2011-03-31

昭和30年ごろの三茶商店街6


電話局からの続き斉藤米やまで

上馬の思い出1

昔は家庭に風呂なんかなかった。皆が銭湯に行ったもんだ。風呂に毎日入る人などおらず、あの爺さんは毎日風呂に行くんだってと不思議そうにみられたもんだ。
上馬に熱海湯ってのが出来た。前からあった風呂屋が空襲でやられたんだか、煙突だけ立って、流し場のタイルがむきだしだった。そのタイルをはがしてビー球がわりに使っていた。
そのうち風呂屋が出来ることになり、中里の高砂湯まで行かなくてよくなった。熱海湯は片田さんという人が経営していた。丁度、生駒さんの家の前にあたる。広い通りがあり改正道路と呼ばれた。幻に終った東京五輪のために作られたが上馬から若林までしか舗装してなかった。そこが環七になったわけだが、車なんてのは滅多に通らない。だからガキ大将たちの格好の遊び場だった。
昭和27年の4月にラジオドラマで空前の大ヒットを飛ばしたのが「君の名は」だった。これが映画になった。佐田啓二って二枚目が、これまた美人の代表の岸恵子が相手役になった。これで岸は松竹の看板女優となる。岸は78歳で存命、佐田の倅が中井貴一、佐田の本名は中井寛一、37歳で交通事故で没した。女優で随筆家の中井貴恵も娘。
佐田は京都の産、早稲田に進学し下宿したのが佐野周二の家、本名が関口正三郎、(倅が関口宏)この縁で松竹に入社した。高橋貞二、鶴田浩二、佐田啓二と二が付く俳優が戦後三羽烏ともてはやされた。確かに佐田には知的な色男の良さがあった。
上馬には映画館があり、その名を「上馬メトロ」と言った。ライオンが吠えるシーンが先頭にある、MGM映画のことを指した。
そこに「君の名は」が来たかどうかはわからないが、菊田一夫作の、このラジオドラマが始まると、銭湯の女風呂ががら空きになると言われた。これは松竹が映画のための宣伝文句だったらしいが、熱海湯の女風呂はその時間でも大勢の人が入っていた。
この主題歌を織井茂子が歌った。芸大出の声量のある人で、生涯のヒット曲となった。

2011-03-30

三茶の思い出9

NHKラジオで新諸国物語っていうのが始まり、その中に笛吹童子があった。
ヒャラーリヒャラリコと音楽が鳴り、ドラマに聞き入ったもんだ。
これを調べてみると、昭和二十八年の一月から十二月まで放送された。応仁の乱の後、丹波国満月城々主・丹羽修理亮には2人の息子がいた。武芸の達人である長男・萩丸に対し、次男・菊丸は、笛の名手で笛吹童子と呼ばれた。 2人は明国に留学していたが、面作りを学んでいた菊丸が作った白鳥の面が割れたため不吉を感じ、日本に帰国した。2人の留学中、満月城は野武士の首領玄蕃にのっとられ、修理亮は自害したことを知った二人は城を取り戻すため立ち上がる。
萩丸には東千代之介、笛吹童子は中村錦之助が映画で演じた。三茶の映画館は満員だった。伊藤勝さんが東千代之介の真似をしていたのを思い出す。この人は三上先生の家の近くに居住、三上先生は環七若林陸橋のそば、大きなビルを所有される資産家、先生は鷹揚で物事を大きく捕らえられる。それだけに失敗することなく資産を持ち続けられる。
世の中は先達を見習いながら生きることだ。その先生も昨今は足が弱って車椅子とのこと。ご自愛のほど。
さて、この笛吹き童子の歌は福田蘭童という人が作った。この人の父親が画家の青木繁、夭逝した天才画家だ。青木と福田たねの間に出来たのが福田蘭童、この人は無軌道な生き方をした人で、映画撮影の為にロケ地の大島へ向かう途中、船上で出演女優の川崎弘子と肉体関係を持った。これが「レイプ」として世間の批判を浴びた。(この事件については松竹蒲田撮影所の当時の所長、城戸四郎に責任をとるように迫られ、妻と離婚して川崎弘子と結婚した)。
このため、自分の子と離別する羽目、その息子が後にハナ肇とクレージーキャッツのメンバーとなる石橋エータロー。
福田は釣りと料理が趣味、後年の石橋エータローも料理を得手とし居酒屋を開いたほど。血は争えません。
笛吹き童子の流行した頃はまだテレビ時代ではなかった。ラジオにかじりついて聞いたけど、この番組は15分、翌日が実に楽しみだった。
私たちは四年生だったと思う、毎日遊んでばかりいたが、誰もそれをとがめもしなかった。子供は一日おもしろおかしいことだけを探す。定年退職した今も同じようなもの。だが、あのころのように仲間が回りにいないのが寂しい。ちょうど、夕暮れ時になって一人へり、二人が家に帰ったあのころのような、身体を寒い風が吹きぬけるような妙な感じです。

