2011-04-08

上馬の思い出9

上馬メトロに自転車でフイルムを運んでくるあにさんがいた。軽快な自転車にフィルムの入った進駐軍のギア(袋)を積んでくる。いつも赤い顔をしていたのは、運んでくるフィルムの重さより、下北沢を出るときに一杯ひっかけていたのだろう。今のように車が頻繁に走っているわけでもなく、ひどくのんびりした時代だった。
映画館は箱で、中にあるのは映写機とステージ、そこに銀色の幕があり、よくみると点々と穴があいている。その後ろに大きなスピーカーが鎮座していた。そこから黒いコードが出ていて、それが途中で中継のコンセントがある。それが何かと不思議に思って、それを引き抜いたことがあった。途端に客席から声が聞こえないゾと大声、慌てて又接続した。悪ガキだった。就学前でも映画館に入るのに金をとられた。
金なんかあるわけもないから、入り口で切符をもぎる女性の前を通過しさえすればいい。そこで智恵を絞って知らないオジサンの袖につかまるフリをしてマンマと入場。利用されたオジサンは袂を振って、つかまるなの合図、勿論こちらとて中に入ればサヨウナラだ。
バンジュン、アチャコ、エノケンなどのドタバタが面白かった。
映画館に入るのにはもう一つの手口があった。昔のことだから冷房がない。休憩時間になると非常口を開放、そこに自転車屋側で待ち構えていて、中に入り込む。冬はダメ、寒いから非常口なんて固く閉ざされている。
自転車屋は玉電通りの上馬メトロと若林交番近く、改正道路三茶小側にあった。小学校に入って自転車に乗りたかった。近所のアニキ連は巧みに自転車を乗り回している。若林寄りの自転車屋に貸し子供自転車があり、それを借りに行った。乗れないから歩いて押してくる。途中で近所のアニキ連に会えば、自転車の後ろを押えてもらって自転車乗りの稽古、ヨロヨロしながらも前に走れるようになった。アニキ連が走り出すと押えていた手を放す。押えてもらっているから大丈夫だと思っていたが、「うまいじゃなか、一人で乗れてるゾ」と言われてヨロヨロして歩道の縁石に当り転んだ。
「ブレーキ、ブレーキ」とアニキ連が教えてくれたが、ブレーキの使い方を知らなかった。小学校三年生の夏のことだった。改正道路の歩道は大きく広く、車も通らないから悪ガキどもには天国のようだった。
街路樹の栃の木は上馬駅から若林交番の世田谷通りまで列なり、天狗の葉団扇のような大きな葉が路上に大きな影をやなしていた。アブラ蝉が激しく啼きだし、暑さを一層感じさせた。栃の木の木陰は涼しさを感じさせた。それでも夏の盛り、四万六千日、皆が大汗をかいたころ、夕立が襲ってきて、誰彼の別なく白く路上に立てる雨脚のなかを逃げ惑った。
あのころは毎日のように夕立ああったもんだ。
三茶小の図画の先生は根津画伯、味のある絵をおかきになった。この先生が栃の木の写生の時に、影を黒く塗ったとき、このように教えてくださった。
「影というと黒と思うだろ、よくよく見てごらん、ブルーの濃いのとか、葉が風にあおられたときは、影のなかにピンク色までも混ざっているよ」
この根津画伯の言葉は終生忘れられない。ものごとを一面からしか見てはいけない、固定観念が自分を小さくすると、写生の中で教えられた。素晴らしい先生だった。このことは礼の言葉として伝えようと思っていたが、二十二年前の同期会に先生が来られて、壇上からこの話をさせていただく機会に恵まれた。画伯はありがとうとおっしゃられた。積年の思いが果せて満足したが、ほどなく先生は亡くなられた。いい先生だった。
忌野清志郎って歌手が「ぼくの好きな先生」という歌を残した。この歌手は56歳で亡くなった。実に言いえて妙な歌が、これ、根津画伯を言い表しているような気がして、聞くたびに思い出す。でも、この曲のことを先生に伝えられなかった。感性、これは文字には出せないものだが、心の中に厳然としてある。