2011-06-23

上馬の三奇人 タマエさん

玉電通り真中寄りに立石という氷屋があり、冬には壷やきいもを売っていた。あの頃はやきいもは高級なおやつだった。三茶小で同級の中西君は「お前の家にはもう行かない、やきいもしか出さないから」と言った。やきいもの美味さを知らないのだと思った。実際やきいもは高かったが、中西君には粗末なものと見えたのだろう。それでも我が家では最高のもてなしだった。
その手前に平河屋のそばやがあり良く手入れされた調度品が黒光りしていた。ここのそばは滅多に食べられなかった。両親がメリヤスの仕事で忙しく食事を作る時間を惜しんで作業すると、この平河屋で食べてきなさいと、妹と共になにがしかの金を渡され、その範囲のなかで品書きの木の札の中から食べたことのないものを選んだ。妹は小学校に入ったかそこらで、椅子によじのぼって座った。外食券食堂などの文字が並んでいた。
平河屋は文化の臭いがした。かつお節と醤油のなかに、食べる楽しみを教える文化の臭いがあった。
この平河屋の横を入ったところにタマエさんの家があり、通りを覗いているぎょろぎょろとした眼に出くわす。鞍馬山の義経が登り、そこで剣術の稽古をしたと言われる。六韜三略(りくとうさんりゃく・中国の兵法書)を覚日阿闍梨から学んだといわれる。その剣術の稽古をつけたのがからす天狗。眼ばかりぎょろぎょろして色浅黒い、この風貌がタマエさん。アーチャンも彼女を知っていて、買い物袋を手にして、中から石を取り出してぶつけてくるんだよ、嫌なばばあだったという。土屋さんに「あんたがいじめるからだよ」といわれブツクサ。
タマエさんの名誉にかけて言うが、あの人はそんな凶暴な人間ではなかった。毎日上馬から三茶方面を流して歩いているため、土方人足、駕篭かきのように日焼け、何をして食っていたのかは不明だが、泥棒かっぱらいの話も聞かない。それなりに暮らしておられたのだろう。あのころはこうした上馬ウロチョロ族が結構いた。ロケットしんちゃん、背の高い襟付き学生服に名前を書いた聾唖者、指先の溶けた男、吟遊詩人、鍋欠けつぎ、傘の骨直し、金魚売りに雑貨や、これはリヤカーに骨組みして、鍋、釜、大根おろしの板、湯呑など、今の百円均一のような行商、これの若い衆が泣きながらオバサン連に聞いている。錦糸町は遠いですかね、売れるからってんでお客さんがあっちへ行け、こっちへ来いというので、ウロウロしているうちに、此処まで来ちゃったんですけど、此処はどこですか、私は誰? そうは言わなかったが、今日中に錦糸町に帰れますかネって聞くけど、帰れるわけはないよね。
昔はこうして歩いて方々で歩いたもんだ。糖尿病患者なんてのは極マレ、歩いていりゃ糖尿病なんてのとはおさらばだ。私もヘモグロビンA1cが10もあったときは心筋梗塞で倒れた。豆食って歩いて今は5・2だ。糖尿病増加率と車の増加率が同じ、楽して車に乗ってガソリンと税金、車検に保険に車代金と金を使って病気になって、挙句に心筋梗塞じゃ馬鹿の見本だ。車は処分し歩くのが一番。毎日二時間ウロウロしている。タマエさんのように歩いているが、あれれ、タマエさんも糖尿病だったのかな、そんなわけもなかろうに、ハイ、お退屈様。第一話はこれで終了。第二話をするかどうか、26日の会合で決定します。しばらくお休み、さよなら、さよなら、さよなら。

2011-06-22

上馬三奇人 オナミさん

上馬停留所の前に小島屋という呉服屋があった。大きな店で繁盛を極めていた。ここの主人は養子で、番頭が直ったとも言う。ここには美人姉妹がいて、その番頭を競ったとのこと。それに姉が負けたのか妹が勝ったのかは知らないが、恋の争奪戦が火花を散らしたのだろう。
畠山みどりという歌手が「恋は神代の昔から」を唄ったのは昭和37年、恋の鞘当が同じ家で起きると、これは激烈を極める。畠山は北海道稚内の産、世田谷区上馬での恋の鞘当はオッカナイ。
負けた方がとうとう精神のバランスを崩して、座敷牢に入れられた。小島屋の裏手、生駒さんの隣の白鳥という家。ここにユウジという一年上の男の子がいて、この人の目つきが実に暗く、また性格もネチネチとして嫌な奴だった。三茶小を卒業し私立中学に行った。この子とバーどりあんの子、漫画の天才の勝比古さんが仲良しだった。後年、勝比古さんは父親が若い女と駆け落ちし、殺してやると探し回っていた。不幸な話だ。その点、三茶小の石塚先生はそうした追い回されることもなく亡くなった。世の中は不思議なところだ。
ないものねだりのような場で、子供がいない夫婦は欲しいと願う、子が多く、自分を付け狙うようになれば、いないほうが良かったと思う、自分がしでかしたことを棚にあげて考えるところに面白さがあるのだが、当人はそうは思えないもの。
さて、恋に熱を上げて破れし平家の公達あわれではないが、青葉の笛ならこうした文句だが、負けたのがオナミさん。白鳥の家は広く、玄関は改正道路に面していて、シェパードのジョンというのが放し飼いになっている。小島屋と床屋の国太さんの横丁からも入れる。やぶ蚊が多くて、鋭い高音を立ててすぐに飛んでくる。犬も怖かったがやぶ蚊にも悩まされた。あの頃は蚊帳がないと暮らしていけないほど。
蚊取り線香なんてのに負ける蚊はいないほど。ワンワンと飛んできた。その庭をオナミさんはウロウロする。そして奥まったところに肥溜めがあり、そこで用をたしていた。オナミさんの便所は外にあった。
オナミさんは礼儀正しい人で逢えば必ず挨拶する。髪の毛がぼうぼうで眼が赤く光らなければ普通の人とそんなに変らない。でも、着ている着物がヨレていた。そのオナミさんが時折風呂敷包みを持って出かける。後をつけてみると、パーマ屋のボンを通り、石川さんの家の前を抜け、高砂湯に入った。土屋さんもオナミさんを知っていた。このオナミさんは長生きをしたそうで90歳を越したという。
幸せではなかったろうが、人生は過酷な道場でイヤイヤでも長生きしなければならない。丁度今頃、梅雨の雨がしとしと降るのにもめげず、やぶ蚊に悩まされながらも、オナミさんの庭でグミをもいで食べた。ほろ酸っぱい味はオナミさんの人生の味だった。

