バスケットは大賀志君や綿貫君が上手で、指導の木村先生のホィッスルが鋭く聞こえた。この先生のあだ名は雷魚、釣堀で雷魚を釣った話を楽しそうに語って、雷魚の名が定まった。この先生は国立金沢大学を出てきた。若くて先生に成り立て、谷、小林などの先生も大学を出たばかり、若い先生が多く、指導者の側もはりきっていた。校長は林という音楽教師、眼鏡をかけたおじいさんのおうに見えたが、今の我々よりずっと若い。小林先生は青山学院の英文科、勿論英語の教師だが、あだ名を茶々若丸、これは小林ヒロシゲ君がつけた、なんでも漫画の主人公だという。

2011-05-26

弦巻の話2

柳家金語楼の家があり和風の玄関引き戸は格子、ところが、それが何処にあったかが判然とじない。アーチャンにも訊いたが駒中の近くだよと、これまた心もとない。中野さんは存在すら知らなかった。金語楼は山下敬太郎が本名、陸軍の兵隊になった話を得得手とした。映画にも出て爆笑王、テレビのジェスチャーで水の江瀧子と名進行、この金ちゃんは発明家としても有名、どんなものを発明したかといえば、くだらないものだったが、フーンと言って忘れるようなものばかり、学童が体育の授業時に被る「赤白帽」など、子にロカビリーの山下敬二郎がいた。
駒中の際に画家の向井潤吉がいて、この人は農家ばかりを描いて有名、その居宅は美術館になった。駒中にはタンチ山があり、校庭はその山に半分占領されていた。学校の中に山があるなんてのは、知らない人は信じられないだろう。その山に図書館ができ、校長が「無音館」と名づけた。洒落た建物だったが、これももうない。山の上に道路があり、山坂の多い地形、弦巻あたりが地形的には高く、駒留神社に向け下がっていった。蛇崩川は三茶小をかすめるように流れていった。
三茶小の近くにくると、松原君の家の前を通り、ここらがアーチャンのザリガニとりの場、皆がてんでに自分の縄張りをもっていた。
改正道路の駒留神社寄りの道を弦巻に上がっていくと、駒中で同級生の飯田君の家があった。道路の右側にあり、飯田君は実に折り目正しい人、サラリーマンになって成功したのではなかろうか、爽やかな印象を与える、言葉使いの丁寧な人だった。あまり正確な記憶ではないが、建築関係の仕事をされたようにおもう。もう何十年もお眼にかかっていない。改正道路に鈴木君の食料品の店があり母親が店番をしていた、父親は勤め人だったように思う。鈴木君も賢い人だったが、背が低かったが、その後身長が伸びたのだろうか、同期会にも出てこなかったので、中学卒業してそれっきりになってしまった。鈴木君も飯田君も移転されて、今は、ここら辺が彼の家だったけどなあと、実にこころもとないこと甚だしい。
上馬にも、さあ行くぞと心を決めないとなかなか行かれなくなってしまった。昔と同じところに居住されている人もおられる。塙さんがそうだ。この人はもの静かな美人、知性溢れるという表現がピッタリだった。飯川君も同じところで暮らしておられる。駒沢にマンションを持っておられた。そこでビデオを大きな音を立てて見せてもらった。飯川君の母親は三茶小の音楽の先生、その血で彼は歌が上手、それもポップスを得意とし、横文字の歌を好んで唄われる。エルビスやポールアンカなどのオールデイズ、これがまた楽しい。
あの頃は歌謡曲ファンとポップスとに二分され、ヒットチャートやS盤アワーなどを楽しみとした。生駒君は歌謡曲を好まれ、三橋美智也がいいと言っておられた。高音の伸びがなんとも言えない味を出した。この三橋は明大中野高校に通った。東横線の綱島の温泉でボイラーマンをしながら高校に通った。歳は同級生より多い、それでも卒業までこぎつける。その学生服でキングレコードに通っていた。なんとか一発あてようと頑張っていたのだ。その頃同様に作曲で当てようとキングに入り浸っていたのが船山徹、この人は別れの一本杉で当てる。作詞家の友達はそのヒットを見ずに死んだ。苦楽をともにしただけ、船山はがっかりした。三橋は昭和30年、「おんな船頭唄」で飛び出す。力のある者は報われる見本。

2011-05-25

弦巻の話1

弦巻は八幡太郎義家が弦を巻いたというが、弦を巻くは弓弦を巻くということなのだろうか、外すとは戦が終了したということなのか、さすれば勝ち戦地蔵とか、勝ち戦神社などがなければ治まりがつかない。これには諸説があるようだ。
さて、蛇崩川に雪が積もり、それを三茶小から根津先生に先導され、スケッチに行った。その年は寒く、週に一度の図工の時間でも、次の週まで雪が消え残った。どの子も素晴らしい絵を描いた。日頃みかけない景色に感動し、絵筆に力がこもったのだろう。根津先生は雪の上の屋根の影を良くみるように、絵を描くということは対象をしっかり、じっくり見つめることだと説かれた。まったくその通りで、通り一編の物の見方では当たり前にしか描けないが、注意深くみると気が着かないことに出くわす。あれ、こんな風になっていたのかと、思わずフーンと唸ったものだ。
根津先生は子供の才を引き出す能力に優れたものをお持ちだった。あんな先生は居ないと絵の上手な中西君も後年そう言っていた。
人に影響を与える存在というのは貴重なものだ、が、その本人が気づかずにされている場合がある。根津先生の指導は子供たちに絵の面白さを教えてやりたいという構えたものではなく、子供たちが自由に描く、その対象をじっくり見ろ、その中に描きたいもの、描かなければならないものが見えてくると、その子の手をとり、一緒になって対象を線に現し色で飾った。だからこそ五十年も経っても忘れないのだろう。
その蛇崩川は馬事公苑から流れてきた。源がそこにあった。そして、中目黒で神田川に合流、その弦巻に笠置シヅ子がいた。1914年香川県東かがわ市の産、小学校卒業し宝塚を受験するも不合格、OSKに入団、昭和13年服部良一と巡り会い人生が一変、戦後ブギの女王として一躍脚光、ブギはブルースのリズムを倍速にしたもの、買い物ブギがアップテンポで有名、これは服部が作詞作曲、ジャングルブギは黒澤明が詩を書き、野良犬で採用、ウワーオワオと我々子供も真似をした。ブギで当てた笠置は吉本興業の社長令息とアツアツ、子供が腹にいるとき急死、女手一つで子を育てあげる。この境遇に同情あいたのが娼婦連、日劇のステージはそうした女たちが花束を持って待ち構えた。
その笠置の家が弦巻にあり、それは瀟洒なもの、成城学園には映画関係者の同じような家が立ち並んだが、弦巻の笠置の家は掃き溜めに鶴、南欧風の白い壁、緑の芝生がまばゆく、幼い子が子供用の自動車で遊んでいた。
笠置が美空ひばりに自分の歌を唄うなと言って、美空はひどく困るが、何、美空の才能を引き立てるべく作詞家・作曲家が腕をふるい、笠置はブギの女王だが、美空は歌謡界の女王に成りあがった。
笠置の家を通るたび、実力があればこうした豪邸に住めるんだと心を強くしたが、この歳になると、そうした運は無縁だったと知らされた。夢・希望はどれほど高く持つも自由、されどそれを成就するは難い。麻生画伯のときも記したが自身の才を信じ、人生の大海原を果敢に恐れを知らず小舟を繰り出す根性と度胸、これが一般人には欠けているのだ。
女の細腕一つで人生の大海を漕ぎきり大輪の成功の花を手にしたダイナマイトガールの笠置も歳を重ね、突然声が出なくなり歌手を引退し、ドラマの出演、個人タクシーの女房役が今も心に残る好演。その笠置も70歳で亡くなり、その瀟洒な家はマンションに転じた。

2011-05-24

三茶小の話15

桜井君は身体が弱く、母親が学校に行くのを手伝って、共に校門まで来た。その母親に用事のあるときは近くの友人が共に通学した。山岸君などがその任を果した。昔はこうした助け合いをしたものだ。昨今の小学生は大人の顔をみると「おはようございます」と積極的に声をかけてくる。我々の頃とは大違い、声をかけられた大人の方がどぎまぎして、思わず「お、おはよう」となる。
子供の数がめっきりと少なくなり、昔のように我が物顔で路地や横丁で遊んでいる子もいない。
改正道路の歩道は幅が広く、そこで大声をあげて「花一匁」をして遊んだ。これをやると近所の子が総出で手をつないで、横一列になり、前に蹴り出し、後ろに退(すさ)る。
「勝って嬉しい花一匁」「まけて口惜しい花一匁」これは本当は悲しい歌なのだそうだ。女の子を花に見立てて、女衒に買われる。まけては安くしての意、勝っては買って嬉しいと読み変えるという。
そんなことは勿論知らず、道子ちゃんが欲しい、キエちゃんが欲しい、相談しようでジャンケン決着、どうということのない遊びだが、仲間にとった人をとられたりと際限がない。そのうちに夕暮れ時となり、親に「ご飯だよ」と呼ばれ、一人へり、二人消える。
大平さんのキエちゃんがこの花一匁が好きで、よく遊んだものだ。夏の夕暮れ、空に暮れ残りの夕焼けが赤く、遠くに一番星が見えるころ、最後に残った子供も食事のために家を目指す。どこにもある光景、それが今は何処にも見られなくなってしまった。
筝曲を上手とした桜井君は高校生のときに亡くなったという。短い生涯だったが、三茶小の卒業式での、あの見事な演奏はあの夏の夕暮れ、遠く一番星をみるような、いつまでも心に滲みて残っています。もっと、桜井君と話をしてみたかった、もっと優しい気持ちで友達になってみたかったと後悔は先に立たず。

2011-05-23

三茶小の話14

桜井君という身体に障害のある子がいた。三軒茶屋の大和銀行近くで母親が三味線を教えていたそうだ。桜井君は筝曲を勉強、そして晴れの舞台が我々の卒業式の日にあった。桜井君が琴を演奏してくれた。日頃は身体が弱いせいもあり、運動などはせずいつも校庭の隅にいた。それがこの日は和服を着込みお辞儀をして琴の前で、その日頃の修練の冴えをみせた。我々は感動し惜しみの無い拍手をいつまでも続けた。桜井君は照れながらも笑顔を絶やさなかった。
駒中に行っても桜井君はいつも静かで大人しかった。琴の練習してるのと訊くと、ニヤリと笑うだけで言葉を発しなかった。駒中の卒業式では桜井君の手練の技は披露されなかった。駒中の先生は桜井君が琴の名手だということを知らなかったのかもしれない。
三茶小は五組しかなかったから、先生の眼も届き、駒中は十クラスもあったので、それができなかったのかも、でも、駒中の先生にはそうした優しさが欠如していたようにも思える。学芸会がなかった。講堂もなかったので学芸会もないと短絡すれば理解ができないわけでもないが、図書館を新設するより講堂の方が先だったような気にもなる。無論、教育委員会が決めることで駒中の職員がどうこうできる問題ではないのだが、それにつけても三茶小での桜井君の筝曲演奏はいつまでも心に残った。
その桜井君とは二言三言、こちらから一方的に話をしただけで、彼も若くして亡くなったそうだ。もっと色々と話をしてみたかった。ニヤリと片頬で笑う仕種が今でも心に残っている。私のクラスに長岡レイコさんがいた。この人はいつも居るんだか居ないんだかわからないような静かな人、ある日他校の先生が社会科を教えに来た。三茶小の職員も詰めかけその授業を参観していた。
その先生が気になることを作文にしろと命じ、長岡さんが自宅近くの下水の話を書き、それを発表した。すると堂々と言葉を巧みにつなぎ、主語と述語の脈絡もしっかりして、わかりやすい話だった。不断はあんなに存在の薄い人がと驚いたことがあった。人は何か事があると、その表には現れない能力を示すもの、桜井君の筝曲も長岡さんの発表も実に素晴らしいものだった。その長岡さんにも中学を卒業して一度も会ったことがない。こうして振り返ってみると、中学卒業しサヨナラの言葉も交わすことなく一度も会わない人が多数いることに驚く。
真中の停留所の前に真中パンがあり、その娘さんが中学で同期、黒目のクリクリとした人、話すときにエクボができる綱島さん、名前も忘れてしまったが、同じクラスの松井チエさんの仲の良い友達、その真中パンも今はなく、松井さんも遠くに移転、同期会でお逢いしたのも、もう十年も前になるだろうか、それにつけても、あの駒中の空の下でサヨナラした人たちは今でも元気でいるのだろうか。

2011-05-22

三茶小の話13

島本さんの隣に座っていた川名君がねずらしくクラス会に出席してきた。そして島本さんが来ないのかと訊いて、がっかりしたように、来ないなら来なければよかったと現金なもの。心の中でいつまでも島本さんのことを思い続けていたのだろう。彼にとっては小学校の思い出は特別なもので、それも級友の誰彼ではなく、島本さん一筋というのがおかしい。たしかに明るいフランス人形のような島本さんではあったが、その他の思い出はなかったのかな。
ラジオが身近な友達だった我々の世代はNHKが主ではあったが、民放の開始によりCMソングにも触れることになった。民間放送はNHKと異なり聴取料をとらないため、広告を流し、それを財源とした。昭和二十六年四月二十一日、民間放送が誕生、東京はJOKRのラジオ東京、JOQRの日本文化放送、大阪は新日本放送と続々、買ってくださいではなく、買うことで満足が得られる、幸せになれることを印象づける工夫が必要、耳ざわりがよく、聞いているうちに口ずさみ、知らず知らずに、その商品名が頭に入りこみ、思わずその商品に手が伸びるような歌、それをつくろうと決め、作詞家、作曲家をあたりはじめ、敗戦でうちひしがれた人々に希望を与えた「りんごの唄」、当然、この作詞をしたサトウ・ハチローにも作詞を依頼、作曲も方々に手を伸ばし、文豪芥川龍之介の三男、也寸志に依頼と、電通の手は八方に伸び、NHKにないコマーシャルソングが、東京や大阪の大都会と同じように田舎にも流れ、民間放送が都会と田舎の文化の差を埋めた。
作詞サトウハチロー、作曲芥川也寸志の「エンゼルはいつでも」、だァれもいないと思っていても、どこかでどこかでエンゼルは、いつでもいつでもながめてる、ちゃんとちゃんとちゃちゃぁーんとながめてる。
おなじお菓子の歌には、お菓子の好きなパリ娘、ふたり揃えばいそいそと、角の菓子屋へポンジュール、選る間も遅しエクエール、腰も掛けずにむしゃむしゃと、喰べて口拭くパリ娘。これはCMソングではないが西条八十の作詞、洒落た楽曲で作曲は東京本郷産の橋本国彦、芥川也寸志の師匠、朝日新聞が募集した作詞に曲をつけ広く唄われた「朝はどこから」の作曲でも知られる。
森永の広告ではあったが、ラジオからこの曲が流れると、なぜかほっとした気分になったものだ。歌には力があると幼いながらに思ったものだ。小学生たちもラジオ放送のテーマ曲などを口ずさんでいた。「赤胴鈴之助」などは今でも唄える。子供の頃のことは良く思い出せるが、昨日の晩に何を食べたかは思い出せない。

2011-05-21

三茶小の話12

隣のクラスに北川マチコさんというフランス人形のような子がいた。その子の瞳がいつも潤んでいるような何処となく切なく、胸をしめつけるような訴えるものがあった。服装もいかにも裕福な家庭の子のような気品をも備えていた。一度も会話をしたことがなく、中学校へ進学しても遠くからだけ眺めていた。お父さんを事故で亡くされたが、端正な風姿は変ることが無かった。後年、この瞳と同じ絵を見つけたことがあり、北川さんの眼だとしみじみ感じ入った。
その絵は挿絵画家として一世を風靡(ふうび・風が草木をなびかすように、その時代の大勢の人々をなびき従わせる)した竹久夢二、岡山県の産、この人の代表作の黒猫を抱いた女性の絵、「長崎屋」の眼がしれだった。この絵の有名なことは論をまたぬが、作者は愛する女性を病魔に奪われ、その容姿を絵にとどめたと言われる。同期会でもおみかけしたが、その後体調を崩したような話も聞こえてきたが、元気でいつかお眼にかかりたいもの。
5組にもフランス人形のような愛らしい子がいて、島本康子さんと言った。世田谷通りの薬局の娘さんで、薬店の名は雄飛堂、素晴らしい名前だ。この子と並んで座りたくて皆が席替えを楽しみにした。その隣の席に川名君が決まり羨望の眼差しを一身に浴びた。その川名君に2000年という年が来る頃、ぼくたちは57歳になるんだと、私が得意そうに喋ったのは隣の席の島本さんに自分の利口を示したかったのだろう。勿論、川名君も島本さんも呆気にとられた顔、そして島本さんが「私の父より年寄りよ」と言って、言い出した私も驚いた。そんな年寄りになるんだと、想像もできなかったが、その年寄り十も余計に生きてしまった。
自分の長生きに驚嘆する。私は二十歳で結核を患い入院し、間もなく死ぬのだろうなと覚悟した。肺に穴が開いて電信柱の間の距離が休まないと歩けなかった。入院して薬を全部棄てて、呑んだふりをしてひたすら眠った。入院費が払えなくて脱走、それからあっちにぶつかりこっちで転んで、人並み以上の辛酸をなめて生きてきた。それも六十もとうに越えて、何時死んでも不足はありません。面白い人生を送らせてもらいました。あの小学生の頃、2000年の年にビックリした少年少女も、気がつけば白髪のおじいさん、おばあさん。いつの間にか年を重ねてしまいました。
同じクラスに今永ミワコさんがいて、この人は利発そうなキラキラした眼の人、おとうさんが缶詰のレッテルを描く仕事をしていた。今で言えばグラフィックデザイナーだ。この今永さんは大人しいけど、活発で自分が決めたことはサッサとこなした。後年、同期会でお会いしたとき、社交ダンスをしておられるとか、あの世界はきらびやかで、そして運動神経が発達していなければならない。音楽に合わせて軽快にステップを踏み、そして、いとも楽しげに満面に笑みを浮かべる。パートナーも大事で一人で出来ない仕事、結構大変そうだが、ご本人は楽しくてたまらないと言っておられた。
あの今永さんがね、と言うのと、やはりそうなのかなと、三つ子の魂百までで、決めたことを貫くいい面を上手に出されたのかなとも思い、たのもしいもんだと思った。今でも軽やかにステップを踏んでおられるのだろうか、今年は同期会がありそうなので、楽しみにしています。

