2011-03-26

三茶の思い出5

人は誰かにこの話を伝えたいと思うときがある。ところが、その話を共有できる人物が近くにいないとき、伝えられないもどかしさを感ずるもの。まるで、友人が次々と倒れ、最後まで生き残った喜びのようなやるせのない心細さにさも似たり。
 三茶の入り口に赤坂という靴屋があった。でも、今になってみると、あったような錯覚だったような、どうにも奇妙な考えに取り付かれ、その場にいって、ここが確かに赤坂の靴屋だと思っても、通りがかりの人に尋ねてみてもそんな昔の話はわかりません。
 ちょっと前なら覚えちゃいるが、三年前じゃちょと判らないなァ、あんたあの子のなんなのヨ、横浜、ヨコスカ。そんな時、高齢者の仲間に入っちゃいるけど、まだ三軒茶屋小学校の仲間は元気、まして、土屋さんに電話すれば、そこは確かにああで、こうでとまるで見えているかのように明確に話す。アア、よかった、私もまだボケちゃいないんだと、妙に安堵の胸撫で下ろし、昔の家並みを聞かせてもらえば、もう訳も無く懐かしさばかりがいや増して、直ぐにでも土屋さんと逢って、世田谷通りのラーメン屋、「喜楽」の赤ノレンをくぐって、葱を黒く焼けこげさせたスープで熱いラーメンを食いたいなと、思わず告げると、あの店はもう無いわヨと、さびしくなるような言葉を投げられれば、ああ、そうか二度と戻れない所まで歩いてきてしまったんだと、後悔のたたない焦りを感じて、思わず、あのラーメン幾らだったっけ、と、妙な事を口走れば、土屋さん淡々として25円、素ラーメンだけど、安かったわねェ、あの店は森君の近くだったっけと聞けば、違うわよ、あれはどこがどうして、これこうだと明瞭に答えてくれるけど、聞く方の頭がついていけず、思わず地図があればなァとの嘆きの言葉。それが実現したのが掲載中の三茶商店街地図。
 この地図を見ていると、なんだか心の奥底から春の蒸気が湧き上がるような、命の素が芽吹くような、心楽しくなっちまうのは、これはもう歳のせい。眼前に迫る高層ビルと高速道路、現実と我々の抱く三茶とは夕焼けと朝焼けほどに気分が違う。
 昔の三茶は確かにあったけど、今はもう昔話となっちまって、当時の少年少女、小学校の仲間だけが頼りなんだけど、島田源太郎くんも死んだ、アッチチは大病したと、涙流して悲しくなるよな話ばかり。それでも、久々に同期会を開催できることは喜びです。