2011-03-29

昭和30年ごろの三茶商店街5


下高井戸行きの駅側の紹介

三茶の思い出8

世田谷通りの地図をアーチャンが驚異的記憶力で詳細に記してくれた。それを見ると大英堂は茶沢通りの角から7軒目にあたる。ビンゴ店、文華デパート、たばこや、喫茶店エバタン、ペコちゃんのフジヤ、?、乾物屋、大英堂となる。この店は大正十一年に福井県丹生郡出身の和菓子職人・上野巍氏が開いた。三宿に砲兵連隊(十三部隊)ができ御用パンやになった。また、昭和十七年、池尻に三菱電機世田谷工場ができ、そこにもパンを納入と時代に乗り順調に業績を伸ばした。渋谷、四谷、大崎の明電舎内、経堂、不動前と続々と出店。不動前からは下北沢、馬込、明大前にのれん分けと大英堂全盛の時期を迎えたが経営者の高齢化、コンビニの出現で衰退、今は下北沢、馬込、明大前の三店のみ。我々が二十二、三のころだろうか、大英堂の二階にコンコルドっていう喫茶店があり、そこのマスターが高橋さん、なかなか粋な人、そこにアーチャンがバーテンで働いていた、アーチャンは中学出て三茶の小林紙業に勤めた、小林紙業は中里寄り、映画館の二三軒先、綿元の近くにあった。
 ここを辞めてコンコルドで働いていたのサ、そのマスターが唄の上手いアバタ面の痩せた娘といつも一緒だ。その娘を売り出したいと言うのがマスターの口癖。コンコルドは一日で七万円も売り上げる店、昭和三十九年の頃の七万円だ、当時のアーチャンの給料は月一万円、その盛況ぶりが判ろうもの。このマスターは横浜の人、電話局のそばの二階建てのアパートにその子と一緒に住んでいた。
 その子は昭和三十五年に日本コロンビア全国歌謡コンクールで2位、デビューを待ち構えている。録音すること十一曲、が、レコード化できるのは1位の人だけ。じりじりしながら機会を待つ、それを手助けし地方巡業、歌謡ショーなどの公演チケットをマスターは必死に売りさばく。アーチャンやチーフバーテンの関根さんたちにも割り当てがきて客や知人を拝み倒す。
 ところが、昭和三十八年、コロンビアに反旗をひるがえしたのが常務の伊藤正憲、これに美空ひばり、北島三郎、作詞家の星野哲郎、作曲家は米山正夫が付いた。その子も好機到来とばかり、この新会社、日本クラウンに移籍。ところが世の中は幸運というものが巡ってくるもんだ。一緒に移籍するはずだった畠山みどりがコロンビアに残った。当時、畠山は「恋をしましょう恋をして、浮いた浮いたで暮らしましょう」と恋は神代の昔からで昭和三十七年にデビユー、扇を片手に袴姿で大当たり、翌年の紅白歌合戦にも出演。この畠山が移籍しなかったため、星野哲郎が用意していた曲がこの子に当てられた。畠山の曲のためキーが高い、それをこの子が必死になって歌った。それがひたむきだと好評、人間はわからないものだ。どこにチャンスが転がっているかも知れない。死ぬまで前向きに生きることが正しいのサ。
 その曲の名かい? それは『涙を抱いた渡り鳥』。エッ? そうさ、そのアバタ面の痩せた娘は皆様ご存知の水前寺清子サ。そしてあれよあれよという間にビッグな存在になり、マスターの高橋さんの割り当てチケットも高額となる。こうなるとアーチャンも売れない額になった。今まで六百円のチケットが二千円だヨ。そして水前寺は紅白に出た。それが昭和四十年。そして年が明けた四十一年の寒々とした風が三茶を駆け抜け、商店街のシャッターを揺らすころ、高橋マスターは夜逃げサ、それを察知していたチーフの関根さんとアーチャンは新宿歌舞伎町コマ劇場近くのベネチアという店に鞍替え。アーチャンもそれ以来、水前寺とは逢っていないそうだ。今や大御所のチータも、その昔、九州熊本の商店街で化粧品店を経営していた父親が事業に失敗、夜逃げ同然で東京に、水前寺は洗足学園中学校に林田民子の名前で通ったのサ。それがどうして高橋マスターとできたのかはアーチャンも知らない。そしてマスターがその後水前寺と逢ったか、どう暮らしているか、今も生きているかも誰もしらない。成功する者、失敗する者、世の中は様々だネ。いいことも長続きはしないもの、悪いこともどこかで切れるものヨ。一喜一憂しないのが人生のコツ。でも、それが判った頃は高齢者になっちまったヨ。
 まるで高橋マスターが夜逃げした頃の、あの寒々しい月が冴え冴えとする大寒の頃が今の我々の年だネ。それでも、眼を閉じるとあの頃の三茶が浮かんでくるのサ。大英堂の隣は肉やで、通りを挟んで下駄屋、大●屋、今川焼き屋、又路地があって電話局だったネ。懐かしいナア。昨日のことはすぐ忘れるけど、あの小学生の頃の町並みは今でもはっきり思い出すと思わず呟くひとりごと。それに聞き耳立てた女房、「それはアンタが年取った証拠です」とは、ごもっともさまなれども腹が立つ。