2011-05-20

三茶小の話11

6年1組の担任は神戸先生、うら若き美人女性、この人が誰と結婚するかを幼い子供たちも真剣に悩んでいたが、これまたハンサムでおしゃれな宮田先生が、その相手であると噂が噂を呼び、それはもう大変、人の結婚などどうでもいいような話だが、それはそれ、ミーチャンハーチャンの玉子だけに、ことに女の子が熱心に話題にしていた。
神戸先生は体育の時間にトレパンをはいて紺色のVネックのセーターで指導、それは溌剌としたスタイルだった。先生のまわりを生徒がとりまいて校庭を移動中に、「先生、宮田先生と結婚するの」と皆が気にしていることを訊ねた。すると先生は「子供がそんなことを気にするものじゃありません、それは私の問題です」と顔面紅潮させて力んだ。
今にしてみると妙なことを訊いたもんだと思ったが、その時は誰しも知りたい問題で、訊ねて悪いなど少しも思わなかったが、うら若い女性に唐突な質問だと詫びる気にもなるが、もう五十年以上の前の話で、これまた時効。
宮田先生は放送部の指導をされていて、効果音のレコードの使用方法などを教えていただいた。言葉が柔らかで物腰の静かな人、なかなかの紳士であられたが、少々背が低かったのがキズ、一方の神戸先生は鼻にかかった喋りかたで、どちらかと言えば少々キザったらしい。小学生にとっては初めて接する自分の家族以外の大人、それだけに興味津々、まして女性の仕事の結婚を遠く先にではあるが、身近なものとして捕らえなければならない女子にとっては大問題。ともかく学校は子供たちにとっては格好の社交場、これしかないのだから毎日ワイワイ・ガヤガヤと楽しいものだった。
小学校三年生だか四年生の頃、冬が大変に厳しく、校庭が前面凍結したことがあった。そんな中でも上級生はズック靴を上手にあやつり、凍結した校庭をまるでアイススケート場のように滑って走った。冬季五輪が開催されたころで、ゴンチャレンコなどの外人選手の名前を言い合ったことを覚えている。寒かろうが暑かろうがそんなことはおかまいなし、ともかく毎日が楽しければいい。
そんな凍結した校庭の氷を小便で溶けるかと競争した。それを横山先生に見つけられ、そんなところで小便をするなと言われ、出かかった小便が止まった。後にも先にも立小便をとがめられたのはこれだけ。その小便の後が黄色く輪になって痕跡をとどめていた。それでも、ここで小便をして先生に怒られたと指差して友達に誇った。妙なガキだ。
学校帰りに改正道路の中野さんの家の近くに一升瓶が割れてマムシが飛び出していた。マムシ酒にしたものを運んでいる途中で割れて放置したのだろう。そのマムシの尻尾を持って三茶小の戻った。それを用務員室に持ち込むと横山先生が、下に置けというので並べておいた。そのまま帰ってきたが、その後が大騒動、用務員室に来た植木先生(女)がそれを見つけただか、踏んづけたかで目を廻したという。
翌日の始業時間に植木先生が突然入室し、「悪いイタズラをするもんじゃない」と小言を言われた。皆はあっけにとられていたが、私がしでかしたことは直ぐに知れ渡った。
放送部の仕事は宮田先生から渡されるプリントを読み上げることで、給食のメニューを伝えた。カレーが何時出るのかが最大の興味、食べることしか頭になかった。自分のことだけ考えていればいい時代、だからこそ子供の頃が懐かしいのだ。
土屋さんい訊いたところ、神戸先生は今も駒中の近くに居住されているとのこと。ご主人になられた宮田先生は若くして亡くなられたという。宮田先生が演劇で、ひと房のブドウを手渡されるシーンがあり、それをいまでも覚えているが、相手役はさて、誰であったかがサッパリ思い出せない。記憶というのはかくほど左様にまだら模様。

2011-05-19

三茶小の話10

板橋君は6年2組、この人のあだ名は「お富」、駒中ではこの名で通った。これを決めたのが実は私、もう五十年も前になるから時効で勘弁していただく。板橋君は神経が細かく、気配り目配りのできる人だった。駒沢中学は生徒が三校から寄せてきたので満杯、休み時間に便所に行くと列をなしている。雑談しながら自分の番、ところが板橋君は後ろに生徒が並んでいると小便が出ない。しないまま、次の人に順番を譲る。「どうしてなのかな
と本人は悩んでいたが、それは神経のせい、こまやかな事に気配りのできる人の特性、そのため始業の鈴が鳴る瞬間に便所に飛び込む。往時は用務員のおじさんが振鈴を鳴らした。
昔、お富さんというレコードが大流行したことがあった。染物屋の生駒さんは歌謡曲に詳しく春日八郎のことも良く知っていた。春日八郎は福島県会津坂下(ばんげ)町の産、東洋音楽学校卒、講談社が興したキングレコードの第一回音楽コンクールで優勝するも準専属で下積み長く食えない。同じく準専属だった妻から作曲家の江口夜詩(よし)を紹介され、毎日通い、掃除をしたり肩を揉んだりし、曲を作ってもらえるよう願い続けた。江口に「低音が出ないし、声が細い」と指摘されると、河原に出て土砂降りの中発声練習、こうした必死の努力が実り、ようやく新曲『赤いランプの終列車』を作曲してもらうことになった。『赤いランプの終列車』を吹き込んだ春日だったが、当時無名の自分が売れるわけは無いと、ヒットしなかった場合を想定して新聞社に入ろうと、履歴書まで書いていたという。曲が作られてから1年後の1952年に、『赤いランプの終列車』は発売され大ヒット。54年に「お富」さんが出て、これで春日の地位が不動に、その春日八郎に板橋君が似ているという話から「お富」になったわけ。板橋君は五十年も「お富」と呼ばれ続けてきたが、こうしたことで申しわけありません。
板橋君に似た春日八郎は67歳の我々の歳に亡くなった。歌謡界の不滅の星の一つ、あの頃は綺羅星の如くに素晴らしい男性歌手が続々登場、三橋美智也、三波春夫、村田英雄、後ろの二人は浪曲界から歌謡界へと飛び込んできた。歌謡曲全盛の素晴らしい時代、昨今の歌はさっぱりわからない。いやあ、昔は良かった。

2011-05-18

三茶小の話9

裏門からまっすぐに伸びる道は宇田川君の造園植木置き場を左に見て、曽根君の家を過ぎると突き当たりになる。ここは林になっていて、大きな欅の木が何本もあった。どういうわけか、ここの木を切り倒しているのが、裏門から見えた。マサカリを振上げて木に打ち込む姿が見えて少しするとコーンと木にあたる音がした。理科の時間に習った音は一秒間に330メートル伝わるというのが実証できた。曽根君の家までは330メートルあったのだ。ダラダラとゆるい勾配ではあったが、意外に距離があるんだなと思った。
曽根君の隣に妹尾さんがいて、曽根君の家を右に曲がると石川さんの家、妹尾さんも曽根君も移転されたが、石川さんのお兄さんでも居住されているのか、変らず石川の表札をみつけたとき、おかっぱ頭で賢そうな瞳の大きい彼女の顔を懐かしく思い出した。石川さんは神戸に居住されている。ご主人が神戸製鋼に勤務されていると、それこそ二十年も前の同期会で言われていたのを思い出す。
同じ場所、同じ名前の表札を見つけても、我々の同級生の姿をそこに見出すことができない。文明堂のカステラは同じレッテルで、同じ味がするけど、同じ場所、同じ表札だけど友達はもういない。時の流れの無情を感ずるのは私だけなのだろうか。
このブログはこんな時代がありました、こんなことを見聞しましたと記録し、それを読んだ人が更に書き込むことを念頭に始めた。間もなく二ヶ月になる。俳優の浜畑賢吉さんが我々の子供の頃を記録すると、文章を書き始められた。その一助にもなればと開始、が、友人たちからのコメントはない。ところが、初めてお父さんが上馬で働いていた方からコメントを書いていただいた。上馬5丁目で生協(酒屋)をされていたとの由、同じ場所、同じ時代を過ごされた、そのお父さんも亡くなられたそうだ。土屋さんに尋ねたところ、世田谷通りの若林陸橋のそばに柳文具店があり、その近くに中野さんという方が酒屋をされていたので、おそらくその方のことではないかと教えていただいた。ここら辺の話は駒沢中学時代で書き記してみたい。
同じ場所、同じ時代を共有した人に、文明堂のカステラのような、変らぬ味を伝えられれば望外の喜び。たしかにああいう時代があり、人々はそれぞれ置かれた境遇・境涯のなかで必死に戦う、しかし、そうした庶民の戦いの記録は残らない。自分が踏みしめた土地がどういうものであったか、そして、その土地の上で事業・生活を営む、元気で懸命に、しかし、振り返ってみるとあれほど長かった時間も、ほんの短くも思えるのが人生。そして、磐石だと思っていた商売も景気と時代の波に揺られ、まるでガラス細工のようにはかないけれどキラキラと輝いていた。そんな商店が集まっていたのが三軒茶屋であり世田谷通りであった。その経営者たちが築き上げたガラス細工を並べて、その一つひとつを愛でた者もいない。
こうした庶民の時代、時代での暮らしぶりを本にしたものもない。精々、その時代を生きた人々を一堂に集めての座談会、けれどこれは思い思いに目にした事象を並べるだけで、一軒一軒の人々の暮らしが文字に現れたことはない。浜畑賢吉さんにもお伝えしたことではあるが、あの時代、この地域でたしかではあるが、振り返るともろいガラス細工の個々の暮らしぶりを世田谷教育委員会を説いて、本にされたらいかがと。
我々の時代、それも過ぎ去り、あれほどきらめいていた個々のガラス細工も砂埃と塵に埋もれる。投稿されたコメントがそれを教える。そうした個々の話を写真入りで掲載することこそ、このブログの狙いでもある。三茶小・駒中から多くの子供たちが毎年巣立つ、同じ場所、同じ長さの時間の経過、されど時代が異なり味わいもまた違う。我々が踏みしめた土地、これが何であったか、そして、我々庶民のガラス細工の人生を印刷や活字に頼らずとも、インターネットという文明の利器を活用し、伝えてみたいと念願する。時代は確かに移ろい、人々の考え方も違ってはいるが、人情だけはなくしてはいけないし、なくされないもの。文章を書ける人はドシドシ投稿されたい。書けないかたは要旨とその時代を記録した写真をお貸しいただければ文字と映像で、その人の人生を記します。
想像していただきたい。三茶のマーケットに、もろいけれどキラキラと輝いていたガラス細工の人生が幾つもあり、それを一つひとつ愛惜の念をこめて読むことができれば、どれほどあの時代を思い起こすことができるかを。これは大事なことで、インターネットを利用できないお年寄りには冊子にして手渡さなければならない使命もある。

2011-05-17

上馬の思い出32

生駒さんの隣は大平さん、ここには女の子の同級生がいた。平屋の建物で土間があり、左手が部屋になっていた。働き者の母親は背中に子供をおぶって、いつも元気に立ち振る舞っている。昔のことだから、煮炊きには薪を使った。その薪を細かく手斧で割り、洗濯物と格闘していた。昔はタライと選択板だけが武器で、よくもまあ、洗濯物の山に押しつぶされなかったものだと驚嘆する。大平さんばかりか、どの家の主婦も皆同じで、それに不平も不満もなく頑張ったものだ。洗濯機などが登場するのは、まだまだ後年、大平さんの家は自分で作ったような建物、土地を購入したか、借りたかして自作されたのだろう。私の家は借家で家賃支払いに汲々していた。自作でも一家を構えているのだから、大平さんの気概は立派なものだった。
それでも、それをわかるのは今になってのことで、子供のころは大平さんの家は粗末だなと思っていた。ところがある日、駐留軍家族が何台かの車で大平さん宅に押しかけてきた。大きな箱に衣類が一杯つめこまれて、その箱も幾つもあった。大平さんのおかあさんはアメリカ人の言うことがわからない。その衣類を買えと言われているようで、しきりにいらない、いらないと手を振った。私の顔を見るなり、誰か言葉のわかる人を探してきてくれと頼んだ。生駒さんの家に走りこんで聞くと、熱海湯の裏に英語学校に行っている女の人がいると教えてくれた。ようよう、その人を連れてアメリカ人たちと話をしてもらった。その女の人は背が高く、ゆっくりと英語を喋ってアメリカ人たちと意志を通じ、その大きな箱に入った衣類は全部、無料でプレゼントしてくれたものだと伝えてくれた。改正道路を通るたびに、何かプレゼントをしたいと考えていたそうで、ありがとうという礼の言葉に私たちこそ、プレゼントさせてもらって有難いと言ったそうだ。
熱海湯の裏のお姉さんは一躍、ヒロインになった。私も大きくなったら英語を勉強してみようと思った。そして、あのお姉さんのように人の役にたちたいと思ったが、中学校に入る頃には、そんなことも忘れて、英語に悩まされるようになった。そして、英語で人の役に立つようなことは一度もなかった。志が低い者にはそうした大役は廻ってこないものだ。
その後、そのお姉さんがどうしたかはわからない。アメリカ人がプレゼントしてくれたのは12月の中頃だった。、つぎの日から大平さんの姉弟は帽子に耳覆いのついた洒落たのをかぶり、格子縞の暖かそうなジャンパーにジーパンと、絵本から飛び出してきたアメリカの子供のような服装に一変。言葉の大事さをつくづく味わったものだ。

2011-05-16

上馬の思い出31

学校のいつも閉まっている裏門から帰ると近道だったが、ここから出ると叱られるので嫌々正門から出た。正門を入ると用務員室があった。その前に教員室があり、その隣が校長室だった。便所がその前にあり、今と違って溜め式便所だけに梅雨時は臭いがこもってたまらなかった。でも、家に帰っても同じだったので気にしない人が多かった。駒中の同期会で女性が、昔に返りたいワと言ったので、肥溜め便所の尻の穴を拭くのに新聞紙の時代に戻るんだヨと言ったが、それでも戻りたいと強情を張った。昔にとっても良いことがあったのだろう。
水洗便所に慣れると、あの時代に戻るのは嫌だとつくづく思う。しかし、大地震になれば下水も上水も使えなくなる。バイオの力を借りて木屑と糞尿を混ぜて分解し、全く臭いの出ない便所となる。これは現物を八戸で見たことがある。市民の森という山の中の便所がこれ、初期投資がかかるがランニングコストがかからない分利がある。
昔は肥樽に糞尿を入れ運んだ。もっと前は玉川あたりのお百姓が肥桶を牛に曳かせた大八車に積んで、家家を廻り下肥を集め、その代わりに野菜を置いていった。私の家の前の水野という理髪店があり、頭を刈ってもらうのに前を見てじっとしていないと、バリカンでコツンと叩く、それが嫌で前の水野理髪店に行かず、玉電通りの松の木精米店前の太陽という床屋に行き、シラクモをうつされた。この床屋は不潔だと近所の人が言っていたが、実にその通りでしばらく治らず泣きべそをかいたことがあった。
水野床屋は家族が多かったのか、お百姓は野菜を多く置いていった。玉川方面にも家が建て込んだのか、お百姓が来なくなり、東海組が便所の汲み取りを受け持った。トラックで肥樽を積んだ所に来て、それを開けて走り去る。生駒さんの隣の大平さんの家の前がその肥樽の置き場になっていて、雨が降って先が見えないと肥樽に傘があたって臭いがついた。全くこの肥樽には悩まされたが、改良されバキュームカーが家々を廻るようになった。車から長く伸びたホースの太いのが時折撥ねるように動いた。以前のような肥樽からは開放されたが、バキュームカーの傍を通るときはやっぱり臭いがしたもんだ。駒沢中学の傍に、その東海組があり、そこの勤務している人の子も通学していた。職業に貴賎なしで、あの仕事も大事な仕事、それも下水普及で東京では姿を消したが、地方ではまだ見かける。
トイレットペーパーなんてのは見たことがなかった。いつも新聞紙を長方形に切って使ったもんだ。新聞インクには身体に良くないものが含まれていたらしいが、新聞紙で尻をふいて死んだという話もきかなかった。昨今は金がかかるような仕組みになっている。
暖房も昔は練炭、この着火が私の仕事で朝起きると改正道路前に練炭七輪を置いて二酸化炭素中毒にならないようにと毎朝運んだものだ。野沢商店街の奥に薪炭屋があり、品川練炭を売っていて、そこにお使いに行かされ練炭を買ったものだ。今は灯油の時代で、暖かく便利だが、原油が値上がりして我々は苦しめられる。昔は薪と練炭で寒い冬を過ごしたものだが、便利な世の中は金がかかって不便になった。文明の進歩は我々を苦しめるのも妙。ついでに書いておくが、文化と文明の違いは文化はすぐに眼に見えないものを指し、文明は見た瞬間に理解できるものをいう。五十嵐君の家に灯油ストーブが入り、ブルーフレームという名前の石油ストーブで青い火を立てながら燃えた。その暖かさに驚嘆した。これが文明だ。ところがアラブの手加減一つで、原油が上がり世界全体が困ったことになった。空気に値段をつけて、最初は安くどうぞで、使わせて次第に値を吊り上げれば、生きていること自体が困難になる。今は妙な時代に突入し、テレビだクーラーだで電気浸けにさせておいて、電力不足では困るから原油に左右されない原子力と宣伝し、これが全国に54、その管理が不十分で福島の住民は家を追い出され、家なき親子にさせられた。便利は不便でしかない。家々にラジオと裸電球のころは溜式便所だったが、暮らしやすかったのかもしれない。

