2011-08-22

このブログを印刷し三茶小の先生へ郵送

印刷媒体でしか三茶・駒中クラブを見ることのできない世代の皆様には、印刷媒体でしか伝達できない
そこで三分の一ほどを印刷し郵送することにしました
当初からこれをするようになると覚悟をしていましたが、印刷し製本する手間が面倒で二の足
しかし、嫌なことというのは向こうから寄ってくるもので、紙にインクをなすりつけて、製本と輪転機と機械をひさしぶりに動かした
自前で所持しているので面倒がらずにやればいいのだが、ブログの簡便さと映像・音声まで出せる面白さを思うと、どうにも気持ちが重い
でも、恩師の皆様に往時を思い出していただければ幸い
先生方も元気な盛り、色々とあったことと想像
それにつけても世田谷の中心、三軒茶屋のなつかしいこと
楽しいことばかりではなかったけれど、なんとも心楽しくなるひびきがある
三茶、私たちの町でした

2011-08-04

ブログの宣伝

6月23日から方向性を求めて色々と模索
中野さんからもご意見を頂き、宣伝不足だとの結論に達し、見本紙を作製しこれを新聞社の支局にもちこみ記事掲載を願う
商店街の古い写真などを集め、ブログならではの写真を中心とした世田谷郷土史を作成してみたい
三茶小第三期の卒業生が始めたブログを若手も参加できるものにするべく、もうひと努力をします
見本紙の印刷も昨日終了、幹事諸氏の努力をもって暇をみながら新聞社を廻る
また、10月からは茶沢通りのホコテンでチラシを撒くように千枚を印刷
夏は暑くて撒いているうちに倒れそうなので秋からにした
紙媒体も大事だが、やはり時代はインターネット
恩師の皆様もご高齢になられ、新時代の利器には疎遠
この見本紙は恩師の皆様にも送付します
今、NHKの朝ドラマで戦後間もなくの女教師の話
まさに恩師の皆様の時代
懐かしく思い出していただけるよすが(手段)となればありがたい

2011-06-23

上馬の三奇人 タマエさん

玉電通り真中寄りに立石という氷屋があり、冬には壷やきいもを売っていた。あの頃はやきいもは高級なおやつだった。三茶小で同級の中西君は「お前の家にはもう行かない、やきいもしか出さないから」と言った。やきいもの美味さを知らないのだと思った。実際やきいもは高かったが、中西君には粗末なものと見えたのだろう。それでも我が家では最高のもてなしだった。
その手前に平河屋のそばやがあり良く手入れされた調度品が黒光りしていた。ここのそばは滅多に食べられなかった。両親がメリヤスの仕事で忙しく食事を作る時間を惜しんで作業すると、この平河屋で食べてきなさいと、妹と共になにがしかの金を渡され、その範囲のなかで品書きの木の札の中から食べたことのないものを選んだ。妹は小学校に入ったかそこらで、椅子によじのぼって座った。外食券食堂などの文字が並んでいた。
平河屋は文化の臭いがした。かつお節と醤油のなかに、食べる楽しみを教える文化の臭いがあった。
この平河屋の横を入ったところにタマエさんの家があり、通りを覗いているぎょろぎょろとした眼に出くわす。鞍馬山の義経が登り、そこで剣術の稽古をしたと言われる。六韜三略(りくとうさんりゃく・中国の兵法書)を覚日阿闍梨から学んだといわれる。その剣術の稽古をつけたのがからす天狗。眼ばかりぎょろぎょろして色浅黒い、この風貌がタマエさん。アーチャンも彼女を知っていて、買い物袋を手にして、中から石を取り出してぶつけてくるんだよ、嫌なばばあだったという。土屋さんに「あんたがいじめるからだよ」といわれブツクサ。
タマエさんの名誉にかけて言うが、あの人はそんな凶暴な人間ではなかった。毎日上馬から三茶方面を流して歩いているため、土方人足、駕篭かきのように日焼け、何をして食っていたのかは不明だが、泥棒かっぱらいの話も聞かない。それなりに暮らしておられたのだろう。あのころはこうした上馬ウロチョロ族が結構いた。ロケットしんちゃん、背の高い襟付き学生服に名前を書いた聾唖者、指先の溶けた男、吟遊詩人、鍋欠けつぎ、傘の骨直し、金魚売りに雑貨や、これはリヤカーに骨組みして、鍋、釜、大根おろしの板、湯呑など、今の百円均一のような行商、これの若い衆が泣きながらオバサン連に聞いている。錦糸町は遠いですかね、売れるからってんでお客さんがあっちへ行け、こっちへ来いというので、ウロウロしているうちに、此処まで来ちゃったんですけど、此処はどこですか、私は誰? そうは言わなかったが、今日中に錦糸町に帰れますかネって聞くけど、帰れるわけはないよね。
昔はこうして歩いて方々で歩いたもんだ。糖尿病患者なんてのは極マレ、歩いていりゃ糖尿病なんてのとはおさらばだ。私もヘモグロビンA1cが10もあったときは心筋梗塞で倒れた。豆食って歩いて今は5・2だ。糖尿病増加率と車の増加率が同じ、楽して車に乗ってガソリンと税金、車検に保険に車代金と金を使って病気になって、挙句に心筋梗塞じゃ馬鹿の見本だ。車は処分し歩くのが一番。毎日二時間ウロウロしている。タマエさんのように歩いているが、あれれ、タマエさんも糖尿病だったのかな、そんなわけもなかろうに、ハイ、お退屈様。第一話はこれで終了。第二話をするかどうか、26日の会合で決定します。しばらくお休み、さよなら、さよなら、さよなら。

