2011-05-30

駒中の話4

教室に英語の先生が入ってきた。どうしても英語を勉強して熱海湯の裏のお姉さんのように言葉を理解し、人の役に立ちたいと張り切っていた。背の低い、あまり風采の上がらない人で、髪が長く鼻にかかるようなのを手で時折もちあげていた。
黒板に自分の名前を書いたら皆が笑った。井出孫六、六番目の孫なのだろう。長野県出身で東大文学部仏文科を出た。この先生は他の先生と異なり、何かキラキラと光るものがあった。風采は上がらず茶色の背広がことさら格好が悪く見えた。でも、何か違うものを感じ、英語の授業が面白かった。先生は黒板に絵を描きながらHAT、帽子だと思えと下手くそな絵を描く、都度、皆が笑う。あまりその笑いが長いと、手で制しながら静まれ、静まれという。静まれも古風な言い方だと思ったが、七人の侍で、このセリフが出てくる。先生は代議士の倅だと噂が流れた。
そんなような雰囲気もあったが、中学生にとってはそんなことは大した問題ではなかった。夏休みだか、冬休みだったかが終って学校に行くと、別の先生が出てきた。ニワという熊本県仙波山の産の人だった。途端に英語に興味がなくなった。この人の授業は面白くない。次第にやる気が失せて、英語の成績はふるわなくなった。
勉強は教える側の熱意を生徒が敏感に受け取るのだろう。井出先生がやめた理由は中央公論に入社したからだという。中央公論の何たるかも知らなかった。
そして、その井出孫六の名を昭和50年の新聞で見つけた。直木賞をとったのだ。その本を読んだが面白くないものだった。それでもやはり、あの先生の中に光るものがあったのは間違いがなかった。とても嬉しくて、誰かに話してみたかった。高校時代の友人に話したが、「そうか」で終った。
先生の中で弾けるような光を感じたのは私だけだったのだろうか、浜畑賢吉さんも井出孫六先生の素晴らしかったことをNHKのラジオで語っておられたことがあった。あれは昭和51年か2年、毎朝の番組だった。浜畑さんが三茶小、そして駒中の話をされ、それがとても懐かしく、そして誇らしく感じた。テーマ曲も厳選されたもので、南仏を思わせるような響きがあり、ラジオがあんなに豊かな時間をくれたのは、その時だけだった。NHKには駒中の同期の五十嵐さんが、今でもラジオに出ておられるが、こちらはお座なりで面白くも何ともない。やはり個性なのだろう。人を惹きつける役者を長くされている浜畑さんは、そこのコツをつかんでおられるのだろう。
井出孫六先生もご健在で健筆をふるっておられる。地味な作風ではあるが、鋭い視点が世に受けているようだ。駒沢中学にたまたま赴任された御縁ではあるが、私にとっては生涯の宝物の時間でもあった。それが一年にも満たない時間ではあったが、静まれの言葉と、帽子だと思え、牛だと思えと言いながら、黒板に向かって白墨を動かす姿が今でも眼に焼きついている。

2011-05-29

駒中の話3

1年C組に大石君という笑い顔に特徴のある、いかにも人の良さそうで、いつも頬の横に手のある人がいた。優しい喋りで顔とピッタリしていた。この人の家に学校の帰りに寄ったことがあった。大人しそうな妹さんがいて、水上君の結婚式だかに同席したとき、その妹さんのことを訊いた。すると声を落とし、顔をくもらせ、「妹のことを覚えていてくれたの、そうか、ありがとう、でもね、妹は死んだんだよ」と淋しそうに言った。まだ二十歳代だっただけに、落胆は大きかった。その大石君の顔を同期会で探したが、見当たらず友人に聞いたところ、大石君は車を運転中に心筋梗塞で亡くなったという。それも道端にキチンと車を停めてだ。いかにも彼らしい死に方だと納得しながら悲しかった。
中学生の頃から妙に大人びて、ネクタイ姿を想像させるような優しい喋りが、いまでも後ろから「元気かい」と声をかけてくるような錯覚にとらわれる。
人は誰でも死ぬ、これは摂理でどうしようもないが、短い長いが問題ではなく、どれほど真剣に生きたかが問われる。大石君の人生は短かったけど、爽やかな印象を与えた人だった。
このクラスに源玲子さんという、これまたこぼれんばかりの笑顔の綺麗な人がいた。ライオンというあだ名の美術の先生がいて、喋る言葉が「ウオー、ウオー」というまるで訳がわからない人がいて、いつもボサボサ頭だった。この先生は芸大出で腕は優秀だったおだろうが、絵を描かれているのを見たことがなかった。この先生が状差しを作れと言った。手紙入れのことだ。彫刻刀を使い思い思いの作品を作る。隣のクラスを校庭から覗いたとき、源さんが真剣に彫刻刀をたくみに使い、鎌倉彫ばりの牡丹花を見事にえぐり出した。その冴えの良さ、大胆な構図に息を呑んだ。中学一年生でこうした作品をものすることが出来る人がいるんだと、感心を通り越して、その才能を妬んだ。
自分の作品とくらべると天と地、月とすっぽんで、世の中は広い、素晴らしい人がいるものだと頭が下がった。
この人は女子美高校に進学された。どんな作品を作られたのかは知らないが、才能を開花されたのではと推測するばかり。ライオンは佐野先生と言った。この人の審美眼は実に面白く、好きだった。先生はプラタナスの幹の皮が剥げるのをしげしげと見つめ、美しい、一つひとつが違っていて、同じものがないと、実に嬉しそうに教えてくださった。
あんなつまらない物がどうして美しいのかと不思議に思ったが、今となっては先生の言われた意味がわかるようになった。
佐野先生は長く駒中におられたようだ。卒業して一度もお眼にかからなかったが、実に印象深い先生だ。
美術の先生には樋口先生がおられたが、若くやはり芸大出で、自分でも制作に励んでおられた。夕陽にカラスの絵を描かれ日展に出すんだと、張り切っておられ、その大きなキャンバスを山内君と上馬の駅まで運ばされたことがあった。その絵は日展に通って、先生は満面の笑みをこぼされたが、運んだ人物のことはすっかり忘れておられた。

2011-05-28

駒中の話2

陸上カバのあだ名の先生のクラスに三茶小から来た宮坂みさおという女の子がいた。この子は活き活きとした瞳の顎がほっそりとした利発な人で、中学生だというのに、ほのかな色気があり、この人は大人になったら男を悩ます存在になると思った。何で見たのか日本妖婦伝のようなものに、高橋お伝というのがあった。その挿絵が宮坂さんに良く似た美人、これだと思って学校で友達に話した。多分、小林ヒロシゲ君だとおもうが、一決して「お伝」の仇名となった。「何であたしがお伝ばのよ」と怒っておられたが、誰もが「お伝」と呼ぶようになり定着した。
高橋お伝は嘉永3年、群馬県みなかみの産、仮名垣 魯文が高橋阿伝夜叉譚(たかはしおでんやしゃものがたり)として書いて大当たり、芝居でも大当たりとなった。墓は南千住の小塚原、鼠小僧次郎吉の隣、また、谷中の墓地にも芝居で大当たりをとった礼として守田勘彌、尾上菊五郎らが寄付者となり建立。
この宮坂さんは成人して、そんな浮名の立つこととは全く無関係で、堅実な良妻賢母となられて、中学生の推察するような人生は歩まれなかった。
この1年D組に松本アッチチがいた。この人はアキユキという名で、小学生の頃、自分の名前がはっきり言えず、アッチチのあだ名になった。国語の時間、宇佐美先生が詩の解説をされ、「からたちの花」からたちの花が咲いたよ、白い白い花が咲いたよ、からたちのとげはいたいよ、青い青い針のとげだよ。
北原白秋のことを教えていただいた。福岡県柳川の人、早稲田大英文科に進学、新詩社に参加。与謝野鉄幹、与謝野晶子、木下杢太郎、石川啄木らと知り合う。『明星』で発表した詩は、上田敏、蒲原有明、薄田泣菫らの賞賛を得た。この詩に曲をつけたのが山田耕筰、東京本郷の産、東京芸大卒、岩崎小弥太の支援でドイツに留学、日本語の抑揚を活かしたメロディーで多くの作品を残した。
この「からたちの花」も山田が作曲、この歌を唄える人がいますかと宇佐美先生がきいたとき、松本君が手を揚げて、しきりに恥ずかしいなを連発しながら唄ったのは、聞いたことのない歌。彼はこの歌を知らずに自作の曲をつけていた。歌が違うと批難の声が生徒から上がるも、「え、これに曲があったの?」とケロリ。松本君の無知を笑うより、その才に驚いた。どのように作曲しようとしたのかはわからないけど、詩をみて、これに曲があればもっといいと思ったのだろう。そして自作の曲を発表、だから恥ずかしかったのだ。
しかし、彼はその才を生かすような道には進まれず、福島県の飯坂温泉に居住されている。何故福島県に行かれたのかは知らない。片雲の風に誘われ流浪の旅の表現もあり、私も人のことを云々できず、青森県八戸の片田舎にいる。懐かしい東京世田谷に継続して居住の出来なかった人々にとって、三茶や駒沢は郷愁の地、長谷川伸の「瞼の母」、番場の忠太郎ではないけれど、遠くにいても瞼をとじれば、あの駒中の誇り臭い古い校舎、友の呼ぶ声が今も聞こえる。

2011-05-27

駒中の話1

駒中には立派な鉄製の門があった。その門に校章が飾られていた。中学生になったという実感とともに、その校門をくぐった。そして、その3年間はあっと言う間であったが実に楽しい時間であった。
校門の前は麦畑が広がっていた。陸稲が風にそよいでいたこともある。校門の横には広い下水が流れていた。校門から出ると右手にだらだら坂が上り勾配であり、そこを陸上部がダッシュをしていた。陸上競技というのも妙な競技で、ただ前に進み、ルールも規則もなにもない。ただひたすら足を回転させるだけ。フィールド競技になると高くとか遠くまでなどのアレンジもあるが、球技の面白さからは遠く離れて、かなり原始的な運動だ。
陸上カバというあだ名の先生が担任、うまいあだ名をつけたものだと関心、喋ると声が裏返って、その都度生徒が馬鹿にして笑った。身体がごつく、顔はまさにカバそっくり、それが突然、女のような声になるから奇妙奇天烈、生徒の失笑をかうが、ご本人は至極まじめ。面白味のない先生だったが、授業は熱心に展開。生物部を受け持っておられた。そこには千田君がいた。千田君の家は玉電通りの上馬、中里寄りでデカシさんの前側にあたった。お父さんが歯科医、千田君もそれを継いだ。同期会にも熱心に顔を出されたが先年亡くなられた。特徴のある笑い方をする人で、いつも、この人は本当のことを言っているのだろうかと、眼の底がキラリと光る癖があった。飯川君と中が良かった。
三年生の時、クラブ対抗リレーがあり、生物部は昆虫採集の長い網をバトン替わりに使った。1メートル半もある長いものだけに、もたもた走っていてもバトンを渡すたびに先に出る。うまいことを考えたものだ。
駒中はタンチ山の裾を校庭にしただけにあって、校庭はかなり広かった。運動会は熱心だったが、学芸会はなかった。生徒が湧くように中学に押し寄せ、校舎を増設した。もとの校舎は二階建てだが、オンボロだった。中庭に二面のテニスコートがあり、横溝さん、宮崎君、山口淳子さんたちが白球を追っていた。宮崎君はかなり達者な球あしらいの出来る人だった。平賀先生がテニスの指導をされていた。少々キザな感じの人、テニスの巧拙は知らないが、よくコートの隅に立っておられた。その中庭の端に小屋があり、そこが卓球部の練習場になっていた。錦織君が練習をしているのを覚えている。どの子もキラキラと光っていた。中学生になったことを自覚し、精一杯好きな運動をしようとの意気込みに溢れていたのだろう。
弾むような声があちらこちらから聞こえた。バスケットは大賀志君や綿貫君が上手で、指導の木村先生のホィッスルが鋭く聞こえた。この先生のあだ名は雷魚、釣堀で雷魚を釣った話を楽しそうに語って、雷魚の名が定まった。この先生は国立金沢大学を出てきた。若くて先生に成り立て、谷、小林などの先生も大学を出たばかり、若い先生が多く、指導者の側もはりきっていた。校長は林という音楽教師、眼鏡をかけたおじいさんのおうに見えたが、今の我々よりずっと若い。小林先生は青山学院の英文科、勿論英語の教師だが、あだ名を茶々若丸、これは小林ヒロシゲ君がつけた、なんでも漫画の主人公だという。