2011-05-15

三茶小の話8

観音堂と平和パンの十字路に三茶小の校庭門があり、そこはいつも閉まっていた。ここから帰ると近道でここを抜けようと脇の生垣の破れ目から出て、それを中西君にみつけられ、三上先生に告げ口され、叱られたことがあった。その校庭門には直線状の道路が続き、突き当たりが林になっていた。その右側に曽根君の家があった。
校門からの道路の途中に宇田川君の大きな植木置き場があり、背丈の違う植木が出番を待っていた。その道路は砂利道でニコヨンがコールタールを敷いて歩いた。その作業小屋が三茶小の近くに建てられ、その破れ目から中がのぞけた。
好奇心旺盛で中になにがあるかと瞳をこらすと、キャンバスを立てた青年が、つぎはぎのモンペを着た痩せた中年女を描いていた。モデルの中年女は視線をまっすぐに顎を引いて、尊厳なる時間を味わっているように見えた。青年は画学生でもあるのか、こんなところで仕事が終って何がしかの金を手にし、余暇をこうした絵を描く時間に費やしているのを見て、人生の難しさを感じた。
中西君は絵が上手で、子供の我々も、この人は将来、そうした道に進むことを予感させるだけの力量があった。おそらく、この青年もそうだったのだろうが、世間の経済状況からニコヨンをして身過ぎ世過ぎをしなければならなかったのだろう。その絵は決して下手ではなかった。しかし、魂を揺さぶるようなものではなかった。
同じクラスに麻生さんがいて、この子の家は丸山公園の近くだった。お父さんが絵描きで、家を訪ねたことがあった。大きなキャンバスに母子像が描かれていて、その迫力に押された。お父さんが選挙投票で三茶小に来たとき、廊下に張り出された絵に私の名前をみつけ、家に遊びに来るようにと、麻生さんに言付け、それででかけた。
麻生さんの家のアトリエは絵の具の臭いが充満して、眉が濃く口元の締まった意志の強そうなお父さんが絵について色々教えてくれた。本気で絵を勉強してみないか、教えてあげるよと言われたが、私なんかではなく中西君が相応しいと思った。それでも、子供扱いせず、真剣に絵のことを語ってくださったことは貴重な時間で、今でも鮮明に覚えている。
お父さんは、その母子像に大層思い入れがあるようだった。そして私に、感想を聞かれた。私はこのお母さんの足が大きいと言った。おとうさんは笑いながら大きいか、大きいんだよと言われた。その意味がわかったのはそれから二十年もしてからだった。
竹橋の国立近代美術館で、その絵に出逢った。麻生さんのお父さんの絵が、買い上げられたのだ。人生の辛酸を舐めた私にはその母親の足の大きさの意味が理解できた。地に足がつくという言葉がある。画学生の多くが職業画家として立てるかが不安であり、限られた時間のなかで誰もが成し得ていない表現、構図、色使いを模索する。まして、戦火の中を生き残り、暗い戦争からやっと明るい人生の兆しを見つけ、生きる喜び、そして画家として立てる自信が湧いてこられた時期だったのだろう。それが母親像の足の大きさとして現れていたのだ。人生を堂々と歩む、まして自身の感覚を絵筆に託して渡って行くには相当な困難と呻吟があったことだろう。ところが、麻生だんのお父さんはそんな隘路を抜けて、何かをその母子像でつかまれたのだ。そして天下に名をとどろかせる画家、麻生三郎になられた。三軒茶屋、山の手の下町、そんな狭隘な貧乏人がかりが住むような町中に、こうした才能を夜空にサーチライトの如く光らせることの出来た人が住んでおられた。それが同級生の父君であったことは、長く生きてきた人生の、まるで勲章のように大事な話でもあった。その麻生画伯は美大の教授として後進を育てられ、生涯を現役の画家としておくられた。その功績は見あげる山の如くに思える。人生を思うままに己の才能を信じて渡る、誰にでも許されることではなかった。

2011-05-12

三茶小の話7

中里と三茶の間に消防署があった頃、冬の夕暮れにてっぺんの望楼を巡回する消防士の姿が影絵のように見えた。遠く富士山が遠望でき、空が赤黒く夕焼けて、シルエットのような消防士がその中を廻っていた。
あの頃はまだ電話の普及も滞り、火事が起きると望楼から発見できた。今のようにいたるところに高層ビルが建てば、それはもう、役にも立たない望楼ではあるが、昔はそれでも役に立っていた。最初に黒い煙があがり、水がかかると次第に白くなる。消防士は火災発生でサイレンを鳴らして爆走する。
電話普及の悪かった昔は街中に赤い電信柱が建ち、そこにガラスで覆われた押しボタンがあった。火災発生時にはそのガラスを破り、そのボタンを押すと、消防庁に連絡が届く仕組みだった。指令を受け、消防車が飛び出し、路面電車に接触、怪我した消防士は自分を置き去りにしろ、火災現場に急げと叫んで絶命、消防車が火災現場に走ったが、いたずら通報だったと、私が小学校六年生の時、東京新聞に記されていた。
いたずらが人命に関わる一大事になってしまった。使命感に燃えた消防士の命は一体なんだったのだろうと考えたことがあった。
それでも学校に行き、わいわいと騒いで遊んでいるうちにそうした疑問は何処かへ飛んでいってしまった。
三茶小からその消防署に向かう途中に砂糖の卸し問屋があった。左側にあり、そこには毎日配送の車が停まっていた。ある日、アーチャンがポケット一杯のザラメを運んできた。その砂糖問屋の前にザラメの袋が破けて山になっていたので拾ってきたという。慌てて行ったが、もうなかった。アーチャンは時折黒砂糖も持っていた。どうしたのと聞くと、ああでもないこうでもない、落ちていたのを拾ったような、落ちてなかったようなとゴニョゴニョ、どうも破けた袋から顔を出していた黒砂糖が自然にポケットの中に入ったような言い方だった。アーチャンのポケットは不思議なポケットだったのかも知れない。

2011-05-11

三茶小の話6

三年生のとき駒沢小から三茶に編入した。寄せ集めの小学生をまとめる教師は苦労だったろう。互いに通う小学校をくさしていた者が統合されたのだ。中里小学校ボロ学校、入ってみたらボロ学校、駒沢小学校ボロ学校、入ってみたらいい学校と、くさしたり、くさされたりした者が一緒になるのだから、これは大変、最初は少々ぎごちない、しかし、それは子供のことだから、自然と溶け合う。そして、今度は新生「三茶小」の仲間になった。
私の担任は3、4年、そして5年まで横山隆一先生で、漫画家と同姓同名。この先生が三茶小の徽章を考案された。三軒の御茶屋と茶の葉だ。
桜の木から下りてくる毛虫が蝶にならないことを教えていただいた。蝶になる虫は裸で毛がない。青虫は蝶になり、毛虫は蛾になる。蛾は羽を広げて休むが蝶は閉じる。虫の世界にも決まりがあるんだと、感心したものだ。
横山先生はベルトを押えながら授業をした。それが腕組みになり、顎を撫でるようになり、教育委員会へと転じられた。先生は映写技師の資格を受講され、夏休みに学校で16ミリの映画会を担当された。娯楽の乏しいころだけに、その映画会は楽しみだった。先生は映画が終り子供たちが散っても、フィルムの整理に夏休みの校庭で上映した映画フィルムを巻き戻しておられた。校庭は暗い闇におおわれて、先生が作業をされるところだけ電球が点いていて、その電球の周りを蛾が飛び回っていた。カタカタ、シュルシュルとフィルムが戻る音がいつまでも続いていた。
教師は子供たちのために、寝苦しい夏の夜も、汗を流しながら映画会の後片付け、当たり前のような気がするけど、なかなか出来ることではない、先生の信念に視聴覚教育の重要性があった。これがテレビ時代、そして通信の普及でインターネットが誕生、先生は亡くなられたが、昨今の急激な社会の進歩を確認されたならば、満悦の笑みと共に顎を撫でられたことであろう。

2011-05-10

三茶小の話5

校長先生は中村という牛乳瓶の底を眼鏡にしたような度の強いのをかけておられた。子供たちによく声をかけるかただった。得意そうに話すのをさもビックリしたように聞いていた。子供の自発的な発言を尊ばれておられた。
子供たちもそんな校長先生を知っているのか、よく声をかけた。しかし、子供の名前を覚えるのは苦手だったようで、よく間違えておられた。教頭はアライという初老の男の先生で理科が得手のようだった。六年生のとき、電気モーターの製作の時間があり、アライ先生が教えにこられた。電池で動かす小さなものを男の子も女の子も作った。小田切さんという三茶の世田谷通りに面した大きな洋服屋さんの娘は、色白で鼻筋の通った優しい話し方をして、工作などは不向きのようだったが、器用にコイルを巻きつけて完成させた。一番早くモーターを廻し、なかなか廻らない子に、コイルをしっかり巻くように教えていた。アライ先生もモーターの芯にしっかり巻かないと磁場が発生しないと教えられた。小田切さんの言うようにコイルを巻きなおしてようやく廻ったときは嬉しかった。
そんな小さなモーターが廻っても何の役にも立たないのだが、完成したことが嬉しかった。
この小田切さんは色彩的な感覚の鋭い人で、図画の時間になると、思いもつかないような色使いをしてみせた。中西君のようなデッサンに力はないが、色で面を表現する能力には驚嘆した。パステル調の色使いが面積の大小を現し、ことさら線をつかわずに物体の存在感を巧みに現した。
その洋服屋の店は○の中に誠と書かれた三茶でも屈指の大きな店だった。痩せてすらっとしていつも清潔な服に身を包んで、ニコっと遠くから微笑むと百合の花が風にゆれたような気がしたもんだ。アーチャンが「お前の店は大きくて金持ちで、いつもおいしいもの食べているんだろ」と言うと、「ところがそうでもないの、うちのお父さんは働いてくれる人がいるからこそ、お店を続けられる、だから、お店の人が食事をしてから家族が食べるんだというの、だから、いつも余り物ばかりよ」、アーチャンはびっくりした。お金持ちのお嬢さんだから、いつもおいしいものを食べているとばかり思い込んでいた。子供の心はそんなもんだ。小田切さんの店の奥に映画館ができて、学校から生徒がそろって見にいった。「小田切はこのまま帰れば家は目の前で便利なのに」とアーチャンが言うと小田切さんはニコっと笑った。余り口数の多い人ではなかったが、礼儀正しい子供子供した可憐な人だった。家族は店から家に入るのではなく、横丁から勝手口に入る狭い通路があった。背の高い小田切さんが、そこへ消えていく後ろ姿を見たことがあった。店名はマコトヤさんと言った。小田切さんというと、横丁の通路に消えていくイメージがいつもあり、存在の不確かさを感じた。その大店のマコトヤさんも、時代の流れで店は消えてしまった。
その小田切さんにも同期会で顔を見ることがない。これまた淋しい限りだ。
昔の話をしても誰も知らない、でも、確かにそうした時代があったんだ。そんな存在の不確かさを語れる仲間がいるからまだいい。独り言を言うようなれば、これはもうボケの始まりだが、さて、それもそんなに遠くないのかも。

2011-05-09

三茶小の話4

給食のパンは前にある平和パンが届けた。記憶力抜群のアーチャンの話では、平和パンのコッペは日曜日に余ることがある。その解消法として、月曜日にコッペを揚げてザラメをまぶしたのを配達してきた。これが楽しみだったとアーチャンが言う。このことをすっかり忘れていて、そうだったような違うような妙な頼りない思いをしている。
カレーは汁っけの多い、ちょうど日本そば屋のカレーのようなものが出た。これも楽しみだったとアーチャン。給食室には大釜があり、石川五右衛門を茹でるようだった。これに大きな柄杓で水を入れたり、竹ヒゴを丸めて釜の底を洗ったりと三角巾のおばさんたちは忙しかった。昔は各学校に給食作業員がいたが、今は給食センターで一括製造、それを配達車で運搬、昔は自動車は貴重品だっただけに、このように各学校生産の体制がとられたのだろうが、作ったものを直ぐ食べるほうがいい。衛生面を考えて昨今の方式となったのだろうが、余計な経費をかけている気がする。運んでいるうちに温かいものも冷えるだろうに。
三茶小の前に大丸百貨店の配送所ができた。○の中に大の字がかかれてあった。須永君がそれを指差し七五三だという。よくよく見ると大の文字は勘亭流のようで、文字にヒゲが出ていて、右横棒が三にヒゲ分れ、人という字の左が五、右が七分れだった。そんな細かいことにまで気づく人がいるんだと感心した。同じクラスの中西君にそのことを話すと、彼もそのことを知っていて、縁起かつぎの文字なんだと解説。彼は大変に絵が上手でスケッチが細微に渡り、全体をうまくつかみ、図工の名人上手だった。後に美大に入りソニーの宣伝などを担当、広告宣伝会社で活躍した。
父君が謡などをされて家は西太子堂の近くにあった。板張りの部屋に能舞台で見る松の絵が掲げられ、庭にはペスというポインターがいた。老犬だったが賢い犬だった。中西君の家の勝手口付近でバケツにゴムの前垂れを床にして、ベーゴマを盛んにやっていた。これは博打と同じで勝てば増える、負ければすっかり失う。森君が大変に強く、いつもポケットはベーゴマで一杯だった。
メンコの強い子もいて、ツミとかブとか言うあそびがあって、これも賭博性が強かった。メンコには色々な図柄があり、見ているだけでも面白かった。四角いのが主流だったが丸いものもある。丹下左膳の絵が描いてあったり武者絵があったりと角がすりきれたメンコを眺めると、どこかで勝って笑う子や負けて泣いた子の顔が浮かんでくるようだった。
ベーゴマにせよメンコにせよ、博打をやる子の会話は似ていて、どこそこの誰々が大変強く、あれとやるな、○町のベーゴマの床は固いなど、大人になって競輪場で赤エンピツなめなめ○を予想新聞に書き入れているオヤジの会話にそっくり。大人でも子供でも賭博場の雰囲気は同じなのかも知れない。ベーゴマは埼玉県の川口で作られ、全国各地へと運ばれた。丸いのも六角のもあり、柄は巨人とか西鉄など野球チームの名が多かったような気がする。コマの底を砥石で研いで背を低くしたり、廻すヒモに結び玉を大きくしたり、湿り気を加えたりとそれぞれの工夫があった。
昨今、これがまた復活し商店街でベーゴマ大会が催されている。これを居酒屋風にして老人の娯楽にすると、存外人が集まると思う。
ベーゴマの強かった森君の家は世田谷通りの島本雄飛堂の並び、三茶駅寄りにあった。竹屋の隣だったような気がする。

2011-05-08

三茶小の話3

給食室はコの字型の縦て棒のつけ根あたりにあったとアーチャンがいう。なんだかそんな気にもなるが違うような気もする。ここから脱脂粉乳の入ったバケツを運ぶのだが、足元が危うくてこぼしそうに何度もなる。バケツに蓋はついていたが、嫌なにおいがしたもんだ。とても飲めなかったがそれでもお代わりをする子もいて、好き好きだなと感じた。
小学校で嫌いなのはこのミルクとBCGだった。ツベルクリン反応にひっかかり毎年注射をされたが、その跡が膿んで嫌な気持ちになった。二十歳ごろに結核になったから、役に立たなかったのだろうか。
カレーの給食は人気メニューだった。この日は朝から気分が良かった。給食室の前を用事もないのに通ってにおいを嗅いだ。脱脂粉乳を除けば給食はどれもうまかった。その給食を作るおばさんが白い三角巾を頭にして、「こぼさないように」とアルマイトのバケツを渡す。その人を中里の駅の近くで見つけたことがあった。どこかの横丁を入ったところだったが、夏で家の入り口が開け放たれていて、すだれがかかっていた。そのおばさんは団扇片手にアッパッパの裾から出た脚を煽ぎ、アイスキャンデーを舐めていた。視線が合ったのでこんにちはと声をかけたが知らん顔をしていた。アイスキャンデーを舐めているのを見られたからだろうか。凄く暑い日で、歩いていると顔がほてるような日だった。
何の用もないのに一日中ウロウロしていたもんだ。それでも毎日が楽しかったのだから、子供の頃は幸せだ。
山本トシオ君の家は丸山公園の近くにあった。色の白くヒョロヒョロとした子だったが賢かった。おかあさんは眼鏡をかけ言葉使いの上品な人だった。おかあさんも痩せていて、背中に子供をおんぶしていた。教育熱心な人で山本君はその薫陶もあり勉強家だった。山本君の父親が持っていたと、見せてくれたのが国会議事堂の議場の図、そんなものがあったのかとしげしげと見つめた。
丸山公園に消防署が移転してきた。昔は玉電の際にあった。今の郵便局のところだ。郵便局が世田谷通りから移転してきて、消防署が押し出されて丸山公園に入り込んだ。丸山公園の便所は大きかった。ここにホームレスが入り込み、その子が駒中に通ってきた。後年、アーチャンが渋谷で彼と出逢った。「アーチャンだろ」と声をかけられ、「失礼ですけど、どなたですか」と訊いた。すると小声で「大きな声ではいえないけど、丸山公園に住んでたオレだよ」といわれて思い出した。今は船橋だかに住んでいるとのことだった。幼い頃は親の生活環境で好まぬ状況下にいても、世間に出れば腕一本、度胸一つで天下取れる。ここが面白いところだ。
彼がどんな仕事をしたのかをアーチャンから聞きそびれたが、山本トシオ君は早稲田大学の工学部だかに進学し建築の仕事をしたと聞いた。それも、定年となれば人生の最終コーナーを廻ったようなもの、誰が偉くて誰がダメなわけでもない。生きているだけで有難いものだが、なかなかそうも思えないのが人生、この山本君は同期会に出てきたことがない。よっぽど嫌な思い出でもあるのだろうか。もう五十年も前の話だ。全て忘れてまた逢いたいものだ。