2011-03-28

昭和30年ごろの三茶商店街4


協和銀行側の一列です

三茶の思い出7



世の中は繰り返すもの、丁度春が来て夏が来るようにめぐる月日が重なりて、とうとう半世紀を越して我々も六十七にもなりました。秋分で昼と夜の長さが等しくなり、それから朝がくるのが五分遅れ、陽が沈むのが五分早くなって、とうとう冬至に至り夜が一番長くなっちまう訳、この歳まで来ると夜になりゃ寝るし朝も早くから起きる必要もなくなります。
 なんたってあんた、行く所がないんですから、会社や役所からはとうに定年でお払い箱、朝起きると今日は何をして遊ぼうかと、まるで小学生の夏休みのようなものです。
 三茶小の前に観音堂って文房具屋がありまして、片手のおかみさんが働いていました。何で片手なのかと不思議に思ったもんですけど、誰もその謎を知りません。その並びに米屋があって、丁度今時の寒の入りに豆の入ったなまこ餅を搗きました。臼で搗かずに機械で搗くから、丁度大きなニョロニョロした餅の棒のようなものが出てくるんです。それを曽根くんと飽きもせずに眺めていました。
 曽根くんと二十歳代に死んだ高田くんとは仲が悪く、高田くんは「キツネ」と罵っていました。曽根くんは痩せているけど相撲がなかなか強い。でも高田くんにはかなわない。それがケンカの原因です。平和パンの側に砂場、その横に鉄棒があり、逆上がりの得意な曽根くんが鼻の穴を拡げています。世田谷通りの竹屋の隣の森くんも運動神経は抜群で野球などさせると敏捷な動きで眼をみはるものがありました。
 曽根君は新潟からの転校生、妹尾さんの隣に引っ越してきました。妹尾さんの家には弟がいて、曽根くん兄弟と共に遊びに行ったことがありました。何でも父親は船乗りのように記憶していますけど間違いかも知れません。見たこともないような高級そうな品物があり、外国を感じたような気もしますけど、遠い昔で思い起こすことができません。丁度、ラジオで紅孔雀を放送していたころです。
 曽根くんの家では姉さんと母親が梅干を漬けていて、秋になったら食べさせると言ってくれました。梅干は漬けてしばらくしなければ食べられないのかと不思議に思ったのです。なにしろ洟垂れ小僧も都会の田舎の三茶ですから、その程度の知識しかありゃしません。それが出来たからとご馳走になったとき、紫蘇の香りが美味さを増して、曽根くんの母親が強烈な印象として残りました。後年、三茶小の前の同期会、あれから二十二年も経ちますか? その時に曽根くんの母親が元気でいることを聞き、つまらぬ物を贈りました。すると曽根くんの母親から手紙が来ました。こんな婆をよく思い出してくださいましたと懇切なる文面で、読みながら周囲がぼんやりとしてきたのは当時の頃を思い出したからなんです。突然、紅孔雀の歌が聞こえたんです。
 昭和二十九年、NHKラジオドラマです、那智の小四郎は、紅孔雀の秘宝のなぞを解く黄金の鍵をめぐって、元海賊の網の長者、幻術使い・信夫一角やしゃれこうべ党とたたかう活劇ドラマでした。語りは後年民放で活躍する近石真介、夕方六時五分からラジオに噛り付いて聞いたもんです。映画では小四郎を中村錦之助が演じました。上馬メトロって小便の臭いの充満する映画館で見たような記憶があります。そんな三茶のことが一気に溢れ出して、もう戻れないあの頃のことが、曽根くんの母親の手紙からまるで流れるように次々と泡立ち渦を巻きました。
 三茶に幸いなことに今でも住める人、そこから丁度コマが廻ると上にあるものが弾かれるように飛び出し弾き出された者たちにとっては、なにかにつけて三茶が恋しいものなんです。まるで座布団に座る祖母の首ッ玉に後ろから抱きついたあの時のような……、失ったものはそこに無いだけに、それだからこそ尊いものです。まるで亡くなってしまった父とそして優しかった母のように。