2011-06-21

上馬三奇人

上馬に奇人が三人いた話を書いて一応第一話の完結とする。インターネットが伝達媒体の有力な手段だと信じていたが、我々世代は時の流れに乗れずに埋没。閲覧者の数も伸びることなく終る。時代は変りインクと紙媒体の伝達手段にしか頼れない我々世代なのだろう。若手の閲覧を期待したが三月経過しても一向に増加しないので、休止の宣言だ。
我々世代に昔は良かったと語るのは易いが、それでは郷土史としての意味がない。我々世代を踏み台にして、若手の書き込みの中で、積層する世田谷・三茶・駒中を立体化できないかと考えたが無理のようであった。
さて、年寄りの嘆きは置いて、上馬の奇人一番は「ロケットしんちゃん」昨今はクレヨンしんちゃんだが、それよりも前に登場した。
この人は玉電とケンカをするのを信条としていた。いつも浴衣を着ていた記憶がある。右手に竹杖を持ち、玉電の軌道敷近くで電車の来るのを待ち構える。電車が近づくと左のふくらはぎを右足先でこすり始める。
間合いを計っているのだ。佐々木小次郎の燕返しではないが、しんちゃんの心臓がドキン、ドキンと音を立てているのだろう。この様を近所の連中も心臓の音をドキン、ドキンとしながら見守る。当れば即死、そこまでいかなくとも怪我は間違いない。
足かきが忙しくなり、そして、5・4・3・2・1ドカン!
しんちゃんロケットの発射。
見事電車の前を通過し、反対側に逃げ込む。運転手がボウっと音を立てて危険だぞ、馬鹿野郎の代わりに警笛のプレゼント、それをにやりと笑う不適さ。
このロケットしんちゃんは弦巻まで名が響いていた。高校の友人の姉が上馬? ならロケットしんちゃん知ってるでしょ?
有名人だったのだ。それにしても、何であんな危ないことを得意としていたのか、それが謎だからこそ、ロケットしんちゃんなのだろう。
それでも時折、かわしそこねて電車に撥ねられてオイオイと泣いているのを見たことがある。交番の巡査もロケットしんちゃんだけに、電車の運転手の肩を持つ。それも当然だが、泣いているしんちゃんは哀れだった。
玉電の架線の修理に盆踊りの櫓のようなトロッコが来る。いつも夏の近くだった。これが生駒さんの近くに夜間放置される。今度はこれに登って大騒ぎをしたもんだ。改正道路で寝転んで星を眺めたこともある。冬になって空っ風が吹くと凧揚げで走り回った。車も来ない改正道路は子供たちの天国だった。
それが環七になり、寝転んでいれば殺される。悪い時代になったもんだ。どうも時代は悪くなっているような気がする。時代に取り残された我々はインターネットの波にも取り残された。玉電とケンカをして負けたロケットしんちゃんのような気分だ。