2011-05-07

三茶小の話2

校庭は四角く桜の樹が植えてあった。入学式のころに淡い桜色の花を咲かせ、新入生を迎えた。どの子も精一杯の笑顔をたたえて校門をくぐってきた。文房具屋の観音堂の側には雲梯(うんてい・体育・遊戯施設の一。金属管製のはしごを水平もしくは円弧状に張り設けて、これに懸垂して渡っていくもの。くもばしご)と肋木(ろくぼく・体操用具の一。縦木に多数の横木を肋骨状に固定したもの。横木につかまって、懸垂・手掛・足掛などをする)があった。
平和パンと観音堂へ出れる門もあったが閉まっている。ここから出ると便利だが、閉まっているので垣根の破れ目から抜け出した。今のように学校は塀や柵でかこまれてはおらず、閉じ込められているような雰囲気ではなく、伸び伸びとした闊達な気風が漂っていた。通学する子も下駄履きが多かった。校舎に入るには下駄箱に入れてズックに履き替えた。校庭は土でところどころが凹んでいた。
アーチャンはブランコに乗ると高くこいで上がった。鉄の鎖を支える横棒よりも高く上がり、見ている者の胆を冷やした。本人は何処吹く風で、散々高くこいで上ったあと、その高見から飛び降りた。そのまた勢いのあること、誰もが怪我をすると心配したものだが、猿よりも猿らしく、アーチャンにかなう者は誰もいなかった。
アーチャンは六年生の頃、読売新聞の配達をしていた。いつも黒の襟付きの黒ボタンの服を着ていた。新聞配達で毎月700円を稼ぎ、家に半分入れて残りは胃袋にしまった。喜楽でのラーメンや永井君の隣の肉屋で半分に切ってもらったコロッケとコッペパンに変った。コッペにコロッケ半分を縦に入れ、キャベツの千切りをおまけに肉屋がサービスで入れてくれる。それにソースをかけて食べるのが無上の喜びだった。人は誰しも食べる喜びのために生きている。人はパンのみに生きるにあらずなどとノタマウが、それは能書きのようなもので、食べなきゃ死ぬ。死ねば生ゴミになって清掃車ならに霊柩車で運ばれる。いずれも焼き場で、焼却場と火葬場のちがいだ。
江戸の昔にも火葬場があり、死人を焼いてくれた。焼き場の職員を昔はかくれた坊主、隠坊(おんぼう)と呼び墓守や焼き場の職員を指した。このオンボウには焼き賃を支払うのが習わし、昔は現金決済の風が薄く、みな支払いは月末とか年に二度の支払い、当然金がないから焼き場のオンボウへの支払いに困る。困るったってオンボウも区役所の職員ではないから払ってもらわないと困る。半分しか銭がないから生焼けでいいかと言われれば、それまた困るので庶民が智恵を出した。それが香典を持ち寄ることだ。香典は米や味噌ではダメ、全て現金。昔は村八分なんてのがあって、交わりをしないことを決めたが、八分の残りの二分は付き合う。それが火事と葬式だ。火事が八分の家に出れば類焼のおそれもあるから消す、はやり病で死ねば伝染の恐れがあるから埋葬や焼き場に持っていく、いずれも我が身への被害をおそれるからだ。八分の家さえ香典があつまる。まして、普通に生活をしていれば尚のこと、これを香典葬と呼ぶ。
6年5組の三浦さんが亡くなったときアーチャンから電話がかかってきた。青森県の八戸にいたが、幡ヶ谷の火葬場に行った。三上先生も来ておられた。四十年も前の教え子の火葬に立ち会うなどということも、なかなか常人にはできないことだ。先生は教育者として立派で国も、その功績を認めて叙勲されたが、先生は人間として立派だった。その先生も昨今は足が弱って車椅子になられたが、我々悪ガキも先生を元気づけなかえればいけない。大恩ある先生がいつまでも元気でおられるようにと念ずるばかりだ。
さて、アーチャンは高く空中にブランコから飛び出すと、今度はウンテイに走る。ウンテイの横には桜の樹があり、花びらを散らしたあとには毛虫がぶらさがる。そんな毛虫も真っ青になるほど、アーチャンはウンテイにぶら下がり、見事に端から端へと繰り返して渡る。毛虫が風に乗ってブラブラするように、アーチャンもウンテイに両足をかけて逆さになってブラブラしてみせた。
そんな元気なアーチャンも、五年ほど前にチョットした高い所から落ちて両足を怪我、しばらく入院していたことがある。あの猿も真っ青のアーチャンがだよ、やはり歳には勝てないものだご同輩。

2011-05-06

三茶小の話

三茶小の校庭にはブランコがあった。学校の形はコの字型で上辺の二階の先端に音楽室があった。アーチャンにも土屋さんにも聞いたが、音楽室の下が何に使われていたかがわからない。コの字の上辺の道路を挟んだ向かい側には平和パンがあった。平和と命名するだけに戦後の創立なのだろう。
時折パンの焼けるいい匂いがしたもんだ。万年腹へらしの悪ガキ連には刺激的な匂いだった。音楽室の真下に鉄棒があり、砂場があった。若くして亡くなった高田君の相撲の強かったことは忘れられない。また、技も良く知っていた。ラジオで相撲の中継をしたが、アナウンサーの一言半句にも興味を持った。顔面紅潮若の花などの言葉は映像のない時代に想像力を掻き立てる言葉だった。相撲も現今のように6場所ではなく、昭和28年は4場所だった。32年に5場所と増えそれが6場所にまで伸びて八百長相撲が発覚。
高田君は普段はもっそりとしていて、あまり存在感のない人だったが、相撲になると俄然精彩を放ち無敵を誇った。アーチャンいわく、先生もかなわなかったと。
栃錦のことを良く知っていた。私とは席が隣で色々教えてもらった。一番背の高かった宮本君も負けた。宮本君は声変わりして、音楽の時間に声が出ないと涙をこぼした。優しい飯川先生は「男の子は誰でもそこを通るもの、心配しなくていいから、声が出るように必ずなるから、その時唄えばいい」といわれた。そんなものなのかと、声変わりの時機があるんだと認識した。
宮本君は逆上がりができなくて何度も挑戦していた。三上先生が尻を押して要領を教えるがなかなかコツがつかめない。腹を鉄棒にぶつけるようにするんだと三上先生が教えられた。それでも出来なかったが、根気のいい宮本君は何度も何度も繰り返して、とうとうできるようになった。
高田君が教えてくれた栃錦は東京都江戸川の生まれで、傘屋の子供、運動神経の良いのに気づいた近所の八百屋のすすめで角界入り、目方が軽く飯と水を一杯つめこんで新弟子検査をやっと通った。昭和19年に十両昇進するけど、普通の人と同じような体格、軍隊に行くが誰も相撲取りと信じない、軍隊内の相撲大会で手心を加えず投げ飛ばし優勝、やっと本職と認められた。昭和22年入幕するも75キロと小兵、26年の一月場所は初日から7連敗、あまり負けるもので先祖の墓参りに行く、墓に詣でているとき、通りすがりの人が「あの栃錦って相撲、小兵でいい技をもっているけど、七連敗だ。でもな、俺はあの男を信じてるんだ、負ける相撲を見てみなよ、精一杯手をぬかずにとっている。ああした男はかならず芽がでるもんだ」、栃錦はこの言葉を先祖が聞かせてくれたと思い手を合わせた。そして翌日から8連勝をなしとげた。高田君が嬉しそうに楽しそうに聞かせてくれた言葉が耳の底でよみがえる。亡くなった人を偲ぶことも立派な供養だ。

2011-05-05

上馬の思い出30 ラジオの話6

飯川先生の家は改正道路を駒沢中学の方に入ったところにあった。ここは駒沢小の学区で、飯川君は越境入学であった。三茶小はもともとは駒留中だったものを子供が増えたので小学校に改造、形はコの字で、その上の辺の突き当たりに音楽室があった。音楽室の壁にはバッハ・ヘンデル・ベートーベンなどの名前の下に、長い羊羹のような線があり、その長さが生きた年数を現していた。川名君という飯川先生と同様に改正道路の駒沢小の学区にいた子が、それを眺めて短いのは嫌だなと洩らした。人生はあのような羊羹型なのかと思ったとき、この音楽家たちのように、後世に名を残すような仕事が出来るのだろうかと心配になった。
食糧事情が悪いころで、満足に楽器もなく、生徒が器楽合奏をするなどということは考えられなかった。私の家の近くに安田道子さんがいて、この人は賢そうな眼に力のある人で、和泉屋と松の木精米店の通りに筝曲を教えるところがあり、そこに通っておられた。江戸の名残がまだかすかに庶民の中に移り香のようにたゆとうていたのだ。その後、西洋音楽に興味をもたれてピアノに転じたような気がするが、音楽を良く解する人だった。この人に駒中の同期会でお逢いしたとき、息子さんが管楽器をされていると聞いた。やはり血かと思ったが、その後、息子さんが芸術家になったかは定かではない。
好きな道で生涯を送るということは、なかなか難しい。まして、芸術のようなものは景気が良くて人心にゆとりがなくては、なかなか音楽会に足を運ぶようにはならない。折角習得した技術も世俗の垢に塗りこめられてしまう。勿体無いことだ。
かつて浅草にエノケンを主体とした軽演劇があったころ、映画がまだ無声だった頃は、楽器を手にした演奏家が巷をウロウロできた。映画館や劇場が稼ぎの場だった。このころの話は永井荷風、高見順、そしてガス管を加えて自殺された川端康成の作品に散見できる。
アメリカでは今でもジャズハウスがあり、それなりに音楽家も飯が食えるが、日本人はどうしたものか、こうした文化を放擲してしまった。テレビ一辺倒の安直な喜びを手に入れたことで、ナマ演奏、ナマ舞台の楽しさを忘れてしまっている。拍手をすれば演じ手がそれに答えて会釈する、あるいははりきって演奏する、リクエストがいれられるなど、ナマの楽しさは芸人たちとの共感共鳴でしか味わえない。
それを忘れてテレビだけを見て、テレビに出ない芸人を卑下し売れていないと断定するが、ナマの面白さにはかなわない。天と地ほどの差があるが、現代人は金の使い方を知らないから生きている楽しみを半分も理解できない。芸人を大事にする風、これは江戸の昔から伝わってきたものだ。演劇・落語・浪曲・講談に限らず音曲・切子など工芸などの職人文化も同じ、どうも古いものを粗末にし、マスコミのお仕着せに慣れすぎている。
飯川先生は子供たちに音楽の楽しさを教えられた。「箱根八里」の解説をされたことを昨日のように思い出す。
この曲は明治34年に中学唱歌として発表、作詞は鳥居まこと、作曲は瀧廉太郎、鳥居は三河武士、山形22万石の大名家の子孫で安政二年東京産、東京音楽学校の教授を務めた。
瀧は明治12年東京の生まれ、父は日出藩の家老職、維新後は内務省官僚、廉太郎は15歳で東京芸大に進学、荒城の月、箱根八里、花、4曲からなる組曲『四季』の第1曲である。「お正月」、「鳩ぽっぽ」、「雪やこんこん」を作曲、明治34年欧州留学生となりドイツに渡るが肺結核を患い帰国、明治36年23歳で死去。惜しい才能だった。
この箱根八里の詩は漢詩を理解しないとわからない、それを子供たちにわかりやすく飯川先生は説かれた。武士をもののふということも、先生から教えていただいた。行進曲のように勇壮で歌っていて元気がでる。いまでも、この曲を唄うとき、飯川先生が傍らで鍵盤を押されているような温かな気になる。

2011-05-04

上馬の思い出29 ラジオの話5

食事の時間になるとラジオから「森の水車」の歌がラジオから流れてきた。NHKの経営手法は気に入らないが仕出かした業績には評価するものがある。朝のテレビドラマやラジオ歌謡でありその流れを継ぐ「みんなのうた」はテレビの人気番組。歌はいっとき人生の辛さを忘れさせる精神の覚醒剤、この歌があったから死ななくてすんだという話をきくたびに、歌に力ありをつくづく思う。
子供の頃はこうしたことを知らずに、ただひたすら生きていただけだが、耳の底にいろいろな音楽・歌が折りたたまれていて、それが、ちょいとしたことで折り目が外れて大きく盛り上がる。こうしたときには、その場所にいたことを忘れ、ただひたすら、その思いを負い続ける。周りの人が何を言おうと、そんなことは関係がない。よほど変人と思われるだろうが、それをしないと、また耳の底にそれが押し込まれて聞こえなくなってしまうからだ。
三茶小に飯川という音楽の先生がおられた。音楽の楽しさを教えたいという心が前面に押し出ている人だった。四組の飯川君の母親でもあった。先生は歌を唄う前に、その作詞家の心を伝えようと解説をされた。その言葉の持つ不思議さ、面白さに心を奪われた。解説は丁寧でわかりやすく、どうして小学生にそんなにわかりやすく解説ができたのかと考えた時、そうか、ご自分の子どもさんに話して理解度を確かめたのではないかと気づいたが、そのことを飯川君に確かめたことはなかった。いつも笑顔を絶やさず、鍵盤を押しながら音楽の面白さ、楽しさを説き続けてくださった。
今の季節になると、先生がピアノの前でにこやかに、そして軽やかに鍵盤を押しながら唄った「若葉」、作詞は松永みやお、作曲は平岡均之、昭和17年に文部省唱歌となった。これを解説された飯川先生の言葉がいまでも耳に残る。
長い冬が終って桜の花が咲いた。ひとは誰でもさくらの花だけを喜ぶけれど、本当はその後に出て来る緑の葉っぱが大事、これがなければ木は大きく育つことができない。みんなもこの若葉のようなもので、これから長い人生を歩んで行く、自分の好きなことやりたいことを早くみつけて大きな木になるといいですね。
先生が言われたことを理解できずに、67歳を迎えてしまった気になるのは私一人だけだろうか。飯川先生がどのような経緯で音楽教師になられたかも知らず、ただ、音楽の楽しさを説き聞かせてくださったことだけを感謝している。その先生も五年前に亡くなられたという。礼の言葉も述べられず残念に思う。市井の人(しせいのひと・市中に住む庶民)の言葉があるが、飯川先生、図工の根津先生の教えてくださった言葉は六十年経ても耳の底に残っている。
その「若葉の歌」が地下鉄の駅から町並みに上り、見慣れた光景の浅草の商店街に流れていた。足が停まった。飯川先生の言葉が浮かび、そして先生の軽やかな指が鍵盤をすべりはじめた。後ろから来る人に押されて、歩道の端で立ち止まった。茫々(ぼうぼう・広くはるかな)の六十年、それでも確かにあの飯川先生はおられて、楽しげに歌の心を我々の手許に届けられた。そして、それをいまでも宝物のように大事にしている年寄りになった悪ガキがいる。

2011-05-03

上馬の思い出28 ラジオの話4

ラジオ歌謡が始まってそこから幾つものヒットが出た。「朝はどこから」、「三日月娘」、「あざみの歌」、「山小舎の灯」、「さくら貝の歌」、「森の水車」、「雪の降るまちを」などだ。1953年には、歳だった美空ひばりが登場し、「あまんじゃくの歌」を歌った。「朝はどこから」は昭和21年朝日新聞が詩を募集、それに橋本国彦が曲をつけた。この募集に童謡で応募した作品に「赤ちゃんのお耳」がある。これには兵庫県産の苦学生だったが音楽に情熱を捧げた佐々木すぐるが作曲、74歳で没するまで音楽振興に力を尽くした。この人の「月の砂漠」「お山の杉の子」はいまだに唄われる名曲。
戦争が終り新生にっぽんと誰もが心底思ったものだが、食糧事情は改善されることなく、給食には脱脂粉乳がでた。これはまずくて飲めなかった。それでも学校は楽しくて毎日通った。あの頃のように毎朝、毎夕歩いていれば糖尿病にはならないが、どうしても歩くことを忘れる。六十歳を過ぎたら再就学で、小中学校へどの学年でも入学できるようにして、生涯学習制度をつくれば病人は減り医療保険も減額できる。
さて、「あざみの歌」だが、これは横井弘の作詞に八州秀章が作曲、この横井は東京は四谷の産、空襲で家を焼かれ応召、茨城県で初年兵として沿岸防備、藤浦洸に師事するも、作詞家として藤浦自体も確立しておらず、藤浦が出入りしていたキングレコードでバイト、その時横井が書いた詩を大作曲家だった八州に渡す。この詩に打たれて作曲するが、横井はバイトを辞めていて連絡がとれない。やきもきする内に三年が経過、そして昭和26年に伊藤久男が吹き込み大当たり。伊藤は日本のフランキー・レイン、ほれぼれするような男臭さで歌い上げ、伊藤もこの曲が一番好きだと言う。伊藤は72歳、糖尿病で死んだ。彼も再就学していれば、もう少しあの美声を聞かせられた。
伊藤は福島県本宮の産、同郷には大作曲家の古関裕而、この人がピアノを志していた伊藤に歌手の道を示す。伊藤は裕福な家系、音楽をやりたいと言うと家族が反対するので東京農大へ進学し、中途で帝国音楽学校へ、これがばれて仕送りが途絶え苦労、ところがコロムビアが拾い花を咲かせる。人生は何があるか判らない、あきらめれば挫折だが、転んでも起き上がるかぎり敗北はない。長い人生歩いてきてやっとそれが判った。
伊藤の振り絞るような声の「暁に祈る」で多くの兵が送り出された。

2011-05-02

上馬の思い出27 ラジオの話3

戦争中はラジオを点けっぱなしにして寝た。空襲警報を聞くためだ。命をかけてラジオの放送を聞いた時代があった。まだ我々が母親の背中に負われていたころだ。その戦火の中を世の母親は我が子を守ろうと必死、戦争が終って、アア、今日からはゆっくり寝れると喜んだという。当たりまえの事が当たりまえでなかった時代は恐ろしい。
日々是好き日は普通の生活を指す。今回の福島原発もそうだ。津波で家は被害に遭わない、家もちゃんと建っているけど中に入れないは恐ろしい。
我々を守ってくださった母親連も多くは鬼籍に入られた。感謝申し上げなければならない。
それでは、世田谷に居住しておられた母親連は何処からこの世田谷に来られたのかというと、この淵源は関東大震災にある。
東京が地震でやられ、多くの人々が下町を棄てて山の手に移転、それが東急線の界隈、目蒲線などが主流になった。昔は三茶も片田舎であった。農家の人々を除けば、大方は他地区からの移転者、上馬の改正道路裏あたりには、そうした移住者、移転者を受け入れた分譲地があったようだ。私の家の裏に高原さん、橋爪さん、吉田さんなどはこうした分譲地に同じ形の家が建っていた。高原さんは前にも記した警察官、この家には男二人、女の子が一人いて、長男は浜畑賢吉さんと同級のヤスヒロさん、三茶小で安松先生に才能を引き出された。東大に進学した秀才、なんでも鉄鋼会社に就職されたそうだが、消息は不明、弟のトオルさんは太っていて兄弟で、近くのオショウというあだ名の子供とケンカをしていたことがあった。父君の警察官は平巡査から叩き上げ、警察大学の校長にまで上られた苦労人。母親が千葉の港町から嫁してきたそうで、魚が送られてくるたびに同僚警官たちと自宅で宴会をして、子供たちはその都度、私の家の隣の技工師宅の加藤さんに避難していた。宴がたけなわになると、父君はオボンを二つ取り出し、素っ裸になって前を隠しながら踊る隠し芸、まさに前を隠すだけに名言だが、これを見ないと客が帰らない。面白い余興の持ち主だったが、実直、厳格そのものの人だった。
戦争も終りホットしたのも束の間で食糧事情が悪しく、こうしたふるさとからの臨時の食べ物を喜びとしたのだろう。それを惜しげもなく同僚にご馳走した高原さんは偉かった。少ない物でも分け与える精神は時代が変ろうとも存続し続ける。忘れてはいけないことだ。
さて、戦争が終って350万人が外地から引き揚げてきた。そうした人々を唄ったのが「上海帰りのリル」、日本が膨張し外地へと膨らんだ分が破裂し、一旗上げようとした人々が夢も希望も失せて、命からがら帰ってきた。そのため住宅事情も悪しく、間借りなどは当たり前だった。衣食足りて礼節の二つも悪く、さらに住宅事情も悪いなか、我々の父母は努力をされたことであった。そんな人々の生活を慰めるものはラジオからの歌、色々な歌が様々な人により歌われた。
ラジオ歌謡という番組があり、昭和21年四月から開始された。これで大ヒットしたのが「森の水車」歌は並木路子、作詞は浜松産の清水みのる、作曲は戦後、「湯の町エレジー」の大ヒットで地位を築いた近江俊郎が復員してきた仲間を強力に押し上げて「山小屋の灯」で復活した米山正夫が昭和16年に書いたもの。当時は大女優となった高峰秀子、大東亜レコードで発売、それが復活、明るいリズムが戦争を終ったことを感じさせた。もっとも、並木路子は「リンゴの唄」で一発大当たりをして、日本人なら知らぬ人なき大名曲となった。