2011-05-26

弦巻の話2

柳家金語楼の家があり和風の玄関引き戸は格子、ところが、それが何処にあったかが判然とじない。アーチャンにも訊いたが駒中の近くだよと、これまた心もとない。中野さんは存在すら知らなかった。金語楼は山下敬太郎が本名、陸軍の兵隊になった話を得得手とした。映画にも出て爆笑王、テレビのジェスチャーで水の江瀧子と名進行、この金ちゃんは発明家としても有名、どんなものを発明したかといえば、くだらないものだったが、フーンと言って忘れるようなものばかり、学童が体育の授業時に被る「赤白帽」など、子にロカビリーの山下敬二郎がいた。
駒中の際に画家の向井潤吉がいて、この人は農家ばかりを描いて有名、その居宅は美術館になった。駒中にはタンチ山があり、校庭はその山に半分占領されていた。学校の中に山があるなんてのは、知らない人は信じられないだろう。その山に図書館ができ、校長が「無音館」と名づけた。洒落た建物だったが、これももうない。山の上に道路があり、山坂の多い地形、弦巻あたりが地形的には高く、駒留神社に向け下がっていった。蛇崩川は三茶小をかすめるように流れていった。
三茶小の近くにくると、松原君の家の前を通り、ここらがアーチャンのザリガニとりの場、皆がてんでに自分の縄張りをもっていた。
改正道路の駒留神社寄りの道を弦巻に上がっていくと、駒中で同級生の飯田君の家があった。道路の右側にあり、飯田君は実に折り目正しい人、サラリーマンになって成功したのではなかろうか、爽やかな印象を与える、言葉使いの丁寧な人だった。あまり正確な記憶ではないが、建築関係の仕事をされたようにおもう。もう何十年もお眼にかかっていない。改正道路に鈴木君の食料品の店があり母親が店番をしていた、父親は勤め人だったように思う。鈴木君も賢い人だったが、背が低かったが、その後身長が伸びたのだろうか、同期会にも出てこなかったので、中学卒業してそれっきりになってしまった。鈴木君も飯田君も移転されて、今は、ここら辺が彼の家だったけどなあと、実にこころもとないこと甚だしい。
上馬にも、さあ行くぞと心を決めないとなかなか行かれなくなってしまった。昔と同じところに居住されている人もおられる。塙さんがそうだ。この人はもの静かな美人、知性溢れるという表現がピッタリだった。飯川君も同じところで暮らしておられる。駒沢にマンションを持っておられた。そこでビデオを大きな音を立てて見せてもらった。飯川君の母親は三茶小の音楽の先生、その血で彼は歌が上手、それもポップスを得意とし、横文字の歌を好んで唄われる。エルビスやポールアンカなどのオールデイズ、これがまた楽しい。
あの頃は歌謡曲ファンとポップスとに二分され、ヒットチャートやS盤アワーなどを楽しみとした。生駒君は歌謡曲を好まれ、三橋美智也がいいと言っておられた。高音の伸びがなんとも言えない味を出した。この三橋は明大中野高校に通った。東横線の綱島の温泉でボイラーマンをしながら高校に通った。歳は同級生より多い、それでも卒業までこぎつける。その学生服でキングレコードに通っていた。なんとか一発あてようと頑張っていたのだ。その頃同様に作曲で当てようとキングに入り浸っていたのが船山徹、この人は別れの一本杉で当てる。作詞家の友達はそのヒットを見ずに死んだ。苦楽をともにしただけ、船山はがっかりした。三橋は昭和30年、「おんな船頭唄」で飛び出す。力のある者は報われる見本。

2011-05-25

弦巻の話1

弦巻は八幡太郎義家が弦を巻いたというが、弦を巻くは弓弦を巻くということなのだろうか、外すとは戦が終了したということなのか、さすれば勝ち戦地蔵とか、勝ち戦神社などがなければ治まりがつかない。これには諸説があるようだ。
さて、蛇崩川に雪が積もり、それを三茶小から根津先生に先導され、スケッチに行った。その年は寒く、週に一度の図工の時間でも、次の週まで雪が消え残った。どの子も素晴らしい絵を描いた。日頃みかけない景色に感動し、絵筆に力がこもったのだろう。根津先生は雪の上の屋根の影を良くみるように、絵を描くということは対象をしっかり、じっくり見つめることだと説かれた。まったくその通りで、通り一編の物の見方では当たり前にしか描けないが、注意深くみると気が着かないことに出くわす。あれ、こんな風になっていたのかと、思わずフーンと唸ったものだ。
根津先生は子供の才を引き出す能力に優れたものをお持ちだった。あんな先生は居ないと絵の上手な中西君も後年そう言っていた。
人に影響を与える存在というのは貴重なものだ、が、その本人が気づかずにされている場合がある。根津先生の指導は子供たちに絵の面白さを教えてやりたいという構えたものではなく、子供たちが自由に描く、その対象をじっくり見ろ、その中に描きたいもの、描かなければならないものが見えてくると、その子の手をとり、一緒になって対象を線に現し色で飾った。だからこそ五十年も経っても忘れないのだろう。
その蛇崩川は馬事公苑から流れてきた。源がそこにあった。そして、中目黒で神田川に合流、その弦巻に笠置シヅ子がいた。1914年香川県東かがわ市の産、小学校卒業し宝塚を受験するも不合格、OSKに入団、昭和13年服部良一と巡り会い人生が一変、戦後ブギの女王として一躍脚光、ブギはブルースのリズムを倍速にしたもの、買い物ブギがアップテンポで有名、これは服部が作詞作曲、ジャングルブギは黒澤明が詩を書き、野良犬で採用、ウワーオワオと我々子供も真似をした。ブギで当てた笠置は吉本興業の社長令息とアツアツ、子供が腹にいるとき急死、女手一つで子を育てあげる。この境遇に同情あいたのが娼婦連、日劇のステージはそうした女たちが花束を持って待ち構えた。
その笠置の家が弦巻にあり、それは瀟洒なもの、成城学園には映画関係者の同じような家が立ち並んだが、弦巻の笠置の家は掃き溜めに鶴、南欧風の白い壁、緑の芝生がまばゆく、幼い子が子供用の自動車で遊んでいた。
笠置が美空ひばりに自分の歌を唄うなと言って、美空はひどく困るが、何、美空の才能を引き立てるべく作詞家・作曲家が腕をふるい、笠置はブギの女王だが、美空は歌謡界の女王に成りあがった。
笠置の家を通るたび、実力があればこうした豪邸に住めるんだと心を強くしたが、この歳になると、そうした運は無縁だったと知らされた。夢・希望はどれほど高く持つも自由、されどそれを成就するは難い。麻生画伯のときも記したが自身の才を信じ、人生の大海原を果敢に恐れを知らず小舟を繰り出す根性と度胸、これが一般人には欠けているのだ。
女の細腕一つで人生の大海を漕ぎきり大輪の成功の花を手にしたダイナマイトガールの笠置も歳を重ね、突然声が出なくなり歌手を引退し、ドラマの出演、個人タクシーの女房役が今も心に残る好演。その笠置も70歳で亡くなり、その瀟洒な家はマンションに転じた。

2011-05-24

三茶小の話15

桜井君は身体が弱く、母親が学校に行くのを手伝って、共に校門まで来た。その母親に用事のあるときは近くの友人が共に通学した。山岸君などがその任を果した。昔はこうした助け合いをしたものだ。昨今の小学生は大人の顔をみると「おはようございます」と積極的に声をかけてくる。我々の頃とは大違い、声をかけられた大人の方がどぎまぎして、思わず「お、おはよう」となる。
子供の数がめっきりと少なくなり、昔のように我が物顔で路地や横丁で遊んでいる子もいない。
改正道路の歩道は幅が広く、そこで大声をあげて「花一匁」をして遊んだ。これをやると近所の子が総出で手をつないで、横一列になり、前に蹴り出し、後ろに退(すさ)る。
「勝って嬉しい花一匁」「まけて口惜しい花一匁」これは本当は悲しい歌なのだそうだ。女の子を花に見立てて、女衒に買われる。まけては安くしての意、勝っては買って嬉しいと読み変えるという。
そんなことは勿論知らず、道子ちゃんが欲しい、キエちゃんが欲しい、相談しようでジャンケン決着、どうということのない遊びだが、仲間にとった人をとられたりと際限がない。そのうちに夕暮れ時となり、親に「ご飯だよ」と呼ばれ、一人へり、二人消える。
大平さんのキエちゃんがこの花一匁が好きで、よく遊んだものだ。夏の夕暮れ、空に暮れ残りの夕焼けが赤く、遠くに一番星が見えるころ、最後に残った子供も食事のために家を目指す。どこにもある光景、それが今は何処にも見られなくなってしまった。
筝曲を上手とした桜井君は高校生のときに亡くなったという。短い生涯だったが、三茶小の卒業式での、あの見事な演奏はあの夏の夕暮れ、遠く一番星をみるような、いつまでも心に滲みて残っています。もっと、桜井君と話をしてみたかった、もっと優しい気持ちで友達になってみたかったと後悔は先に立たず。

