2011-04-06

上馬の思い出7

子供だけに毎日何か面白いことはないかと探した。お祭りの露天商も楽しかったが銭がないとつまらない。商店街の催しの演芸はタダだけに始まる前から終るまでしがみついて見物した。
隣のフタバ電気のご主人が拡声器の設置からマイクのテストなどをしていた。「本日は晴天なり、ただいまマイクのテスト中」昔から変わらない音声試験、それを遠くで聞いて腕で○を作って知らせた。いっぱし役に立っている気分になれた。
SPレコードが回転し春日八郎のお富さんを繰り返し流した。針は鉄製だった。春日八郎は福島県会津坂下町の産、東洋音楽学校から江口夜詩(よし)に師事し昭和27年に、『赤いランプの終列車』で登場、昭和29年に飛ばしたのが「お富さん」、これは山崎正が作詞、作曲は渡久地政信、沖縄の産、最初歌手志望だったがキング(講談社)に移籍し作曲家として上海帰りのリルで爆発的ヒット、ディレクターの机の引き出しにしまいこまれたお富さんに作曲、これが空前の大ホームラン、春日八郎を知らないものはいないほどにさせた。その春日は67歳で死んだ。
生駒さんは春日八郎、三橋美智也のファンで、よく鼻歌を唄っていた。商店街の演芸に出た芸人で今でも覚えているのが暁伸とミスハワイ、これは夫婦漫才、売れないので易者に見てもらうと改名しろ、それで暁伸、それから当たりだすが、1951年、砂川捨丸・中村春代一座のアメリカ巡業に加えられ、立ち寄り先のハワイで見たフラやハワイアン・ミュージックからヒントを得て、独特の浪漫リズムを創案、帰国後コンビ名も『暁伸・ミスハワイ』に改めた。因みに、凱旋巡業では英単語混じりの浪曲漫才で売れ出すが、伸が喉を傷め大声を出せなくなったため、苦肉の策として、合いの手役のハワイが前にしゃしゃり出るスタイルに転向。ど派手なムームーに金髪パーマのカツラで、ヘチマ型のギロをこすり上げ、「行け!」、「いい声で歌わんかい!」と、伸をけしかけながら舞台狭しと立ち回り、甲高い声で「アイヤー、アイヤー」(ハワイ語で「さあ、行くぞ」の意味)を連発したところ、これが大受けを取るようになった。
恰幅の良いハワイが腰を振りつつ右往左往すれば、伸がその容姿を「♪立てばポストで、座ればだるま…」とこき下ろしながら、やおら「奥さん、明日も雨でンな」等と客いじりに移る、ペーソス溢れる芸風で一世を風靡した。オチは伸が「寝ぐらへ帰るダンプカー…」で締めた。
これは文句なしに面白かった。後年テレビに出るようになり、やはり誰が見ても面白い芸だと納得、暁が持つギターはアメリカ・テネシー州ナッシュビルのギブソン、世界のアーティスト垂涎の代物。