2011-05-01

上馬の思い出26 ラジオの話2

私の家の隣はフタバ電気、ラジオを売っていた。お祭りの音響を担当したことを書いたが、この頃のラジオは高かった。戦時中はラジオは点けっぱなしにしていた。電灯の傘は布を覆い光が漏れないようにして、B29の焼夷弾攻撃を避けていた。改正道路を若林に下ると駒留神社の手前に大きな工場があり、石塀には迷彩模様が描かれていた。戦争中のなごりだったが、そこが釣竿工場に変り、名前もフィッシュング・タックルとなっていた。そこの不良品のグラスファイバーの穂先をキスノ君が得意そうに持っていたことがあった。
それは蝉取りに使えそうな感じだったが、それを使って取ったことはなかった。いつしか、そんな年から追い出されていたのだ。
ラジオが五球スーパーなどの名称で売られたころ、マジックアイという放送局を選別するのに便利な、ものが販売され、その目玉のようなものが周波数をぴったり合うと大きく開くようになっていた。
さて、JOAKのNHK放送が開始されたころは、勿論、これ一波しかないから、選局も必要が無い。ところが、民間放送が開始になったため、周波数を選ぶ必要が出た。これに着目したのがマジックアイ。これは1937年にアラン・デユモン氏により発明された。よく知っているように書いているだけで、インターネットで調べながら、ようよう記述。それにつけても、インターネットは使い方一つで大変便利なもの、長生きはするもんだが、大震災や福島原発のような見なくてもいいようなものまで見て、いいような悪いような気になるのも妙。
民間放送が誕生すると困るのはNHK、そこで天下のNHKも色々と妨害工作、汚い手口、精神はNHKに連綿と続くが、それはさておき、民放誕生のドタバタは色々あり、軍部の手先となったNHKはニュースなどを自前で作成することなく、言われるままに放送し、戦後GHQから戦犯として処分されるとビクビク、ところがアメリカは自由放送の国、そらがそのまま日本に持ち込まれるかと思うとそうでもない。多くの民間放送を取り締まるより一局のほうが良いと、NHK単独であったが、共産主義の脅威にさらされるようになると、NHKが増長し、ストライキをやらかし、放送が中断され、国家管理となりNHKの役員らが放送実施、このころ読売新聞は日本共産党の第二新聞と呼ばれるほどに共産かぶれ、社主の正力は戦犯で笹川良平などと共に巣鴨の監獄にぶちこまれていた。
ために、電通の吉田がはりきり、日本に民放開設を新聞社に働きかけ、地方紙を巻き込みながら全国制覇を目論む。正力はそれに乗り遅れたがテレビに着目。しかし、それには時間がかかった。吉田の目論見どおり全国展開となり、主導者電通はラジオ広告の王者となった。新聞広告は媒体主の新聞社に広告料を支払う、勿論ラジオも同様だが、新メディアの登場で料金設定は電通の思うがまま、これで一躍電通は広告業界の覇者となった。
ラジオは一家に一台で子供の自由にはならない高嶺の花、このラジオがNHKしかなく、終戦を迎え、我々悪ガキの耳に飛び込んできた放送があった。それが「尋ね人の時間」、戦争で行方不明の肉親縁者をさがすもの、嫌な時代を通りすぎてきたものだ。
母親の背中で聞いた「東部軍管区情報」はB29の飛来を知らせるもの、これを聞くと母親たちは電気を消して防空壕へと逃げ込んだ。夜空を見上げると焼夷弾が金魚のように見え、母親に「赤いとっとだ」と知らせたと後年いわれた。嫌な時代を共にくぐりぬけました。

2011-04-30

上馬の思い出25 ラジオの話1

中野義高さんはメイド・イン・タモツのことを覚えていたが、ただ、タモツという子がいたとしか記憶になく、メイド・インの名は知らないという。メイド・イン・ジャパンの言葉をタモツが英語にあこがれて勝手につけたのだろう。そして、子分にメイド・インと呼べと命じたのかもしれない。こ改正道路は広くて快適だったらしく、待田 京介(日活俳優)がオープンカーで上馬から若林に向かって走り、中野さんの家の反対側が毎回テレビのオープニングシーンに使われたことがあった。待田は空手の大山倍達の一番弟子、触ると切れそうな顔をした役者、それが探偵だかの役で改正道路を疾駆する。当時としては珍しいほどの良い道路だったのだろう。
テレビのプロレスにしびれたのは大人ばかりでなく、我々悪ガキも同じで、生駒さんや勝比古さんは詳しく、ルーテーズ、コワルスキー、シュナーベル、プリモカルネラなどの外人レスラーも頭に入っていた。何と言っても力道山の空手チョップが凄かった。黒のタイツで格好もよかった。レフリーの真似をして友達同士でプロレスごっこが大流行だった。
プロレスに人々が集まる街頭テレビも、その他の時間はまるで閑古鳥だった。そんな時間に流れていたのが第二次世界大戦の記録映画、ナチスが負けて日本が降参する話で、見ていて面白いわけもない。このころアニメの広告が開始になった。パール歯磨きは昭和28年に資生堂が売り出した。歯ブラシに半分つけてが売り文句、泡が出るのが人気となり結構売れた。野沢の商店街に八百屋があり、大場金物店の側だったと思うが、ここに小さなテレビがあり、皇太子(今上天皇)が外国に船ででかけるシーンを放送していた。ここのテレビは時代の先取りで、ヘーエーとびっくりした。それから石橋酒屋の街頭テレビとなる。読売新聞の社主、正力松太郎が民間放送のテレビの生みの親、電通に吉田という社長がいて、民間放送ラジオをやらないかと正力に話を持ちかけると、正力はラジオよりテレビだと、その話に乗らなかった。
平成の御世になり東日本大震災が発生、関東大震災がおきたときには日本にラジオ放送はなかった。ために、流言蜚語で朝鮮人が井戸に毒を入れたと、自警団が朝鮮人狩りを行い、多くの人々が裁判もなくリンチにあった。この流言蜚語の元は正力松太郎であった。当時、彼は警視庁に勤務し警視庁も灰燼に帰す中、一部朝鮮人に不逞な動きありと策動し朝鮮人虐殺のもといになる発言をした。これが、電話で伝わり軍、警察関係から情報が流され大虐殺事件となった。
今となっては陳腐化したようなラジオメディアではあるが、この登場期は文明の利器の最先端、高価なものであった。このラジオは第一次世界大戦が終了した大正九年、アメリカ、ペンシルベニア・ピッツバーグで世界初のラジオ局、KDKA局・民間放送が開始になった。当時、真空管メーカーのウエスティングハウス社が、戦争が終って軍に納入していた無線機用の真空管が大量に余ってしまった。戦争中は前線の兵士との連絡に、無線機が使われ、その便利さに着目した軍が無線機製造に力をいれたが、終戦でこれが不要、メーカーのウエスティングハウスは頭が痛い。すると、その会社にいたコンラッド技師が、第一次世界大戦で禁止されていた、アマチュア無線局を再開、世の中平和になったんだから、無線機で方々の人とおしゃべりを楽しもう、世の中、どこにでもこうしたヒョウキンな人がいるもんで、この男のお喋りが、軽妙で頓知にたけており、時宜にあった話が評判となり、次第に多くの人に聞かれるようになった。これがラジオメディアの始まりで、わが国には大正十四年三月二十六日、日曜日午前九時三十分、温度六度五分と少々肌寒い東京上空に電波が発射された。国民が同じ情報を同時に共有する幕開け、関東大震災の二年後だった。続

2011-04-29

上馬の思い出24

渋谷行きの玉電の停留所前に西沢という本屋があった。石橋酒屋、ウガパーの家の隣だ。二子玉川を昨今の人はニコタマと呼ぶそうだ。玉が二個とはどっかで聞いたような話だとニヤリ、玉川は多摩川でもあり丸子多摩川の呼称もある。この呼び名を解明した者はなく、なんとなくそうだというだけ。二子塚というのがあったからなどの話もあるが不明。
その昔、玉電はジャリ電と呼ばれたと三茶小の三上先生がいわれた。私も玉電が貨車を曳き、砂利を運搬していたのを目撃した。二子玉川から砂利を採取したのだろう。小学生のころは二子玉川に行くなと言われた。業者が砂利を採取し、穴をそのままにして、子供がその穴にはまって死ぬ事故が絶えなかった。
西沢書店のおかみさんはズケズケ物を言う人で、立ち読みしていると、子供は汚い手で本を見るなと叫ぶ。イヤなばばあだと思っていた。追われてももどる五月蠅のように、それでも西沢書店には通った。なにしろ、手塚治虫のマンガが見たくてたまらなかった。マンガの上手な勝比古さんは巧いだけではなく、マンガ界についても詳しかった。イガグリ君というマンガが、これは大ヒットすると第一回が出た時に予言した。作家は福井英一、この人はすぐに亡くなった。イガグリくんは柔道漫画、そして、後年少年たちの血を熱くした、あの名作「赤胴鈴之助」の剣道漫画の第一作を描き急逝、わずか33歳だった。
その後を引き続いて描いたのが武内つなよし、この人は赤胴で売れっ子作家になった。福井は東京都の産、惜しい才能だった。スポコン漫画(スポーツ根性)の元祖。
勝比古さんは自分が漫画をかくだけでなく、漫画界にまでアンテナを広げていたのは、漫画家を目指していたのだろう。ところが、自分の好きなことで生涯を送れるものは少ない。この勝比古さんも漫画界に投じた話を聞かなかった。これも惜しいことだった。
さて、二子玉川で子供が砂利採取の穴に落ち込んで死ぬと書いたが、この西沢書店の子が友達と二子玉川にでかけ、その子が見えなくなったので一人で帰ってきた。その子は死体で見つかり、その母親が嘆いて、店番をしている嫌なおかみさんに電話をかけてきた。丁度、そこへ立ち読みにでかけた。長電話でおかみさんが叩きをかけにこないので、いい塩梅だと漫画を見ていたが、次第に電話の応対が急を告げてきたので、今度は漫画そっちのけで耳が次第に大きくなった。おかみさんは自分の子どもは悪くないと自己弁護、ところが命を失った方は治まらない。日頃、我々悪ガキを叩きを持って追い回すにっくきばばあがやりこめられているので、それは痛快至極、日頃の溜飲を大きく下げた。それでもにっくきばばあは自己正当を繰り返していたが、誰の目にも非があった。
その西沢書店も今は無くなってしまった。新刊本はインキの臭いが店内に充満し、これが文化の匂いだと思った。

2011-04-28

上馬の思い出23

ドリアンの隣に貸し本屋ができた。ドリアンは二階建て長屋で、貸し本屋に貸した家にはノブ公という子供がいた。この貸本屋で怪人二十面相などの本を借りた。貸し本屋で食える時代があった。この貸本屋は兄弟で経営していて、弟は早稲田大に行っていたが、ほどなくして死んだ。その後、この本屋はカメラ屋に商売替えをした。カメラなど高価で高値の花だった。その並びにオグラ時計店があり、若くて元気な兄弟がいたように思う。そこでレンズを買って望遠鏡を作ったことがあった。
この家に嫁いだ美人がいて、島村イクコと言った。三人姉妹の二番目、関西から移転してきて、私の家で姉妹三人が働いていた。その二番目は卓球が上手く和泉屋の先、デカシさんの近くに卓球場が出来て、そこに遊びに来たオグラ時計店の若い経営者と知り合い結婚した。私が中学二年生の頃だった。
合縁奇縁の言葉があるが、人生はちょっとした出会いで人生が大きく変わる。良きにつけ悪しきにつけだ。このオグラ時計店は現在でも上馬に存在し、昔より大きく立派になったような気がする。一度も訪ねたこともないが、長い風雪をくぐりぬけて現存することは立派としか言いようがない。時代は激しく移り変わり、昔の子供も今は老人となった。色々なことを見聞してきたが、時代は少しも休むことなく変化を繰り返して見せる。これもまた不思議なものだ。
オグラ時計店の並びに松の木瀬戸物店があった。やる気のない姉妹が経営していたが、ある日店じまいをした。その並びに毛塚の今川焼き、赤井おもちゃ屋、その店のおばあさんは赤井花子と言った。そして進藤肉屋になり野沢商店街へと切り込んで行った。野沢商店街には大場金物屋があり、釘から鍋釜と種々雑多なものが並んでいて、見ているだけでもめまいがしそうだった。今のようにホームセンターで何でも自由に見たり触ったりができる時代ではなく、店員に○○が欲しいというとそこに案内してくれた。釘などは目方で売っていた。大塚という洋品店、旭デパートだかマーケットが出来て、その二階に大坪というボディービル道場があった。そこには相撲の鳴門海が来たことがあった。力道山のプロレスブームが世の中を大きく変化させた。
ともかくプロレスが見たかった。玉電通りの千田歯科医の近くにそろばん塾があり、そこにテレビがあり、通ってもいないのにプロレス見たさに押しかけた。シャープ兄弟と力道山の試合はラジオじゃわからない迫力があった。柔道の木村との戦いも凄かった。ともかく、聞く楽しさもさることながら、見たいという欲求のほうが強かった。石橋酒店の街頭テレビには多くの人が詰め掛けた。昔は今のように四六時中テレビは放映されていない。昼などはテレビは見れなかったもんだ。
その街頭テレビを置いている石橋酒屋に同い年の子供がいて、言葉が不自由だった。それでも運動神経は敏捷で走るとやたら早かった。改正道路で軍艦ごっこなどをやると、ルールも理解して巧みだった。何か喋ろうとすると、吐くようにウングと言ってからパーと続けるので、皆がウガパーと呼んだ。彼もまたそれに反応して振り返ったので、耳は機能していたのだろう。ある日、彼と遊ぼうということになり、あたりを探したが見当たらない。家にいるのじゃないかと、酒屋に入り込み、店番の母親にウガパーいる?と聞いたら、「まあひどい、うちの子は○○という名前があるんです」とひどく強く言われた。泣きそうな顔をして言ったところを見ると、本気で怒ったのだろう。しかし、ウガパーはウガパーだと気にもしなかった。駒沢中学に宇佐美という焼き過ぎた黒パンのようなでかい顔をした国語の教師がいて、聾学校の教師になりたかったが、頬がふくらんでいると、生徒が頬の動きで言葉を察するので、不向きだと採用されなかった話を聞かせた。その時に、聾学校に入ると最初に子供を椅子に座らせ、顔を上に向かせて口に水を注ぎ込む、すると苦しくなって、ウガという、そして、その水をパーっと吐き出す。言葉は口から空気を出す訓練の第一歩がウガパーだと言った。なるほど、それでウガパーだったんだと理解した。
そのウガパーの店の横に空になった味噌樽が並んでいて、冬の寒い日は、それに入り込んでヘリについた味噌を舐めた。するとウガパーが我々を酒屋の物置に連れて行った。袋の破けた塩や砂糖などがあり、塩は舐めなかったが砂糖は舐めて残りはポケットに入れた。横に缶詰があり魚の絵が描いてあった。それは缶詰が太っていてはちきれそうになっていた。よほど美味い物が入っているんだろうと、松ノ木精米店のヒロシさんに言うと、それは腐っていて中にガスが溜まっているから食うと死ぬぞとおどかされた。食べなくてよかったと思った。ウガパーは長じてワイシャツの店を経営したと聞いた。

2011-04-27

上馬の思い出22

酒場ドリアンはどりあんと書いたのかも知れない。ともかく60年も前のことだけに、定かではない。玉電という路面電車がのんびりと走り、その両側に所々に商店が立ち並ぶ、ごく貧弱な町並みだった。渋谷から上通りにかけて玉電は専用軌道敷を爪先あがりに上る。大橋、池尻、三茶と続くわけだが、この廃線になった玉電の駅名を渋谷から二子玉川までいまだに言える。幼い頃に記憶は鮮明だが、年取ってくると昨日の晩飯がなんだったか忘れてしまうのも不思議。
あおの玉電の中心になる所から上馬の次が真ん中で真中(まなか)と言った。安全地帯などもなく、電信柱に赤い行灯看板に真中とかかれていた。雨が降るとジイジイと爺さんが恋しくて泣く孫のような音を立てた。また、良く雨が降ったもんだ。夏になると夕立が降って通る人を嘆かせたが、雨宿りをしたくとも改正道路にそんな洒落た店はなく、皆、ひたすら歩いたもんだ。夕立がやむと赤とんぼが湧くように青空を自由に飛び、悪ガキはそれを箒を持って追いかけた。とんぼなどどれほど採っても腹の足しにはならないが、それでも反射的に追いかけた。
玉電に乗って砧の池で釣りをしに行った。松の木精米店のヒロシさんは釣りが上手で、鮒などを釣り上げたが、私はいつも一匹も釣れなかった。真中に釣具屋があった。丸い東海林太郎のような眼鏡をかけた主人が客と釣り談義でもしているのか、客が絶えなかった。
そこで鮒をバケツに入れて売っていた。それを甕に入れて飼ったが、次第に大きくなり、甕が小さく見えるようになったが、その鮒をどう始末したのかは覚えていない。
釣りにはヒロシさんの外に勝比古さんも行った。砧の池で釣っていると、蛇がとぐろを巻いているのを見つけ、勝比古さんに教えた。青大将ではなくやまかがしだという、それを勝比古さんがつかもうとして噛まれた。毒はないかれ平気だと言っていたが、蛇を上手に扱えると思っていたのに噛み付かれてショックのようだった。
砧には二子玉川で乗り換えるのだが、そこから先は単線で歩いて行ったこともある。鉄橋を線路に従って歩くと途中に蛇の死骸があったりした。国太床屋のタケシさんが親戚が溝口にいるそうで、砧は隣村だけに良く知っていた。砧駅の前にワカモト製薬の社長のデカイ洋館があった。田圃が続くのんびりとしたところだった。
その田圃の横には狭い流れがあり、そこをボテという手に持つ網でガサガサとかき回すとどじょうや小魚が一杯とれた。それをタケシさんは得意にしていた。駒中のタンチ山に霞み網をしかけて小鳥をとっていた。霞み網はやってはいけないと言いながらとっていた。私はその後についていったが、一回も網にかかったのを見たことがなかった。タンチ山というのは昔、そこにタンチという乞食が住んでいたそうだ。今のホームレス、昔は山ごと自分のねぐらにしていたから、現今の駅の近くの通路に寝るのとは訳がちがう。乞食の名が山の名になるのだから大したもの。もっとも渋谷の道玄坂も道玄という夜盗・強盗の大和田太郎道玄の名からきたそうだ。昔の武士なんてのも押し借りゆすりは武士の習いというほどで、理屈ぬき理不尽なんてのは当たり前、土台、働かなくして飯を食うのだから、どこからか融通しなければ食えない。強盗などは朝飯前だ。
勝比古さんのドリアンは母親が経営、父親は裏で雀荘をやっていたが、小男で風采が上がらなかった。ところが世の中はどういうところか、この小男が若い女とできて駆け落ちしたと風の噂が伝えた。それは私が駒沢中学の二年生だか、三年の頃だった。勝比古さんは父親を見つけたら殺してやると、飛び出しナイフを持って歩いているそうだと友人が教えてくれた。色の道ばかりは道理や条理のつかないところで隠花のようにひっそりと妙な臭いと共に咲く。そんなことが判るようになるのは、それから十年もあとのことだった。勝比古さんの母親は急に老け込んだと、これも噂で知った。