2011-05-23

三茶小の話14

桜井君という身体に障害のある子がいた。三軒茶屋の大和銀行近くで母親が三味線を教えていたそうだ。桜井君は筝曲を勉強、そして晴れの舞台が我々の卒業式の日にあった。桜井君が琴を演奏してくれた。日頃は身体が弱いせいもあり、運動などはせずいつも校庭の隅にいた。それがこの日は和服を着込みお辞儀をして琴の前で、その日頃の修練の冴えをみせた。我々は感動し惜しみの無い拍手をいつまでも続けた。桜井君は照れながらも笑顔を絶やさなかった。
駒中に行っても桜井君はいつも静かで大人しかった。琴の練習してるのと訊くと、ニヤリと笑うだけで言葉を発しなかった。駒中の卒業式では桜井君の手練の技は披露されなかった。駒中の先生は桜井君が琴の名手だということを知らなかったのかもしれない。
三茶小は五組しかなかったから、先生の眼も届き、駒中は十クラスもあったので、それができなかったのかも、でも、駒中の先生にはそうした優しさが欠如していたようにも思える。学芸会がなかった。講堂もなかったので学芸会もないと短絡すれば理解ができないわけでもないが、図書館を新設するより講堂の方が先だったような気にもなる。無論、教育委員会が決めることで駒中の職員がどうこうできる問題ではないのだが、それにつけても三茶小での桜井君の筝曲演奏はいつまでも心に残った。
その桜井君とは二言三言、こちらから一方的に話をしただけで、彼も若くして亡くなったそうだ。もっと色々と話をしてみたかった。ニヤリと片頬で笑う仕種が今でも心に残っている。私のクラスに長岡レイコさんがいた。この人はいつも居るんだか居ないんだかわからないような静かな人、ある日他校の先生が社会科を教えに来た。三茶小の職員も詰めかけその授業を参観していた。
その先生が気になることを作文にしろと命じ、長岡さんが自宅近くの下水の話を書き、それを発表した。すると堂々と言葉を巧みにつなぎ、主語と述語の脈絡もしっかりして、わかりやすい話だった。不断はあんなに存在の薄い人がと驚いたことがあった。人は何か事があると、その表には現れない能力を示すもの、桜井君の筝曲も長岡さんの発表も実に素晴らしいものだった。その長岡さんにも中学を卒業して一度も会ったことがない。こうして振り返ってみると、中学卒業しサヨナラの言葉も交わすことなく一度も会わない人が多数いることに驚く。
真中の停留所の前に真中パンがあり、その娘さんが中学で同期、黒目のクリクリとした人、話すときにエクボができる綱島さん、名前も忘れてしまったが、同じクラスの松井チエさんの仲の良い友達、その真中パンも今はなく、松井さんも遠くに移転、同期会でお逢いしたのも、もう十年も前になるだろうか、それにつけても、あの駒中の空の下でサヨナラした人たちは今でも元気でいるのだろうか。

2011-05-22

三茶小の話13

島本さんの隣に座っていた川名君がねずらしくクラス会に出席してきた。そして島本さんが来ないのかと訊いて、がっかりしたように、来ないなら来なければよかったと現金なもの。心の中でいつまでも島本さんのことを思い続けていたのだろう。彼にとっては小学校の思い出は特別なもので、それも級友の誰彼ではなく、島本さん一筋というのがおかしい。たしかに明るいフランス人形のような島本さんではあったが、その他の思い出はなかったのかな。
ラジオが身近な友達だった我々の世代はNHKが主ではあったが、民放の開始によりCMソングにも触れることになった。民間放送はNHKと異なり聴取料をとらないため、広告を流し、それを財源とした。昭和二十六年四月二十一日、民間放送が誕生、東京はJOKRのラジオ東京、JOQRの日本文化放送、大阪は新日本放送と続々、買ってくださいではなく、買うことで満足が得られる、幸せになれることを印象づける工夫が必要、耳ざわりがよく、聞いているうちに口ずさみ、知らず知らずに、その商品名が頭に入りこみ、思わずその商品に手が伸びるような歌、それをつくろうと決め、作詞家、作曲家をあたりはじめ、敗戦でうちひしがれた人々に希望を与えた「りんごの唄」、当然、この作詞をしたサトウ・ハチローにも作詞を依頼、作曲も方々に手を伸ばし、文豪芥川龍之介の三男、也寸志に依頼と、電通の手は八方に伸び、NHKにないコマーシャルソングが、東京や大阪の大都会と同じように田舎にも流れ、民間放送が都会と田舎の文化の差を埋めた。
作詞サトウハチロー、作曲芥川也寸志の「エンゼルはいつでも」、だァれもいないと思っていても、どこかでどこかでエンゼルは、いつでもいつでもながめてる、ちゃんとちゃんとちゃちゃぁーんとながめてる。
おなじお菓子の歌には、お菓子の好きなパリ娘、ふたり揃えばいそいそと、角の菓子屋へポンジュール、選る間も遅しエクエール、腰も掛けずにむしゃむしゃと、喰べて口拭くパリ娘。これはCMソングではないが西条八十の作詞、洒落た楽曲で作曲は東京本郷産の橋本国彦、芥川也寸志の師匠、朝日新聞が募集した作詞に曲をつけ広く唄われた「朝はどこから」の作曲でも知られる。
森永の広告ではあったが、ラジオからこの曲が流れると、なぜかほっとした気分になったものだ。歌には力があると幼いながらに思ったものだ。小学生たちもラジオ放送のテーマ曲などを口ずさんでいた。「赤胴鈴之助」などは今でも唄える。子供の頃のことは良く思い出せるが、昨日の晩に何を食べたかは思い出せない。

2011-05-21

三茶小の話12

隣のクラスに北川マチコさんというフランス人形のような子がいた。その子の瞳がいつも潤んでいるような何処となく切なく、胸をしめつけるような訴えるものがあった。服装もいかにも裕福な家庭の子のような気品をも備えていた。一度も会話をしたことがなく、中学校へ進学しても遠くからだけ眺めていた。お父さんを事故で亡くされたが、端正な風姿は変ることが無かった。後年、この瞳と同じ絵を見つけたことがあり、北川さんの眼だとしみじみ感じ入った。
その絵は挿絵画家として一世を風靡(ふうび・風が草木をなびかすように、その時代の大勢の人々をなびき従わせる)した竹久夢二、岡山県の産、この人の代表作の黒猫を抱いた女性の絵、「長崎屋」の眼がしれだった。この絵の有名なことは論をまたぬが、作者は愛する女性を病魔に奪われ、その容姿を絵にとどめたと言われる。同期会でもおみかけしたが、その後体調を崩したような話も聞こえてきたが、元気でいつかお眼にかかりたいもの。
5組にもフランス人形のような愛らしい子がいて、島本康子さんと言った。世田谷通りの薬局の娘さんで、薬店の名は雄飛堂、素晴らしい名前だ。この子と並んで座りたくて皆が席替えを楽しみにした。その隣の席に川名君が決まり羨望の眼差しを一身に浴びた。その川名君に2000年という年が来る頃、ぼくたちは57歳になるんだと、私が得意そうに喋ったのは隣の席の島本さんに自分の利口を示したかったのだろう。勿論、川名君も島本さんも呆気にとられた顔、そして島本さんが「私の父より年寄りよ」と言って、言い出した私も驚いた。そんな年寄りになるんだと、想像もできなかったが、その年寄り十も余計に生きてしまった。
自分の長生きに驚嘆する。私は二十歳で結核を患い入院し、間もなく死ぬのだろうなと覚悟した。肺に穴が開いて電信柱の間の距離が休まないと歩けなかった。入院して薬を全部棄てて、呑んだふりをしてひたすら眠った。入院費が払えなくて脱走、それからあっちにぶつかりこっちで転んで、人並み以上の辛酸をなめて生きてきた。それも六十もとうに越えて、何時死んでも不足はありません。面白い人生を送らせてもらいました。あの小学生の頃、2000年の年にビックリした少年少女も、気がつけば白髪のおじいさん、おばあさん。いつの間にか年を重ねてしまいました。
同じクラスに今永ミワコさんがいて、この人は利発そうなキラキラした眼の人、おとうさんが缶詰のレッテルを描く仕事をしていた。今で言えばグラフィックデザイナーだ。この今永さんは大人しいけど、活発で自分が決めたことはサッサとこなした。後年、同期会でお会いしたとき、社交ダンスをしておられるとか、あの世界はきらびやかで、そして運動神経が発達していなければならない。音楽に合わせて軽快にステップを踏み、そして、いとも楽しげに満面に笑みを浮かべる。パートナーも大事で一人で出来ない仕事、結構大変そうだが、ご本人は楽しくてたまらないと言っておられた。
あの今永さんがね、と言うのと、やはりそうなのかなと、三つ子の魂百までで、決めたことを貫くいい面を上手に出されたのかなとも思い、たのもしいもんだと思った。今でも軽やかにステップを踏んでおられるのだろうか、今年は同期会がありそうなので、楽しみにしています。

2011-05-20

三茶小の話11

6年1組の担任は神戸先生、うら若き美人女性、この人が誰と結婚するかを幼い子供たちも真剣に悩んでいたが、これまたハンサムでおしゃれな宮田先生が、その相手であると噂が噂を呼び、それはもう大変、人の結婚などどうでもいいような話だが、それはそれ、ミーチャンハーチャンの玉子だけに、ことに女の子が熱心に話題にしていた。
神戸先生は体育の時間にトレパンをはいて紺色のVネックのセーターで指導、それは溌剌としたスタイルだった。先生のまわりを生徒がとりまいて校庭を移動中に、「先生、宮田先生と結婚するの」と皆が気にしていることを訊ねた。すると先生は「子供がそんなことを気にするものじゃありません、それは私の問題です」と顔面紅潮させて力んだ。
今にしてみると妙なことを訊いたもんだと思ったが、その時は誰しも知りたい問題で、訊ねて悪いなど少しも思わなかったが、うら若い女性に唐突な質問だと詫びる気にもなるが、もう五十年以上の前の話で、これまた時効。
宮田先生は放送部の指導をされていて、効果音のレコードの使用方法などを教えていただいた。言葉が柔らかで物腰の静かな人、なかなかの紳士であられたが、少々背が低かったのがキズ、一方の神戸先生は鼻にかかった喋りかたで、どちらかと言えば少々キザったらしい。小学生にとっては初めて接する自分の家族以外の大人、それだけに興味津々、まして女性の仕事の結婚を遠く先にではあるが、身近なものとして捕らえなければならない女子にとっては大問題。ともかく学校は子供たちにとっては格好の社交場、これしかないのだから毎日ワイワイ・ガヤガヤと楽しいものだった。
小学校三年生だか四年生の頃、冬が大変に厳しく、校庭が前面凍結したことがあった。そんな中でも上級生はズック靴を上手にあやつり、凍結した校庭をまるでアイススケート場のように滑って走った。冬季五輪が開催されたころで、ゴンチャレンコなどの外人選手の名前を言い合ったことを覚えている。寒かろうが暑かろうがそんなことはおかまいなし、ともかく毎日が楽しければいい。
そんな凍結した校庭の氷を小便で溶けるかと競争した。それを横山先生に見つけられ、そんなところで小便をするなと言われ、出かかった小便が止まった。後にも先にも立小便をとがめられたのはこれだけ。その小便の後が黄色く輪になって痕跡をとどめていた。それでも、ここで小便をして先生に怒られたと指差して友達に誇った。妙なガキだ。
学校帰りに改正道路の中野さんの家の近くに一升瓶が割れてマムシが飛び出していた。マムシ酒にしたものを運んでいる途中で割れて放置したのだろう。そのマムシの尻尾を持って三茶小の戻った。それを用務員室に持ち込むと横山先生が、下に置けというので並べておいた。そのまま帰ってきたが、その後が大騒動、用務員室に来た植木先生(女)がそれを見つけただか、踏んづけたかで目を廻したという。
翌日の始業時間に植木先生が突然入室し、「悪いイタズラをするもんじゃない」と小言を言われた。皆はあっけにとられていたが、私がしでかしたことは直ぐに知れ渡った。
放送部の仕事は宮田先生から渡されるプリントを読み上げることで、給食のメニューを伝えた。カレーが何時出るのかが最大の興味、食べることしか頭になかった。自分のことだけ考えていればいい時代、だからこそ子供の頃が懐かしいのだ。
土屋さんい訊いたところ、神戸先生は今も駒中の近くに居住されているとのこと。ご主人になられた宮田先生は若くして亡くなられたという。宮田先生が演劇で、ひと房のブドウを手渡されるシーンがあり、それをいまでも覚えているが、相手役はさて、誰であったかがサッパリ思い出せない。記憶というのはかくほど左様にまだら模様。

