2011-05-04

上馬の思い出29 ラジオの話5

食事の時間になるとラジオから「森の水車」の歌がラジオから流れてきた。NHKの経営手法は気に入らないが仕出かした業績には評価するものがある。朝のテレビドラマやラジオ歌謡でありその流れを継ぐ「みんなのうた」はテレビの人気番組。歌はいっとき人生の辛さを忘れさせる精神の覚醒剤、この歌があったから死ななくてすんだという話をきくたびに、歌に力ありをつくづく思う。
子供の頃はこうしたことを知らずに、ただひたすら生きていただけだが、耳の底にいろいろな音楽・歌が折りたたまれていて、それが、ちょいとしたことで折り目が外れて大きく盛り上がる。こうしたときには、その場所にいたことを忘れ、ただひたすら、その思いを負い続ける。周りの人が何を言おうと、そんなことは関係がない。よほど変人と思われるだろうが、それをしないと、また耳の底にそれが押し込まれて聞こえなくなってしまうからだ。
三茶小に飯川という音楽の先生がおられた。音楽の楽しさを教えたいという心が前面に押し出ている人だった。四組の飯川君の母親でもあった。先生は歌を唄う前に、その作詞家の心を伝えようと解説をされた。その言葉の持つ不思議さ、面白さに心を奪われた。解説は丁寧でわかりやすく、どうして小学生にそんなにわかりやすく解説ができたのかと考えた時、そうか、ご自分の子どもさんに話して理解度を確かめたのではないかと気づいたが、そのことを飯川君に確かめたことはなかった。いつも笑顔を絶やさず、鍵盤を押しながら音楽の面白さ、楽しさを説き続けてくださった。
今の季節になると、先生がピアノの前でにこやかに、そして軽やかに鍵盤を押しながら唄った「若葉」、作詞は松永みやお、作曲は平岡均之、昭和17年に文部省唱歌となった。これを解説された飯川先生の言葉がいまでも耳に残る。
長い冬が終って桜の花が咲いた。ひとは誰でもさくらの花だけを喜ぶけれど、本当はその後に出て来る緑の葉っぱが大事、これがなければ木は大きく育つことができない。みんなもこの若葉のようなもので、これから長い人生を歩んで行く、自分の好きなことやりたいことを早くみつけて大きな木になるといいですね。
先生が言われたことを理解できずに、67歳を迎えてしまった気になるのは私一人だけだろうか。飯川先生がどのような経緯で音楽教師になられたかも知らず、ただ、音楽の楽しさを説き聞かせてくださったことだけを感謝している。その先生も五年前に亡くなられたという。礼の言葉も述べられず残念に思う。市井の人(しせいのひと・市中に住む庶民)の言葉があるが、飯川先生、図工の根津先生の教えてくださった言葉は六十年経ても耳の底に残っている。
その「若葉の歌」が地下鉄の駅から町並みに上り、見慣れた光景の浅草の商店街に流れていた。足が停まった。飯川先生の言葉が浮かび、そして先生の軽やかな指が鍵盤をすべりはじめた。後ろから来る人に押されて、歩道の端で立ち止まった。茫々(ぼうぼう・広くはるかな)の六十年、それでも確かにあの飯川先生はおられて、楽しげに歌の心を我々の手許に届けられた。そして、それをいまでも宝物のように大事にしている年寄りになった悪ガキがいる。