2011-06-20

駒中の話22

生駒さんが通学途中に声をかけてきた。「三橋美智也の東京見物、あれいいよね、負けずに島倉千代子が東京だよ、おっかさんというのを出してきた、三橋のは男ぽいけど、島倉のは女らしさが出ていて、あれもいいよ」
実にその通りだ。この曲は昭和32年、もはや戦後ではないと言われた時機、それでも総理大臣のそんな発言をよそに、子を亡くした母の哀れは消えずに、靖国神社に足が向かった。島倉の泣き節は彼女の八の字眉と同じに、女の嘆きを見事に現した。作曲は船村徹、この人は時折、胸に沁みる歌を作られる。日本人の琴線に触れる見事な歌をものされる。
歌謡曲衰退と言われる昨今でも、やはり、浪曲が日本人の心の原点であるように、時に触れ折にあたっては耳の奥で唸るような響きが聞こえる。それが日本人の心なのだろう。
福島の相馬、ここには相馬の野馬追いの伝統行事があり、農家はこのために一年間馬を飼い続ける。雲雀ケ原で甲冑をつけ馬を駆り、旗指物を背に本気になって一番を競る。
狼煙と共に空中高く打ち上げた神旗を落ちてくるところに馬を走らせ、ムチでそれを奪い合う神旗争奪戦もまた眼に焼きついてはなれない。
相馬にはこうした祭りを延々と繰り広げてきた馬を愛する風土があった。それが、東京電力の粗相で原発被害で中止になった。
人類は良くなっているのだろうか、悪しくなっているような気にさえなる。我々の子供の頃は貧しくとも楽しかった。今は高いビルで窓を締め切り、冷暖房がなければ仕事にならない。まして、階段を昇降するにはエレベーターなしでは仕事にならない。だから、電力を多量に必要とする。昔は裸電球だった。それが蛍光灯になりLEDと変った。冷房なんてのはなく、皆が団扇であおいでいた。それが扇風機から冷房装置へと変り、我慢を忘れてすぐにいがみあうようになった。ささいなことでキレル。情けない話だ。
愛ちゃんはお嫁にの鈴木三重子の父親が唄う新相馬は何度聞いても胸に沁みる。日本人の原点だ。今はその地から追い出され漂白の民とされた。情けないことだ。東京電力は大罪を犯した。しかし、その詫びの言葉もないのはどうしたことだろう。
日本人はいつしか、詫びる心、責任をとる始末をつけるを忘れてしまった。戦争中、多くの若者を特攻隊で死なせたことを詫びて阿南中将は割腹、戦争犯罪人の汚名をきることはなかった。
日本人には美徳があった。それも死後となってしまった。でも、この船村の歌のように、時折、我々の忘れてしまった心を思い出させるものがある。昨今では吉田旺作詞の紅とんぼ、これに船村がいい曲をつけた。諸君らもご記憶のことと思う。1988年テイチクから出た。
空にしてって 酒も肴も今日でお終い 店じまい五 年ありがとう 楽しかったわいろいろお世話になりましたしんみりしないでよ ケンさん 新宿駅裏 紅とんぼ思い出してね 時々は
歌謡曲は日本人の原点、アメリカンポプスもよかったが、歌謡曲も忘れられない。

2011-06-19

駒中の話21

水道部の建物は洒落た欧州を思わせ何度見てもあきることがなかった。この写生会があり巧みな絵を描いた人が多かった。その写生に横山君と共に出かけた。ともかく描いて提出したが、鉛筆がなくなり絵の具で名前を書いたが美術の樋口先生が提出しなかったと叱った。名前のない絵の中にそれがまぎれていた。
竹やぶの仕返しをされた気になったもんだ。駒中は昼休みになると校門を閉めて生徒を外に出さない。弁当を忘れただかで、瀬戸物屋の佐藤君と抜け出してそばを食いに行こうと二人で裏門へ廻った。
人の居ないのを確かめて私が先に門をまたいで出た。来いと手招きしたらイヤイヤと首を振った。何だろうと後ろを見ると富田先生が立っていた。慌ててもとに戻って、その日は昼飯抜きになった。
クラブ活動が終ると腹がへって、駒沢駅の近くでクラッカーを買って店の前にたむろして喋りながら食べた。「あたり前田のクラッカー」と藤田まことの真似をした。テレビが茶の間に入りこんだ。テレビCMに毒されていたのだ。
後年、藤田まことはあまり売れずに鶯谷のキャバレーなどでお茶を濁した。その時、客席から「あたり前田のクラッカー」と声がかかった。藤田は嬉しそうに「あの頃は当っていました」と返して笑いを誘った。
その後、仕置人などでヒット、押しも押されもしない役者になった。人生楽あれば苦で、一筋縄ではいかないところが面白い。この藤田も役者ではあたったが、女房が手がけた事業で多額の借銭、その支払いに終生追われた。昨年76歳で逝去。
「てなもんや三度笠」のあんかけの時次郎役が眼に浮かぶ。ラジオから流れ出たCMソングがアニメとなってテレビに登場、CMソングの女王と呼ばれたのが楠トシエ、あまり歌手としては当らなかったがCM界では女王、色んな女王がいるもんだ。
お笑い三人組というNHK番組があり、小金馬、猫八、貞鳳の相手役の三人娘の一人に楠、この人は東京神田の生まれ、三菱銀行に入り、三木鶏郎の誘いでNHKラジオの日曜娯楽版に出演しNHK専属タレントのはしりになる。同期に黒柳徹子。
楠の大ヒットCMにかっぱ黄桜、これはパンチも効いて面白い歌。
富田先生にみつかって、その日は昼飯を抜いたが、その後もしばしば昼のテレビが見たくて抜け出した。三平のお昼の演芸、これで三平が売り出した。爆笑王と呼ばれるようになったが、当時はまだ駆け出しだった。
この三平の真似を同級生の村岡君としたもんだが、中学生はラジオやテレビの刺激を敏感に察知、それを真似して楽しむが、他愛のないものだ。テレビやラジオしか刺激がなかったが、いよいよ実人生に踏み出すとこれは刺激が多すぎた。酒に女に金と何処を向いても刺激だらけ。その中で身を持ち崩さずに今日まで来れた諸君は幸せ者だ。
そんなこんなを楠トシエの黄桜のCMで思い出してもらいます。