2011-05-19

三茶小の話10

板橋君は6年2組、この人のあだ名は「お富」、駒中ではこの名で通った。これを決めたのが実は私、もう五十年も前になるから時効で勘弁していただく。板橋君は神経が細かく、気配り目配りのできる人だった。駒沢中学は生徒が三校から寄せてきたので満杯、休み時間に便所に行くと列をなしている。雑談しながら自分の番、ところが板橋君は後ろに生徒が並んでいると小便が出ない。しないまま、次の人に順番を譲る。「どうしてなのかな
と本人は悩んでいたが、それは神経のせい、こまやかな事に気配りのできる人の特性、そのため始業の鈴が鳴る瞬間に便所に飛び込む。往時は用務員のおじさんが振鈴を鳴らした。
昔、お富さんというレコードが大流行したことがあった。染物屋の生駒さんは歌謡曲に詳しく春日八郎のことも良く知っていた。春日八郎は福島県会津坂下(ばんげ)町の産、東洋音楽学校卒、講談社が興したキングレコードの第一回音楽コンクールで優勝するも準専属で下積み長く食えない。同じく準専属だった妻から作曲家の江口夜詩(よし)を紹介され、毎日通い、掃除をしたり肩を揉んだりし、曲を作ってもらえるよう願い続けた。江口に「低音が出ないし、声が細い」と指摘されると、河原に出て土砂降りの中発声練習、こうした必死の努力が実り、ようやく新曲『赤いランプの終列車』を作曲してもらうことになった。『赤いランプの終列車』を吹き込んだ春日だったが、当時無名の自分が売れるわけは無いと、ヒットしなかった場合を想定して新聞社に入ろうと、履歴書まで書いていたという。曲が作られてから1年後の1952年に、『赤いランプの終列車』は発売され大ヒット。54年に「お富」さんが出て、これで春日の地位が不動に、その春日八郎に板橋君が似ているという話から「お富」になったわけ。板橋君は五十年も「お富」と呼ばれ続けてきたが、こうしたことで申しわけありません。
板橋君に似た春日八郎は67歳の我々の歳に亡くなった。歌謡界の不滅の星の一つ、あの頃は綺羅星の如くに素晴らしい男性歌手が続々登場、三橋美智也、三波春夫、村田英雄、後ろの二人は浪曲界から歌謡界へと飛び込んできた。歌謡曲全盛の素晴らしい時代、昨今の歌はさっぱりわからない。いやあ、昔は良かった。

2011-05-18

三茶小の話9

裏門からまっすぐに伸びる道は宇田川君の造園植木置き場を左に見て、曽根君の家を過ぎると突き当たりになる。ここは林になっていて、大きな欅の木が何本もあった。どういうわけか、ここの木を切り倒しているのが、裏門から見えた。マサカリを振上げて木に打ち込む姿が見えて少しするとコーンと木にあたる音がした。理科の時間に習った音は一秒間に330メートル伝わるというのが実証できた。曽根君の家までは330メートルあったのだ。ダラダラとゆるい勾配ではあったが、意外に距離があるんだなと思った。
曽根君の隣に妹尾さんがいて、曽根君の家を右に曲がると石川さんの家、妹尾さんも曽根君も移転されたが、石川さんのお兄さんでも居住されているのか、変らず石川の表札をみつけたとき、おかっぱ頭で賢そうな瞳の大きい彼女の顔を懐かしく思い出した。石川さんは神戸に居住されている。ご主人が神戸製鋼に勤務されていると、それこそ二十年も前の同期会で言われていたのを思い出す。
同じ場所、同じ名前の表札を見つけても、我々の同級生の姿をそこに見出すことができない。文明堂のカステラは同じレッテルで、同じ味がするけど、同じ場所、同じ表札だけど友達はもういない。時の流れの無情を感ずるのは私だけなのだろうか。
このブログはこんな時代がありました、こんなことを見聞しましたと記録し、それを読んだ人が更に書き込むことを念頭に始めた。間もなく二ヶ月になる。俳優の浜畑賢吉さんが我々の子供の頃を記録すると、文章を書き始められた。その一助にもなればと開始、が、友人たちからのコメントはない。ところが、初めてお父さんが上馬で働いていた方からコメントを書いていただいた。上馬5丁目で生協(酒屋)をされていたとの由、同じ場所、同じ時代を過ごされた、そのお父さんも亡くなられたそうだ。土屋さんに尋ねたところ、世田谷通りの若林陸橋のそばに柳文具店があり、その近くに中野さんという方が酒屋をされていたので、おそらくその方のことではないかと教えていただいた。ここら辺の話は駒沢中学時代で書き記してみたい。
同じ場所、同じ時代を共有した人に、文明堂のカステラのような、変らぬ味を伝えられれば望外の喜び。たしかにああいう時代があり、人々はそれぞれ置かれた境遇・境涯のなかで必死に戦う、しかし、そうした庶民の戦いの記録は残らない。自分が踏みしめた土地がどういうものであったか、そして、その土地の上で事業・生活を営む、元気で懸命に、しかし、振り返ってみるとあれほど長かった時間も、ほんの短くも思えるのが人生。そして、磐石だと思っていた商売も景気と時代の波に揺られ、まるでガラス細工のようにはかないけれどキラキラと輝いていた。そんな商店が集まっていたのが三軒茶屋であり世田谷通りであった。その経営者たちが築き上げたガラス細工を並べて、その一つひとつを愛でた者もいない。
こうした庶民の時代、時代での暮らしぶりを本にしたものもない。精々、その時代を生きた人々を一堂に集めての座談会、けれどこれは思い思いに目にした事象を並べるだけで、一軒一軒の人々の暮らしが文字に現れたことはない。浜畑賢吉さんにもお伝えしたことではあるが、あの時代、この地域でたしかではあるが、振り返るともろいガラス細工の個々の暮らしぶりを世田谷教育委員会を説いて、本にされたらいかがと。
我々の時代、それも過ぎ去り、あれほどきらめいていた個々のガラス細工も砂埃と塵に埋もれる。投稿されたコメントがそれを教える。そうした個々の話を写真入りで掲載することこそ、このブログの狙いでもある。三茶小・駒中から多くの子供たちが毎年巣立つ、同じ場所、同じ長さの時間の経過、されど時代が異なり味わいもまた違う。我々が踏みしめた土地、これが何であったか、そして、我々庶民のガラス細工の人生を印刷や活字に頼らずとも、インターネットという文明の利器を活用し、伝えてみたいと念願する。時代は確かに移ろい、人々の考え方も違ってはいるが、人情だけはなくしてはいけないし、なくされないもの。文章を書ける人はドシドシ投稿されたい。書けないかたは要旨とその時代を記録した写真をお貸しいただければ文字と映像で、その人の人生を記します。
想像していただきたい。三茶のマーケットに、もろいけれどキラキラと輝いていたガラス細工の人生が幾つもあり、それを一つひとつ愛惜の念をこめて読むことができれば、どれほどあの時代を思い起こすことができるかを。これは大事なことで、インターネットを利用できないお年寄りには冊子にして手渡さなければならない使命もある。

2011-05-17

上馬の思い出32

生駒さんの隣は大平さん、ここには女の子の同級生がいた。平屋の建物で土間があり、左手が部屋になっていた。働き者の母親は背中に子供をおぶって、いつも元気に立ち振る舞っている。昔のことだから、煮炊きには薪を使った。その薪を細かく手斧で割り、洗濯物と格闘していた。昔はタライと選択板だけが武器で、よくもまあ、洗濯物の山に押しつぶされなかったものだと驚嘆する。大平さんばかりか、どの家の主婦も皆同じで、それに不平も不満もなく頑張ったものだ。洗濯機などが登場するのは、まだまだ後年、大平さんの家は自分で作ったような建物、土地を購入したか、借りたかして自作されたのだろう。私の家は借家で家賃支払いに汲々していた。自作でも一家を構えているのだから、大平さんの気概は立派なものだった。
それでも、それをわかるのは今になってのことで、子供のころは大平さんの家は粗末だなと思っていた。ところがある日、駐留軍家族が何台かの車で大平さん宅に押しかけてきた。大きな箱に衣類が一杯つめこまれて、その箱も幾つもあった。大平さんのおかあさんはアメリカ人の言うことがわからない。その衣類を買えと言われているようで、しきりにいらない、いらないと手を振った。私の顔を見るなり、誰か言葉のわかる人を探してきてくれと頼んだ。生駒さんの家に走りこんで聞くと、熱海湯の裏に英語学校に行っている女の人がいると教えてくれた。ようよう、その人を連れてアメリカ人たちと話をしてもらった。その女の人は背が高く、ゆっくりと英語を喋ってアメリカ人たちと意志を通じ、その大きな箱に入った衣類は全部、無料でプレゼントしてくれたものだと伝えてくれた。改正道路を通るたびに、何かプレゼントをしたいと考えていたそうで、ありがとうという礼の言葉に私たちこそ、プレゼントさせてもらって有難いと言ったそうだ。
熱海湯の裏のお姉さんは一躍、ヒロインになった。私も大きくなったら英語を勉強してみようと思った。そして、あのお姉さんのように人の役にたちたいと思ったが、中学校に入る頃には、そんなことも忘れて、英語に悩まされるようになった。そして、英語で人の役に立つようなことは一度もなかった。志が低い者にはそうした大役は廻ってこないものだ。
その後、そのお姉さんがどうしたかはわからない。アメリカ人がプレゼントしてくれたのは12月の中頃だった。、つぎの日から大平さんの姉弟は帽子に耳覆いのついた洒落たのをかぶり、格子縞の暖かそうなジャンパーにジーパンと、絵本から飛び出してきたアメリカの子供のような服装に一変。言葉の大事さをつくづく味わったものだ。

