2011-05-07

三茶小の話2

校庭は四角く桜の樹が植えてあった。入学式のころに淡い桜色の花を咲かせ、新入生を迎えた。どの子も精一杯の笑顔をたたえて校門をくぐってきた。文房具屋の観音堂の側には雲梯(うんてい・体育・遊戯施設の一。金属管製のはしごを水平もしくは円弧状に張り設けて、これに懸垂して渡っていくもの。くもばしご)と肋木(ろくぼく・体操用具の一。縦木に多数の横木を肋骨状に固定したもの。横木につかまって、懸垂・手掛・足掛などをする)があった。
平和パンと観音堂へ出れる門もあったが閉まっている。ここから出ると便利だが、閉まっているので垣根の破れ目から抜け出した。今のように学校は塀や柵でかこまれてはおらず、閉じ込められているような雰囲気ではなく、伸び伸びとした闊達な気風が漂っていた。通学する子も下駄履きが多かった。校舎に入るには下駄箱に入れてズックに履き替えた。校庭は土でところどころが凹んでいた。
アーチャンはブランコに乗ると高くこいで上がった。鉄の鎖を支える横棒よりも高く上がり、見ている者の胆を冷やした。本人は何処吹く風で、散々高くこいで上ったあと、その高見から飛び降りた。そのまた勢いのあること、誰もが怪我をすると心配したものだが、猿よりも猿らしく、アーチャンにかなう者は誰もいなかった。
アーチャンは六年生の頃、読売新聞の配達をしていた。いつも黒の襟付きの黒ボタンの服を着ていた。新聞配達で毎月700円を稼ぎ、家に半分入れて残りは胃袋にしまった。喜楽でのラーメンや永井君の隣の肉屋で半分に切ってもらったコロッケとコッペパンに変った。コッペにコロッケ半分を縦に入れ、キャベツの千切りをおまけに肉屋がサービスで入れてくれる。それにソースをかけて食べるのが無上の喜びだった。人は誰しも食べる喜びのために生きている。人はパンのみに生きるにあらずなどとノタマウが、それは能書きのようなもので、食べなきゃ死ぬ。死ねば生ゴミになって清掃車ならに霊柩車で運ばれる。いずれも焼き場で、焼却場と火葬場のちがいだ。
江戸の昔にも火葬場があり、死人を焼いてくれた。焼き場の職員を昔はかくれた坊主、隠坊(おんぼう)と呼び墓守や焼き場の職員を指した。このオンボウには焼き賃を支払うのが習わし、昔は現金決済の風が薄く、みな支払いは月末とか年に二度の支払い、当然金がないから焼き場のオンボウへの支払いに困る。困るったってオンボウも区役所の職員ではないから払ってもらわないと困る。半分しか銭がないから生焼けでいいかと言われれば、それまた困るので庶民が智恵を出した。それが香典を持ち寄ることだ。香典は米や味噌ではダメ、全て現金。昔は村八分なんてのがあって、交わりをしないことを決めたが、八分の残りの二分は付き合う。それが火事と葬式だ。火事が八分の家に出れば類焼のおそれもあるから消す、はやり病で死ねば伝染の恐れがあるから埋葬や焼き場に持っていく、いずれも我が身への被害をおそれるからだ。八分の家さえ香典があつまる。まして、普通に生活をしていれば尚のこと、これを香典葬と呼ぶ。
6年5組の三浦さんが亡くなったときアーチャンから電話がかかってきた。青森県の八戸にいたが、幡ヶ谷の火葬場に行った。三上先生も来ておられた。四十年も前の教え子の火葬に立ち会うなどということも、なかなか常人にはできないことだ。先生は教育者として立派で国も、その功績を認めて叙勲されたが、先生は人間として立派だった。その先生も昨今は足が弱って車椅子になられたが、我々悪ガキも先生を元気づけなかえればいけない。大恩ある先生がいつまでも元気でおられるようにと念ずるばかりだ。
さて、アーチャンは高く空中にブランコから飛び出すと、今度はウンテイに走る。ウンテイの横には桜の樹があり、花びらを散らしたあとには毛虫がぶらさがる。そんな毛虫も真っ青になるほど、アーチャンはウンテイにぶら下がり、見事に端から端へと繰り返して渡る。毛虫が風に乗ってブラブラするように、アーチャンもウンテイに両足をかけて逆さになってブラブラしてみせた。
そんな元気なアーチャンも、五年ほど前にチョットした高い所から落ちて両足を怪我、しばらく入院していたことがある。あの猿も真っ青のアーチャンがだよ、やはり歳には勝てないものだご同輩。