2011-06-22

上馬三奇人 オナミさん

上馬停留所の前に小島屋という呉服屋があった。大きな店で繁盛を極めていた。ここの主人は養子で、番頭が直ったとも言う。ここには美人姉妹がいて、その番頭を競ったとのこと。それに姉が負けたのか妹が勝ったのかは知らないが、恋の争奪戦が火花を散らしたのだろう。
畠山みどりという歌手が「恋は神代の昔から」を唄ったのは昭和37年、恋の鞘当が同じ家で起きると、これは激烈を極める。畠山は北海道稚内の産、世田谷区上馬での恋の鞘当はオッカナイ。
負けた方がとうとう精神のバランスを崩して、座敷牢に入れられた。小島屋の裏手、生駒さんの隣の白鳥という家。ここにユウジという一年上の男の子がいて、この人の目つきが実に暗く、また性格もネチネチとして嫌な奴だった。三茶小を卒業し私立中学に行った。この子とバーどりあんの子、漫画の天才の勝比古さんが仲良しだった。後年、勝比古さんは父親が若い女と駆け落ちし、殺してやると探し回っていた。不幸な話だ。その点、三茶小の石塚先生はそうした追い回されることもなく亡くなった。世の中は不思議なところだ。
ないものねだりのような場で、子供がいない夫婦は欲しいと願う、子が多く、自分を付け狙うようになれば、いないほうが良かったと思う、自分がしでかしたことを棚にあげて考えるところに面白さがあるのだが、当人はそうは思えないもの。
さて、恋に熱を上げて破れし平家の公達あわれではないが、青葉の笛ならこうした文句だが、負けたのがオナミさん。白鳥の家は広く、玄関は改正道路に面していて、シェパードのジョンというのが放し飼いになっている。小島屋と床屋の国太さんの横丁からも入れる。やぶ蚊が多くて、鋭い高音を立ててすぐに飛んでくる。犬も怖かったがやぶ蚊にも悩まされた。あの頃は蚊帳がないと暮らしていけないほど。
蚊取り線香なんてのに負ける蚊はいないほど。ワンワンと飛んできた。その庭をオナミさんはウロウロする。そして奥まったところに肥溜めがあり、そこで用をたしていた。オナミさんの便所は外にあった。
オナミさんは礼儀正しい人で逢えば必ず挨拶する。髪の毛がぼうぼうで眼が赤く光らなければ普通の人とそんなに変らない。でも、着ている着物がヨレていた。そのオナミさんが時折風呂敷包みを持って出かける。後をつけてみると、パーマ屋のボンを通り、石川さんの家の前を抜け、高砂湯に入った。土屋さんもオナミさんを知っていた。このオナミさんは長生きをしたそうで90歳を越したという。
幸せではなかったろうが、人生は過酷な道場でイヤイヤでも長生きしなければならない。丁度今頃、梅雨の雨がしとしと降るのにもめげず、やぶ蚊に悩まされながらも、オナミさんの庭でグミをもいで食べた。ほろ酸っぱい味はオナミさんの人生の味だった。