2011-05-16

上馬の思い出31

学校のいつも閉まっている裏門から帰ると近道だったが、ここから出ると叱られるので嫌々正門から出た。正門を入ると用務員室があった。その前に教員室があり、その隣が校長室だった。便所がその前にあり、今と違って溜め式便所だけに梅雨時は臭いがこもってたまらなかった。でも、家に帰っても同じだったので気にしない人が多かった。駒中の同期会で女性が、昔に返りたいワと言ったので、肥溜め便所の尻の穴を拭くのに新聞紙の時代に戻るんだヨと言ったが、それでも戻りたいと強情を張った。昔にとっても良いことがあったのだろう。
水洗便所に慣れると、あの時代に戻るのは嫌だとつくづく思う。しかし、大地震になれば下水も上水も使えなくなる。バイオの力を借りて木屑と糞尿を混ぜて分解し、全く臭いの出ない便所となる。これは現物を八戸で見たことがある。市民の森という山の中の便所がこれ、初期投資がかかるがランニングコストがかからない分利がある。
昔は肥樽に糞尿を入れ運んだ。もっと前は玉川あたりのお百姓が肥桶を牛に曳かせた大八車に積んで、家家を廻り下肥を集め、その代わりに野菜を置いていった。私の家の前の水野という理髪店があり、頭を刈ってもらうのに前を見てじっとしていないと、バリカンでコツンと叩く、それが嫌で前の水野理髪店に行かず、玉電通りの松の木精米店前の太陽という床屋に行き、シラクモをうつされた。この床屋は不潔だと近所の人が言っていたが、実にその通りでしばらく治らず泣きべそをかいたことがあった。
水野床屋は家族が多かったのか、お百姓は野菜を多く置いていった。玉川方面にも家が建て込んだのか、お百姓が来なくなり、東海組が便所の汲み取りを受け持った。トラックで肥樽を積んだ所に来て、それを開けて走り去る。生駒さんの隣の大平さんの家の前がその肥樽の置き場になっていて、雨が降って先が見えないと肥樽に傘があたって臭いがついた。全くこの肥樽には悩まされたが、改良されバキュームカーが家々を廻るようになった。車から長く伸びたホースの太いのが時折撥ねるように動いた。以前のような肥樽からは開放されたが、バキュームカーの傍を通るときはやっぱり臭いがしたもんだ。駒沢中学の傍に、その東海組があり、そこの勤務している人の子も通学していた。職業に貴賎なしで、あの仕事も大事な仕事、それも下水普及で東京では姿を消したが、地方ではまだ見かける。
トイレットペーパーなんてのは見たことがなかった。いつも新聞紙を長方形に切って使ったもんだ。新聞インクには身体に良くないものが含まれていたらしいが、新聞紙で尻をふいて死んだという話もきかなかった。昨今は金がかかるような仕組みになっている。
暖房も昔は練炭、この着火が私の仕事で朝起きると改正道路前に練炭七輪を置いて二酸化炭素中毒にならないようにと毎朝運んだものだ。野沢商店街の奥に薪炭屋があり、品川練炭を売っていて、そこにお使いに行かされ練炭を買ったものだ。今は灯油の時代で、暖かく便利だが、原油が値上がりして我々は苦しめられる。昔は薪と練炭で寒い冬を過ごしたものだが、便利な世の中は金がかかって不便になった。文明の進歩は我々を苦しめるのも妙。ついでに書いておくが、文化と文明の違いは文化はすぐに眼に見えないものを指し、文明は見た瞬間に理解できるものをいう。五十嵐君の家に灯油ストーブが入り、ブルーフレームという名前の石油ストーブで青い火を立てながら燃えた。その暖かさに驚嘆した。これが文明だ。ところがアラブの手加減一つで、原油が上がり世界全体が困ったことになった。空気に値段をつけて、最初は安くどうぞで、使わせて次第に値を吊り上げれば、生きていること自体が困難になる。今は妙な時代に突入し、テレビだクーラーだで電気浸けにさせておいて、電力不足では困るから原油に左右されない原子力と宣伝し、これが全国に54、その管理が不十分で福島の住民は家を追い出され、家なき親子にさせられた。便利は不便でしかない。家々にラジオと裸電球のころは溜式便所だったが、暮らしやすかったのかもしれない。

2011-05-15

三茶小の話8

観音堂と平和パンの十字路に三茶小の校庭門があり、そこはいつも閉まっていた。ここから帰ると近道でここを抜けようと脇の生垣の破れ目から出て、それを中西君にみつけられ、三上先生に告げ口され、叱られたことがあった。その校庭門には直線状の道路が続き、突き当たりが林になっていた。その右側に曽根君の家があった。
校門からの道路の途中に宇田川君の大きな植木置き場があり、背丈の違う植木が出番を待っていた。その道路は砂利道でニコヨンがコールタールを敷いて歩いた。その作業小屋が三茶小の近くに建てられ、その破れ目から中がのぞけた。
好奇心旺盛で中になにがあるかと瞳をこらすと、キャンバスを立てた青年が、つぎはぎのモンペを着た痩せた中年女を描いていた。モデルの中年女は視線をまっすぐに顎を引いて、尊厳なる時間を味わっているように見えた。青年は画学生でもあるのか、こんなところで仕事が終って何がしかの金を手にし、余暇をこうした絵を描く時間に費やしているのを見て、人生の難しさを感じた。
中西君は絵が上手で、子供の我々も、この人は将来、そうした道に進むことを予感させるだけの力量があった。おそらく、この青年もそうだったのだろうが、世間の経済状況からニコヨンをして身過ぎ世過ぎをしなければならなかったのだろう。その絵は決して下手ではなかった。しかし、魂を揺さぶるようなものではなかった。
同じクラスに麻生さんがいて、この子の家は丸山公園の近くだった。お父さんが絵描きで、家を訪ねたことがあった。大きなキャンバスに母子像が描かれていて、その迫力に押された。お父さんが選挙投票で三茶小に来たとき、廊下に張り出された絵に私の名前をみつけ、家に遊びに来るようにと、麻生さんに言付け、それででかけた。
麻生さんの家のアトリエは絵の具の臭いが充満して、眉が濃く口元の締まった意志の強そうなお父さんが絵について色々教えてくれた。本気で絵を勉強してみないか、教えてあげるよと言われたが、私なんかではなく中西君が相応しいと思った。それでも、子供扱いせず、真剣に絵のことを語ってくださったことは貴重な時間で、今でも鮮明に覚えている。
お父さんは、その母子像に大層思い入れがあるようだった。そして私に、感想を聞かれた。私はこのお母さんの足が大きいと言った。おとうさんは笑いながら大きいか、大きいんだよと言われた。その意味がわかったのはそれから二十年もしてからだった。
竹橋の国立近代美術館で、その絵に出逢った。麻生さんのお父さんの絵が、買い上げられたのだ。人生の辛酸を舐めた私にはその母親の足の大きさの意味が理解できた。地に足がつくという言葉がある。画学生の多くが職業画家として立てるかが不安であり、限られた時間のなかで誰もが成し得ていない表現、構図、色使いを模索する。まして、戦火の中を生き残り、暗い戦争からやっと明るい人生の兆しを見つけ、生きる喜び、そして画家として立てる自信が湧いてこられた時期だったのだろう。それが母親像の足の大きさとして現れていたのだ。人生を堂々と歩む、まして自身の感覚を絵筆に託して渡って行くには相当な困難と呻吟があったことだろう。ところが、麻生だんのお父さんはそんな隘路を抜けて、何かをその母子像でつかまれたのだ。そして天下に名をとどろかせる画家、麻生三郎になられた。三軒茶屋、山の手の下町、そんな狭隘な貧乏人がかりが住むような町中に、こうした才能を夜空にサーチライトの如く光らせることの出来た人が住んでおられた。それが同級生の父君であったことは、長く生きてきた人生の、まるで勲章のように大事な話でもあった。その麻生画伯は美大の教授として後進を育てられ、生涯を現役の画家としておくられた。その功績は見あげる山の如くに思える。人生を思うままに己の才能を信じて渡る、誰にでも許されることではなかった。

2011-05-12

三茶小の話7

中里と三茶の間に消防署があった頃、冬の夕暮れにてっぺんの望楼を巡回する消防士の姿が影絵のように見えた。遠く富士山が遠望でき、空が赤黒く夕焼けて、シルエットのような消防士がその中を廻っていた。
あの頃はまだ電話の普及も滞り、火事が起きると望楼から発見できた。今のようにいたるところに高層ビルが建てば、それはもう、役にも立たない望楼ではあるが、昔はそれでも役に立っていた。最初に黒い煙があがり、水がかかると次第に白くなる。消防士は火災発生でサイレンを鳴らして爆走する。
電話普及の悪かった昔は街中に赤い電信柱が建ち、そこにガラスで覆われた押しボタンがあった。火災発生時にはそのガラスを破り、そのボタンを押すと、消防庁に連絡が届く仕組みだった。指令を受け、消防車が飛び出し、路面電車に接触、怪我した消防士は自分を置き去りにしろ、火災現場に急げと叫んで絶命、消防車が火災現場に走ったが、いたずら通報だったと、私が小学校六年生の時、東京新聞に記されていた。
いたずらが人命に関わる一大事になってしまった。使命感に燃えた消防士の命は一体なんだったのだろうと考えたことがあった。
それでも学校に行き、わいわいと騒いで遊んでいるうちにそうした疑問は何処かへ飛んでいってしまった。
三茶小からその消防署に向かう途中に砂糖の卸し問屋があった。左側にあり、そこには毎日配送の車が停まっていた。ある日、アーチャンがポケット一杯のザラメを運んできた。その砂糖問屋の前にザラメの袋が破けて山になっていたので拾ってきたという。慌てて行ったが、もうなかった。アーチャンは時折黒砂糖も持っていた。どうしたのと聞くと、ああでもないこうでもない、落ちていたのを拾ったような、落ちてなかったようなとゴニョゴニョ、どうも破けた袋から顔を出していた黒砂糖が自然にポケットの中に入ったような言い方だった。アーチャンのポケットは不思議なポケットだったのかも知れない。

2011-05-11

三茶小の話6

三年生のとき駒沢小から三茶に編入した。寄せ集めの小学生をまとめる教師は苦労だったろう。互いに通う小学校をくさしていた者が統合されたのだ。中里小学校ボロ学校、入ってみたらボロ学校、駒沢小学校ボロ学校、入ってみたらいい学校と、くさしたり、くさされたりした者が一緒になるのだから、これは大変、最初は少々ぎごちない、しかし、それは子供のことだから、自然と溶け合う。そして、今度は新生「三茶小」の仲間になった。
私の担任は3、4年、そして5年まで横山隆一先生で、漫画家と同姓同名。この先生が三茶小の徽章を考案された。三軒の御茶屋と茶の葉だ。
桜の木から下りてくる毛虫が蝶にならないことを教えていただいた。蝶になる虫は裸で毛がない。青虫は蝶になり、毛虫は蛾になる。蛾は羽を広げて休むが蝶は閉じる。虫の世界にも決まりがあるんだと、感心したものだ。
横山先生はベルトを押えながら授業をした。それが腕組みになり、顎を撫でるようになり、教育委員会へと転じられた。先生は映写技師の資格を受講され、夏休みに学校で16ミリの映画会を担当された。娯楽の乏しいころだけに、その映画会は楽しみだった。先生は映画が終り子供たちが散っても、フィルムの整理に夏休みの校庭で上映した映画フィルムを巻き戻しておられた。校庭は暗い闇におおわれて、先生が作業をされるところだけ電球が点いていて、その電球の周りを蛾が飛び回っていた。カタカタ、シュルシュルとフィルムが戻る音がいつまでも続いていた。
教師は子供たちのために、寝苦しい夏の夜も、汗を流しながら映画会の後片付け、当たり前のような気がするけど、なかなか出来ることではない、先生の信念に視聴覚教育の重要性があった。これがテレビ時代、そして通信の普及でインターネットが誕生、先生は亡くなられたが、昨今の急激な社会の進歩を確認されたならば、満悦の笑みと共に顎を撫でられたことであろう。

