2011-04-17

中里の思い出6

少年探偵団ならぬ老人探偵団がウロウロと三茶あたりを徘徊、ウロウロよりヨタヨタ、オロオロの方が正しいのかも、宇田川君と仲が良かったのが生駒君、染物屋の次男、この人の家には文化があった。それも江戸の名残の、講談・落語・浪曲の日本の伝統話芸などは、生駒君の家で自然と身についた。もっとも、染物自体が江戸の風を示すもの、当然のことだったのだろう。
その生駒君と宇田川君が渋谷に切手を買いに行くというので付いていったことがある。中学に入った頃に切手ブームがあり、それに興味を持ったが貧乏人には無縁の代物、すぐに飽きたというか買えなくて脱落した。後年、これは切手商が金集めの手段として生み出したものだと悟った。生きて行くには金が必要になるが、あまりこれにこだわると守銭奴となり、人から奇人変人のそしりを受ける。
切手が幾らで売買されているかを示す冊子があり、売りもしないのに、これで幾ら儲かったと得意そうに話す中学生もいた。
成人してコイン商と知り合いになったが、昔は皆、切手商だったそうだ。ところが切手が売買できないことを素人が知って、それが瓦解してコイン商に転じた。秋葉原のシントク電気の上に貸しホールがあり、そこで交換会が開かれていた。オリンピックの千円玉が一万円で売れた。大儲けをした人が出たの触れ込みがあり、連れて行ってもらったが、そこもダマシの世界のようだった。外国人の顔も見えた。
小学生にそんな世界があるとは知らないのだが、金がないから切手の蒐集が出来なかっただけだが、蒐集家が財を成した話を聞かないことからも、後年知ったダマシ・詐欺師の手口だったことは間違いない。秋葉原のコイン交換会を開いていた男は、銀が大相場になったとき、百円玉を溶かして大儲けをした。無論これは犯罪ではあるが、そんなことはおかまいなしでやる奴ばらが世の中には紳士面して横行している。そのころ滝本君という駒中の同期生と逢ったことがある。エノケンに苦労させられたと話していた。エノケンは仇名で、本名は忘れたが、上馬駅の駒沢寄りで板金屋の倅だ。父親は鼻筋の通った面長で、曲げ物に出てくるようなイナセな感じの美男子だった。かっぱからげて三度笠の似合う人だなと思っていた。エノケンはせせこましい感じのとっぽい少年だったが、人生誰しも落とし穴が待ち受ける大人の世界、女・酒・バクチの三悪のうちのどれとどれに足を突っ込んで抜けなくなったのか、金に窮して友人を踏みつけたようだ。そのことを滝本君が言ったのだろうが詳しくは語らなかった。
金は便利なようで扱いが難しく、この使い方や概念について日本人は子供に教えないが中国人は金銭感覚について厳しくしこむ。どれが良くてどれが悪いわけでもないが、人生の並木道を踏み迷うことのないように最低限の知識は持つべき。そうした誘惑にも負けず、落とし穴にも落ち込まずになんとかこの歳まできたが、いやあ御同輩、簡単容易な道ではありませんでしたな、お互いに。
人生は良いことばかりではなく、悪いことばかりでもないが、どんな歳になっても希望とか生きることに飽きてはいけないと格言にもありますぞ。森進一って歌手がいて、泣き節といわれるけど、ディック・ミネの人生の並木道を歌わせると抜群の味を出す。苦労の度合いが大きかっただけに、歌にこめる哀感が人を打つのだろう。宇田川君の家の近くには飯塚新太郎君、島田源太郎君などがいた。その島田君も数年前に亡くなった。いつもにこにこした少年だった。