2011-04-26

上馬の思い出21

メイド・イン・タモツ親分のおかげでセンミツと呼ばれた。千に三つしか本当のことを言わないという、つまり0.3%、子供の頃は紙芝居が来て、5円も持っていけば充分に何か買えた。紙芝居というとガマさん、明治大の夜間に行っている若い人、それとフライパンだった。紙芝居は下北沢の貸し出し元から借りて、自転車に駄菓子の入った引き出し、その上に紙芝居のセット、さらにその上に大太鼓を置いて、町の辻辻で、大太鼓を胸にかけて、叩いて近所を廻ると、どこからともなく子供が湧いて出る。
定番の黄金バットは人気がなかった。怖いのもあった。墓場から生き返って出て来るのなんかは夜中に小便に行くのが嫌だった。
紙芝居も読み癖があり、その口調に子供ながらも巧拙があると思った。明大生のは朗読調、ガマさんのは芝居風、フライパンのは軽演劇のような軽さとアドリブにあった。フライパンの持ってくる紙芝居は滑稽ものが多く、それが子供に受けた。フライパンは太鼓が買えないので代用品としてフライパンを叩いていた。それが故にフライパンという。フライパンの守備範囲は広く三茶のあたりまで廻っていたようで、アーチャンも紙芝居を見たという。このフライパンは酒癖が悪く、後年三茶で飲んでケンカをして目青不動のところで刺し殺された。目青不動は江戸の五不動の一つで目が青いからその名がある。もとは麻布谷町、今の六本木あたりにあったが、明治41年に三茶の太子堂に移転してきた。
フライパンはお調子者だったけど悪人ではなかったように思うが、それも子供の視点、本当のことはわからない。
刺されて死んだ話は後年、私の知り合いでそれをみた。大井町で質流れ品を販売していたアライさんはいつも黒い顔つきをしていて、何か不思議な感じがあった。私が東京質屋組合の手伝いをして、組合会報の連載を書いていたころ、アライさんの主人筋の上総屋のことを記した。そのときに城南の質屋の雄、上総屋の旦那と知り合ったが、このアライさんの店に泥棒が入り、多額な被害にあった。その保険金の請求を東京海上にしたが、敵はなかなか払わない。その交渉を依頼されかけあったことがあった。無事に保険金は支払われアライさんい感謝されたが、中国人の泥棒のようで、大井町あたりは物騒だった。セコムにも加入してアラームが鳴る装置もつけていたが、ある日、開店のシャッターを開けたら、中に泥棒がいて刺し殺された。このアライさんと同じ顔つきのコックを見たことがあった。アライさんと同じだな、きっとまがまがしいことが起きるぞと思っていたら、このコックの家が丸焼けになった。その後、このコックの顔つきから黒いのが消えた。不思議な経験をしたもんだ。それ以来、人相には特に気を配るようにしている。
さて、隣の家の電気屋の長男ケンチャンが玉電通りを改正道路に渡ろうとして車に撥ねられた。腕に大怪我を負った、撥ねたのは外国人だった。なんでも納豆を買いに行き、その帰りに撥ねられたという。野沢の通りに乾物屋が何軒もあった。新倉屋という乾物屋だと土屋さんが教えてくれるが、どうも、上馬から野沢へかけての商店が思い出せない。駒中の原君は家が近いので野沢の商店街の地図が書けるかもしれない。折があれば頼んでみたいものだ。その頃の野沢は改正道路から見ると狭く、せせこましい感じがした。若林の交番まで改正道路が広く、その先はまた狭まっていた。私の家はメリヤス屋で駒沢に鈴木という仲間がいた。そして若林の狭くなった通りの左側に北条というメリヤス屋も同業で知り合いだった。そこの長男が私より一つ上で、ボロ市で露天商の親分を刺し殺した。中学を出て間もなくだったような気がする。その頃は安藤組が渋谷で幅をきかせていた。子供をそそのかして相手を殺させるのは人非人のすることだ。フランスの詩人アラゴンはこういう、若者に教えることは希望を持たせること、学ばせることは誠実を胸に刻み込ませること。私たちも老人になり、若者のために今日一日、何か努力をしただろうか、そんな問いかけも大事、このブログも若い人の夢と希望を掻き立てられるもとに、少しでも役立てばと思って書いている。多くの三茶界隈を舞台とした話に時代を超えた何かを感じてもらえれば望外の喜び。どの道、好き勝手に生きても一生は一生、不幸だ、つまらないと思っても、これもまた一生、それなら、今日も楽しかった、今日も面白かったと笑って暮らせる人こそ、真の人生の王者だ。銭・金を超越したところにこそ、人生の本質があるのさ。

2011-04-25

上馬の思い出20 メイド・イン・タモツ後編

メイド・イン・タモツって変な名前の中学生がいて、洟垂れを子分にした。自分の弁当を子分に食わせて親分を気取った。三茶をシマだと言って中央劇場の裏あたりが原っぱだった。そこにラーメン屋台のリヤカーがあり、そこでシンチャンにストリップを強要した。音楽を担当させられ、私が歌を唄ったが勝比古さんの酒場ドリアンで聞いた外国の歌のメロディーを適当に唄った。ジョンウェインの黄色いリボンも、湯の町エレジーも歌ったが、シンチャンが雨が降るのに裸にさせられ、エンエンと声をあげて泣き出した。雨は音を立てて振り出した。すると近所のおばさんとおぼしき人が傘をさして通りかかり、「あらやだ、この子は裸になってどうしたんだろう」とシンチャンを覗きこんだ。得たり賢しとばかり、シンチャンが大声を上げて泣き出すと、おばさんはシンチャンに服を着せ始めた。
「なんで裸にしたの」とメイド・イン・タモツは叱られた。私が「ストリップやれってメイド・イン・タモツが言ったんだ」と告げ口すると、「嫌だね、子供のくせにもうそんなことを考えて、まったくロクなもんにならないよ」と言いながらすっかりシンチャンに服を着させた。「早く帰るんだよ」と言っておばさんは消えた。
シンチャンは泣きながら歩きだした。私もシンチャンの手を引いて雨の中を移動する。メイド・イン・タモツも仕方がないので後からノタノタとついてくる。中里へ向かう専用軌道敷まで来るとシンチャンは道がわかったのか、泣き声もたてなくなり、ただひたすら雨の中を上馬めざして歩く。また、専用軌道敷が切れて、天皇陛下のムチを作るデカシさんの家の前を通ると、シンチャンは自分の家の近いのを知って、声を上げはじめた。私とつないでいた手を放し、両手で双眼鏡を作り声を上げて泣きまねだ。目をふさぐと歩けないので双眼鏡を作って泣きまねしたのには利口だなと感心した。
和泉屋の角に来て、私は右に折れた、そのままシンチャンといると泣かせたと思われるのが嫌だった。メイド・イン・タモツが後ろから声をかけてきたが、知らぬふりで家に帰った。メイド・イン・タモツと一緒にいると何か悪いことが起こりそうな雰囲気だった。
私の家に交番の巡査が時折顔を見せ、四方山話を聞かせていた。祖母は太りぎみで余り外に出ない。そのため巡査の話をよろこんで聞いていた。そんな日、コロシがあってね、と耳寄りな話をはじめた。どこで、とか女なのかとか、私が口を挟むと、祖母は子供は外で遊べと私を追い出した。今聞いたばかりの話を生駒さんの家に駈けていって話した。するとタケヒサさんの兄のカズオさんが出てきて、「どこで」、「あっち」、「誰が殺した」、「ウーン」、「どこで、誰が殺したの」と詰められ、苦し紛れに「メイド・イン・タモツ」と言ってしまった。メイド・イン・タモツが殺すわけはないだろう、途端に嘘つき、センミツのあだ名を頂戴することになった。う・に・しの法則が小学校入学前の子供にもあてはまった。
これを言い出したのは警視庁捜査二課の刑事で、最近になって図書館で借りた本にでていた。犯罪者は必ずこのう・に・しの線をたどるそうだ。メイド・イン・タモツの家はパチンコの機械を作っていた。中野義高さんに確認したところ、間違いなくパチンコの機械が家の前に並んでいたという。昨今はパチンコ機械メーカーが大儲けをする。メイド・イン・タモツもその後、パチンコ機械を作っていたら大金持ちになったのかもしれない。パチンコ屋の前を通ると六十年も前のメイド・イン・タモツを思い出す。

2011-04-24

上馬の思い出19 メイド・イン・タモツ前編

三茶小で原田君が横山先生に廊下に立たされたとき、脱走をした話を記したが、これも立派な解決方法、人生は所詮、自分の気に入るようなものではなく、嫌だなと思うような方向に連れていかれるようなもの、まるで、子供の時に他所の家で食事に招かれたとき、嫌いな物が出る、嫌だから先に何とか口に押し込み、好きな順に食べ始めると、最初に食べた嫌いな物を皿に山盛りで出されたようなもの、余りおいしそうに食べているので、サア、どうぞで、泣きたくなるようなことだらけが人生だ。
そうしたとき、う・に・しの順が待ち受けるもんだ。先頭のうは嘘、追及されると誰でも嘘をいう、次が厳しく問い詰められると逃げる、最後のしは死だ。インドの諺にこんなのがある、立っているより座っているほうが楽だ、座っているより寝ているほうが楽だ、寝ているより死んだほうが楽だというけど本当か? 一度死んで戻ってきた奴がいないから、本当かどうかはわからない。
さて、上馬にメイド・イン・タモツって中学生がいた。学校に行きたくなくて、カバンを持って駒留神社の脇の公園や池の周りをウロウロしていた。私が小学校に入る前だった。生駒さんの隣の家が大平キエちゃんの家、この人は同級生だった。弟が二人いて、下の子はおかあさんにおぶさっていた。上の弟はシンチャンと言って、三歳か四歳だったろう、私のあとについて駒留公園のブランコで遊んでいると、メイド・イン・タモツが近づいてきて、「弁当を食わせてやる」という。喜んでシンチャンと一緒に駒留神社の木陰で弁当を食べた。また明日も来いヨ、弁当を食わせてやるからと言われ、翌日も食わせてもらった。おかずが少ししかなく、四角い弁当箱に飯がぎっしり詰め込まれていた。まだ、ほんのり温かかった。メイド・イン・タモツは原田君と同じように、学校に行くのを拒否して、公園でブラブラしていたのだ。
登校拒否のはしりかも知れない。試験がなければ学校ほど面白いところはないと思うが、学校が苦手だったのだろう。毎日弁当を食わせてもらっていると、メイド・イン・タモツがお前たち、オレの子分になれという。コブは食ったことあるけど美味くないというと、コブじゃない子分だ、オレが親分でお前たちは子分だという。何だかわからないけどウンというと、一宿一飯が仁義だから、お前たちは親分の言うことをきかなきゃいけないという、三宿は玉電の駅で三軒茶屋の先だけど、一宿はしらなかった。
お前たちと親分子分の盃を交わすから、あさって、オレの家に来いといわれた。メイド・イン・タモツの家は中野義高さんの斜め前の方にある。つまり、辻井水道工事屋さんの上馬駅よりだ。その家はパチンコの台を作っていたように思う。メイド・イン・タモツが公園で遊んでいる私とシンチャンを連れてタモツの家に行くと、小学校へ入る前の洟垂れが何人か並んでいた。家人は留守のようで、その留守を見計らって洟垂れを集めたようだった。六畳ほどの部屋の畳に座布団が敷かれ、上座にメイド・イン・タモツが座り、座布団の前におちょこが揃えてあった。タモツがそれを手にしろと告げて、そのおちょこにザラメを入れて廻った。タモツが入れて歩いている間に、それを舐めてしまった。皆、盃に酒が入ったなとタモツが言ったので、もう舐めたと私がいうと、しょうがない奴だと舌打ちしながら、もう一杯くれた。そして、揃いました、それでは固めの盃ですと言ってタモツが舐めて、皆も舐めた。舐め終わったのでさっさと帰ってきた。
「しょうがねえな、ザラメを舐めたら帰るのかよ」というので、お菓子はないんでしょと訊いてやった。ねえ、と答えたので帰る足が急に速くなった。
ある、雨が降りそうな日だった。丁度今頃の季節だったか、親分のメイド・イン・タモツが公園で子分の私とシンチャンに飯を食わせると、これからシマに行くと言い出した。シマって縦か横かと訊いたら、着物の柄じゃねえって力んでいた。メイド・イン・タモツのシマは三茶だという、ヤクザもんの話をどこかで仕込んできて、それを真似して、自分がメイド・イン・タモツ一家の大親分だと力んでいたのだろう。タモツは小柄だった。先頭に親分が歩いて、その後に私がヨタヨタ、シンチャンはヨチヨチ歩いていた。
何処をどう歩いたのか、三茶の裏にバクダンアラレを作っているところがあり、そこいら一帯は焼け跡のような感じで、屋台のリヤカーが何台も並んでいた。愚図っていた空がにわかに泣き出して、我々は屋台のリヤカーに潜り込んだ。板が敷いてありそこに大きな穴が空いていた。ラーメン屋台でもあったのか、釜をそこに嵌めこんだのだろうか、メイド・イン・タモツと私はその下にいて、シンチャンは上にいた。何を思ったのかメイド・イン・タモツがシンチャンにストリップをしろと命じて、私に歌を唄えという。勝比古さんのドリアンで覚えた青いカナリア、これもダイナショアの歌だ、これを唄うと、曲に合わせて一枚づつ服を脱げと三歳の男の子のシンチャンに言う。メイド・イン・タモツはどこでそんなことを覚えてきたのだろう。身体は小柄でもチンチンに毛でも生え初めていたのだろうか。続

2011-04-23

上馬の思い出18

酒場ドリアンには多くの客が来た。その中に来須野君の二階に下宿していた金子という玉電の運転手もいた。ドリアンではネコと呼ばれていた。指が太くてマージャン牌が小さく見えた。アルシャルマージャンだといっていた。これはマージャンの原点のようなもので、リーチマージャンとは違っているそうだ。毎晩飽きもせずにマージャンの客がきて、そのうち来なくなる。その人は借金が嵩んだためで、その借金は雀荘の主人、つまり、ドリアンが立て替えた。そのため、借金取りの仕事が勝比古さんい割り振られた。小学校へ入ったばかりの子供が借金取りに来るのだから、来られるほうはたまらない。なにがしかの金を握らせることになる。うまいやりかたに見えるが苦肉の策だったのだろう。もともと博打の金、請求できる筋合いでもないが、雀荘がほかになければ何とか都合しなければならない。勝比古さんも行き難いものだから私をさそった。行くと塩でもまかれそうな雰囲気のところもあった。それでもいつも一緒について回った。今でも借金取りに行った場所を夢に見る。博打の負けた金を払うのは嫌だっただろう。
博打は賭博と言う。賭博は博技と賭技に分かれる、博技は花札、マージャン、トランプなど自分が本気になってやる技、賭技は自分はしない、つまり競輪、競馬など自分は馬や自転車に乗って本気になって走るのではない。走る選手の一番、二番を当てるものを指す。両方一緒にして賭博行為という。床屋の国太の親爺がやっていたチンチロリンは博技で、国が博打を禁止したので違法行為になるが、ヤクザという商売があり、昔はこれで渡世していた人種がいた。彼等は賭場を開いて、そのカスリ、つまり掛け金の中から一定割合を開催料としてハネて残りを当てた人に分配する。一回ごとに計算をするため、相当に数字に強くないと勤まらないが、大学なんて行かない人がこれをやる。普段はぼんやりしているように見えても、博打場に入るといきなり顔つきが変わるような人もいた。神経が足の先から頭の先まで稲光しているような面構えになる。それでいて、普段は買い物してても釣銭を貰うのを忘れたりする。妙なものだ。
ヤクザの仕事を国が法律で奪い、自分たちが競輪場や競馬場を経営、宝くじも禁止しながら特定の銀行にさせる。矛盾だらけだが現実だ。こうした許認可には必ず裏があり、目こぼし料としてヤクザならぬ警官がカスリを取る。悪いことを助長するようなところが警察にはあり、どうも世の中は一筋縄ではいかない。時代が変り、子供のあそびだったパチンコが朝鮮人たちの手で遊戯となり堂々とパチンコ屋が乱立するようになり、これまた警察が介入し、警察とパチンコ屋の癒着を見る。さらに、パチスロなるものまで登場し、賭博行為はエスカレート、こうした賭博行為の横行の裏でヤクザ、正確に言えば博徒が生活の基盤を失った。ヤクザには二種類あり博徒と香具師、これはテキヤとも呼ばれタカマチで物を販売する。つまり行商人、タカマチと言うのは市で、全国の市日のカレンダーを売っているところもある。世田谷のボロ市なども大きなタカマチだ。
勝比古さんのモグリ雀荘もそれなりの面倒な借金取立ての作業があった。それでも客は入れ替わりながらも来て繁盛していた。そのマージャンの部屋にはガラスの箱に入れられた蛇がとぐろを巻いていた。青大将だという。それを勝比古さんは平気な顔で触っていたが、とても気持ちが悪くてさわれなかった。ある日、それが逃げ出して騒ぎになったが、二、三日したら、腹を大きくして台所のところで動かないのを見つけた。ネズミでも食ったのだろうと、吉田家は平気な顔、商売の神様だと、時折お神酒を飲ませていた。
勝比古さんのお父さんは昔ボクシングの選手だったそうで、グラブをつけた写真が何枚もあった。プロの選手だったというが、寡黙な人でめったに笑い顔を見せなかった。目が小さくて細かったが、女房はその逆で大きな目の人だった。勝比古さんはお母さんに似て目が大きかったが姉二人は父親に似ていた。
ある晩、ドリアンの店で皿の割れる音がして、客が怒鳴っていた。ドアを開けて、おかあさんが、「お父さん交番に行ってきてください、お客さんが乱暴しているんです」と声をかけた。お父さんは小柄だったが、頑丈そうな身体を起こして、直ぐにでかけようとした。木戸を開けて出ようとするのに、「おじさん、やっつけちゃいなヨ」と声をかけたが、情けないような顔を作って、そのまま交番へと走って行った。
上馬メトロで見た西部劇のようにはいかないのだと、半分わかって半分、面白くなかった。だって、おじさんはボクシングの選手だったんだろ、それなのになんたることかと、世間知らずの小学生は思ったのだ。おじさんの走る影に、ラジオからバッテンボーの曲が流れた。これは腰抜け二丁拳銃でボブ・ホープが歌ったが、ラジオから流れるたのはダイナ・ショアの甘い声だった。ボブは喜劇俳優として有名だった。この人は長生きで百歳で死んだ。バッテンボーはボタンとボウ(リボン)だ。が、こどもにはバッテンボーに聞こえた。ダイナも77まで生きた。

