2011-05-16

上馬の思い出31

学校のいつも閉まっている裏門から帰ると近道だったが、ここから出ると叱られるので嫌々正門から出た。正門を入ると用務員室があった。その前に教員室があり、その隣が校長室だった。便所がその前にあり、今と違って溜め式便所だけに梅雨時は臭いがこもってたまらなかった。でも、家に帰っても同じだったので気にしない人が多かった。駒中の同期会で女性が、昔に返りたいワと言ったので、肥溜め便所の尻の穴を拭くのに新聞紙の時代に戻るんだヨと言ったが、それでも戻りたいと強情を張った。昔にとっても良いことがあったのだろう。
水洗便所に慣れると、あの時代に戻るのは嫌だとつくづく思う。しかし、大地震になれば下水も上水も使えなくなる。バイオの力を借りて木屑と糞尿を混ぜて分解し、全く臭いの出ない便所となる。これは現物を八戸で見たことがある。市民の森という山の中の便所がこれ、初期投資がかかるがランニングコストがかからない分利がある。
昔は肥樽に糞尿を入れ運んだ。もっと前は玉川あたりのお百姓が肥桶を牛に曳かせた大八車に積んで、家家を廻り下肥を集め、その代わりに野菜を置いていった。私の家の前の水野という理髪店があり、頭を刈ってもらうのに前を見てじっとしていないと、バリカンでコツンと叩く、それが嫌で前の水野理髪店に行かず、玉電通りの松の木精米店前の太陽という床屋に行き、シラクモをうつされた。この床屋は不潔だと近所の人が言っていたが、実にその通りでしばらく治らず泣きべそをかいたことがあった。
水野床屋は家族が多かったのか、お百姓は野菜を多く置いていった。玉川方面にも家が建て込んだのか、お百姓が来なくなり、東海組が便所の汲み取りを受け持った。トラックで肥樽を積んだ所に来て、それを開けて走り去る。生駒さんの隣の大平さんの家の前がその肥樽の置き場になっていて、雨が降って先が見えないと肥樽に傘があたって臭いがついた。全くこの肥樽には悩まされたが、改良されバキュームカーが家々を廻るようになった。車から長く伸びたホースの太いのが時折撥ねるように動いた。以前のような肥樽からは開放されたが、バキュームカーの傍を通るときはやっぱり臭いがしたもんだ。駒沢中学の傍に、その東海組があり、そこの勤務している人の子も通学していた。職業に貴賎なしで、あの仕事も大事な仕事、それも下水普及で東京では姿を消したが、地方ではまだ見かける。
トイレットペーパーなんてのは見たことがなかった。いつも新聞紙を長方形に切って使ったもんだ。新聞インクには身体に良くないものが含まれていたらしいが、新聞紙で尻をふいて死んだという話もきかなかった。昨今は金がかかるような仕組みになっている。
暖房も昔は練炭、この着火が私の仕事で朝起きると改正道路前に練炭七輪を置いて二酸化炭素中毒にならないようにと毎朝運んだものだ。野沢商店街の奥に薪炭屋があり、品川練炭を売っていて、そこにお使いに行かされ練炭を買ったものだ。今は灯油の時代で、暖かく便利だが、原油が値上がりして我々は苦しめられる。昔は薪と練炭で寒い冬を過ごしたものだが、便利な世の中は金がかかって不便になった。文明の進歩は我々を苦しめるのも妙。ついでに書いておくが、文化と文明の違いは文化はすぐに眼に見えないものを指し、文明は見た瞬間に理解できるものをいう。五十嵐君の家に灯油ストーブが入り、ブルーフレームという名前の石油ストーブで青い火を立てながら燃えた。その暖かさに驚嘆した。これが文明だ。ところがアラブの手加減一つで、原油が上がり世界全体が困ったことになった。空気に値段をつけて、最初は安くどうぞで、使わせて次第に値を吊り上げれば、生きていること自体が困難になる。今は妙な時代に突入し、テレビだクーラーだで電気浸けにさせておいて、電力不足では困るから原油に左右されない原子力と宣伝し、これが全国に54、その管理が不十分で福島の住民は家を追い出され、家なき親子にさせられた。便利は不便でしかない。家々にラジオと裸電球のころは溜式便所だったが、暮らしやすかったのかもしれない。