2011-03-27

昭和30年ごろの三茶商店街3


駒の湯からの続きです

三茶の思い出6


八十過ぎの爺さんと友達になって、時折その蕎麦屋に立ち寄って昔噺の聞き役になりますけど、爺さんの話を倅夫婦はロクに聞こうともしやしません。商売が忙しいのもあるけれど、また同じ話を始めやがっての気持ちが先に立つ。貴方が寄らないで寂しがっていますと嫁さんに町で出会って言われちまえば、面倒なことだと思っても気の毒なこともあり、ついつい運ぶのは足。
昔ネ、高峰秀子って女優の若い頃、プロ野球、その頃は職業野球がありましてネ、後楽園に野球を見に来る人がいない。そこで高峰秀子と一緒に写真を撮るっていう企画で、写真を一緒に撮りたくて野球見に行きましたヨ、でもね、そのことを思い出して、それを確かめようと図書館へ行って調べてもないんです。すると、人間妙なもので、あれは幻だったか、それとも自分が作った嘘だったかと奇妙な感覚にとらわれましてね、とうとう私もボケが来たかと不安になりまして、エッ? 仲間に確かめろですか、一緒に野球を見た、ええ、皆死にました、長生きすると妙に不安になるんですヨ。
三茶に豆やがあって、その先に剣舞を演ずる源なんとかと言う親子の一杯飲み屋がありました。中村くんの天ぷらやの横をこちょこちょと入ったところです。小さな店が寄り添うように建つ町が三茶です。いったん火事でも出れば命さえ危ういような所でして、それでもときどき火事を出しましたとも。
斉藤呉服店の火事はもの凄くて、玉電も止まりました。太子堂の駅まで線路を歩いて行きました。絵のうまい中西くんが、どういう訳か線路に落ちてたビール瓶を拾います。電車はもちろん動いていません、そのビールは家の人が飲んだそうです。中西くんの兄貴は大学生、姉さんがいて綺麗な人、その人は宝塚劇団に行ったそうです。
中西くんは図画の根津先生にいつも誉められました。全生徒の絵を並べてどれが上手いかと生徒一人一人が聞かれたことがありました。生徒たちの鑑賞眼を養うつもりだったのでしょう。中西くんのは図抜けて上手い、でも、私は永島節子という子の絵の奥に静かに拡がる物を感じて惹かれました。この子がその後どのような路をたどったかを知りません。中西くんは駒場高校から美大へ進みソニーの広告を扱う東急エージェンシーに入社し実力発揮。
ここまでは自分の眼で確かめたんです。でも、三茶の火事になりますと、どうも確かじゃないんです。というのもアーチャンや土屋さんの話では、火事は文化デパート、それも二回あったがいずれも小学生の時じゃない、大人になってからだと言うんです、「お母さん、あの麦わら帽子はどうなったでしょうか」じゃないけれど、蕎麦屋の隠居の言うように、あれは事実だったんでしょうか。それとも妄想でしょうかと、しきりに今様のインターネットを叩いて見ても、世田谷三茶の火事の歴史はどこかに埋没し、「中西くん、あの三茶の斉藤呉服店の火事はどうなったでしょうか」と、我と我が身の存在をかけて聞く以外に方法とてありません。ああ、明日待たるるこの宝船の大高源吾は橋の上で、早く同期会が開かれて、あの三茶の仲間に逢いたいもんです。
自分の記憶違いか聞き違い、間違いキチガイ何処にでもあるで、人間の証明をしなけりゃなりません。消防の記録がなけりゃ記憶が頼り、それでも世田谷通りの写真屋の倅、高田稔くんは二十歳代で亡くなりました。相撲がとっても強かったんです。テレビで力士の取り組み見れば、何とはなしに思い出す……。心の底に高田くん、若いままの顔が浮かんで消えて、あれは確かにあったはず、でも、今となっちまうと心の中にしかいないもの、まるで世田谷の空に弧を描く澄んだ空気のいっぱいにあった、あの六十年も前の頃、夕焼け空に一番星を見つけたように遠く近くに瞬いて、まるで人の命のはかなさのように、あると思えば確かにあるし、ないと思うといや増すさびしさ……。

