2011-05-17

上馬の思い出32

生駒さんの隣は大平さん、ここには女の子の同級生がいた。平屋の建物で土間があり、左手が部屋になっていた。働き者の母親は背中に子供をおぶって、いつも元気に立ち振る舞っている。昔のことだから、煮炊きには薪を使った。その薪を細かく手斧で割り、洗濯物と格闘していた。昔はタライと選択板だけが武器で、よくもまあ、洗濯物の山に押しつぶされなかったものだと驚嘆する。大平さんばかりか、どの家の主婦も皆同じで、それに不平も不満もなく頑張ったものだ。洗濯機などが登場するのは、まだまだ後年、大平さんの家は自分で作ったような建物、土地を購入したか、借りたかして自作されたのだろう。私の家は借家で家賃支払いに汲々していた。自作でも一家を構えているのだから、大平さんの気概は立派なものだった。
それでも、それをわかるのは今になってのことで、子供のころは大平さんの家は粗末だなと思っていた。ところがある日、駐留軍家族が何台かの車で大平さん宅に押しかけてきた。大きな箱に衣類が一杯つめこまれて、その箱も幾つもあった。大平さんのおかあさんはアメリカ人の言うことがわからない。その衣類を買えと言われているようで、しきりにいらない、いらないと手を振った。私の顔を見るなり、誰か言葉のわかる人を探してきてくれと頼んだ。生駒さんの家に走りこんで聞くと、熱海湯の裏に英語学校に行っている女の人がいると教えてくれた。ようよう、その人を連れてアメリカ人たちと話をしてもらった。その女の人は背が高く、ゆっくりと英語を喋ってアメリカ人たちと意志を通じ、その大きな箱に入った衣類は全部、無料でプレゼントしてくれたものだと伝えてくれた。改正道路を通るたびに、何かプレゼントをしたいと考えていたそうで、ありがとうという礼の言葉に私たちこそ、プレゼントさせてもらって有難いと言ったそうだ。
熱海湯の裏のお姉さんは一躍、ヒロインになった。私も大きくなったら英語を勉強してみようと思った。そして、あのお姉さんのように人の役にたちたいと思ったが、中学校に入る頃には、そんなことも忘れて、英語に悩まされるようになった。そして、英語で人の役に立つようなことは一度もなかった。志が低い者にはそうした大役は廻ってこないものだ。
その後、そのお姉さんがどうしたかはわからない。アメリカ人がプレゼントしてくれたのは12月の中頃だった。、つぎの日から大平さんの姉弟は帽子に耳覆いのついた洒落たのをかぶり、格子縞の暖かそうなジャンパーにジーパンと、絵本から飛び出してきたアメリカの子供のような服装に一変。言葉の大事さをつくづく味わったものだ。