2011-06-18

駒中の話20

横山君とは三年生の時同じクラス、この子は三茶小の卒業生、おとなしく余り騒いだりもしない真面目な生徒、普段は居るんだか居ないんだかはっきりしないけど、言うべきときにはピシャリとやらかす。由比君という賢い子がいて、後に東工大に進学し、喫茶店を経営したという変り種、この人も三茶小の卒、矢沢君という駒沢の角に薬局があり、そこの経営者になった人は瀬戸物屋の佐藤君と仲良し、ヤジャワとかオヤジと呼ばれていた。いつもニコニコとしていて人に不快感を与えない。
同じクラスに浜野さんがいて、この人はラファエロの絵に出て来る聖母マリアのような顔立ち、少少太り気味だが優しいしゃべりかたで、男の子から人気を得ていた。それに矢沢君がはまって、浜野、浜野となにかと言えば浜野の名前を出す。どういうわけか矢沢君は結婚もしなかった。角の薬局も違う店に変った。矢沢君はいつもと同じように眼を細めて同期会にも出てくるが、浜野さんは顔を見せない。あれだけファンの多かった人だけに残念至極だ。
三年間一緒だった生徒に野間さんがいる。この人は後年医者になられた。無類の賢さで、負けん気も強く、スポーツもと万能、この人の賢さに期待する教師も多く、他の生徒はともかく野間さんに判るようにと、いつも教師の視線は向いていた。と、いうことは野間さんの近くにいない生徒は適当にできたわけで、有難い存在でもあったが、近くに座ると絶えず教師の眼がサーチライトのように遊弋(ゆうよく・艦船が海上を往復して待機すること)するので、おちおちできない。これは情けないものだ。緊張感が解けないだけに時間が長く感じられる。
この頃、ドリスデイの先生のお気に入りという歌が流行った。ドリスの名を高めたのはヒッチコック映画の「知りすぎた男」のケセラセラ、この歌の導入の見事なこと、一躍世界のドリスに躍り出た。この頃はドリスの時代だった。
何だかで、野間さんと言い合いになって、横山君が「何言ってんだ、ティーチャーズ・ペットが」とやらかした。これは「先生のお気に入り」の歌を指した。あまりのタイミングの良さに思わず吹いたことがあり、後年、これを野間さんから詰られたことがあった。三年間も同じクラスにいながら、私を擁護・弁護してくれても良いのではないのかの意味がこめられていたが、軽妙洒脱な一語に参ってしまった。
横山君はその後、地下鉄に勤務され、立派に勤め上げたと聞く。この人とも卒業以来逢ったことがない。松本アチッチが昨年、自分の大病復帰の会を催し、それに浜野さんも出席したという。その浜野さんを見て、自分のことも忘れ、あの美人の浜野があんなになっちまったと嘆いた人がいたという。
若い頃と異なり、頭ずりむけの禿げやビヤダル腹を突き出す様を、今更嘆いても始まらない。昨日や今日体型が変ったのではないのだ。積年の報いで今更、泣くな嘆くな男じゃないかだ。子供の頃は酒もタバコもやらなかった。それを毎日飲めば、毒を飲むのに等しい、生きているだけでもよしとするべき。

2011-06-17

駒中の話19

野沢君という切手を沢山持っている子がいた。なんでも祖父が集めたもので、それを得意そうにみせびらかしていた。それは立派な蒐集帳に入ったもので、年季の程を示していた。野沢君から二代前、今の我々が、その祖父と同じだから、野沢君の孫にその切手は渡ったのかもしれない。つまり五代に渡って、その切手が受け継がれたのだろうが、その切手を売って大儲けしたという話もきかない。
つまり、切手のような印刷物は多量に出回っているため、それほどの価値はないのだ。カポネの拳銃がオークションに出たが、それとても大した意味がない。それでも好事家は涎をたらす。マリリンモンローが日本に来て、帝国ホテルに泊まった。ボーイが風呂場の金髪を盗み売却した。ありそうななさそうな話だが、高値で売買されているという。
こうしたありそうな話はおもしろおかしく伝わる。体操の木村先生のあだ名は雷魚、その先生が泳げなかったという嘘のような本当な話がある。
赤デブの宮本君はクラスの後ろのほうで、休み時間に一人で踊っていた。自分で歌を唄いながら、カモナマイハウス、マハイハハてなことを言いながら怪しく身体をくねらせている。妙な子供だと思った。
こうした子だけに、西沢の池でフリチンで泳いで、咎められてパンチを食らった。いつでも何処でもマイペースなのだろう。陽気な能天気な子だった。あの頃は子供の数も多く、昼休みになると中庭に飛び出して相撲をとって遊んだ。それがあふれんばかり、今は子どもの数も減ったので、あの賑わいはないだろう。
三茶小の石塚先生が、何かの用事があったのだろう。駒中に訪ねてきた。自転車で中庭に入り込んだのを昼休みに見つけた女の子が「石塚せんせー」と呼んだのがきっかけで、三茶小を卒業した子が窓辺に寄って、大声で口々に先生の名を呼んだ。
石塚先生も体育、開いているんだかつぶっているんだかわからない、渥美清のような眼で、自転車に乗りながら、窓から顔を出す生徒たちに手を振って合図を交わした。先生の連呼はしばらく続いた。卒業したばかりの四月の陽光の中、石塚先生は眼に涙を浮かべて、中庭を一周、そして消えて行ったが、先生の連呼はしばらく続いた。
石塚先生はバイクで怪我をして入院、奥さんを放っておいて、看護婦と逃げて、小田原で焼き鳥屋をされていたという。
それでも後年教え子は先生を慕って小田原の焼き鳥屋でクラス会をしたという。メチャクチャな人生に見えるが、先生にとっては当然の帰結だったのかも知れない。そうした武勇伝もない我々は長生きはしたものの、どこか、そんな武勇伝に憧れるものを持つ。
どうにもならない切手を後生大事と持ち続け、いつかこれが大バケして大金を摑むような夢の中でしか楽しめない人生。それに引き比べると、石塚先生の教師としての人生の晴れ舞台は、駒中での先生コールの嵐、あれが、あの先生の最初で最後の教師冥利を味わった瞬間だったのだろう。
その栄光はマリリンモンローの幻の毛のように、確かにあったと思えばある、無かったと思えばなかったのかも知れない。