2011-03-26

三茶の思い出5

人は誰かにこの話を伝えたいと思うときがある。ところが、その話を共有できる人物が近くにいないとき、伝えられないもどかしさを感ずるもの。まるで、友人が次々と倒れ、最後まで生き残った喜びのようなやるせのない心細さにさも似たり。
 三茶の入り口に赤坂という靴屋があった。でも、今になってみると、あったような錯覚だったような、どうにも奇妙な考えに取り付かれ、その場にいって、ここが確かに赤坂の靴屋だと思っても、通りがかりの人に尋ねてみてもそんな昔の話はわかりません。
 ちょっと前なら覚えちゃいるが、三年前じゃちょと判らないなァ、あんたあの子のなんなのヨ、横浜、ヨコスカ。そんな時、高齢者の仲間に入っちゃいるけど、まだ三軒茶屋小学校の仲間は元気、まして、土屋さんに電話すれば、そこは確かにああで、こうでとまるで見えているかのように明確に話す。アア、よかった、私もまだボケちゃいないんだと、妙に安堵の胸撫で下ろし、昔の家並みを聞かせてもらえば、もう訳も無く懐かしさばかりがいや増して、直ぐにでも土屋さんと逢って、世田谷通りのラーメン屋、「喜楽」の赤ノレンをくぐって、葱を黒く焼けこげさせたスープで熱いラーメンを食いたいなと、思わず告げると、あの店はもう無いわヨと、さびしくなるような言葉を投げられれば、ああ、そうか二度と戻れない所まで歩いてきてしまったんだと、後悔のたたない焦りを感じて、思わず、あのラーメン幾らだったっけ、と、妙な事を口走れば、土屋さん淡々として25円、素ラーメンだけど、安かったわねェ、あの店は森君の近くだったっけと聞けば、違うわよ、あれはどこがどうして、これこうだと明瞭に答えてくれるけど、聞く方の頭がついていけず、思わず地図があればなァとの嘆きの言葉。それが実現したのが掲載中の三茶商店街地図。
 この地図を見ていると、なんだか心の奥底から春の蒸気が湧き上がるような、命の素が芽吹くような、心楽しくなっちまうのは、これはもう歳のせい。眼前に迫る高層ビルと高速道路、現実と我々の抱く三茶とは夕焼けと朝焼けほどに気分が違う。
 昔の三茶は確かにあったけど、今はもう昔話となっちまって、当時の少年少女、小学校の仲間だけが頼りなんだけど、島田源太郎くんも死んだ、アッチチは大病したと、涙流して悲しくなるよな話ばかり。それでも、久々に同期会を開催できることは喜びです。