2011-04-22

上馬の思い出17

酒場ドリアンは上馬の文化的象徴のように思えた。家にいても食うものもロクになかったので、方々の家に顔をだした。中でも松の木精米店では正月のお供えのデカイのを作るので、鏡開きが楽しみだった。自分の家のは小さく、ほんの申しわけ程度、ところが松の木精米店のはでかい、また、この家の人たちは食べ物が豊富だからそんなものを食べようともしない。が、鏡開きだけは祝うので、ひびの充分に入った大判のお供えを包丁や金槌で叩いたり割ったりと忙しい。そして、優しいお母さんがしるこを作ってくれた。松の木精米店のお母さんは品の良い人だった。末っ子のクニオさんを可愛がっていた。また、この子が実に子供こどもしていて愛らしかった。背がひょろひょろっとしていて、足が長く弱そうにみえたが、しっかりした子だった。
松の木精米店の横丁、和泉屋パン屋の間にリヤカーを何台も並べていた。昔は米をリヤカーで配達した。自転車で引っ張るのだから、それは大変な力がいる。昔は糖尿病などかかる者がいない。朝から晩まで人力で頑張るから栄養を蓄積するひまがなかった。昨今は自動車の普及率と糖尿病患者の増加率の曲線が等しい。それだけ、内燃機関に依存し歩くことが少なくなった。だから病気になる、もっと足腰を鍛えなければいけない。子供のころは毎朝学校に徒歩通学、足腰は嫌でも鍛えられた。学校に通うことで丈夫になる。
ひょろひょろのクニオさんも、酒場ドリアンで梅酒を飲んで酔っ払った。酒場に入り込んだのは国太タケシ、松の木精米店のヒロシ、クニオ、生駒タケヒサ、それと私に勝比古さんだ。クニオさんの兄貴のヒロシさんはお母さんに叱られたそうだ。子供の癖に大人の真似をして酒を飲んで、その上、クニオさんにまで飲ませてと、だから、もうドリアンには行かないと外人の子供の風貌のヒロシさんが言った。
でも、私はドリアンに毎晩いた。ここには文化があったからだ。ドリアンの店はカウンターだけ、が、奥に部屋があり、そこでは毎日マージャンが開かれていた。上馬には雀荘がなかったように思う。毎晩牌をかき混ぜる音がして、チーだのポンだの掛け声がかかった。卓は一つしかなく、負けた者が出て、待ち人がそこにはいる。頭をポマードで固めたアニイたちが卓の廻りに何人もいた。そこにギターがあり、アコーデオンもあった。時折、待ち人の客がギターをかき鳴らしていた。
壁には鳩時計があり鎖を引いてゼンマイを巻いた。毎、正時刻に鳩が飛び出すのが面白くて真剣に見たもんだ。
レコードでよく聞いたのは「上海帰りのリル」、日本国家が欧米の真似をして植民地を作り、多くの日本人を送りだした。そんな戦争の被害者がリルだった。そんなことは無論知らないが津村謙のベルベットボイスに痺れた。実にいい声で、これ以上の美声は後に黒人歌手のナット・キング・コールだけだった。
この津村謙は早死にした。富山県の産、江口夜詩(えぐちよし)に師事、昭和18年テイチクからデビューするも戦時中で不発、徴兵され昭和21年に再スタートするも不遇、それが昭和26年の「上海帰りのリル」で大ヒット、映画にもなり水島道太郎、香川京子、森茂久弥が出演するなか、津村も唄っている。この人は昭和36年、マージャンで遅く帰り、杉並区の自宅車庫の中で寝込み一酸化炭素中毒で死んだ。人生は何があるかわからないものだ。我々はそうした危険のなかをなんとかすり抜けて、今日を迎えたのだが、ああでもないこうでもないと不平と不満の中で棲息してやしまいか、もっと生きてることをありがたいと思うべき。
さて、こうした酒場ドリアンの雰囲気の中で毎晩を過ごしたから、差し詰めのんべいになったと思うでしょ、ところが酒とは無縁の生活をいまだに続けている。毎晩酒場に通っていて覚えたのが流行歌、「湯の町エレジー」、マージャンの順番の待ち人がギターを手にすると必ず弾いた。
この曲は東京産の近江俊郎が歌った。作曲は古賀政男、この曲は霧島昇用に用意されたが、古賀が近江を使った。近江の兄は大蔵映画(新東宝)を作った貢、近江は骨っぽいところがあり、武蔵野音楽学校で教授と対立し中退、タイヘイレコードを振り出しに方々転々、ポリドールで幾つもヒット、ところが酒席で社長と喧嘩して、飛び出し古賀を拝み倒して門下生となる。昭和21年に「悲しき竹笛」で奈良光枝とデユエットしヒット、翌年、昔の仲間米山正夫がシベリアから復員。抑留中に作曲した「山小舎の灯」を持ち込み、この曲に感動した近江が強力なプッシュでNHKのラジオ歌謡に採用させ、大ヒットとなった。
そして近江が昭和23年に大ヒットさせたのが、「湯の町エレジー」全国津々浦々まで響いた。そして、上馬の酒場ドリアンの隠れ雀荘で、ポマード兄いがさかんに奏でるほど。近江は73歳で没。

2011-04-21

上馬の思い出16

ドリアンは果物の名前、とても臭い食べ物だが根強いファンがいる。個性の強さに魅かれるのだろう。酒場ドリアンの勝比古さんの兄さんもなんとか比古と言った。海幸・山幸の海彦・山彦も本当の名は比古だそうだ。男は昔は比古をつけたと吉田家は言う。
勝比古さんの母親は少々ならずくたびれた風情だった。どこか身体が悪かったのかもしれないが、大層言葉の綺麗な人だった。言葉は教養を表すから大事だ。でも、三茶近辺の悪ガキにはそんな洒落たのはいなかった。自分勝手に親が使う言葉をそのまま使った。私の祖母は新潟県長岡の出だった。高等女学校に行ったのが自慢で、時折、スコットランド民謡などを唄っていた。女学校で習ったんだと得意げだったが、女学校すら知らない悪ガキに、それを吹聴しなければならない境遇境涯だった。
祖母は長岡の資産家の娘だったそうだ。親戚もそう言っていたので、本当なのかもしれないが、私の家は貧乏神の御殿のようなもので、神様が居ついて離れなかった。なにしろ御殿で社だから、神様が住んでいて当然だった。世の中自体が戦後の混乱で、食うのが精一杯で、時折洩らす祖母の愚痴を聞いて、銀シャリの握り飯を運んだくらいだ。自分より人を喜ばせたいと本気で思っていた。今ではそんな気にはならない、他人に自分が食ったことのないものを貢ぐ気にはなれはしない。自分の胃袋に収めてしまう。それが本心なのだが、あの子供の時はどうしてそんな気になったのか、今でも不思議だが、そうした純真な心を子供は誰でも持つのかもしれない。
勝比古さんの母親も繕いものをしながらスコットランド民謡を歌っていた。昔は洗濯機などなかったから母親は洗濯物と戦っていたものだ。それを拡げたりたたんだり、そして破れ目、ほどけ目を繕っていた。そんな仕種がどこの家でも当たり前の光景だった。
勝比古さんの母親に、「おばさんも女学校に行ったの」と歌を聴いて訊いた。針仕事の手を止めて、「どうして判ったの」「だって、スコットランド民謡は女学校に行かなきゃ習わないでしょ」
おばさんの顔が西日が射したように紅潮した。「ええ、楽しかったわ、でも遠い昔になってしまった」と、針仕事の手を動かしながら涙ぐんでいるように見えた。悪いことを訊いたのかなと思った。そして、また、歌を細い声で唄いはじめた。人は悲しいとき、嬉しいときに歌を唄い気をまぎらせる。歌にそんな力があるのを知ったのは、それからずっと後、悪ガキが人生の落とし穴に落ちてからだった。

2011-04-20

上馬の思い出15

生駒さんの裏に原っぱがあり、そこで三角ベースの野球をやって遊んだ。テニスボールを手で打って走るだけの遊びだが、いっぱし野球をしているつもりだった。その土地は小島屋のものだったようで、ある日売られてしまった。我々のグランド、それを凸凹グランドと呼んだが無くなってしまった。その後、高野という人が家を建てて住んでいた。
まだ、その凸凹グランドがあるころ、斜め前に増田という病院勤務医が開業した。耳鼻科だったと思うが、その医師が薬ビンを荒縄で縛って持ち込んできた。その医師が新築中の家の裏手にそれがあるのを、国太さんのタケシさんが見つけて、工事現場の板にそれを並べパチンコでそれを射的だ。西部劇の真似だ、なかなかあたるもんじゃない。毎日、それをやっていたら、ある日、その医師に見つかりトンカチを持って我々悪ガキを追い回した。
 無論、捕まるようなドジはいるはずもなく、蜘蛛の子を散らすがごとくにトンズラをきめこんだ。そして改正道路に医師の似顔絵を書いて、トンカチを持って追いかける図を大書、また、マンガの巧い子がいた。
玉電の電車通りの向こう側、駒中の同期生、千田さんの家のも少し上馬停留所寄りにドリアンという酒場があった。ここは吉田という人が経営していた。その下の息子に勝比古(かつひこ)というのがいて、この子が抜群にマンガが上手だった。少年という雑誌が光文社から発刊されていて、その中に手塚治虫が「鉄腕アトム」を連載しだした。昭和27年のことだ。我々が三年生になった時で、この勝比古さんが子供とは思えないマンガを描いた。
手塚そっくりの線を描き、ことにランプという登場人物などは手塚より巧かった。こうした才能を持った人物が登場するから、後世おそるべしの言葉がある。改正道路にローセキで描くマンガも大人が足を止めるほど。
将来はマンガ家になりたいと言っていた。ところが人生はどう展開するかがわからない所で、この子がマンガ家になったかどうかは判らない。というのも私が引っ越したのもあるが、家族が瓦解してしまったからだ。
それは、少しく後年の話で、そのころは至極平和な家庭だった。母親がドリアンという酒場を経営していたが、カウンターしかない小さな店だった。そこに日中入り込み、西部劇のバーのように、カウンターにウイスキーグラスを滑らせて送るが、なかなか目の前にピタリとは止らない。蓄音機を廻してレコードをかけた。「津村謙の上海帰りのリル」、この作曲家が後に「お富さん」を作った渡久地政信、無論、その当時はそんなことは知らないが、この曲は大流行した、何枚もレコードをかけているうちに、酒を飲もうと言い出し、棚にあった梅酒をウイスキーグラスで飲んだ。皆、顔を赤くして電車通りを渡り、上馬メトロの前で歩けなくなった。酒が足にきたのだ。
皆、赤い顔をしてふうふう言っていると、近所のオバサンが来て、「あら、このこらお酒飲んで赤い顔してるよ、しょうがないねえ」と嘆いた。そんなことはどうでもいい、ともかく空がぐるぐる回って何だかしらないけど楽しかった。大人はこんなことをして毎日遊んでいるんだなと思うと、早く大人になりたいと心底思ったもんだ。

2011-04-19

上馬の思い出14

駒留神社の鳥居は大きかった。見あげるような高さで立派だったが、この中のご神体は石だと知ってがっかりした。後年、釈迦の舎利を分骨して方々に塔を建てたが、その分骨はルビーだったと知った時、駒留神社もそれに則ったものだと悟った。先人の智恵は確かなものだった。駒留神社のお祭りは十月の十四、十五だったか、まだ東京は暖かくランニングシャツでお神輿を担いだ。悪ガキが担ぎ賃の握り飯欲しさに、神輿の担ぎ棒にしがみついた。飯は銀シャリだった。普段家では麦の入った飯しか食えなかった。
改正道路の谷の所に駒留神社はあったが、その近くの三角に道路が弦巻と駒中に分れるところに修理工場があり、そこが神輿の置き場になり宮元と書かれてあった。半紙に近所の有志が寄付をしたのが張り出されてあり、それにハーレーの辻井さんの名があった。
小学校に入る前、昭和24年のことで、食糧事情が悪く、改正道路に上馬駅から生駒さんの家の前まで俵に入ったさつま芋が山積みにされた。配給と言って食糧は米屋に行くと配られた。ともかく毎日腹がへっていて、そのさつま芋の俵に手を突っ込み中の芋を何本か失敬して熱海湯の前で食った。まだ、熱海湯は爆弾で破壊されたままだった。
アメリカが風呂屋を工場と間違えて爆弾を落としたのだ。駒中の近くに高射砲陣地があった。そこも見に行ったことがあったが、高射砲は取り払われてタダの原っぱだった。
さつま芋を失敬して生で食っていたが、美味くはなかった。食いきれないで家に持ち帰ったら、盗むんじゃないとしかられたが、茹でて食べたら美味かった。何でも茹でなきゃダメだと知った。
その歳の十月の駒留神社のお祭りに宮元まで神輿を担ぎに行った。近所の誰かが銀シャリが出ると言ったからだ。担ぎながら酒屋の前にくると、「酒屋のケチンボ、塩まいておくれ
と怒鳴った。その怒鳴るのが痛快だった。世話役の大人たちは酒屋の主人に詫びていた。
町内を一回りすると臨時社務所の神輿置き場で担ぎ賃の握り飯が出た。やっぱり銀シャリだった。
松の木精米店のヒロシさんが「やっぱり銀シャリだ」と言いながら食べていた。私はそれを持って家に走って帰った。祖母が「嫌な時代だね、銀シャリが食べられないご時世は情けないと言っていたからだ。息せき切って家に戻り、祖母に銀シャリを差し出した。
「おばあちゃん食べなよ、今神輿を担いでもらったんだ、銀シャリだよ」
差し出すと涙を流しながら、「いいよ、お前がお食べ」と横を向いて袖で涙をぬぐった。
「せっかく持ってきたんだから、おばあさん食べてよ」
そう言葉をつなぐと、「ありがとう」といって唇をにぎりめしにつけて、「あとはお前がお食べ」と言った。面白くなかった。外に出て改正道路の縁石に腰を下ろしてにぎりめしを食べた。美味くなかった、年歯もいかぬ子供から、そうされれば今の私たちでも同じようにしただろう。でも、その時は面白くなかった。空は抜けるように青く、そして高かった。

2011-04-18

上馬の思い出13

改正道路を若林の方にだらだらとバケツを持って降りていくと、丁度谷になったところに蛇崩川があった。駒留神社の手前にあたる。両岸は土で川幅もかなりあるように思えたが、今行ってみると狭いので驚く。もっとも今は暗渠になっているので、往時の面影は全くない。ここにバケツを持って流れに入り込み、土手の川面近くの穴に手をつっこむとアメリカザリガニが両手のはさみを拡げて威嚇してくるが、遠慮も会釈もなく、どんどんバケツに突っ込む。日本ザリガニは小さく、こいつらに脅かされて小さくなっていた。丁度進駐軍に追いまくられた日本人のようなものだ。
アーチャンはその大きなアメリカザリガニを選んでとって、家に持ち帰って煮て食った。海老と同じ味だったという。あんな美味いものがタダで山ほどとれたんだから、いい時代だったよとしみじみ。
私は日本ザリガニをとって洗面器で飼っていた。えさになにをするかで困ったが煮干を砕いてやった。暫くすると赤ん坊のエビガニが沢山出てきた。ちっこくって可愛かった。少し大きくなって、駒留神社の前にひょうたんのような池があり、そこに放した。大きくなったらまた遊ぼうと小さな声で言った。
アメリカザリガニは赤くて大きく、その中でも特に大きいのをマッカチと呼んだ。アーチャンも同じようにマッカチと言っていたから、皆がそう言っていたのかもしれない。マッカチは偉そうに大きなはさみを振上げる。持ち上げて腹を見ると、尻尾の内側に丸い玉があり、それをマッカチのちんぼこだと言う。それを押すと痛がるのか、余計にはさみを振上げた。面白くて何度もやったが、やられたアメリカザリガニは困った小僧だと嘆いていたのかも知れない。
ひょうたん池には亀がいた。結構大きかった。大人の手のひらより大きかった。ある日をれをとって生駒さんの家に行ったら、神様の御使いだから返してやらなければいけないと、お酒を飲まして、また池に返してやった。昔の人は神様のいることを信じていたのだ。
でも、駒留神社に神様はいないのを知っていた。
毎日のように蛇崩川とひょうたん池をうろうろしているうちに、駒留神社の神主の子供と仲良しになった。なんでも、この神社のほかにも神社を守っていて、神主の父親は忙しいんだという。丁度その日は父親が帰ってくるのが遅い日だから、ご神体を拝ませてやるという。喜んで社殿にあがり、奥のほうに連れてってもらった。階段の奥に三方に乗った白木の箱があり、その蓋を開けた。覗き込んだが、子供のげんこ程の大きさの石が入っているだけだった。がっかりした。あんなもののためにわに口を鳴らして拍手を打ったのかと思うと急に馬鹿らしくなった。神主の子供は偉そうに、「いいものを見ただろう」と言ったので、「うん」とだけ応えて家に急いで帰り、祖母にご神体は石だぞと告げたら、「そういうことは言うもんじゃない」と叱られた。「でも、馬鹿馬鹿しいだろ、あんなものを拝むなんて」と更に足すと、「皆知ってるんだよ、でも、神様は皆の一人ひとりの心のなかにあるもんで、ご神体が石だろうと木だろうと、何でもいいんだよ、信ずる力のある人にとって、形はなんでもいいもんだ」それでも納得できなかった。大人は馬鹿だと思ったが、この歳になってそれが判るようになった。

