2011-04-13

中里の思い出2

中里の駅から三茶小に向かってダラダラ坂を下りていくと、右手に久住君の家があった。ここは洋服屋さん、注文服の店、昔は身体に合わせて作ってもらい、既製品は吊るしと呼ばれ、一等下に見られていた。久住君の家のガラス戸に白く久住洋服店と書かれてあった。大きなアイロンと蒸気を上げるスチームの機械があったような気がする。
この中里は上馬と異なり、狭い道の両側に店が列なり、なんとなく家庭的な雰囲気だった。高橋孝明君は同級生、敏捷な動きをするいかにも少年の持つ初々しさに溢れた子供だった。この家はブリキ屋さんで、壁に消防服が懸かっていた。大きなヘルメットもあり、兄さんが消防署か消防団にでも属していたのだろう。
左手に山田瞳さんの家があり、その隣がデブチン八百屋の原田君の家、新聞に中里商店街のチラシが入ってきた。そこには原田君の八百屋の広告に「一銭を笑う者は一銭に泣く」と書かれてあった。その意味を母親に訊くと、「お金を大事にしろということ」だと教えてもらった。原田君の父親は偉い人だなと思った。原田君には姉がいて、キヨコさんと言うらしく、三上先生が時折、清子さん元気にしているかと原田君に尋ねていた。
原田君はがっしりとした体格で相撲が強かった。六年五組で相撲が一番強かったのは世田谷通りの河野お茶屋の傍の高田写真館の息子、この人は強いばかりではなく、相撲の技も知っていた。あの頃の横綱は千代の山、高田君は相撲のラジオ解説の口調を真似て、「顔面紅潮若乃花などと言っていたのを思い出す。高田君の家は写真館の前は古本屋をしていたと教えてくれた。いつの時代でも生きていくのが精一杯だ。その高田君は二十歳代で亡くなった。中西ヨシオ君が渋谷の駅で高田君とすれちがった。その時、「俺、もうすぐ死ぬんだよ」と告げたそうだ。告げるほうも辛かっただろう。告げられるほうは困惑して言葉も出なかった。
それはそうだ、青春の入り口をくぐったばかりの頃、死ぬなんてことを全く気にせず、明日に続く今日を微塵も疑わなかった。ところが、もうそこで人生スゴロクを降りなければならなかった。気の毒だ、可哀想な話だ。我々はどうのこうの言いながらも、なんとかこの歳まで生き延びた。それが良いのやら悪いのやらは誰も知らない、また、個々人の心持一つで良くもあれば悪しくもある。人生道場とは不思議な場所だ。
さて、原田君の家には店先に猿がいたそうだ。それが有名だったと多くの人が教えてくれたが、私は知らなかった。原田君の隣に山田さんの家があり、この人は大人しい人で、物言いが静かだった。この家に上がりこんでお菓子をご馳走になった。家の中もシンとして静かだった。大人しい人は大人しい家に育つのかと、子供心にも納得した。大場そろばん塾があり、そこに多くの子供たちが集まった。クリーニング屋の路地を入ったところだった。昔は子供が多く、そろばん塾も初等から高等までいつも賑わっていた。
そろばん塾に通う子供は直ぐにわかった。歩くたびにそろばんの珠がカチャカチャと鳴ったからだ。そろばん塾でもケンカがあった。手にしたそろばんで相手を殴り、そろばんが壊れて珠が飛び出し、たまげたことがあった。