2011-06-16

駒中の話18

小学6年生のとき西沢の池でクチボソ釣りを生駒さんとしていた。この池は真中から国立病院に向かう途中にあり、この池で溺れて死んだ子供がいて、ここでは泳ぐなと言われていた。三越グランドの近くのような気がする。大谷石の洋館があり、これは帝国ホテルを建てたフランク・ロイド・ライトの設計ではないかと思われる。似た造りで、池袋にある自由学園とも似ている。その建物は紛れもなくロイドのもの。先ず間違いはなかろう。
そこの池で釣りをしていると、同い年格好の子供が泳ぎ出した。
釣りの邪魔になるのは間違いがない。この子供はやめろと言うのもきかずにバシャバシャ。するととがめだてした子が、そいつをひっぱたいた。泣きながらパンツをはいてどこかに逃げていった。しばらくして、仲間を数人連れて仕返しにきたが、叩いた子はさっさと逃げたあと。
釣りをしている生駒さんと私に、「お前らか、こいつを殴ったのは」と背の高いのが居丈高に叫んだ。「違う、殴ったのは逃げた。こいつが釣りの邪魔をして泳いだから殴られた」というが、そんなことは耳鼻に入らず、背の高いのは鼻息が荒い。
中学校に入ったとき、生駒さんが「あいつだよ、西沢の池で殴られたのは」と指差して教えてくれたのは宮本君、通称赤デブ。色が浅黒くて太っているから。そして背の高い鼻息の荒いのが竹花君、この人は後年警視庁勤務しパトカーで走り回った。
その赤デブのお母さんというあだ名の先生がいた。それが以前にも記した旅行好きな沖先生、若くして亡くなった人、この人が色浅黒く太っていたので、赤デブのお母さん、うまいあだ名をつけるもんだ。いいえ、決して私がつけたのではありません。
三年生の時村岡君と同級になった。この人の頭の良いのには驚嘆した。人まねも上手く藤村有弘をやらせると達者、やーですねえなんてことを言い合った。インチキ外国語を駆使し、ヒョッコリひょうたん島のドンガバチョの声を担当。
この藤村は糖尿病が悪化して急死、48歳だった。本格テレビ時代を迎える前の急死、タモリなど足元にも及ばない芸達者。長生きしてたら日本の喜劇界も変っていただろう。
村岡君は早稲田学院高校から大学に進み、神戸製鋼勤務、石川さんのご主人も同じ勤務先、この村岡君は同期会には来たことがない。どんな人生を送ったのか、達者な喋りをきかせて欲しいものだ。
殴られた赤デブの消息もわからない。なんでも自営業をしているとか。それも二十年も前の話。皆元気で何処ぞの空の下で這いずり廻っていることだろう。どこかでばったりとでも逢えたならいいね。

2011-06-15

ブログについて

このブログは今の形式では6月23日まで掲載。この文章は小川が記載、自身の見聞したことを羅列。これでは奥行きが乏しく、もっと世田谷三茶のことを写真入りで掲載したい。昔の町並みの写真などを中心に展開できれば、世田谷郷土館に負けない面白いものができる。皆様の押入れの奥に埃をかぶったアルバムがある。それは個人的色彩の強いものだが、同時に普遍性をも含んでいる。店先でとったスナップ写真に、往時の町並みの一部が切り取られているのだ。
こうした写真をインターネットのブログはいともたやすく掲載可能。一枚の写真は千言万語に勝る。また、インターネットを利用していない人も多く、その人々にどのように伝達するかが課題。ブログ開始当時は三ヶ月は見る人がいようがいまいが関係なく継続する。そして、三月目に見直しをしようと始めた、その三月はあっと言う間に過ぎ去る。
私は輪転機を持っているので、文章と簡単な写真は印刷可能、しかし、これは時代に逆行、今更白い紙にインクをなすりつけるのを媒体とするのかの疑問。
昨今はDVDの時代、個々人の持つ写真を中心に、DVDを作成し、それをインターネットに掲載、また、インターネットを利用しな人にはDVDを回覧するなどの方法もあり。
開始前にこのことも土屋さん、アーチャンと協議したかピンとこなかった模様。
いよいよその見直しの時期が来た。6月26日(日)午後一時を予定し、三茶の喫茶店で会合を開く予定。名前はシャノアールだったか、場所が確定したら再度呼びかけます。
文章を中心とせず、三茶、駒中の話、友人の消息などを定期的に記録する予定ですが、もっと違う角度から地域と人を活写する方法を考案した人がいれば、そのアイデアに従います。
お知恵拝借、是非ご一考を願います。来れない人はブログにコメントを願います。
参加できる人は土屋さんまで連絡願います。090-7729-8764