2011-04-17

中里の思い出6

少年探偵団ならぬ老人探偵団がウロウロと三茶あたりを徘徊、ウロウロよりヨタヨタ、オロオロの方が正しいのかも、宇田川君と仲が良かったのが生駒君、染物屋の次男、この人の家には文化があった。それも江戸の名残の、講談・落語・浪曲の日本の伝統話芸などは、生駒君の家で自然と身についた。もっとも、染物自体が江戸の風を示すもの、当然のことだったのだろう。
その生駒君と宇田川君が渋谷に切手を買いに行くというので付いていったことがある。中学に入った頃に切手ブームがあり、それに興味を持ったが貧乏人には無縁の代物、すぐに飽きたというか買えなくて脱落した。後年、これは切手商が金集めの手段として生み出したものだと悟った。生きて行くには金が必要になるが、あまりこれにこだわると守銭奴となり、人から奇人変人のそしりを受ける。
切手が幾らで売買されているかを示す冊子があり、売りもしないのに、これで幾ら儲かったと得意そうに話す中学生もいた。
成人してコイン商と知り合いになったが、昔は皆、切手商だったそうだ。ところが切手が売買できないことを素人が知って、それが瓦解してコイン商に転じた。秋葉原のシントク電気の上に貸しホールがあり、そこで交換会が開かれていた。オリンピックの千円玉が一万円で売れた。大儲けをした人が出たの触れ込みがあり、連れて行ってもらったが、そこもダマシの世界のようだった。外国人の顔も見えた。
小学生にそんな世界があるとは知らないのだが、金がないから切手の蒐集が出来なかっただけだが、蒐集家が財を成した話を聞かないことからも、後年知ったダマシ・詐欺師の手口だったことは間違いない。秋葉原のコイン交換会を開いていた男は、銀が大相場になったとき、百円玉を溶かして大儲けをした。無論これは犯罪ではあるが、そんなことはおかまいなしでやる奴ばらが世の中には紳士面して横行している。そのころ滝本君という駒中の同期生と逢ったことがある。エノケンに苦労させられたと話していた。エノケンは仇名で、本名は忘れたが、上馬駅の駒沢寄りで板金屋の倅だ。父親は鼻筋の通った面長で、曲げ物に出てくるようなイナセな感じの美男子だった。かっぱからげて三度笠の似合う人だなと思っていた。エノケンはせせこましい感じのとっぽい少年だったが、人生誰しも落とし穴が待ち受ける大人の世界、女・酒・バクチの三悪のうちのどれとどれに足を突っ込んで抜けなくなったのか、金に窮して友人を踏みつけたようだ。そのことを滝本君が言ったのだろうが詳しくは語らなかった。
金は便利なようで扱いが難しく、この使い方や概念について日本人は子供に教えないが中国人は金銭感覚について厳しくしこむ。どれが良くてどれが悪いわけでもないが、人生の並木道を踏み迷うことのないように最低限の知識は持つべき。そうした誘惑にも負けず、落とし穴にも落ち込まずになんとかこの歳まできたが、いやあ御同輩、簡単容易な道ではありませんでしたな、お互いに。
人生は良いことばかりではなく、悪いことばかりでもないが、どんな歳になっても希望とか生きることに飽きてはいけないと格言にもありますぞ。森進一って歌手がいて、泣き節といわれるけど、ディック・ミネの人生の並木道を歌わせると抜群の味を出す。苦労の度合いが大きかっただけに、歌にこめる哀感が人を打つのだろう。宇田川君の家の近くには飯塚新太郎君、島田源太郎君などがいた。その島田君も数年前に亡くなった。いつもにこにこした少年だった。

2011-04-16

中里の思い出5

中里から上馬に向かう専用軌道の右手は崖になっていた。その上り坂を電車が進むとすぐ右手の高い所には犬舎があり、大きなシェパードが何匹もいた、警察犬の訓練をしていたと言う。その隣が大川さんの家で、目が大きく丸顔で色白、まるで少女雑誌に載る蕗谷虹児の挿絵のようだった。
季節が廻ってくると、また、あの花に逢えると人は心待ちにする。桜がそうだ。花は桜木、人は武士と歌われるように、散り際の潔さを言うが、人も花のようなものだ。年年歳歳花あい似たり、歳歳年々人また同じからずというが、同期会を開くのは、その人に逢いたい、あの人と話してみたいという願望が足を運ばせる。
大川さんは挿絵画家の描く可憐で楚々とした雰囲気があった。その大川さんは長じて女史美術大学に進学された。同期会で逢ったとき、以前と同じ雰囲気で、人は変らないものだと遠くから眺めた。
次の会で逢ったとき、最近耳が遠くなったのと言っておられた、ほどなくして訃報を聞いた。人は突然散る、それも何の前触れもなく。美少女の大川さんは久子さんと言われた。蕗谷虹児の絵をみるたびに大川さんを思い出す。あの大川さんの花には二度と会えないけど、挿絵はいつでもみることができる。蕗谷虹児は新潟県新発田の産、十二歳で二十七の母を亡くす、美人として有名な人、貧苦のうち新潟市の印刷会社につとめ、夜間画学校に通い、新潟市長に才を見出され十四歳で日本画家尾竹に弟子入り、放浪の後、東京に出て知人の紹介で日米図案社に入社、そこで竹久夢二と知り合う。それが機運を得て一流挿絵家の名を得た。「花嫁人形」の作詞でも知られるが作詞家が間に合わなかったので、急遽蕗谷が走り書きしたものを採用、これが大当たり、さらに戦後の混乱の時、この歌がアメリカで流行し多額な印税が入り込み、貧乏生活の蕗谷を助けたという。人は何が待ち受けるかわからないもの。
この大川さんの家の近くに須永君、佐藤君、小沼君が居住していた。小沼君は現在でも住んでおられる。地球が回るように我々も時代を回っている。その回転から放り出される者、しがみついていられるものに分れる。小沼君は回転するコマの中心におられたのだろう。今でも中里、須永君は神奈川の津久井湖のほうに行かれたが、その後が判明しない。きっとどこかの空の下で旧友を懐かしんでおられることだろう。
変る時代、変る世の中、でも人情だけは変って欲しくはないもの。故人を偲び先人を尊ぶという素朴ではあるが大事なものを。
花嫁人形
きんらんどんすの 帯しめながら
花嫁御寮(はなよめごりょう)は なぜ泣くのだろ

文金島田(ぶんきんしまだ)に 髪(かみ)結(ゆ)いながら
花嫁御寮は なぜ泣くのだろ

あねさんごっこの 花嫁人形は
赤い鹿(か)の子の 振袖(ふりそで)着てる

泣けば鹿の子の たもとがきれる
涙(なみだ)で鹿の子の 赤い紅(べに)にじむ

泣くに泣かれぬ 花嫁人形は
赤い鹿の子の 千代紙衣装(ちよがみいしょう)

2011-04-15

中里の思い出4

商店街を抜けると民家が列なり、やがて宇田川君の所に行き着く。宇田川園という造園家で地番のひと区画を所有しておられた。大きな家では堀口さんも大きかった。キューピー人形のような大きな目の女の子で、家に入るには鉄扉があり、門柱も大きく立派でたまげたもんだ。宇田川君の植木が立ち並ぶのを横目に三茶小に通ったが、セセコマシイ自分の家と違って、どうしたらこんな大きな屋敷をもてるのかと不思議に思った。そして、その不思議は六十年経っても解けない謎、あいも変わらぬ狭い家で呻吟しているのも妙。貧乏人は生涯変る事がないのかもしれない。
宇田川君の一族もどう滑って転んだのか、その土地を手放されたそうだ。お兄さんが長く世田谷区議会議員をされていた。もっとも、今の日本の税制では三代続く金持ちはいないそうだ。一億国民細分化され、皆貧乏人になっちまう。これも妙な話だ。
この宇田川君の家の近くに高砂湯という銭湯があった。上馬の話でも記したが熱海湯ができるまでは高砂湯にでかけた。石川さんの家の前を抜けて、曽根君の家の角を曲がって行った。曽根君の家の前角に大きな楠が生えている。
アーチャンが言った。「この木は六十年は経っている」「アーチャン、おれたちが子供の頃も大木だったよ、あれから六十年も経ったから、この木は百年は超えているよ」「そうか、そうかもしれない」
アーチャンは自分の歳を忘れている。年取ってくると昨日のことは今日になりゃ忘れる。ところが子供の頃のことは、昨日のように思い出す。もう、六十年も経っているのに。人間てのは不思議だ。まして、その場所に行けば、ありあり、まざまざと思い浮かべるけど、あの可愛い少女の大川さんは逢いたくとも逢えない所に行ってしまわれた。
黒人霊歌に「オールド・ブラック・ジョー」というのがある。我も行かん、はや、老いたれば、かすかに我を呼ぶ…
まだ、呼ばれる前にしなければならないことがある、六十年前のことどもを忘れないうちに記さねばならない。私たちの子供の頃の三茶はこんな時代、こんな町でしたと、それが我々年寄りの務めなのだ。
だから、少年探偵団の歌を唄いながら三茶界隈を歩いている。駒中の修学旅行のときだったか、大里君と生駒君が少年探偵団の替え歌を歌って歩いていた。ぼ、ぼ、ぼくらは少年愚連隊、このもと歌は勿論、ぼ、ぼ、ぼくらは少年探偵団だが、愚連隊ってのが渋谷で幅をきかせた時代があった。それを巧みに替え歌にしたのだが、面白くて思わず笑ったことを覚えている。この少年探偵団に怪人20面相が出てきて、昨今これがK20という名の映画になった。これは江戸川乱歩の小説だが、ラジオで放送されたことがあった。昭和25年の四月からNHK第二放送で毎週金曜日に放送された。我々が丁度一年生の頃、明智探偵と小林少年、胸がドキドキしたのを思い出しただろうか。その後民放が誕生し、方々の局でも放送する人気番組、江戸川乱歩はマイナーな推理作家だったが、これで一躍桧舞台に飛び出し、光文社が少年探偵団シリーズを発刊し莫大な利を上げた。後年、乱歩が地主に土地の買い上げを迫り、困った乱歩が光文社に相談、一年分の印税前払いをしてもらい急場をしのいだ。乱歩は終生これを恩義に感じたという。

2011-04-14

中里の思い出3


原田君の八百屋はデブチン八百屋と呼ばれた。父親の体格が良かったからだ。この八百屋の店先の猿が人気者で商品のバナナを内緒で猿に食べさせたのはアーチャン。アーチャンと原田君は仲が良く、成人してからも交流があった。原田君も体格が良く少林寺拳法を習っていたという。アーチャンと路上でボクシングをして汗をかいたあと、野沢の町を歩いていた。すると三人連れが因縁をつけてきた。アーチャンが何を!って言う間に、原田君が一人の襟首を摑んだかと思うと投げ飛ばした。続く二人目も同様に宙に浮いた。それを見た三人目は逃げ出した。原田君は三人ぐらいは屁でもなく投げ飛ばす。四人だとちょっと困る程度。
この原田君が三茶小の五年のとき、横山先生に廊下に立たされた。何か悪ふざけでもしたのだろう。横山先生の名は横山隆一で、漫画家と同姓同名、我々が六年生になるとき、教育委員会に転じられた。視聴覚の担当をされた。授業にも録音機などを導入し、それが役立つかの実験をされたこともあった。
その原田君が廊下から消えた。横山先生は青くなった。皆で手分けして探したが何処にもいない。学校の外だろうと見当をつけそれぞれが探しに行った。結局、横山先生が見つけたのだが、諸君、原田君は何処に居たと思う? 三茶の映画館に入り込んでいたのだ。
我々悪ガキは金なんてなくとも映画館に入り込む手立ては知っているのだ。それから、原田君もアーチャンも廊下には立たされなくなった。先生が懲りて教室の中に立たせた。昔はこうした体罰は日常茶飯事、誰もそれが悪いとも思わなかった。廊下に立たされてもめげない原田君は立派だった。
その原田君の八百屋を訪ねたらアパートになっていた。日本の税制が悪く、同じ土地を三代持ち続けるのが難しい。相続税が過酷だから。原田君の家はそれを耐え忍んでアパート経営で立派だ。そこで写真を撮ったが、昔我々は少年探偵団、ところが今はヨレヨレの老人探偵団、懐かしさに尻押しされてあっちでパチリ、こっちで休むと、なかなか昔のようには歩けませんヤ。

2011-04-13

中里の思い出2

中里の駅から三茶小に向かってダラダラ坂を下りていくと、右手に久住君の家があった。ここは洋服屋さん、注文服の店、昔は身体に合わせて作ってもらい、既製品は吊るしと呼ばれ、一等下に見られていた。久住君の家のガラス戸に白く久住洋服店と書かれてあった。大きなアイロンと蒸気を上げるスチームの機械があったような気がする。
この中里は上馬と異なり、狭い道の両側に店が列なり、なんとなく家庭的な雰囲気だった。高橋孝明君は同級生、敏捷な動きをするいかにも少年の持つ初々しさに溢れた子供だった。この家はブリキ屋さんで、壁に消防服が懸かっていた。大きなヘルメットもあり、兄さんが消防署か消防団にでも属していたのだろう。
左手に山田瞳さんの家があり、その隣がデブチン八百屋の原田君の家、新聞に中里商店街のチラシが入ってきた。そこには原田君の八百屋の広告に「一銭を笑う者は一銭に泣く」と書かれてあった。その意味を母親に訊くと、「お金を大事にしろということ」だと教えてもらった。原田君の父親は偉い人だなと思った。原田君には姉がいて、キヨコさんと言うらしく、三上先生が時折、清子さん元気にしているかと原田君に尋ねていた。
原田君はがっしりとした体格で相撲が強かった。六年五組で相撲が一番強かったのは世田谷通りの河野お茶屋の傍の高田写真館の息子、この人は強いばかりではなく、相撲の技も知っていた。あの頃の横綱は千代の山、高田君は相撲のラジオ解説の口調を真似て、「顔面紅潮若乃花などと言っていたのを思い出す。高田君の家は写真館の前は古本屋をしていたと教えてくれた。いつの時代でも生きていくのが精一杯だ。その高田君は二十歳代で亡くなった。中西ヨシオ君が渋谷の駅で高田君とすれちがった。その時、「俺、もうすぐ死ぬんだよ」と告げたそうだ。告げるほうも辛かっただろう。告げられるほうは困惑して言葉も出なかった。
それはそうだ、青春の入り口をくぐったばかりの頃、死ぬなんてことを全く気にせず、明日に続く今日を微塵も疑わなかった。ところが、もうそこで人生スゴロクを降りなければならなかった。気の毒だ、可哀想な話だ。我々はどうのこうの言いながらも、なんとかこの歳まで生き延びた。それが良いのやら悪いのやらは誰も知らない、また、個々人の心持一つで良くもあれば悪しくもある。人生道場とは不思議な場所だ。
さて、原田君の家には店先に猿がいたそうだ。それが有名だったと多くの人が教えてくれたが、私は知らなかった。原田君の隣に山田さんの家があり、この人は大人しい人で、物言いが静かだった。この家に上がりこんでお菓子をご馳走になった。家の中もシンとして静かだった。大人しい人は大人しい家に育つのかと、子供心にも納得した。大場そろばん塾があり、そこに多くの子供たちが集まった。クリーニング屋の路地を入ったところだった。昔は子供が多く、そろばん塾も初等から高等までいつも賑わっていた。
そろばん塾に通う子供は直ぐにわかった。歩くたびにそろばんの珠がカチャカチャと鳴ったからだ。そろばん塾でもケンカがあった。手にしたそろばんで相手を殴り、そろばんが壊れて珠が飛び出し、たまげたことがあった。

2011-04-12

中里の思い出1



中里には浜畑賢吉さんが駆け出しの頃住んでおられたそうで、私の家に下宿してたのよなんてオバサンがいた。玉電中里は丁度馬の背のような場所で、三茶に向かって左右にダラダラと下がるようになっていた。
その左側が三茶小の学区になり、多くの子供たちがここで蠢いていた。土屋さんに当時の地図を描いてもらった。
玉電中里の駅舎があった。ここは世田谷線と同様に専用軌道があり、車とは区別されていた。上馬寄りの天皇陛下の乗馬用ムチを製造したデカシさんの家の前あたりから専用軌道に入り、三茶の手前あたりから車と一緒になる。途中、蛇崩川を渡る小さな鉄橋があるが誰も知らないだろう。
この駅に土屋さんに思い入れがある。土屋さんの父君が玉電で渋谷に出て、品川から東神奈川の日本鋼管に勤務、早暁、冬だとまだ星の出ている道を中里駅に歩む、この人は山梨県の産、甲府で名産の水晶研磨工場を経営していた倅に生まれるが、跡継ぎ問題などで東京に働く、日本鋼管では南極探検船の宗谷の建造修理にあたられた。
その父君を小学生の土屋さんが中里駅で傘をさしてお迎えだ。精励を旨とした人で務めを休まないどころか仕事開始の一時間前には会社に居るほど、こうした職人が昔はいたものだ。会話は得手としないが、機械と対話の出来るのが職人、今日の機械は機嫌がいいとか悪いとか、音の出方でそれがわかったそうだ。
中里駅にはポンプがあって冷たい水で喉を潤すことができた。昔の世田谷は水が綺麗だった。蛇崩川には大きなエビガニがたくさんいて、腹がすいた悪ガキはそれを茹でて食べたほど爽やかな場所だった。
世田谷区立郷土資料館の写真にポンプと売店が写っている。中里名物は古本屋の時代や書店、この店は中里駅を挟んで両側にあった。左側が三茶小、右側は中里小の学区だった。
この古本屋は古い、菰池さんという方が三代だか四代に渡って経営、江戸物、明治物の文献を得手とされる。奇書骨董の類と思えば間違いがない。
ここで父君を待つ土屋さんは晴れている日は車止めの鉄柵につかまり逆上がりをした。子供はじっとしていないもんだ。騒いで遊ぶのが仕事、怪我をしなければ何をしていてもいい、昨今の親は実に神経過敏で、もう少し黙って見ていろといいたいほど、ああでもないこうでもないとやかましい。子供は親の道具じゃない、子供は遊ぶのを業とする、事業、学業と同じで遊業なのだ。だから好きなようにさせろ。
土屋さんは父君と手をつないでダラダラ坂を下り商店街を抜けた。その商店街の地図がこれ。