2011-05-06

三茶小の話

三茶小の校庭にはブランコがあった。学校の形はコの字型で上辺の二階の先端に音楽室があった。アーチャンにも土屋さんにも聞いたが、音楽室の下が何に使われていたかがわからない。コの字の上辺の道路を挟んだ向かい側には平和パンがあった。平和と命名するだけに戦後の創立なのだろう。
時折パンの焼けるいい匂いがしたもんだ。万年腹へらしの悪ガキ連には刺激的な匂いだった。音楽室の真下に鉄棒があり、砂場があった。若くして亡くなった高田君の相撲の強かったことは忘れられない。また、技も良く知っていた。ラジオで相撲の中継をしたが、アナウンサーの一言半句にも興味を持った。顔面紅潮若の花などの言葉は映像のない時代に想像力を掻き立てる言葉だった。相撲も現今のように6場所ではなく、昭和28年は4場所だった。32年に5場所と増えそれが6場所にまで伸びて八百長相撲が発覚。
高田君は普段はもっそりとしていて、あまり存在感のない人だったが、相撲になると俄然精彩を放ち無敵を誇った。アーチャンいわく、先生もかなわなかったと。
栃錦のことを良く知っていた。私とは席が隣で色々教えてもらった。一番背の高かった宮本君も負けた。宮本君は声変わりして、音楽の時間に声が出ないと涙をこぼした。優しい飯川先生は「男の子は誰でもそこを通るもの、心配しなくていいから、声が出るように必ずなるから、その時唄えばいい」といわれた。そんなものなのかと、声変わりの時機があるんだと認識した。
宮本君は逆上がりができなくて何度も挑戦していた。三上先生が尻を押して要領を教えるがなかなかコツがつかめない。腹を鉄棒にぶつけるようにするんだと三上先生が教えられた。それでも出来なかったが、根気のいい宮本君は何度も何度も繰り返して、とうとうできるようになった。
高田君が教えてくれた栃錦は東京都江戸川の生まれで、傘屋の子供、運動神経の良いのに気づいた近所の八百屋のすすめで角界入り、目方が軽く飯と水を一杯つめこんで新弟子検査をやっと通った。昭和19年に十両昇進するけど、普通の人と同じような体格、軍隊に行くが誰も相撲取りと信じない、軍隊内の相撲大会で手心を加えず投げ飛ばし優勝、やっと本職と認められた。昭和22年入幕するも75キロと小兵、26年の一月場所は初日から7連敗、あまり負けるもので先祖の墓参りに行く、墓に詣でているとき、通りすがりの人が「あの栃錦って相撲、小兵でいい技をもっているけど、七連敗だ。でもな、俺はあの男を信じてるんだ、負ける相撲を見てみなよ、精一杯手をぬかずにとっている。ああした男はかならず芽がでるもんだ」、栃錦はこの言葉を先祖が聞かせてくれたと思い手を合わせた。そして翌日から8連勝をなしとげた。高田君が嬉しそうに楽しそうに聞かせてくれた言葉が耳の底でよみがえる。亡くなった人を偲ぶことも立派な供養だ。