2011-05-10

三茶小の話5

校長先生は中村という牛乳瓶の底を眼鏡にしたような度の強いのをかけておられた。子供たちによく声をかけるかただった。得意そうに話すのをさもビックリしたように聞いていた。子供の自発的な発言を尊ばれておられた。
子供たちもそんな校長先生を知っているのか、よく声をかけた。しかし、子供の名前を覚えるのは苦手だったようで、よく間違えておられた。教頭はアライという初老の男の先生で理科が得手のようだった。六年生のとき、電気モーターの製作の時間があり、アライ先生が教えにこられた。電池で動かす小さなものを男の子も女の子も作った。小田切さんという三茶の世田谷通りに面した大きな洋服屋さんの娘は、色白で鼻筋の通った優しい話し方をして、工作などは不向きのようだったが、器用にコイルを巻きつけて完成させた。一番早くモーターを廻し、なかなか廻らない子に、コイルをしっかり巻くように教えていた。アライ先生もモーターの芯にしっかり巻かないと磁場が発生しないと教えられた。小田切さんの言うようにコイルを巻きなおしてようやく廻ったときは嬉しかった。
そんな小さなモーターが廻っても何の役にも立たないのだが、完成したことが嬉しかった。
この小田切さんは色彩的な感覚の鋭い人で、図画の時間になると、思いもつかないような色使いをしてみせた。中西君のようなデッサンに力はないが、色で面を表現する能力には驚嘆した。パステル調の色使いが面積の大小を現し、ことさら線をつかわずに物体の存在感を巧みに現した。
その洋服屋の店は○の中に誠と書かれた三茶でも屈指の大きな店だった。痩せてすらっとしていつも清潔な服に身を包んで、ニコっと遠くから微笑むと百合の花が風にゆれたような気がしたもんだ。アーチャンが「お前の店は大きくて金持ちで、いつもおいしいもの食べているんだろ」と言うと、「ところがそうでもないの、うちのお父さんは働いてくれる人がいるからこそ、お店を続けられる、だから、お店の人が食事をしてから家族が食べるんだというの、だから、いつも余り物ばかりよ」、アーチャンはびっくりした。お金持ちのお嬢さんだから、いつもおいしいものを食べているとばかり思い込んでいた。子供の心はそんなもんだ。小田切さんの店の奥に映画館ができて、学校から生徒がそろって見にいった。「小田切はこのまま帰れば家は目の前で便利なのに」とアーチャンが言うと小田切さんはニコっと笑った。余り口数の多い人ではなかったが、礼儀正しい子供子供した可憐な人だった。家族は店から家に入るのではなく、横丁から勝手口に入る狭い通路があった。背の高い小田切さんが、そこへ消えていく後ろ姿を見たことがあった。店名はマコトヤさんと言った。小田切さんというと、横丁の通路に消えていくイメージがいつもあり、存在の不確かさを感じた。その大店のマコトヤさんも、時代の流れで店は消えてしまった。
その小田切さんにも同期会で顔を見ることがない。これまた淋しい限りだ。
昔の話をしても誰も知らない、でも、確かにそうした時代があったんだ。そんな存在の不確かさを語れる仲間がいるからまだいい。独り言を言うようなれば、これはもうボケの始まりだが、さて、それもそんなに遠くないのかも。

2011-05-09

三茶小の話4

給食のパンは前にある平和パンが届けた。記憶力抜群のアーチャンの話では、平和パンのコッペは日曜日に余ることがある。その解消法として、月曜日にコッペを揚げてザラメをまぶしたのを配達してきた。これが楽しみだったとアーチャンが言う。このことをすっかり忘れていて、そうだったような違うような妙な頼りない思いをしている。
カレーは汁っけの多い、ちょうど日本そば屋のカレーのようなものが出た。これも楽しみだったとアーチャン。給食室には大釜があり、石川五右衛門を茹でるようだった。これに大きな柄杓で水を入れたり、竹ヒゴを丸めて釜の底を洗ったりと三角巾のおばさんたちは忙しかった。昔は各学校に給食作業員がいたが、今は給食センターで一括製造、それを配達車で運搬、昔は自動車は貴重品だっただけに、このように各学校生産の体制がとられたのだろうが、作ったものを直ぐ食べるほうがいい。衛生面を考えて昨今の方式となったのだろうが、余計な経費をかけている気がする。運んでいるうちに温かいものも冷えるだろうに。
三茶小の前に大丸百貨店の配送所ができた。○の中に大の字がかかれてあった。須永君がそれを指差し七五三だという。よくよく見ると大の文字は勘亭流のようで、文字にヒゲが出ていて、右横棒が三にヒゲ分れ、人という字の左が五、右が七分れだった。そんな細かいことにまで気づく人がいるんだと感心した。同じクラスの中西君にそのことを話すと、彼もそのことを知っていて、縁起かつぎの文字なんだと解説。彼は大変に絵が上手でスケッチが細微に渡り、全体をうまくつかみ、図工の名人上手だった。後に美大に入りソニーの宣伝などを担当、広告宣伝会社で活躍した。
父君が謡などをされて家は西太子堂の近くにあった。板張りの部屋に能舞台で見る松の絵が掲げられ、庭にはペスというポインターがいた。老犬だったが賢い犬だった。中西君の家の勝手口付近でバケツにゴムの前垂れを床にして、ベーゴマを盛んにやっていた。これは博打と同じで勝てば増える、負ければすっかり失う。森君が大変に強く、いつもポケットはベーゴマで一杯だった。
メンコの強い子もいて、ツミとかブとか言うあそびがあって、これも賭博性が強かった。メンコには色々な図柄があり、見ているだけでも面白かった。四角いのが主流だったが丸いものもある。丹下左膳の絵が描いてあったり武者絵があったりと角がすりきれたメンコを眺めると、どこかで勝って笑う子や負けて泣いた子の顔が浮かんでくるようだった。
ベーゴマにせよメンコにせよ、博打をやる子の会話は似ていて、どこそこの誰々が大変強く、あれとやるな、○町のベーゴマの床は固いなど、大人になって競輪場で赤エンピツなめなめ○を予想新聞に書き入れているオヤジの会話にそっくり。大人でも子供でも賭博場の雰囲気は同じなのかも知れない。ベーゴマは埼玉県の川口で作られ、全国各地へと運ばれた。丸いのも六角のもあり、柄は巨人とか西鉄など野球チームの名が多かったような気がする。コマの底を砥石で研いで背を低くしたり、廻すヒモに結び玉を大きくしたり、湿り気を加えたりとそれぞれの工夫があった。
昨今、これがまた復活し商店街でベーゴマ大会が催されている。これを居酒屋風にして老人の娯楽にすると、存外人が集まると思う。
ベーゴマの強かった森君の家は世田谷通りの島本雄飛堂の並び、三茶駅寄りにあった。竹屋の隣だったような気がする。

2011-05-08

三茶小の話3

給食室はコの字型の縦て棒のつけ根あたりにあったとアーチャンがいう。なんだかそんな気にもなるが違うような気もする。ここから脱脂粉乳の入ったバケツを運ぶのだが、足元が危うくてこぼしそうに何度もなる。バケツに蓋はついていたが、嫌なにおいがしたもんだ。とても飲めなかったがそれでもお代わりをする子もいて、好き好きだなと感じた。
小学校で嫌いなのはこのミルクとBCGだった。ツベルクリン反応にひっかかり毎年注射をされたが、その跡が膿んで嫌な気持ちになった。二十歳ごろに結核になったから、役に立たなかったのだろうか。
カレーの給食は人気メニューだった。この日は朝から気分が良かった。給食室の前を用事もないのに通ってにおいを嗅いだ。脱脂粉乳を除けば給食はどれもうまかった。その給食を作るおばさんが白い三角巾を頭にして、「こぼさないように」とアルマイトのバケツを渡す。その人を中里の駅の近くで見つけたことがあった。どこかの横丁を入ったところだったが、夏で家の入り口が開け放たれていて、すだれがかかっていた。そのおばさんは団扇片手にアッパッパの裾から出た脚を煽ぎ、アイスキャンデーを舐めていた。視線が合ったのでこんにちはと声をかけたが知らん顔をしていた。アイスキャンデーを舐めているのを見られたからだろうか。凄く暑い日で、歩いていると顔がほてるような日だった。
何の用もないのに一日中ウロウロしていたもんだ。それでも毎日が楽しかったのだから、子供の頃は幸せだ。
山本トシオ君の家は丸山公園の近くにあった。色の白くヒョロヒョロとした子だったが賢かった。おかあさんは眼鏡をかけ言葉使いの上品な人だった。おかあさんも痩せていて、背中に子供をおんぶしていた。教育熱心な人で山本君はその薫陶もあり勉強家だった。山本君の父親が持っていたと、見せてくれたのが国会議事堂の議場の図、そんなものがあったのかとしげしげと見つめた。
丸山公園に消防署が移転してきた。昔は玉電の際にあった。今の郵便局のところだ。郵便局が世田谷通りから移転してきて、消防署が押し出されて丸山公園に入り込んだ。丸山公園の便所は大きかった。ここにホームレスが入り込み、その子が駒中に通ってきた。後年、アーチャンが渋谷で彼と出逢った。「アーチャンだろ」と声をかけられ、「失礼ですけど、どなたですか」と訊いた。すると小声で「大きな声ではいえないけど、丸山公園に住んでたオレだよ」といわれて思い出した。今は船橋だかに住んでいるとのことだった。幼い頃は親の生活環境で好まぬ状況下にいても、世間に出れば腕一本、度胸一つで天下取れる。ここが面白いところだ。
彼がどんな仕事をしたのかをアーチャンから聞きそびれたが、山本トシオ君は早稲田大学の工学部だかに進学し建築の仕事をしたと聞いた。それも、定年となれば人生の最終コーナーを廻ったようなもの、誰が偉くて誰がダメなわけでもない。生きているだけで有難いものだが、なかなかそうも思えないのが人生、この山本君は同期会に出てきたことがない。よっぽど嫌な思い出でもあるのだろうか。もう五十年も前の話だ。全て忘れてまた逢いたいものだ。

