2011-05-09

三茶小の話4

給食のパンは前にある平和パンが届けた。記憶力抜群のアーチャンの話では、平和パンのコッペは日曜日に余ることがある。その解消法として、月曜日にコッペを揚げてザラメをまぶしたのを配達してきた。これが楽しみだったとアーチャンが言う。このことをすっかり忘れていて、そうだったような違うような妙な頼りない思いをしている。
カレーは汁っけの多い、ちょうど日本そば屋のカレーのようなものが出た。これも楽しみだったとアーチャン。給食室には大釜があり、石川五右衛門を茹でるようだった。これに大きな柄杓で水を入れたり、竹ヒゴを丸めて釜の底を洗ったりと三角巾のおばさんたちは忙しかった。昔は各学校に給食作業員がいたが、今は給食センターで一括製造、それを配達車で運搬、昔は自動車は貴重品だっただけに、このように各学校生産の体制がとられたのだろうが、作ったものを直ぐ食べるほうがいい。衛生面を考えて昨今の方式となったのだろうが、余計な経費をかけている気がする。運んでいるうちに温かいものも冷えるだろうに。
三茶小の前に大丸百貨店の配送所ができた。○の中に大の字がかかれてあった。須永君がそれを指差し七五三だという。よくよく見ると大の文字は勘亭流のようで、文字にヒゲが出ていて、右横棒が三にヒゲ分れ、人という字の左が五、右が七分れだった。そんな細かいことにまで気づく人がいるんだと感心した。同じクラスの中西君にそのことを話すと、彼もそのことを知っていて、縁起かつぎの文字なんだと解説。彼は大変に絵が上手でスケッチが細微に渡り、全体をうまくつかみ、図工の名人上手だった。後に美大に入りソニーの宣伝などを担当、広告宣伝会社で活躍した。
父君が謡などをされて家は西太子堂の近くにあった。板張りの部屋に能舞台で見る松の絵が掲げられ、庭にはペスというポインターがいた。老犬だったが賢い犬だった。中西君の家の勝手口付近でバケツにゴムの前垂れを床にして、ベーゴマを盛んにやっていた。これは博打と同じで勝てば増える、負ければすっかり失う。森君が大変に強く、いつもポケットはベーゴマで一杯だった。
メンコの強い子もいて、ツミとかブとか言うあそびがあって、これも賭博性が強かった。メンコには色々な図柄があり、見ているだけでも面白かった。四角いのが主流だったが丸いものもある。丹下左膳の絵が描いてあったり武者絵があったりと角がすりきれたメンコを眺めると、どこかで勝って笑う子や負けて泣いた子の顔が浮かんでくるようだった。
ベーゴマにせよメンコにせよ、博打をやる子の会話は似ていて、どこそこの誰々が大変強く、あれとやるな、○町のベーゴマの床は固いなど、大人になって競輪場で赤エンピツなめなめ○を予想新聞に書き入れているオヤジの会話にそっくり。大人でも子供でも賭博場の雰囲気は同じなのかも知れない。ベーゴマは埼玉県の川口で作られ、全国各地へと運ばれた。丸いのも六角のもあり、柄は巨人とか西鉄など野球チームの名が多かったような気がする。コマの底を砥石で研いで背を低くしたり、廻すヒモに結び玉を大きくしたり、湿り気を加えたりとそれぞれの工夫があった。
昨今、これがまた復活し商店街でベーゴマ大会が催されている。これを居酒屋風にして老人の娯楽にすると、存外人が集まると思う。
ベーゴマの強かった森君の家は世田谷通りの島本雄飛堂の並び、三茶駅寄りにあった。竹屋の隣だったような気がする。