2011-06-17

駒中の話19

野沢君という切手を沢山持っている子がいた。なんでも祖父が集めたもので、それを得意そうにみせびらかしていた。それは立派な蒐集帳に入ったもので、年季の程を示していた。野沢君から二代前、今の我々が、その祖父と同じだから、野沢君の孫にその切手は渡ったのかもしれない。つまり五代に渡って、その切手が受け継がれたのだろうが、その切手を売って大儲けしたという話もきかない。
つまり、切手のような印刷物は多量に出回っているため、それほどの価値はないのだ。カポネの拳銃がオークションに出たが、それとても大した意味がない。それでも好事家は涎をたらす。マリリンモンローが日本に来て、帝国ホテルに泊まった。ボーイが風呂場の金髪を盗み売却した。ありそうななさそうな話だが、高値で売買されているという。
こうしたありそうな話はおもしろおかしく伝わる。体操の木村先生のあだ名は雷魚、その先生が泳げなかったという嘘のような本当な話がある。
赤デブの宮本君はクラスの後ろのほうで、休み時間に一人で踊っていた。自分で歌を唄いながら、カモナマイハウス、マハイハハてなことを言いながら怪しく身体をくねらせている。妙な子供だと思った。
こうした子だけに、西沢の池でフリチンで泳いで、咎められてパンチを食らった。いつでも何処でもマイペースなのだろう。陽気な能天気な子だった。あの頃は子供の数も多く、昼休みになると中庭に飛び出して相撲をとって遊んだ。それがあふれんばかり、今は子どもの数も減ったので、あの賑わいはないだろう。
三茶小の石塚先生が、何かの用事があったのだろう。駒中に訪ねてきた。自転車で中庭に入り込んだのを昼休みに見つけた女の子が「石塚せんせー」と呼んだのがきっかけで、三茶小を卒業した子が窓辺に寄って、大声で口々に先生の名を呼んだ。
石塚先生も体育、開いているんだかつぶっているんだかわからない、渥美清のような眼で、自転車に乗りながら、窓から顔を出す生徒たちに手を振って合図を交わした。先生の連呼はしばらく続いた。卒業したばかりの四月の陽光の中、石塚先生は眼に涙を浮かべて、中庭を一周、そして消えて行ったが、先生の連呼はしばらく続いた。
石塚先生はバイクで怪我をして入院、奥さんを放っておいて、看護婦と逃げて、小田原で焼き鳥屋をされていたという。
それでも後年教え子は先生を慕って小田原の焼き鳥屋でクラス会をしたという。メチャクチャな人生に見えるが、先生にとっては当然の帰結だったのかも知れない。そうした武勇伝もない我々は長生きはしたものの、どこか、そんな武勇伝に憧れるものを持つ。
どうにもならない切手を後生大事と持ち続け、いつかこれが大バケして大金を摑むような夢の中でしか楽しめない人生。それに引き比べると、石塚先生の教師としての人生の晴れ舞台は、駒中での先生コールの嵐、あれが、あの先生の最初で最後の教師冥利を味わった瞬間だったのだろう。
その栄光はマリリンモンローの幻の毛のように、確かにあったと思えばある、無かったと思えばなかったのかも知れない。