2011-05-18

三茶小の話9

裏門からまっすぐに伸びる道は宇田川君の造園植木置き場を左に見て、曽根君の家を過ぎると突き当たりになる。ここは林になっていて、大きな欅の木が何本もあった。どういうわけか、ここの木を切り倒しているのが、裏門から見えた。マサカリを振上げて木に打ち込む姿が見えて少しするとコーンと木にあたる音がした。理科の時間に習った音は一秒間に330メートル伝わるというのが実証できた。曽根君の家までは330メートルあったのだ。ダラダラとゆるい勾配ではあったが、意外に距離があるんだなと思った。
曽根君の隣に妹尾さんがいて、曽根君の家を右に曲がると石川さんの家、妹尾さんも曽根君も移転されたが、石川さんのお兄さんでも居住されているのか、変らず石川の表札をみつけたとき、おかっぱ頭で賢そうな瞳の大きい彼女の顔を懐かしく思い出した。石川さんは神戸に居住されている。ご主人が神戸製鋼に勤務されていると、それこそ二十年も前の同期会で言われていたのを思い出す。
同じ場所、同じ名前の表札を見つけても、我々の同級生の姿をそこに見出すことができない。文明堂のカステラは同じレッテルで、同じ味がするけど、同じ場所、同じ表札だけど友達はもういない。時の流れの無情を感ずるのは私だけなのだろうか。
このブログはこんな時代がありました、こんなことを見聞しましたと記録し、それを読んだ人が更に書き込むことを念頭に始めた。間もなく二ヶ月になる。俳優の浜畑賢吉さんが我々の子供の頃を記録すると、文章を書き始められた。その一助にもなればと開始、が、友人たちからのコメントはない。ところが、初めてお父さんが上馬で働いていた方からコメントを書いていただいた。上馬5丁目で生協(酒屋)をされていたとの由、同じ場所、同じ時代を過ごされた、そのお父さんも亡くなられたそうだ。土屋さんに尋ねたところ、世田谷通りの若林陸橋のそばに柳文具店があり、その近くに中野さんという方が酒屋をされていたので、おそらくその方のことではないかと教えていただいた。ここら辺の話は駒沢中学時代で書き記してみたい。
同じ場所、同じ時代を共有した人に、文明堂のカステラのような、変らぬ味を伝えられれば望外の喜び。たしかにああいう時代があり、人々はそれぞれ置かれた境遇・境涯のなかで必死に戦う、しかし、そうした庶民の戦いの記録は残らない。自分が踏みしめた土地がどういうものであったか、そして、その土地の上で事業・生活を営む、元気で懸命に、しかし、振り返ってみるとあれほど長かった時間も、ほんの短くも思えるのが人生。そして、磐石だと思っていた商売も景気と時代の波に揺られ、まるでガラス細工のようにはかないけれどキラキラと輝いていた。そんな商店が集まっていたのが三軒茶屋であり世田谷通りであった。その経営者たちが築き上げたガラス細工を並べて、その一つひとつを愛でた者もいない。
こうした庶民の時代、時代での暮らしぶりを本にしたものもない。精々、その時代を生きた人々を一堂に集めての座談会、けれどこれは思い思いに目にした事象を並べるだけで、一軒一軒の人々の暮らしが文字に現れたことはない。浜畑賢吉さんにもお伝えしたことではあるが、あの時代、この地域でたしかではあるが、振り返るともろいガラス細工の個々の暮らしぶりを世田谷教育委員会を説いて、本にされたらいかがと。
我々の時代、それも過ぎ去り、あれほどきらめいていた個々のガラス細工も砂埃と塵に埋もれる。投稿されたコメントがそれを教える。そうした個々の話を写真入りで掲載することこそ、このブログの狙いでもある。三茶小・駒中から多くの子供たちが毎年巣立つ、同じ場所、同じ長さの時間の経過、されど時代が異なり味わいもまた違う。我々が踏みしめた土地、これが何であったか、そして、我々庶民のガラス細工の人生を印刷や活字に頼らずとも、インターネットという文明の利器を活用し、伝えてみたいと念願する。時代は確かに移ろい、人々の考え方も違ってはいるが、人情だけはなくしてはいけないし、なくされないもの。文章を書ける人はドシドシ投稿されたい。書けないかたは要旨とその時代を記録した写真をお貸しいただければ文字と映像で、その人の人生を記します。
想像していただきたい。三茶のマーケットに、もろいけれどキラキラと輝いていたガラス細工の人生が幾つもあり、それを一つひとつ愛惜の念をこめて読むことができれば、どれほどあの時代を思い起こすことができるかを。これは大事なことで、インターネットを利用できないお年寄りには冊子にして手渡さなければならない使命もある。