2011-06-06

駒中の話10

ヤマコウのことはいつまでも忘れない。気のいい奴だった。養鶏場の中に小屋を持っていて、無線室にしていた。ヤマコウに刺激され鉱石ラジオを作ってみたがうまく鳴らなかった。ヤマコウはハンダこてを起用に使い、ラジオをこともなく作成する。能力の高さに驚いたもんだ。ヤマコウには姉さんがいて、時折小屋に菓子やゆで卵を運んでくれた。ヤマコウは取り立ての卵を呑めというが、何だか悪い気がして呑めなかった。
ヤマコウは運動神経抜群で、爽やかな風が吹いているような感じだった。ある日ヤマコウがこんなことを言った。男で一番いい男の出るのは何処だろう、アメリカかよ、男らしいのはアイヌだなと言うと、俺は今日からアイヌだと言い出した。
ヤマコウは電気のことなら何でも知っていて、戸田先生が電気の授業をして、黒板に電気抵抗を書き始めた。皆がわからないというと、ヤマコウを指して、「山内、これを解いてみろ」、普段は授業というと下ばかり見ているヤマコウが、黒板の前で、考えもせずにサラサラ。難しい電気抵抗の問題を見事に解いた。
嬉しそうな顔もせずヤマコウは自分の席に戻った。戸田先生が「山内は大したもんだ、やればできるんだから、何でも電気と同じだと思ってやる気を出しなさい、お前は出世するんだから」と言われた。戸田先生は東北大、実にいい先生で、生徒の誰彼ということなく声をかけ、どうだ、やっているかと訊かれる。どれほど、この先生の言葉に背中を押していただいたことであったか。後年、駒中の同期会で先生にお逢いして、礼を述べた。そのとき先生は「俺は良い教師だったのかな」と自戒の言葉を言われた。私は即座に牧山テルオ君を呼んで、「戸田先生は素晴らしい先生だったよな」と同調を求めた。
牧山君は「そうですよ、先生ほど、生徒に声をかけてくれた人はいませんでした」。すると先生は「そうかな、そういわれると少しは自信を持っていいのかな」と言われた。
戸田先生ほど素晴らしい教師には、その後、二度と逢わなかった自分を不幸だと思いながら、戸田先生と逢えたことを深い喜びとした。
死んだヤマコウも戸田先生を好きだった。先生の姿をみただけで、何やら嬉しくなるような存在であった。こんな充実した存在感を示す先生は他にはいなかった。人は誰かに何かを伝える。それがいいことでもあれば悪しきことでもある。戸田先生は生徒にとって見上げる星のような存在であった。
ヤマコウは吹き抜ける爽やかな風、高校に行ってからヤマコウの家は上町の方に移転、三軒茶屋の停留所で立ち話をしたことがあった。ヤマコウは白いワイシャツ、糊が利いてうかにも伊達男だった。精悍な顔立ちは変らず、何処かの高校の帽子を阿弥陀に被っていた。それが彼を見た最後だった。
ヤマコウの小屋で聞いた石原裕次郎の「錆びたナイフ」、ヤマコウの声と共に心の中から消えることはない。