2011-06-21

上馬三奇人

上馬に奇人が三人いた話を書いて一応第一話の完結とする。インターネットが伝達媒体の有力な手段だと信じていたが、我々世代は時の流れに乗れずに埋没。閲覧者の数も伸びることなく終る。時代は変りインクと紙媒体の伝達手段にしか頼れない我々世代なのだろう。若手の閲覧を期待したが三月経過しても一向に増加しないので、休止の宣言だ。
我々世代に昔は良かったと語るのは易いが、それでは郷土史としての意味がない。我々世代を踏み台にして、若手の書き込みの中で、積層する世田谷・三茶・駒中を立体化できないかと考えたが無理のようであった。
さて、年寄りの嘆きは置いて、上馬の奇人一番は「ロケットしんちゃん」昨今はクレヨンしんちゃんだが、それよりも前に登場した。
この人は玉電とケンカをするのを信条としていた。いつも浴衣を着ていた記憶がある。右手に竹杖を持ち、玉電の軌道敷近くで電車の来るのを待ち構える。電車が近づくと左のふくらはぎを右足先でこすり始める。
間合いを計っているのだ。佐々木小次郎の燕返しではないが、しんちゃんの心臓がドキン、ドキンと音を立てているのだろう。この様を近所の連中も心臓の音をドキン、ドキンとしながら見守る。当れば即死、そこまでいかなくとも怪我は間違いない。
足かきが忙しくなり、そして、5・4・3・2・1ドカン!
しんちゃんロケットの発射。
見事電車の前を通過し、反対側に逃げ込む。運転手がボウっと音を立てて危険だぞ、馬鹿野郎の代わりに警笛のプレゼント、それをにやりと笑う不適さ。
このロケットしんちゃんは弦巻まで名が響いていた。高校の友人の姉が上馬? ならロケットしんちゃん知ってるでしょ?
有名人だったのだ。それにしても、何であんな危ないことを得意としていたのか、それが謎だからこそ、ロケットしんちゃんなのだろう。
それでも時折、かわしそこねて電車に撥ねられてオイオイと泣いているのを見たことがある。交番の巡査もロケットしんちゃんだけに、電車の運転手の肩を持つ。それも当然だが、泣いているしんちゃんは哀れだった。
玉電の架線の修理に盆踊りの櫓のようなトロッコが来る。いつも夏の近くだった。これが生駒さんの近くに夜間放置される。今度はこれに登って大騒ぎをしたもんだ。改正道路で寝転んで星を眺めたこともある。冬になって空っ風が吹くと凧揚げで走り回った。車も来ない改正道路は子供たちの天国だった。
それが環七になり、寝転んでいれば殺される。悪い時代になったもんだ。どうも時代は悪くなっているような気がする。時代に取り残された我々はインターネットの波にも取り残された。玉電とケンカをして負けたロケットしんちゃんのような気分だ。

2011-06-20

駒中の話22

生駒さんが通学途中に声をかけてきた。「三橋美智也の東京見物、あれいいよね、負けずに島倉千代子が東京だよ、おっかさんというのを出してきた、三橋のは男ぽいけど、島倉のは女らしさが出ていて、あれもいいよ」
実にその通りだ。この曲は昭和32年、もはや戦後ではないと言われた時機、それでも総理大臣のそんな発言をよそに、子を亡くした母の哀れは消えずに、靖国神社に足が向かった。島倉の泣き節は彼女の八の字眉と同じに、女の嘆きを見事に現した。作曲は船村徹、この人は時折、胸に沁みる歌を作られる。日本人の琴線に触れる見事な歌をものされる。
歌謡曲衰退と言われる昨今でも、やはり、浪曲が日本人の心の原点であるように、時に触れ折にあたっては耳の奥で唸るような響きが聞こえる。それが日本人の心なのだろう。
福島の相馬、ここには相馬の野馬追いの伝統行事があり、農家はこのために一年間馬を飼い続ける。雲雀ケ原で甲冑をつけ馬を駆り、旗指物を背に本気になって一番を競る。
狼煙と共に空中高く打ち上げた神旗を落ちてくるところに馬を走らせ、ムチでそれを奪い合う神旗争奪戦もまた眼に焼きついてはなれない。
相馬にはこうした祭りを延々と繰り広げてきた馬を愛する風土があった。それが、東京電力の粗相で原発被害で中止になった。
人類は良くなっているのだろうか、悪しくなっているような気にさえなる。我々の子供の頃は貧しくとも楽しかった。今は高いビルで窓を締め切り、冷暖房がなければ仕事にならない。まして、階段を昇降するにはエレベーターなしでは仕事にならない。だから、電力を多量に必要とする。昔は裸電球だった。それが蛍光灯になりLEDと変った。冷房なんてのはなく、皆が団扇であおいでいた。それが扇風機から冷房装置へと変り、我慢を忘れてすぐにいがみあうようになった。ささいなことでキレル。情けない話だ。
愛ちゃんはお嫁にの鈴木三重子の父親が唄う新相馬は何度聞いても胸に沁みる。日本人の原点だ。今はその地から追い出され漂白の民とされた。情けないことだ。東京電力は大罪を犯した。しかし、その詫びの言葉もないのはどうしたことだろう。
日本人はいつしか、詫びる心、責任をとる始末をつけるを忘れてしまった。戦争中、多くの若者を特攻隊で死なせたことを詫びて阿南中将は割腹、戦争犯罪人の汚名をきることはなかった。
日本人には美徳があった。それも死後となってしまった。でも、この船村の歌のように、時折、我々の忘れてしまった心を思い出させるものがある。昨今では吉田旺作詞の紅とんぼ、これに船村がいい曲をつけた。諸君らもご記憶のことと思う。1988年テイチクから出た。
空にしてって 酒も肴も今日でお終い 店じまい五 年ありがとう 楽しかったわいろいろお世話になりましたしんみりしないでよ ケンさん 新宿駅裏 紅とんぼ思い出してね 時々は
歌謡曲は日本人の原点、アメリカンポプスもよかったが、歌謡曲も忘れられない。

