2011-05-19

三茶小の話10

板橋君は6年2組、この人のあだ名は「お富」、駒中ではこの名で通った。これを決めたのが実は私、もう五十年も前になるから時効で勘弁していただく。板橋君は神経が細かく、気配り目配りのできる人だった。駒沢中学は生徒が三校から寄せてきたので満杯、休み時間に便所に行くと列をなしている。雑談しながら自分の番、ところが板橋君は後ろに生徒が並んでいると小便が出ない。しないまま、次の人に順番を譲る。「どうしてなのかな
と本人は悩んでいたが、それは神経のせい、こまやかな事に気配りのできる人の特性、そのため始業の鈴が鳴る瞬間に便所に飛び込む。往時は用務員のおじさんが振鈴を鳴らした。
昔、お富さんというレコードが大流行したことがあった。染物屋の生駒さんは歌謡曲に詳しく春日八郎のことも良く知っていた。春日八郎は福島県会津坂下(ばんげ)町の産、東洋音楽学校卒、講談社が興したキングレコードの第一回音楽コンクールで優勝するも準専属で下積み長く食えない。同じく準専属だった妻から作曲家の江口夜詩(よし)を紹介され、毎日通い、掃除をしたり肩を揉んだりし、曲を作ってもらえるよう願い続けた。江口に「低音が出ないし、声が細い」と指摘されると、河原に出て土砂降りの中発声練習、こうした必死の努力が実り、ようやく新曲『赤いランプの終列車』を作曲してもらうことになった。『赤いランプの終列車』を吹き込んだ春日だったが、当時無名の自分が売れるわけは無いと、ヒットしなかった場合を想定して新聞社に入ろうと、履歴書まで書いていたという。曲が作られてから1年後の1952年に、『赤いランプの終列車』は発売され大ヒット。54年に「お富」さんが出て、これで春日の地位が不動に、その春日八郎に板橋君が似ているという話から「お富」になったわけ。板橋君は五十年も「お富」と呼ばれ続けてきたが、こうしたことで申しわけありません。
板橋君に似た春日八郎は67歳の我々の歳に亡くなった。歌謡界の不滅の星の一つ、あの頃は綺羅星の如くに素晴らしい男性歌手が続々登場、三橋美智也、三波春夫、村田英雄、後ろの二人は浪曲界から歌謡界へと飛び込んできた。歌謡曲全盛の素晴らしい時代、昨今の歌はさっぱりわからない。いやあ、昔は良かった。