2011-06-14

駒中の話17

エノケンの野口君は気のいい人、卒業旅行で諏訪湖に行ったと思う、途中泊でペレスプラードのマンボを大合唱、そのとき野口君が踊り出し、それに続いて数名が、さらにそれにと大きな輪になって従う、テキーラという曲があたり、これを唄って大行進、掛け声のテキーラのところで野口君が隣の人のタマを握って「デケーナ」と声を出して大笑い。今度はそれで大合唱の大行進、互いに隣のタマを握ってデケーナ、こんなたわいもないことが本当におかしかったもんだ。
機を見て面白いことを探り出すエノケン野口君には笑わせられた。中学を出て渋谷でパチンコの景品買いをしていたとの話も聞いた。生きるのが下手だったのかもしれない。お金の話は学校では教えない。保証人のこと手形決済、裏書と振り出し保証など、難解な話は学校では教えず、社会の波に揉まれながら覚える。行け行けの人口増の時は、かなりな危なっかしい話でもOK、しかし、昨今のような景気後退では商売を継続するだけでも容易ではない。
世田谷通りの若林陸橋の近く、柳文具店は三代に渡る。中学同期の柳君の父君が初代、そして今は倅さんの代になり三代目、この柳君は実に誠実な人、腰も低く相手に不快感を与えることがない。また女房が出来た人で、いつも笑顔を絶やさず、駒中関係者が立ち寄っても気軽に声をかけてくださる。場所も決して良くはないが、誠実な商売が客をひきつけて、この不況下でも順調。
世田谷通りを抜けるとき、視線が柳君の店に行く。シャッターが開いているのを観るだけでしかないが、それでも頑張っておられるんだと安心する。友達が元気でいてくれると思うだけで何やら嬉しさがこみ上げるのは歳を取った証拠、あっちが悪いこっちが痛いと故障だらけ。それでも生きていることに飽きてはいけないので、何とか自身を励ますのだが、長生きがいいものやら悪いものやら判らない。まして、津波で福島原発の事故、あれは原爆が落ちて大爆発ではなく、チョロチョロ漏れているだけに終息には時間がかかる。
我々年よりはいいが子供たちが心配。甲状腺をやられはじめれば大惨事は間違いなく起きる。こうした妙なことを観るのも情けない。友達の店のシャッターが開いているのを観て元気を貰うのと訳がちがう。
人口の膨張拡大期に少年時代を送った我々、楽しいことがたくさんあった。その頃、世田谷はミニ田舎、水道部の建物の写生に樋口先生と行進中、路上の砂利を拾って竹やぶに投げ込むとカンコンと孟宗竹の当っていい音。それを繰り返すと奥から農家の人、樋口先生をとっ捕まえて、「生徒に石を投げさせるな、竹にキズがついて売り物にならない」、先生は平謝り、気の毒なことをしたもんだ。昨今はそんな竹やぶは何処にも見当たらなくなった。

2011-06-13

駒中の話16

ラジオに齧りついていた頃、東京放送で竹脇昌作ってアナウンサーが独特な語り口で「東京ダイヤル」のパーソナリティーをしていた。これに痺れたのが生駒君、竹脇は渋谷のパンテオンの地下に10円で観れるニュースだけを見せる映画館があり、同じフィルムを何度も見た。そのニュースのアナに竹脇がでると、途端に観衆がどっと沸く。それほど絶大な人気を得た人。
この人の倅が竹脇無我、温厚な感じで森繁と親子競演のテレビが人気になった。この無我氏は鬱病を患いしばらく仕事を休んでいた。親の昌作氏は48歳で自殺された。体調が思わしくなく、マダムキラーと呼ばれた看板番組も芥川隆行と交替、復帰も考えていたが、無収入で税金が支払えずそれを苦にしたと言われる。
インターネットで竹脇昌作の声を探した。あった、名調子を共に味わっていただきます。生駒君が見てくれると嬉しいのだが…。
あの埃くさい駒中の渡り廊下ですれ違うたびに「東京ダイヤル、竹脇昌作です」と言い合ったのを思い出す。
ラジオなしに中学時代を語れない。ラジオこそ世間を繋ぐ一筋道、いいことも悪いこともラジオから学んだ。エルビスの歌もダイアナのポールアンカも、皆、このラジオから飛び出してきた。音声だけだったが、それでも充分に楽しかった。それが、昨今は映像までインターネットで見られる。長生きはするもんだ。毛利君という駒中きっての秀才がいた。人品骨柄まことに供わった人、新宿高校から東大、そして朝日新聞、柳君が中学の時代に毛利君が書いた作文を見せてくれた。それは立派なもので大学生でも書けるだろうかと思うほど、まことに秀才の名に恥じぬ人、多くの同級生の女子の心をときめかせた。
色男で優秀、それも人も羨むような一流会社、さぞかしおもしろおかしい人生を送ったと思うが、世の中は不思議、ソ連が崩壊したとき、前途を悲観して自殺された。余りに頭のいい人物の考えることは凡人には理解しがたい。
中学生のとき、毛利君と擦れ違った。後ろに護衛の菊池君がついていた。「オイ、毛利」と声をかえたら、菊池君が割って入り、「毛利さんと言え、毛利さんと」と凄んだ。何を言っているのかと顔を見ていると、毛利君が「いいんだ、こいつはいいんだ」と声をかけた。菊池君は不承不承、渋面をつくったがそれきりだった。あんなに慕われていた毛利君が死んだ。牧山君は葬儀に出たという。惜しい人材だった。

