2011-05-08

三茶小の話3

給食室はコの字型の縦て棒のつけ根あたりにあったとアーチャンがいう。なんだかそんな気にもなるが違うような気もする。ここから脱脂粉乳の入ったバケツを運ぶのだが、足元が危うくてこぼしそうに何度もなる。バケツに蓋はついていたが、嫌なにおいがしたもんだ。とても飲めなかったがそれでもお代わりをする子もいて、好き好きだなと感じた。
小学校で嫌いなのはこのミルクとBCGだった。ツベルクリン反応にひっかかり毎年注射をされたが、その跡が膿んで嫌な気持ちになった。二十歳ごろに結核になったから、役に立たなかったのだろうか。
カレーの給食は人気メニューだった。この日は朝から気分が良かった。給食室の前を用事もないのに通ってにおいを嗅いだ。脱脂粉乳を除けば給食はどれもうまかった。その給食を作るおばさんが白い三角巾を頭にして、「こぼさないように」とアルマイトのバケツを渡す。その人を中里の駅の近くで見つけたことがあった。どこかの横丁を入ったところだったが、夏で家の入り口が開け放たれていて、すだれがかかっていた。そのおばさんは団扇片手にアッパッパの裾から出た脚を煽ぎ、アイスキャンデーを舐めていた。視線が合ったのでこんにちはと声をかけたが知らん顔をしていた。アイスキャンデーを舐めているのを見られたからだろうか。凄く暑い日で、歩いていると顔がほてるような日だった。
何の用もないのに一日中ウロウロしていたもんだ。それでも毎日が楽しかったのだから、子供の頃は幸せだ。
山本トシオ君の家は丸山公園の近くにあった。色の白くヒョロヒョロとした子だったが賢かった。おかあさんは眼鏡をかけ言葉使いの上品な人だった。おかあさんも痩せていて、背中に子供をおんぶしていた。教育熱心な人で山本君はその薫陶もあり勉強家だった。山本君の父親が持っていたと、見せてくれたのが国会議事堂の議場の図、そんなものがあったのかとしげしげと見つめた。
丸山公園に消防署が移転してきた。昔は玉電の際にあった。今の郵便局のところだ。郵便局が世田谷通りから移転してきて、消防署が押し出されて丸山公園に入り込んだ。丸山公園の便所は大きかった。ここにホームレスが入り込み、その子が駒中に通ってきた。後年、アーチャンが渋谷で彼と出逢った。「アーチャンだろ」と声をかけられ、「失礼ですけど、どなたですか」と訊いた。すると小声で「大きな声ではいえないけど、丸山公園に住んでたオレだよ」といわれて思い出した。今は船橋だかに住んでいるとのことだった。幼い頃は親の生活環境で好まぬ状況下にいても、世間に出れば腕一本、度胸一つで天下取れる。ここが面白いところだ。
彼がどんな仕事をしたのかをアーチャンから聞きそびれたが、山本トシオ君は早稲田大学の工学部だかに進学し建築の仕事をしたと聞いた。それも、定年となれば人生の最終コーナーを廻ったようなもの、誰が偉くて誰がダメなわけでもない。生きているだけで有難いものだが、なかなかそうも思えないのが人生、この山本君は同期会に出てきたことがない。よっぽど嫌な思い出でもあるのだろうか。もう五十年も前の話だ。全て忘れてまた逢いたいものだ。