2011-05-07

三茶小の話2

校庭は四角く桜の樹が植えてあった。入学式のころに淡い桜色の花を咲かせ、新入生を迎えた。どの子も精一杯の笑顔をたたえて校門をくぐってきた。文房具屋の観音堂の側には雲梯(うんてい・体育・遊戯施設の一。金属管製のはしごを水平もしくは円弧状に張り設けて、これに懸垂して渡っていくもの。くもばしご)と肋木(ろくぼく・体操用具の一。縦木に多数の横木を肋骨状に固定したもの。横木につかまって、懸垂・手掛・足掛などをする)があった。
平和パンと観音堂へ出れる門もあったが閉まっている。ここから出ると便利だが、閉まっているので垣根の破れ目から抜け出した。今のように学校は塀や柵でかこまれてはおらず、閉じ込められているような雰囲気ではなく、伸び伸びとした闊達な気風が漂っていた。通学する子も下駄履きが多かった。校舎に入るには下駄箱に入れてズックに履き替えた。校庭は土でところどころが凹んでいた。
アーチャンはブランコに乗ると高くこいで上がった。鉄の鎖を支える横棒よりも高く上がり、見ている者の胆を冷やした。本人は何処吹く風で、散々高くこいで上ったあと、その高見から飛び降りた。そのまた勢いのあること、誰もが怪我をすると心配したものだが、猿よりも猿らしく、アーチャンにかなう者は誰もいなかった。
アーチャンは六年生の頃、読売新聞の配達をしていた。いつも黒の襟付きの黒ボタンの服を着ていた。新聞配達で毎月700円を稼ぎ、家に半分入れて残りは胃袋にしまった。喜楽でのラーメンや永井君の隣の肉屋で半分に切ってもらったコロッケとコッペパンに変った。コッペにコロッケ半分を縦に入れ、キャベツの千切りをおまけに肉屋がサービスで入れてくれる。それにソースをかけて食べるのが無上の喜びだった。人は誰しも食べる喜びのために生きている。人はパンのみに生きるにあらずなどとノタマウが、それは能書きのようなもので、食べなきゃ死ぬ。死ねば生ゴミになって清掃車ならに霊柩車で運ばれる。いずれも焼き場で、焼却場と火葬場のちがいだ。
江戸の昔にも火葬場があり、死人を焼いてくれた。焼き場の職員を昔はかくれた坊主、隠坊(おんぼう)と呼び墓守や焼き場の職員を指した。このオンボウには焼き賃を支払うのが習わし、昔は現金決済の風が薄く、みな支払いは月末とか年に二度の支払い、当然金がないから焼き場のオンボウへの支払いに困る。困るったってオンボウも区役所の職員ではないから払ってもらわないと困る。半分しか銭がないから生焼けでいいかと言われれば、それまた困るので庶民が智恵を出した。それが香典を持ち寄ることだ。香典は米や味噌ではダメ、全て現金。昔は村八分なんてのがあって、交わりをしないことを決めたが、八分の残りの二分は付き合う。それが火事と葬式だ。火事が八分の家に出れば類焼のおそれもあるから消す、はやり病で死ねば伝染の恐れがあるから埋葬や焼き場に持っていく、いずれも我が身への被害をおそれるからだ。八分の家さえ香典があつまる。まして、普通に生活をしていれば尚のこと、これを香典葬と呼ぶ。
6年5組の三浦さんが亡くなったときアーチャンから電話がかかってきた。青森県の八戸にいたが、幡ヶ谷の火葬場に行った。三上先生も来ておられた。四十年も前の教え子の火葬に立ち会うなどということも、なかなか常人にはできないことだ。先生は教育者として立派で国も、その功績を認めて叙勲されたが、先生は人間として立派だった。その先生も昨今は足が弱って車椅子になられたが、我々悪ガキも先生を元気づけなかえればいけない。大恩ある先生がいつまでも元気でおられるようにと念ずるばかりだ。
さて、アーチャンは高く空中にブランコから飛び出すと、今度はウンテイに走る。ウンテイの横には桜の樹があり、花びらを散らしたあとには毛虫がぶらさがる。そんな毛虫も真っ青になるほど、アーチャンはウンテイにぶら下がり、見事に端から端へと繰り返して渡る。毛虫が風に乗ってブラブラするように、アーチャンもウンテイに両足をかけて逆さになってブラブラしてみせた。
そんな元気なアーチャンも、五年ほど前にチョットした高い所から落ちて両足を怪我、しばらく入院していたことがある。あの猿も真っ青のアーチャンがだよ、やはり歳には勝てないものだご同輩。

2011-05-06

三茶小の話

三茶小の校庭にはブランコがあった。学校の形はコの字型で上辺の二階の先端に音楽室があった。アーチャンにも土屋さんにも聞いたが、音楽室の下が何に使われていたかがわからない。コの字の上辺の道路を挟んだ向かい側には平和パンがあった。平和と命名するだけに戦後の創立なのだろう。
時折パンの焼けるいい匂いがしたもんだ。万年腹へらしの悪ガキ連には刺激的な匂いだった。音楽室の真下に鉄棒があり、砂場があった。若くして亡くなった高田君の相撲の強かったことは忘れられない。また、技も良く知っていた。ラジオで相撲の中継をしたが、アナウンサーの一言半句にも興味を持った。顔面紅潮若の花などの言葉は映像のない時代に想像力を掻き立てる言葉だった。相撲も現今のように6場所ではなく、昭和28年は4場所だった。32年に5場所と増えそれが6場所にまで伸びて八百長相撲が発覚。
高田君は普段はもっそりとしていて、あまり存在感のない人だったが、相撲になると俄然精彩を放ち無敵を誇った。アーチャンいわく、先生もかなわなかったと。
栃錦のことを良く知っていた。私とは席が隣で色々教えてもらった。一番背の高かった宮本君も負けた。宮本君は声変わりして、音楽の時間に声が出ないと涙をこぼした。優しい飯川先生は「男の子は誰でもそこを通るもの、心配しなくていいから、声が出るように必ずなるから、その時唄えばいい」といわれた。そんなものなのかと、声変わりの時機があるんだと認識した。
宮本君は逆上がりができなくて何度も挑戦していた。三上先生が尻を押して要領を教えるがなかなかコツがつかめない。腹を鉄棒にぶつけるようにするんだと三上先生が教えられた。それでも出来なかったが、根気のいい宮本君は何度も何度も繰り返して、とうとうできるようになった。
高田君が教えてくれた栃錦は東京都江戸川の生まれで、傘屋の子供、運動神経の良いのに気づいた近所の八百屋のすすめで角界入り、目方が軽く飯と水を一杯つめこんで新弟子検査をやっと通った。昭和19年に十両昇進するけど、普通の人と同じような体格、軍隊に行くが誰も相撲取りと信じない、軍隊内の相撲大会で手心を加えず投げ飛ばし優勝、やっと本職と認められた。昭和22年入幕するも75キロと小兵、26年の一月場所は初日から7連敗、あまり負けるもので先祖の墓参りに行く、墓に詣でているとき、通りすがりの人が「あの栃錦って相撲、小兵でいい技をもっているけど、七連敗だ。でもな、俺はあの男を信じてるんだ、負ける相撲を見てみなよ、精一杯手をぬかずにとっている。ああした男はかならず芽がでるもんだ」、栃錦はこの言葉を先祖が聞かせてくれたと思い手を合わせた。そして翌日から8連勝をなしとげた。高田君が嬉しそうに楽しそうに聞かせてくれた言葉が耳の底でよみがえる。亡くなった人を偲ぶことも立派な供養だ。

2011-05-05

上馬の思い出30 ラジオの話6

飯川先生の家は改正道路を駒沢中学の方に入ったところにあった。ここは駒沢小の学区で、飯川君は越境入学であった。三茶小はもともとは駒留中だったものを子供が増えたので小学校に改造、形はコの字で、その上の辺の突き当たりに音楽室があった。音楽室の壁にはバッハ・ヘンデル・ベートーベンなどの名前の下に、長い羊羹のような線があり、その長さが生きた年数を現していた。川名君という飯川先生と同様に改正道路の駒沢小の学区にいた子が、それを眺めて短いのは嫌だなと洩らした。人生はあのような羊羹型なのかと思ったとき、この音楽家たちのように、後世に名を残すような仕事が出来るのだろうかと心配になった。
食糧事情が悪いころで、満足に楽器もなく、生徒が器楽合奏をするなどということは考えられなかった。私の家の近くに安田道子さんがいて、この人は賢そうな眼に力のある人で、和泉屋と松の木精米店の通りに筝曲を教えるところがあり、そこに通っておられた。江戸の名残がまだかすかに庶民の中に移り香のようにたゆとうていたのだ。その後、西洋音楽に興味をもたれてピアノに転じたような気がするが、音楽を良く解する人だった。この人に駒中の同期会でお逢いしたとき、息子さんが管楽器をされていると聞いた。やはり血かと思ったが、その後、息子さんが芸術家になったかは定かではない。
好きな道で生涯を送るということは、なかなか難しい。まして、芸術のようなものは景気が良くて人心にゆとりがなくては、なかなか音楽会に足を運ぶようにはならない。折角習得した技術も世俗の垢に塗りこめられてしまう。勿体無いことだ。
かつて浅草にエノケンを主体とした軽演劇があったころ、映画がまだ無声だった頃は、楽器を手にした演奏家が巷をウロウロできた。映画館や劇場が稼ぎの場だった。このころの話は永井荷風、高見順、そしてガス管を加えて自殺された川端康成の作品に散見できる。
アメリカでは今でもジャズハウスがあり、それなりに音楽家も飯が食えるが、日本人はどうしたものか、こうした文化を放擲してしまった。テレビ一辺倒の安直な喜びを手に入れたことで、ナマ演奏、ナマ舞台の楽しさを忘れてしまっている。拍手をすれば演じ手がそれに答えて会釈する、あるいははりきって演奏する、リクエストがいれられるなど、ナマの楽しさは芸人たちとの共感共鳴でしか味わえない。
それを忘れてテレビだけを見て、テレビに出ない芸人を卑下し売れていないと断定するが、ナマの面白さにはかなわない。天と地ほどの差があるが、現代人は金の使い方を知らないから生きている楽しみを半分も理解できない。芸人を大事にする風、これは江戸の昔から伝わってきたものだ。演劇・落語・浪曲・講談に限らず音曲・切子など工芸などの職人文化も同じ、どうも古いものを粗末にし、マスコミのお仕着せに慣れすぎている。
飯川先生は子供たちに音楽の楽しさを教えられた。「箱根八里」の解説をされたことを昨日のように思い出す。
この曲は明治34年に中学唱歌として発表、作詞は鳥居まこと、作曲は瀧廉太郎、鳥居は三河武士、山形22万石の大名家の子孫で安政二年東京産、東京音楽学校の教授を務めた。
瀧は明治12年東京の生まれ、父は日出藩の家老職、維新後は内務省官僚、廉太郎は15歳で東京芸大に進学、荒城の月、箱根八里、花、4曲からなる組曲『四季』の第1曲である。「お正月」、「鳩ぽっぽ」、「雪やこんこん」を作曲、明治34年欧州留学生となりドイツに渡るが肺結核を患い帰国、明治36年23歳で死去。惜しい才能だった。
この箱根八里の詩は漢詩を理解しないとわからない、それを子供たちにわかりやすく飯川先生は説かれた。武士をもののふということも、先生から教えていただいた。行進曲のように勇壮で歌っていて元気がでる。いまでも、この曲を唄うとき、飯川先生が傍らで鍵盤を押されているような温かな気になる。

2011-05-04

上馬の思い出29 ラジオの話5

食事の時間になるとラジオから「森の水車」の歌がラジオから流れてきた。NHKの経営手法は気に入らないが仕出かした業績には評価するものがある。朝のテレビドラマやラジオ歌謡でありその流れを継ぐ「みんなのうた」はテレビの人気番組。歌はいっとき人生の辛さを忘れさせる精神の覚醒剤、この歌があったから死ななくてすんだという話をきくたびに、歌に力ありをつくづく思う。
子供の頃はこうしたことを知らずに、ただひたすら生きていただけだが、耳の底にいろいろな音楽・歌が折りたたまれていて、それが、ちょいとしたことで折り目が外れて大きく盛り上がる。こうしたときには、その場所にいたことを忘れ、ただひたすら、その思いを負い続ける。周りの人が何を言おうと、そんなことは関係がない。よほど変人と思われるだろうが、それをしないと、また耳の底にそれが押し込まれて聞こえなくなってしまうからだ。
三茶小に飯川という音楽の先生がおられた。音楽の楽しさを教えたいという心が前面に押し出ている人だった。四組の飯川君の母親でもあった。先生は歌を唄う前に、その作詞家の心を伝えようと解説をされた。その言葉の持つ不思議さ、面白さに心を奪われた。解説は丁寧でわかりやすく、どうして小学生にそんなにわかりやすく解説ができたのかと考えた時、そうか、ご自分の子どもさんに話して理解度を確かめたのではないかと気づいたが、そのことを飯川君に確かめたことはなかった。いつも笑顔を絶やさず、鍵盤を押しながら音楽の面白さ、楽しさを説き続けてくださった。
今の季節になると、先生がピアノの前でにこやかに、そして軽やかに鍵盤を押しながら唄った「若葉」、作詞は松永みやお、作曲は平岡均之、昭和17年に文部省唱歌となった。これを解説された飯川先生の言葉がいまでも耳に残る。
長い冬が終って桜の花が咲いた。ひとは誰でもさくらの花だけを喜ぶけれど、本当はその後に出て来る緑の葉っぱが大事、これがなければ木は大きく育つことができない。みんなもこの若葉のようなもので、これから長い人生を歩んで行く、自分の好きなことやりたいことを早くみつけて大きな木になるといいですね。
先生が言われたことを理解できずに、67歳を迎えてしまった気になるのは私一人だけだろうか。飯川先生がどのような経緯で音楽教師になられたかも知らず、ただ、音楽の楽しさを説き聞かせてくださったことだけを感謝している。その先生も五年前に亡くなられたという。礼の言葉も述べられず残念に思う。市井の人(しせいのひと・市中に住む庶民)の言葉があるが、飯川先生、図工の根津先生の教えてくださった言葉は六十年経ても耳の底に残っている。
その「若葉の歌」が地下鉄の駅から町並みに上り、見慣れた光景の浅草の商店街に流れていた。足が停まった。飯川先生の言葉が浮かび、そして先生の軽やかな指が鍵盤をすべりはじめた。後ろから来る人に押されて、歩道の端で立ち止まった。茫々(ぼうぼう・広くはるかな)の六十年、それでも確かにあの飯川先生はおられて、楽しげに歌の心を我々の手許に届けられた。そして、それをいまでも宝物のように大事にしている年寄りになった悪ガキがいる。

