2011-04-09

上馬の思い出10

もう半世紀も前のことを思い出して記しているため、時々記憶が繋がらなくなり、都度、中野義高さんに電話をする。互いに高齢でああでもないこうでもないと並べていくらか薄ボンヤリ当時が浮かんでくる。このブログに動画が貼り付けてあるが、古いパソコンをお持ちの方だと見れないけど、当時の流行り歌やプロレス中継など話に合わせたものを選んでいる。昔の小説の挿絵だと思えばいい。現代は進歩の結果、印刷する紙もインクも不要、新聞や郵便のような配達費も不要という、まことに結構な時代だが、我々年代はパソコンを駆使しインターネットを自由に操作する人が少なく、まったく長生きの効用を使いきっていない。ただの耄碌爺やババアになるまえにすることがあるんだが、はてさて、そんな嘆きは置いて、毎日ブログを更新し続ける。
上馬メトロで夏になると林屋正蔵や一龍斎なんて寄席芸人が怪談を演じに来た。映画館の前の玉電通りに映画のスチール写真が飾ってあった。金はない、暇だらけだから飽きもせずにその写真を眺めたもんだ、洋画だと画面右上に○が出る。それがスチール写真と同じ場面、ジョン・ウエイン、タイロン・パワーなどの名前をさかんに覚えたものだ。
松の木精米店のヒロシさんは外人の子供のように色白だった。鼻筋も通ってなかなかの好男子、隣の映画館に来るのが講談師、米屋の次男も好男子。
左隣の自転車屋に同級生がいた。佐藤フミエさん、活発な子で眼がくりくりとしていた。そこにあにさんがいて、この人は佐田啓二ばりの男前、近くの色気づいた娘が用事もないのに店先をウロツクほど、この人が実に親切な人でパンクの修理でもスポークの折れでも、何を頼まれても嫌と言わずにニコニコとしてくれる。店は土間で土が油で光っていた。腰高の床が奥にあり、畳敷きになっていた。
昔は今のように、どんな路地に入り込んでも舗装などされていないから、釘を拾ってパンクばかりしていた。家に古い黒塗りの自転車があり、それを三角乗りしたいた。まだ背が低くってサドルに座れない。そのため腰掛けずにペダルをこぐと、丁度自転車のフレームの三角に足を突っ込むことから三角乗りと呼んだ。もちろん転べば怪我をするので、大人からは危ないと注意されるが、するなと言われるともっとやりたくなるのが性分。それでも怪我もせずに頼まれたお使いをこなしたもんだ。
パンクするたびに自転車に行った。色男のあにさんが直してくれた。ある日、これはパンクじゃないから直らない、タイヤごと交換だよと言われた。よく見るとタイヤに穴があいて中のチューブがはみ出している。
金がないので取替えられないと言うと、チョット乗りにくいかもしれないけどと、絆創膏を貼るように穴を別の古タイヤを切って貼り付けてくれた。ありがとうと礼を言って乗り出すと、その継ぎ目が来るたびにカクン、カクンと体がゆれた。その揺れを感じながら、心優しい自転車屋のあにさんを思い出した。世の中全体が戦争の痛手に泣きながら、ようよう回復の兆しの中、誰彼かまわず互いに助けあって生きてきたのだ。自転車屋のあにさんも戦争に行ったという。戦争のことは思い出したくないよと、修理の手を休めずに言った。そんなあにさんが突然死んだ。胃癌だとか大人がヒソヒソ喋っていたのを聞いたとき、何故だかしらないけど涙が出た。あんな優しい色男が死ななければならないのかと腹立たしい思いがこみあげてきた。世の中には死んだほうがいいような人を幾人もみた。死なないほうがいい人が死んで、死んだほうがいいような人間が、根岸酒屋でコップ酒を飲んでわけのわからないことを大声でしゃべって赤い顔をしていた。それを横目でみて自転車をこいだ。継ぎ目が来るたび情けない思いがこみあげてきた。