2011-04-05

上馬の思い出6

私の家は二軒長屋の二階建て、遠く瀬田まで眺めることができた。上馬の玉電停留所から6つ先の駅になる。一区間400㍍としても2キロも先だ。西日の当たる家で夕陽が富士山を照らし瀬田の森を黒々と映し出す。悪魔のような木だと思っていたもんだ。
隣の長屋には加藤さんという技工士がいた。慶応を出たと言っていたから慶応大学に歯学部があり技工師を養成したのだろう。
戦争で医師も歯科医師も不足して、技工師を短期養成して歯科医になった。あぶない歯科医の誕生だが、国家がそれを認めた。八戸に来て同様に衛生兵が外科医になったのを見た、あぶない医者だが結構はやっていた。世の中が落ち着くとその外科医もはやらなくなった。
私が生まれたのは昭和18年、小学校入学は昭和25年朝鮮動乱勃発の新聞を見た。何のことかわからなかった。
駒沢小学校によちよち通ったが、徒歩通学が辛くて玉電に無賃乗車をしてとっ捕まった話を書いたが、学校は楽しかった。子供の数が私たちから急激に増える、学校の施設が狭隘で生徒が入りきらない。どうしたかと言うと二部授業で、午前に登校するものと午後から登校するものに分れ、教室の有効活用。定時制授業のようなもの。
子供の頭は混乱する。近くの女の子が午後からの授業なのに、熱海湯の角を曲がって学校に行こうとする。生駒さんの家で遊んでいて、それを見つけて、大声で今日は午後からだよと教えたが、すたすたと歩いて行った。小さな身体に荷物が大きかった。
暫くするとヨタヨタしながら帰ってきた。その女の子は暫くして亡くなった。渡辺先生が葬式に行った話を子どもたちに聞かせた。空襲で死なずに生き残り、学校に行って死んでしまった。人生は何があるのかさっぱりわからないものだ。
右隣がフタバ電気で電気屋さん、お祭りがあると改正道路の歩道に小屋がけして商店街が芸人を集めた。芸人は商店街に買われたのだ。
その俄か小屋は近くのとび職、横溝さんが丸太を巧みに荒縄で縛って組み立てた。観客は改正道路に溢れて見るのだが、我々洟垂れは舞台の下に陣取って聞いていた。生意気にこの芸人は面白くないなどの批評をしていた。
その中には落語家の小金馬がいて、下手な腹話術などをしたもんだ、それが大看板の金馬を継いだ。もっともテレビ時代でNHKのお笑い三人組に出て名が売れ出した。生駒さんは小金馬をみて、こいつの兄弟子に凄いのがいたと教えてくれた。それが戦後間もなく一斉風靡した三遊亭 歌笑、笑いの水爆なんて珍奇な名前の持ち主、この人は進駐軍のジープにひかれてあっけなく死んだ。爆笑王の名を欲しいままにした。三平なんてのは大したことがない。この歌笑が創作した綴り方教室が柳亭痴楽に伝わり、これまた大ブームを呼んだ。この人の恋の山手線は傑作、上野をあとに池袋、走る電車は内回り、私は近頃外回り、彼女は綺麗なうウグイス芸者、ニッポリ笑ったあのエクボ、タバタを売っても命懸け、思うはあの子の事ばかり、我が胸の内コマゴメと、愛のスガモへ伝えたい、オオツカなびっくり度胸を定め、彼女に会いにイケブクロ、行けば男がメジロ押し、そんな女は駄目だよと、タカタノババァや新大久保のおじさん達の意見でも、シンジク聞いてはいられません、ヨヨギになったら家を出て、ハラジュク減ったとシブヤ顔、彼女に会えればエビス顔、親父が生きててメグロい内は、私もいくらかゴウタンダ、オオサキ真っ暗恋の鳥、彼女に贈るプレゼント、どんなシナガワ良いのやら、タマチィも宙に踊るよな、色良い返事をハママツチョウ、その事ばかりがシンバシで、誰に悩みをユウラクチョウ、思った私がすっトンキョウ、何だカンダの行き違い、彼女はとうにアキハバラ、ほんとにオカチな事ばかり、ヤマテは消えゆく恋でした、痴楽綴り方教室、この原型を作った歌笑のは豚の親子のキャベツ畑の夢、この人の活躍の頃を知らないがラジオで世間を大いに沸かせたという。生駒さんは良く知っていて、その解説はわかりやすく今でも覚えている。ラジオもNHKしかなく民放の開始は昭和26年12月東京放送が第一声を発した。