2011-05-21

三茶小の話12

隣のクラスに北川マチコさんというフランス人形のような子がいた。その子の瞳がいつも潤んでいるような何処となく切なく、胸をしめつけるような訴えるものがあった。服装もいかにも裕福な家庭の子のような気品をも備えていた。一度も会話をしたことがなく、中学校へ進学しても遠くからだけ眺めていた。お父さんを事故で亡くされたが、端正な風姿は変ることが無かった。後年、この瞳と同じ絵を見つけたことがあり、北川さんの眼だとしみじみ感じ入った。
その絵は挿絵画家として一世を風靡(ふうび・風が草木をなびかすように、その時代の大勢の人々をなびき従わせる)した竹久夢二、岡山県の産、この人の代表作の黒猫を抱いた女性の絵、「長崎屋」の眼がしれだった。この絵の有名なことは論をまたぬが、作者は愛する女性を病魔に奪われ、その容姿を絵にとどめたと言われる。同期会でもおみかけしたが、その後体調を崩したような話も聞こえてきたが、元気でいつかお眼にかかりたいもの。
5組にもフランス人形のような愛らしい子がいて、島本康子さんと言った。世田谷通りの薬局の娘さんで、薬店の名は雄飛堂、素晴らしい名前だ。この子と並んで座りたくて皆が席替えを楽しみにした。その隣の席に川名君が決まり羨望の眼差しを一身に浴びた。その川名君に2000年という年が来る頃、ぼくたちは57歳になるんだと、私が得意そうに喋ったのは隣の席の島本さんに自分の利口を示したかったのだろう。勿論、川名君も島本さんも呆気にとられた顔、そして島本さんが「私の父より年寄りよ」と言って、言い出した私も驚いた。そんな年寄りになるんだと、想像もできなかったが、その年寄り十も余計に生きてしまった。
自分の長生きに驚嘆する。私は二十歳で結核を患い入院し、間もなく死ぬのだろうなと覚悟した。肺に穴が開いて電信柱の間の距離が休まないと歩けなかった。入院して薬を全部棄てて、呑んだふりをしてひたすら眠った。入院費が払えなくて脱走、それからあっちにぶつかりこっちで転んで、人並み以上の辛酸をなめて生きてきた。それも六十もとうに越えて、何時死んでも不足はありません。面白い人生を送らせてもらいました。あの小学生の頃、2000年の年にビックリした少年少女も、気がつけば白髪のおじいさん、おばあさん。いつの間にか年を重ねてしまいました。
同じクラスに今永ミワコさんがいて、この人は利発そうなキラキラした眼の人、おとうさんが缶詰のレッテルを描く仕事をしていた。今で言えばグラフィックデザイナーだ。この今永さんは大人しいけど、活発で自分が決めたことはサッサとこなした。後年、同期会でお会いしたとき、社交ダンスをしておられるとか、あの世界はきらびやかで、そして運動神経が発達していなければならない。音楽に合わせて軽快にステップを踏み、そして、いとも楽しげに満面に笑みを浮かべる。パートナーも大事で一人で出来ない仕事、結構大変そうだが、ご本人は楽しくてたまらないと言っておられた。
あの今永さんがね、と言うのと、やはりそうなのかなと、三つ子の魂百までで、決めたことを貫くいい面を上手に出されたのかなとも思い、たのもしいもんだと思った。今でも軽やかにステップを踏んでおられるのだろうか、今年は同期会がありそうなので、楽しみにしています。