2011-06-19

駒中の話21

水道部の建物は洒落た欧州を思わせ何度見てもあきることがなかった。この写生会があり巧みな絵を描いた人が多かった。その写生に横山君と共に出かけた。ともかく描いて提出したが、鉛筆がなくなり絵の具で名前を書いたが美術の樋口先生が提出しなかったと叱った。名前のない絵の中にそれがまぎれていた。
竹やぶの仕返しをされた気になったもんだ。駒中は昼休みになると校門を閉めて生徒を外に出さない。弁当を忘れただかで、瀬戸物屋の佐藤君と抜け出してそばを食いに行こうと二人で裏門へ廻った。
人の居ないのを確かめて私が先に門をまたいで出た。来いと手招きしたらイヤイヤと首を振った。何だろうと後ろを見ると富田先生が立っていた。慌ててもとに戻って、その日は昼飯抜きになった。
クラブ活動が終ると腹がへって、駒沢駅の近くでクラッカーを買って店の前にたむろして喋りながら食べた。「あたり前田のクラッカー」と藤田まことの真似をした。テレビが茶の間に入りこんだ。テレビCMに毒されていたのだ。
後年、藤田まことはあまり売れずに鶯谷のキャバレーなどでお茶を濁した。その時、客席から「あたり前田のクラッカー」と声がかかった。藤田は嬉しそうに「あの頃は当っていました」と返して笑いを誘った。
その後、仕置人などでヒット、押しも押されもしない役者になった。人生楽あれば苦で、一筋縄ではいかないところが面白い。この藤田も役者ではあたったが、女房が手がけた事業で多額の借銭、その支払いに終生追われた。昨年76歳で逝去。
「てなもんや三度笠」のあんかけの時次郎役が眼に浮かぶ。ラジオから流れ出たCMソングがアニメとなってテレビに登場、CMソングの女王と呼ばれたのが楠トシエ、あまり歌手としては当らなかったがCM界では女王、色んな女王がいるもんだ。
お笑い三人組というNHK番組があり、小金馬、猫八、貞鳳の相手役の三人娘の一人に楠、この人は東京神田の生まれ、三菱銀行に入り、三木鶏郎の誘いでNHKラジオの日曜娯楽版に出演しNHK専属タレントのはしりになる。同期に黒柳徹子。
楠の大ヒットCMにかっぱ黄桜、これはパンチも効いて面白い歌。
富田先生にみつかって、その日は昼飯を抜いたが、その後もしばしば昼のテレビが見たくて抜け出した。三平のお昼の演芸、これで三平が売り出した。爆笑王と呼ばれるようになったが、当時はまだ駆け出しだった。
この三平の真似を同級生の村岡君としたもんだが、中学生はラジオやテレビの刺激を敏感に察知、それを真似して楽しむが、他愛のないものだ。テレビやラジオしか刺激がなかったが、いよいよ実人生に踏み出すとこれは刺激が多すぎた。酒に女に金と何処を向いても刺激だらけ。その中で身を持ち崩さずに今日まで来れた諸君は幸せ者だ。
そんなこんなを楠トシエの黄桜のCMで思い出してもらいます。