2011-03-25

三茶の思い出4

大森屋洋品店の主人は映画「七人の侍」の野伏せりと同じ顔で、威圧感があった。そこを抜けて仲見世に入ると、帝京商業に進学した野球の上手な一塁手、中村くんのてんぷら屋があった。二階からいつもニコニコして下を見下ろす中村くんを思い出す。爽やかな笑顔の好人物だったが、いつしか消息が途絶えた。この人物も石塚先生のクラスだった。
 石塚先生というのは体育学校出で顔のデカイ割に目が小さくまるで渥美清のよう。が、その頃渥美清は映画に出てこない。ずっと後の時代で売れた。
 石塚先生は四組の生徒に組体操を教えていた。人間ピラミッドを作るのを近くで見ながら、一番下にいた生徒が力んで耐えているのがおかしくて笑ったら、それが悪いと石塚先生にビンタを喰らったことがあった。
 この石塚先生は奥井先生と結婚したが、バイクで怪我をして病院に入院、どういう訳か看護婦と出来て、駆け落ちをしたそうだ。そののち小田原だかで焼き鳥屋の店先で団扇を煽いでる姿を見つけた生徒がいた。そしてクラス会が開かれたという話を飯川くんから聞いたことがある。その石塚先生も亡くなったそうだ。
 三茶のことを思い出すと、安西薬局、石塚先生のビンタ、奔放な人生と連想ゲームのように頭のなかを記憶が走りぬける。まるで体操の先生に追いかけられて校庭を走る生徒のように。

2011-03-24

昭和30年ごろの三茶商店街2


お茶の梅原園からの続きです

三茶の思い出 3


五十嵐公利さん
五十嵐さんは植木先生のクラスで三組。いつもこざっぱりした服のかわいらしい子だったがきかない。アーチャンの家の傍で勉強家の兄がいた。この兄は東大から京大の医学部に進学し脳だか心臓を学んだ。
 アーチャンの家族はがっさつな職人集団、バイクを止めてエンジン吹かして大騒ぎ、五十嵐さんの兄貴に怒られた。五十嵐さんの親戚が山田風太郎、同じ三茶に居住。この山田風太郎も医者になるべく東京医専に進学するも作家になった。
 明治物を書かせると一風変わった味があった。この山田のもとに原稿を取りにきていた若者が後年、阿佐田哲也としてマージャン小説で一世風靡、当時は小説倶楽部の編集者として山田宅に通うが、ある日、書き上げた原稿を靴紐結んだ山田宅の玄関に置き忘れ大騒ぎとなる。三茶にも多彩な人物が埋没していた。
 五十嵐さんは新宿高校から東大、NHK。今でも夕方のラジオで元気な声を聞かせる。あの好男子、アラン・ドロンも真っ青な美男子も頭ずりむけのハゲにおなりだ。我々も歳をとりました。
 五十嵐さんの家は永井君の店の裏、永井君の店が判らない? それは私の家の隣だよ。へへ、世田谷通りの伊勢屋、これは川村さんの家、餅菓子屋だった。その近くに永井君の店があり土砂、セメントを販売、この店の倉庫で遊んでいてセメントの袋を踏み破り、永井君の兄貴にこっぴどく叱られたことがあった。永井君の隣にコロッケ屋があって、ここのは美味かった。
 思い出ってのはなんとなく懐かしくって甘酸っぱいような湿ったような、まるで母親の懐で甘えていたような、ほんのわずかな幸せな時なのだろう。
 確かにあったような無かったような、まるで夕焼け空に一番星を見つけたような、はかなげで遠くを眺めるようなもの、でも、あったよね、たしかに、私たちの記憶のなかに、いつまでも。

2011-03-23

三茶の思い出2

玉電の通りを中里に向かうと途中から軌道が道路から離れ専用道を走る。その先に天皇陛下の乗馬用鞭をつくるデカシさんの家があった。デカシさんは一年先輩で、いまでも乗馬用鞭を作っている。場所は府中に移転、それをNHKのテレビが紹介したことがあった。その上馬寄りに美人姉妹のいる和泉屋パンやがあった。そこの横を入り三茶小に向かうと三叉路があり、お地蔵さんがあった。右に中村さんの家、庭に柿木が一本はえていた。ひょろひょろした木だった。その三叉路を左にとると及川さんの家の並びに来住野君の家。母親は着物の襟に、てぬぐいをかけて目のしょぼしょぼした長屋のおかみさんという風合い。雑巾で始終家の中を拭いていた。床板なども黒光りして塵一つなかった。父親は寡黙な人で玉電上馬駅に向かう改正道路の左側の鉄工屋に勤めていた。その来住野くんはタクシーの運転手になった。上町近くのタクシー会社だった。来住野くんは上馬を去り町田の団地で暮らしていた。
 来住野くんの家から和泉屋パンやへ向かう途中の左側に駄菓子屋があった。パーマ屋のボンの手前だ。その駄菓子屋の店先に大きなゴム風船が当たるクジがあった。なかなか一等が出なくていつも巨大なゴム風船がその位置を確かなものにしていた。
 クジの残りが少なくなった時、めずらしく親戚のオジサンから小遣いを貰い、その銭を握りしめ駄菓子屋に走った。残りのクジを全部買った。最後のクジで必ず当たると信じていた。ところがハズレだった。色黒の固太りのオバサンに言った。「全部買ったけど一等が出ないヨ」婆さんは小ズルイ顔をしかめて笑い顔をつくり、「ああ、そうだ一等は奥にしまっておいたんだ」とクジを出してきた。一等を最初から隠しておいたのだ。
 大人のズルさを痛感したのが、この駄菓子屋のオバサンを初めとした。あの頃、我々のような年寄りだったのはいつも頭を椿油で撫で付けたパーマ屋ボンのお婆さんだけだった。小柄で小粋な着物を達者に着こなしていた。その婆さんが生駒武久くんの染物屋の横丁のドブをまたいで小便を垂れた。どこかで芸者だか仲居をしていたことがあったと聞いた。大人にも色々あるもんだと、小学生だったが納得したのを覚えている。

