2011-06-16

駒中の話18

小学6年生のとき西沢の池でクチボソ釣りを生駒さんとしていた。この池は真中から国立病院に向かう途中にあり、この池で溺れて死んだ子供がいて、ここでは泳ぐなと言われていた。三越グランドの近くのような気がする。大谷石の洋館があり、これは帝国ホテルを建てたフランク・ロイド・ライトの設計ではないかと思われる。似た造りで、池袋にある自由学園とも似ている。その建物は紛れもなくロイドのもの。先ず間違いはなかろう。
そこの池で釣りをしていると、同い年格好の子供が泳ぎ出した。
釣りの邪魔になるのは間違いがない。この子供はやめろと言うのもきかずにバシャバシャ。するととがめだてした子が、そいつをひっぱたいた。泣きながらパンツをはいてどこかに逃げていった。しばらくして、仲間を数人連れて仕返しにきたが、叩いた子はさっさと逃げたあと。
釣りをしている生駒さんと私に、「お前らか、こいつを殴ったのは」と背の高いのが居丈高に叫んだ。「違う、殴ったのは逃げた。こいつが釣りの邪魔をして泳いだから殴られた」というが、そんなことは耳鼻に入らず、背の高いのは鼻息が荒い。
中学校に入ったとき、生駒さんが「あいつだよ、西沢の池で殴られたのは」と指差して教えてくれたのは宮本君、通称赤デブ。色が浅黒くて太っているから。そして背の高い鼻息の荒いのが竹花君、この人は後年警視庁勤務しパトカーで走り回った。
その赤デブのお母さんというあだ名の先生がいた。それが以前にも記した旅行好きな沖先生、若くして亡くなった人、この人が色浅黒く太っていたので、赤デブのお母さん、うまいあだ名をつけるもんだ。いいえ、決して私がつけたのではありません。
三年生の時村岡君と同級になった。この人の頭の良いのには驚嘆した。人まねも上手く藤村有弘をやらせると達者、やーですねえなんてことを言い合った。インチキ外国語を駆使し、ヒョッコリひょうたん島のドンガバチョの声を担当。
この藤村は糖尿病が悪化して急死、48歳だった。本格テレビ時代を迎える前の急死、タモリなど足元にも及ばない芸達者。長生きしてたら日本の喜劇界も変っていただろう。
村岡君は早稲田学院高校から大学に進み、神戸製鋼勤務、石川さんのご主人も同じ勤務先、この村岡君は同期会には来たことがない。どんな人生を送ったのか、達者な喋りをきかせて欲しいものだ。
殴られた赤デブの消息もわからない。なんでも自営業をしているとか。それも二十年も前の話。皆元気で何処ぞの空の下で這いずり廻っていることだろう。どこかでばったりとでも逢えたならいいね。