2011-04-27

上馬の思い出22

酒場ドリアンはどりあんと書いたのかも知れない。ともかく60年も前のことだけに、定かではない。玉電という路面電車がのんびりと走り、その両側に所々に商店が立ち並ぶ、ごく貧弱な町並みだった。渋谷から上通りにかけて玉電は専用軌道敷を爪先あがりに上る。大橋、池尻、三茶と続くわけだが、この廃線になった玉電の駅名を渋谷から二子玉川までいまだに言える。幼い頃に記憶は鮮明だが、年取ってくると昨日の晩飯がなんだったか忘れてしまうのも不思議。
あおの玉電の中心になる所から上馬の次が真ん中で真中(まなか)と言った。安全地帯などもなく、電信柱に赤い行灯看板に真中とかかれていた。雨が降るとジイジイと爺さんが恋しくて泣く孫のような音を立てた。また、良く雨が降ったもんだ。夏になると夕立が降って通る人を嘆かせたが、雨宿りをしたくとも改正道路にそんな洒落た店はなく、皆、ひたすら歩いたもんだ。夕立がやむと赤とんぼが湧くように青空を自由に飛び、悪ガキはそれを箒を持って追いかけた。とんぼなどどれほど採っても腹の足しにはならないが、それでも反射的に追いかけた。
玉電に乗って砧の池で釣りをしに行った。松の木精米店のヒロシさんは釣りが上手で、鮒などを釣り上げたが、私はいつも一匹も釣れなかった。真中に釣具屋があった。丸い東海林太郎のような眼鏡をかけた主人が客と釣り談義でもしているのか、客が絶えなかった。
そこで鮒をバケツに入れて売っていた。それを甕に入れて飼ったが、次第に大きくなり、甕が小さく見えるようになったが、その鮒をどう始末したのかは覚えていない。
釣りにはヒロシさんの外に勝比古さんも行った。砧の池で釣っていると、蛇がとぐろを巻いているのを見つけ、勝比古さんに教えた。青大将ではなくやまかがしだという、それを勝比古さんがつかもうとして噛まれた。毒はないかれ平気だと言っていたが、蛇を上手に扱えると思っていたのに噛み付かれてショックのようだった。
砧には二子玉川で乗り換えるのだが、そこから先は単線で歩いて行ったこともある。鉄橋を線路に従って歩くと途中に蛇の死骸があったりした。国太床屋のタケシさんが親戚が溝口にいるそうで、砧は隣村だけに良く知っていた。砧駅の前にワカモト製薬の社長のデカイ洋館があった。田圃が続くのんびりとしたところだった。
その田圃の横には狭い流れがあり、そこをボテという手に持つ網でガサガサとかき回すとどじょうや小魚が一杯とれた。それをタケシさんは得意にしていた。駒中のタンチ山に霞み網をしかけて小鳥をとっていた。霞み網はやってはいけないと言いながらとっていた。私はその後についていったが、一回も網にかかったのを見たことがなかった。タンチ山というのは昔、そこにタンチという乞食が住んでいたそうだ。今のホームレス、昔は山ごと自分のねぐらにしていたから、現今の駅の近くの通路に寝るのとは訳がちがう。乞食の名が山の名になるのだから大したもの。もっとも渋谷の道玄坂も道玄という夜盗・強盗の大和田太郎道玄の名からきたそうだ。昔の武士なんてのも押し借りゆすりは武士の習いというほどで、理屈ぬき理不尽なんてのは当たり前、土台、働かなくして飯を食うのだから、どこからか融通しなければ食えない。強盗などは朝飯前だ。
勝比古さんのドリアンは母親が経営、父親は裏で雀荘をやっていたが、小男で風采が上がらなかった。ところが世の中はどういうところか、この小男が若い女とできて駆け落ちしたと風の噂が伝えた。それは私が駒沢中学の二年生だか、三年の頃だった。勝比古さんは父親を見つけたら殺してやると、飛び出しナイフを持って歩いているそうだと友人が教えてくれた。色の道ばかりは道理や条理のつかないところで隠花のようにひっそりと妙な臭いと共に咲く。そんなことが判るようになるのは、それから十年もあとのことだった。勝比古さんの母親は急に老け込んだと、これも噂で知った。