2011-04-01

上馬の思い出2

三軒茶屋小学校の学区
三軒茶屋小学校は駒留中学校を改装したもの。階段に刻みを小学生並に低くする工事をみたことがあった。
新設された学校だけに方々の小学校から子供を移した。中里小学校、太子堂、駒沢、旭小からも来たのかもしれない。
三茶の交差点、世田谷通りから若林の改正道路まで、それに玉電を境として、世田谷通り寄りが含まれた。改正道路を境として三軒茶屋寄り全て、玉電上馬の駅から三茶駅までの世田谷通り寄りが全て包含された。
五年生が一番上で、四年生には浜畑賢吉さんがおられた。私たちは三年生で三茶小の生徒になった。
上馬の駅から真中、駒沢と二駅先に駒沢小学校があり、そこに通って行くのが遠くて嫌だった。電車道をノコノコ歩くのだが、電車に乗ろうと歩いている仲間を誘って玉電に乗り込んだ。勿論銭はない。上馬の駅に着いて真っ先に飛び降りた。無論無賃乗車だ。
あとから降りる大平さんや生駒くんが車掌にとっ捕まった。
どこの学校だが始まって、翌日先生に叱られた。
誰が電車に乗ろうと言い出したのかに、私の名が当然あがり、担任の渡辺先生に嘆かれた。
先生は叱りはしなかった。子供の足では少し遠いことを理解されていたのだろう。
だが、電車のタダ乗りはしてはいけないと諭された。
渡辺先生の家は中里にあった。山田瞳さんの近くだった。先生はどうも戦争未亡人のようだったが定かではない。もともとは家庭科の教師のようだった。駒沢小学校で佐藤先生というクラスにいたが、直ぐに一クラスを増やして、渡辺先生が担任になった。各クラスから少しずつ生徒が集められた。
渡辺先生の母親が中里駅から三茶小に向かうだらだら坂の右側、駅のごく隣でタバコ屋を営んでいた。このタバコ屋のことを土屋さんい聞くが、覚えておられないと言われる。
アーチャンに訊ねてもわからないと言う。先生にはご兄弟がおられ、妹さんは桜町高校に進学しておられた。桜町高校は駒場高校よりお嬢様学校だった。優秀な娘さんをたくさん輩出された。吉永小百合さんや加藤登紀子さんが出て、駒場の名が高まったが桜町高校の方が良家の子女が多かったように思う。
最近、中野義高さんと電話で話をする。それは上馬の地図を思い浮かべるために。私の家は上馬駅から改正道路を若林に向かい右側、生駒くんの並び、隣がフタバ電気、その先が安田道子さん、びわの木のある若林さん、江口さん、そして中野さん、樋口さんと並ぶ。改正道路は東京五輪で拡張され、中野さんの家も区画で削られた。
中野さんは24歳までそこにおられた。だから良く覚えておられる。樋口さんの家が今はガソリンスタンドになった。
中野さんも昔を思い出して、時折、三茶小界隈を歩くそうだ。年取ってくると昔恋しい銀座の柳、あだな年増を誰が知ろの西条八十の東京行進曲。
隣の江口さんは文部大臣賞だかを得た美術の上手な人、身体が弱かったのを長じて空手で鍛えたと中野さんが教えてくれた。
アーチャンは山本高義という。中野さんは義高、それがどういう縁かで山本さんに養子に行かれた。そして山本義高、アーチャンは山本高義、同じようなものだ。もともと小学校の仲間、似たりよったりだ。