2011-05-03

上馬の思い出28 ラジオの話4

ラジオ歌謡が始まってそこから幾つものヒットが出た。「朝はどこから」、「三日月娘」、「あざみの歌」、「山小舎の灯」、「さくら貝の歌」、「森の水車」、「雪の降るまちを」などだ。1953年には、歳だった美空ひばりが登場し、「あまんじゃくの歌」を歌った。「朝はどこから」は昭和21年朝日新聞が詩を募集、それに橋本国彦が曲をつけた。この募集に童謡で応募した作品に「赤ちゃんのお耳」がある。これには兵庫県産の苦学生だったが音楽に情熱を捧げた佐々木すぐるが作曲、74歳で没するまで音楽振興に力を尽くした。この人の「月の砂漠」「お山の杉の子」はいまだに唄われる名曲。
戦争が終り新生にっぽんと誰もが心底思ったものだが、食糧事情は改善されることなく、給食には脱脂粉乳がでた。これはまずくて飲めなかった。それでも学校は楽しくて毎日通った。あの頃のように毎朝、毎夕歩いていれば糖尿病にはならないが、どうしても歩くことを忘れる。六十歳を過ぎたら再就学で、小中学校へどの学年でも入学できるようにして、生涯学習制度をつくれば病人は減り医療保険も減額できる。
さて、「あざみの歌」だが、これは横井弘の作詞に八州秀章が作曲、この横井は東京は四谷の産、空襲で家を焼かれ応召、茨城県で初年兵として沿岸防備、藤浦洸に師事するも、作詞家として藤浦自体も確立しておらず、藤浦が出入りしていたキングレコードでバイト、その時横井が書いた詩を大作曲家だった八州に渡す。この詩に打たれて作曲するが、横井はバイトを辞めていて連絡がとれない。やきもきする内に三年が経過、そして昭和26年に伊藤久男が吹き込み大当たり。伊藤は日本のフランキー・レイン、ほれぼれするような男臭さで歌い上げ、伊藤もこの曲が一番好きだと言う。伊藤は72歳、糖尿病で死んだ。彼も再就学していれば、もう少しあの美声を聞かせられた。
伊藤は福島県本宮の産、同郷には大作曲家の古関裕而、この人がピアノを志していた伊藤に歌手の道を示す。伊藤は裕福な家系、音楽をやりたいと言うと家族が反対するので東京農大へ進学し、中途で帝国音楽学校へ、これがばれて仕送りが途絶え苦労、ところがコロムビアが拾い花を咲かせる。人生は何があるか判らない、あきらめれば挫折だが、転んでも起き上がるかぎり敗北はない。長い人生歩いてきてやっとそれが判った。
伊藤の振り絞るような声の「暁に祈る」で多くの兵が送り出された。

2011-05-02

上馬の思い出27 ラジオの話3

戦争中はラジオを点けっぱなしにして寝た。空襲警報を聞くためだ。命をかけてラジオの放送を聞いた時代があった。まだ我々が母親の背中に負われていたころだ。その戦火の中を世の母親は我が子を守ろうと必死、戦争が終って、アア、今日からはゆっくり寝れると喜んだという。当たりまえの事が当たりまえでなかった時代は恐ろしい。
日々是好き日は普通の生活を指す。今回の福島原発もそうだ。津波で家は被害に遭わない、家もちゃんと建っているけど中に入れないは恐ろしい。
我々を守ってくださった母親連も多くは鬼籍に入られた。感謝申し上げなければならない。
それでは、世田谷に居住しておられた母親連は何処からこの世田谷に来られたのかというと、この淵源は関東大震災にある。
東京が地震でやられ、多くの人々が下町を棄てて山の手に移転、それが東急線の界隈、目蒲線などが主流になった。昔は三茶も片田舎であった。農家の人々を除けば、大方は他地区からの移転者、上馬の改正道路裏あたりには、そうした移住者、移転者を受け入れた分譲地があったようだ。私の家の裏に高原さん、橋爪さん、吉田さんなどはこうした分譲地に同じ形の家が建っていた。高原さんは前にも記した警察官、この家には男二人、女の子が一人いて、長男は浜畑賢吉さんと同級のヤスヒロさん、三茶小で安松先生に才能を引き出された。東大に進学した秀才、なんでも鉄鋼会社に就職されたそうだが、消息は不明、弟のトオルさんは太っていて兄弟で、近くのオショウというあだ名の子供とケンカをしていたことがあった。父君の警察官は平巡査から叩き上げ、警察大学の校長にまで上られた苦労人。母親が千葉の港町から嫁してきたそうで、魚が送られてくるたびに同僚警官たちと自宅で宴会をして、子供たちはその都度、私の家の隣の技工師宅の加藤さんに避難していた。宴がたけなわになると、父君はオボンを二つ取り出し、素っ裸になって前を隠しながら踊る隠し芸、まさに前を隠すだけに名言だが、これを見ないと客が帰らない。面白い余興の持ち主だったが、実直、厳格そのものの人だった。
戦争も終りホットしたのも束の間で食糧事情が悪しく、こうしたふるさとからの臨時の食べ物を喜びとしたのだろう。それを惜しげもなく同僚にご馳走した高原さんは偉かった。少ない物でも分け与える精神は時代が変ろうとも存続し続ける。忘れてはいけないことだ。
さて、戦争が終って350万人が外地から引き揚げてきた。そうした人々を唄ったのが「上海帰りのリル」、日本が膨張し外地へと膨らんだ分が破裂し、一旗上げようとした人々が夢も希望も失せて、命からがら帰ってきた。そのため住宅事情も悪しく、間借りなどは当たり前だった。衣食足りて礼節の二つも悪く、さらに住宅事情も悪いなか、我々の父母は努力をされたことであった。そんな人々の生活を慰めるものはラジオからの歌、色々な歌が様々な人により歌われた。
ラジオ歌謡という番組があり、昭和21年四月から開始された。これで大ヒットしたのが「森の水車」歌は並木路子、作詞は浜松産の清水みのる、作曲は戦後、「湯の町エレジー」の大ヒットで地位を築いた近江俊郎が復員してきた仲間を強力に押し上げて「山小屋の灯」で復活した米山正夫が昭和16年に書いたもの。当時は大女優となった高峰秀子、大東亜レコードで発売、それが復活、明るいリズムが戦争を終ったことを感じさせた。もっとも、並木路子は「リンゴの唄」で一発大当たりをして、日本人なら知らぬ人なき大名曲となった。

2011-05-01

上馬の思い出26 ラジオの話2

私の家の隣はフタバ電気、ラジオを売っていた。お祭りの音響を担当したことを書いたが、この頃のラジオは高かった。戦時中はラジオは点けっぱなしにしていた。電灯の傘は布を覆い光が漏れないようにして、B29の焼夷弾攻撃を避けていた。改正道路を若林に下ると駒留神社の手前に大きな工場があり、石塀には迷彩模様が描かれていた。戦争中のなごりだったが、そこが釣竿工場に変り、名前もフィッシュング・タックルとなっていた。そこの不良品のグラスファイバーの穂先をキスノ君が得意そうに持っていたことがあった。
それは蝉取りに使えそうな感じだったが、それを使って取ったことはなかった。いつしか、そんな年から追い出されていたのだ。
ラジオが五球スーパーなどの名称で売られたころ、マジックアイという放送局を選別するのに便利な、ものが販売され、その目玉のようなものが周波数をぴったり合うと大きく開くようになっていた。
さて、JOAKのNHK放送が開始されたころは、勿論、これ一波しかないから、選局も必要が無い。ところが、民間放送が開始になったため、周波数を選ぶ必要が出た。これに着目したのがマジックアイ。これは1937年にアラン・デユモン氏により発明された。よく知っているように書いているだけで、インターネットで調べながら、ようよう記述。それにつけても、インターネットは使い方一つで大変便利なもの、長生きはするもんだが、大震災や福島原発のような見なくてもいいようなものまで見て、いいような悪いような気になるのも妙。
民間放送が誕生すると困るのはNHK、そこで天下のNHKも色々と妨害工作、汚い手口、精神はNHKに連綿と続くが、それはさておき、民放誕生のドタバタは色々あり、軍部の手先となったNHKはニュースなどを自前で作成することなく、言われるままに放送し、戦後GHQから戦犯として処分されるとビクビク、ところがアメリカは自由放送の国、そらがそのまま日本に持ち込まれるかと思うとそうでもない。多くの民間放送を取り締まるより一局のほうが良いと、NHK単独であったが、共産主義の脅威にさらされるようになると、NHKが増長し、ストライキをやらかし、放送が中断され、国家管理となりNHKの役員らが放送実施、このころ読売新聞は日本共産党の第二新聞と呼ばれるほどに共産かぶれ、社主の正力は戦犯で笹川良平などと共に巣鴨の監獄にぶちこまれていた。
ために、電通の吉田がはりきり、日本に民放開設を新聞社に働きかけ、地方紙を巻き込みながら全国制覇を目論む。正力はそれに乗り遅れたがテレビに着目。しかし、それには時間がかかった。吉田の目論見どおり全国展開となり、主導者電通はラジオ広告の王者となった。新聞広告は媒体主の新聞社に広告料を支払う、勿論ラジオも同様だが、新メディアの登場で料金設定は電通の思うがまま、これで一躍電通は広告業界の覇者となった。
ラジオは一家に一台で子供の自由にはならない高嶺の花、このラジオがNHKしかなく、終戦を迎え、我々悪ガキの耳に飛び込んできた放送があった。それが「尋ね人の時間」、戦争で行方不明の肉親縁者をさがすもの、嫌な時代を通りすぎてきたものだ。
母親の背中で聞いた「東部軍管区情報」はB29の飛来を知らせるもの、これを聞くと母親たちは電気を消して防空壕へと逃げ込んだ。夜空を見上げると焼夷弾が金魚のように見え、母親に「赤いとっとだ」と知らせたと後年いわれた。嫌な時代を共にくぐりぬけました。