2011-03-22

三茶の思い出 1


玉電で渋谷から来ると、三茶手前の三叉路の上に小屋があり、そこに転轍機を操作する男が座っている。信号機に合わせてそれを左右に切り替える。それで下高井戸へ行くか二子玉川に行くのかが決まる。
 まるで人生みたいだなと中学生になったとき思ったことがある。左へ行くはずが右に行く、そんな人生を送るのじゃないかと不安に思った時、玉電の運転手が床のペダルを踏んだ。警笛音に小屋の操作員が手を上げて詫びた。ボンヤリして切り替えを忘れたのだ。その運転手には見覚えがあった。来住野君の二階を間借りしていた金子という人だ。寡黙な人で髭の濃い青ぞり頬の小太りな独身男、来住野(きすの)君も昨年死んだ。

三上伝次郎先生

昨年は三上伝次郎先生が春の叙勲で皇居で勲章を授与されました。積年の教育へ
の功績が認められました。先生、大変ご苦労さまでした。先生も八十を 越され
ましたが、足腰が少し弱くなられた程度で、相変わらずの紳士ぶりです。
祝賀パーティーには私ことアーチャン、そして土屋さんが出席しました。
訃報・昨年は五組の来住野さんが亡くなりました。しばらくして知ったため誰も
葬儀にも参加できません。我々もだいぶ歳をとりましたので、お互いに 気をつ
けましょう。
このブログに昭和三十年当時の三茶商店街の地図が掲載されています。あの頃が
鮮明に浮かんできませんか、我々の記憶にある懐かしい三茶を充分に偲 んでい
ただきます。
三茶の角近くに安西薬局があり、そこにオームがいた。あおちゃんという名前
で、あーおちゃん、おはようと声を出すのが珍しく傍に寄って眺めたが、 突
然、なにも言わなくなる。おはようと何度も声をかけるも黙して語らずだ。「ば
か」と言ったら、奥の主人に「悪い言葉を教えちゃダメだヨ」と叱ら れた。す
ごすご横丁に入りこむと、大森屋の洋品店に野武士のような顔つきの親父が渋面
をつくり新聞を広げていた。四組の大森さんの父親だが、大森 さんは可愛らし
い顔で、親子でもこんなに違うものかとしげしげと眺めると、視線を感じたのか
親父がこちらを睨んだ。

2011-03-21

昔の三茶と今との照らし合わせ













































作成した地図と今がどのように違うかを写真で紹介









協和銀行跡地はカラオケの大きな看板









お茶の梅原園までを連続してご覧にいれます









大野カバン店も仲見世に現存、写真に看板の文字あり









昭和30年ごろの三茶商店街 1


記憶にある三茶商店街の町並みを再現してみます


世田谷通りです。右に行けば若林方面です


角には協和銀行がありました


さすがや呉服店、安西薬局、むさしや化粧品店、ボタン屋、大野カバン店、大森洋品店、うなぎ全盛庵、?、岡島化粧品店、たにおか蕎麦屋、梅原園お茶屋(現存)と続きます


三茶駒中クラブ立ち上げ

三茶小第三期卒のみなさまお元気ですか、二十年ぶりに同期会を開催するべく準備中です。
詳しい日程がきまり次第ご連絡いたします。