2011-06-12

駒中の話15

中根君と一年生の時同じクラスだった。少し向こう気の強い子で負けん気を見せる。それでも決して嫌な印象を与えることはなかった。綿貫真也君という中学校の脇にある都営住宅に住む子が級長、その子はハキハキとして利発、運動神経も良く200メートル走で良い成績を出した。三軒茶屋の仲見世に天麩羅屋があり、そこに中村君という一塁手がいた。この子は名手で帝京高校へ進学、その後がどうなったかを野球の原君に訊いてもサッパリだ。にこっとすると正に破顔一笑で、この笑顔に勝てる者はいなかった。狭い店の二階から顔を出し、仲見世を歩く人を眺め、友達に手を振った。
三茶を通ると中村君の店とおぼしきあたりに立つが、本当にここだったかと疑問になる。時間は流れ、確かに居た中村君の消息もわからない。戦後間もなくの頃、NHKのラジオが「尋ね人の時間」を放送、陸軍○○部隊の▲さんをご存知の方は…と流れていた。
戦争もなかったが、一度離れ離れになると、なかなか逢えないものだ。この様な放送があればとも思うが、インターネットがその役を果せそうな気にもなるが、それは無理。年寄りはインターネットをしない。
そうすると、このもどかしさは我々どまりかも、というのは、若い子は達者にパソコンを操作、ブログを利用し知りたい情報を手に入れることだろう。
三茶商店街の天麩羅屋の倅、中村文夫さんをご存知の方は連絡願いますで、直ぐに消息が知れることだろう。わからないからこそ、恋しいのかも知れない。逢ったとて、何を語らなければならぬのでもないが、とにかく逢いたい気持ちが先に出る。おかしなものだ。
三茶の商店街で油にまみれて働いた親たち、あんなに賑やかだった仲見世も中村君の店が見えなくなって寂れてきた。
葛飾区に立石というところがあり、駅前商店街が鉄路の左右にあるが、仲見世の方はすっかり灯が消えたようになった。まるで三茶のようだと嘆いている。
さて、中根君の家は世田谷通りの若林交差点の近くだったような気がする。柳文房具店の裏手だったようだが、アーチャン、土屋さんい訊いてもわからないという。柳君夫婦に訊けばわかるのだが、最近は顔出しをしていない。柳君は駒中の同窓会の幹事をされており、その同窓会は来年開かれるという。同窓会には多くの人が集まりそうだが、そうでもない。何か企画がなければ全員がそれっと集まることは難しい。年代・世代を超えて熱くなるような仕掛というのを考案するのは難しい。
中根君の家は質屋を営業していた。「お金の中根」だ。中根君は性能のいい写真機を持っていた。林間学校で日光に行ったとき、綿貫君と中根君と共に写真におさまったことがあった。その写真も持っているはずだが、度重なる転居で見当たらない。確かにあったのだが、今はない。まるで三茶仲見世の商店街だ。
中村君は綿貫君の名をメンカン・シンセイと読んで「この人は中国人だと思った」と語ったことがあった。中学一年生だもの、こうした間違いもある。その中根君も亡くなったという。四十代とも聞こえてきた。

2011-06-11

三茶小の話16

裏門の近くに森戸さんの家があり、そこはお医者さん、その近くに凸型レンズを使って金属に文字を掘り込む作業場があった。朝板に並べた凸レンズと金属板をしっかり固定し、日の出ている間、それを並べている。酸で処理をするのか、いつも、その工場からは水が流れ出ていた。
森戸さんは同じクラス、大人しい子でいつも居るのか居ないのかがわからないほど。それでも勉強になるとハキハキと答えていた。あんじみよこという珍しい名前の子がいて、その子の家は中野君の家から改正道路を少し下ったところにあり、前が竹内鉄工所。生垣のある大きな家だった。
6年生の時、雪が降って体操の授業に雪合戦をした。あんじさんは雪を固めて玉を作った。それを男の子が投げ合ったのだが、あのころは結構寒く、地球温暖化などは夢のまた夢、こうした嘆きが来るとは少しも知らない。寒かったけどあの頃は楽しかった。暖房も火鉢しかなかったけど、子供は風の子で手袋もせずにはしゃいで廻った。
及川さんという子がキスノ君の家の近くにいて、この子の笑顔がとても可愛いかった。最近八千草薫っていう往年の女優が、健康食品のCMに出ているが、この女優の笑顔に及川さんが重なる。随分と逢っていないけど、変らぬ笑顔を見せていることだろう。キスノ君が死んだことをアーチャンに伝えてもらった。
友達が死ぬのは淋しいことだ。まして、死んで半年も経って知ったのはより淋しいものだ。生きていると何時でも逢えるような気になるけど、何時でも逢えるは何時も逢えないでもある。
同期会のチャンスを逃すことなく、逢っておきたい人との会話を楽しみたいものだ。あれがどうして、これがこうなってと、記録にも残らない記憶だけが頼りの話を。
キスノ君が生きてる頃、同期会の連絡で電話すると女房が出て、ひとくさり最近の出来事を批判がましく言う。聞くのに疲れを感ずるほどだが、死んでから電話したら、「あんないい人はいなかった」と、変われば変るもの。
女房と喧嘩ばかりしている人も、死ぬといい人になれる。もっとも死ねば仏になれる。仏ほっとけ、神かまうなって俚諺もある。死んでからいい人なんて言われないように、生きているうちから女房に孝行を尽くすべきかな。

