2011-05-25

弦巻の話1

弦巻は八幡太郎義家が弦を巻いたというが、弦を巻くは弓弦を巻くということなのだろうか、外すとは戦が終了したということなのか、さすれば勝ち戦地蔵とか、勝ち戦神社などがなければ治まりがつかない。これには諸説があるようだ。
さて、蛇崩川に雪が積もり、それを三茶小から根津先生に先導され、スケッチに行った。その年は寒く、週に一度の図工の時間でも、次の週まで雪が消え残った。どの子も素晴らしい絵を描いた。日頃みかけない景色に感動し、絵筆に力がこもったのだろう。根津先生は雪の上の屋根の影を良くみるように、絵を描くということは対象をしっかり、じっくり見つめることだと説かれた。まったくその通りで、通り一編の物の見方では当たり前にしか描けないが、注意深くみると気が着かないことに出くわす。あれ、こんな風になっていたのかと、思わずフーンと唸ったものだ。
根津先生は子供の才を引き出す能力に優れたものをお持ちだった。あんな先生は居ないと絵の上手な中西君も後年そう言っていた。
人に影響を与える存在というのは貴重なものだ、が、その本人が気づかずにされている場合がある。根津先生の指導は子供たちに絵の面白さを教えてやりたいという構えたものではなく、子供たちが自由に描く、その対象をじっくり見ろ、その中に描きたいもの、描かなければならないものが見えてくると、その子の手をとり、一緒になって対象を線に現し色で飾った。だからこそ五十年も経っても忘れないのだろう。
その蛇崩川は馬事公苑から流れてきた。源がそこにあった。そして、中目黒で神田川に合流、その弦巻に笠置シヅ子がいた。1914年香川県東かがわ市の産、小学校卒業し宝塚を受験するも不合格、OSKに入団、昭和13年服部良一と巡り会い人生が一変、戦後ブギの女王として一躍脚光、ブギはブルースのリズムを倍速にしたもの、買い物ブギがアップテンポで有名、これは服部が作詞作曲、ジャングルブギは黒澤明が詩を書き、野良犬で採用、ウワーオワオと我々子供も真似をした。ブギで当てた笠置は吉本興業の社長令息とアツアツ、子供が腹にいるとき急死、女手一つで子を育てあげる。この境遇に同情あいたのが娼婦連、日劇のステージはそうした女たちが花束を持って待ち構えた。
その笠置の家が弦巻にあり、それは瀟洒なもの、成城学園には映画関係者の同じような家が立ち並んだが、弦巻の笠置の家は掃き溜めに鶴、南欧風の白い壁、緑の芝生がまばゆく、幼い子が子供用の自動車で遊んでいた。
笠置が美空ひばりに自分の歌を唄うなと言って、美空はひどく困るが、何、美空の才能を引き立てるべく作詞家・作曲家が腕をふるい、笠置はブギの女王だが、美空は歌謡界の女王に成りあがった。
笠置の家を通るたび、実力があればこうした豪邸に住めるんだと心を強くしたが、この歳になると、そうした運は無縁だったと知らされた。夢・希望はどれほど高く持つも自由、されどそれを成就するは難い。麻生画伯のときも記したが自身の才を信じ、人生の大海原を果敢に恐れを知らず小舟を繰り出す根性と度胸、これが一般人には欠けているのだ。
女の細腕一つで人生の大海を漕ぎきり大輪の成功の花を手にしたダイナマイトガールの笠置も歳を重ね、突然声が出なくなり歌手を引退し、ドラマの出演、個人タクシーの女房役が今も心に残る好演。その笠置も70歳で亡くなり、その瀟洒な家はマンションに転じた。