2011-06-10

駒中の話14

真中パンの前側に角田米屋があり、そこの次男坊にみっちゃんという笑顔の綺麗な子がいて、一年生の時同じクラスだった。この子は何となく外人ぽかった。そこでロバート・ミッチャムとあだ名をつけた。本人もいたく気にいっていた。そのロバート・ミッチャムが大当たりの映画に出た。それが「眼下の敵」、この映画をみてからすっかり潜水艦映画のとりこになった。ショーンコネリーの「レッドオクトーバー」も良かったが、「眼下の敵」の構成にはかなわない。爆雷を落とす水兵がヘマをして指を切断、「これで除隊ができるな、ところで職業は何?」「時計の修理工です」のフレーズに残酷さが出ている。戦争なんてないほうがいい。市民が否応なしに狩り出される。そして防具もつけずに殺しあうのだ。
この映画は1958年、みっちゃんのミッチャムの頃は、撮影中。
生駒さんにみっちゃんのことをミッチャムに似ているかと聞いたことがあった。本人が傍にいたので生駒さんは似ているといったが、雰囲気はピッタリだと思う。
その駆逐艦の艦長をミッチャムは好演、歴史に残る名作となった。米屋のみっちゃんはその後どうしたのだろうか。ロバート・ミッチャムの名を聞くと米屋のみっちゃんを思い出す。人なつっこい笑顔のみっちゃん、笑うと眼が細くなって、それが可愛らしさを際立たせた。
昔は映画を見るには映画館に行くしかなかった。それがビデオが出て借りて家で見れるようになった。ところがDVDになり、一枚100円で借りられる。それもHDDに入れられて、2テラのHDDには300本入る。これにこって1000本をHDDを買い足し、DVDを借り足しして達成。
もちろん「眼下の敵」も入っている。みっちゃんとは逢えないがミッチャムとは取り出せばいつもの顔で好演する。DVDは面白いものだ。頭マシッロになったが、いい時代を迎えられた。上馬にメトロという映画館があったが、今は駐車場、そこにあったのは映写機と椅子、映画のフィルムは借りていた。
1000本のフィルムを持っていると言ったら、その当時の人々は信用するだろうか、でも、本当のことだ。
プレスリーはマイケルジャクソンの上を行っていたんだとつくずく思う、今はインターネットの時代、ハウンドドッグの腰の振り方を当時の映像で確かめることができる。昔は写真でしか確認できなかったが、今は動画だ。時代の変遷、面白い世の中になった。類推・憶測など不要、知りたいことがいつでも手にできるが、エルビス・プレスリーは42歳で死んだ。名誉と金を手にしても、この時代の変遷を知らずに死んだ。もっとも、酒もやらずにタバコものまず百まで生きたバカも居るという諺もあり、まずいもの食って嫌々長生きするのと、美味い物たらふく食って直ぐ死ぬのとどちらがいいかは判断しだい。
それにつけても、インターネット、「ビーバップルーラ」のジーン・ビンセントが片足不自由だったとは知らなかった。あの頃インターネットがあれば、牧山君も私も寝る間を惜しんでエルビスを追いかけたろう。また、ヒット曲も山ほどあった。いい男で全米の姉ちゃんたちがキャアキャア言ったのもわかる。

2011-06-09

駒中の話13

磯崎みどりさんという沈まない太陽のような人がいる。こうした存在感のある人をたまにみかける。気さくで面倒見がよく他人のことでも放っておけない、いわゆる下町気質というのか肝っ玉かあさんというのか、ともかく女としては最高の部類に属する。
磯崎さんい元気をお出しヨと言われ背中をポンと叩かれれば、嫌なことや気になることなど途端に飛んで行ってしまう。
テレビの世界なら京塚昌子さんの役割だ。ともかくこせこせしない。人一倍嬉しがりやで、人情にもろい。三茶育ちという言葉があれば、この人こそ、それに相応しいだろう。この人は熱海湯の裏手におられた。近くには粕谷君、松成君などがいた。駒小に通学しておられ、小学校のころから存在感があった。中学生になっても、男の生徒が弱い者いじめをしているのを見ると、つかつかと寄って「いじめるんじゃないヨ」と平気で言う度胸のある人。
だからと言ってでしゃばることもない、つつましやかなところもあり、硬軟使い分けるというか、理不尽なことを眼にすると我慢ができないというのか、下町の人情を地で行く人。
同期会でも遠くにいても、ああ、おられると思うだけでほっとさせるものをお持ちだ。これを人間の徳といわずに何と表現するのだろうか。
東急のバスの車掌を務められた。昨今のバスはワンマン、むくつけき男が気の利かない案内をムスっとして車内に流す。昔は美人の車掌が大勢いたもんだ。今は時代が悪くなった。大井町にお住まいで、ここも下町、幾つになっても雀百まで踊り忘れずで、磯崎さんの沈まない太陽は周囲を明るく照らしているのだろう。
大井町、磯崎なんて名前を聞くと直ぐに思い出される。しばらくお逢いしていない。同期会というのは普段逢いたいなと思う人と声をかわすところに良いところがある。別段特別に伝えなければならないこともないのだが、どうしてる? 元気?なんて、とりとめのない話に無沙汰を詫びる気持ちがこめられている。
上馬停留所から真中に向かい、右側に平河屋というそばやがある。そこを右に折れると二股に道、それを左にとると伏黒さんの板金屋があった。そこの娘さんが三年生のとき同じクラス、同期会に彼女は遅れてきて、松井ちえさんと逢った。そのとき彼女は抱きついて泣いた。気のいい人なのだろう。松井さんは彼女の家から四、5軒先、幼馴染なのだ。松井さんいは弟がいて、剣道をやっていた。なかなか敏捷で、先の頼もしい子だったが、そのうち剣道はしなくなったそうだ。伏黒さんの家の近くからは引っ越した。それゆえ彼女は逢えて嬉しかったのだろう。人情の風はこうした、ふとした折に吹くもので、それがまた嬉しいものだ。
茶々若が担任だった二年生の遠足で、バスの中で宮沢さんがプレスリーのラブミーテンダーを歌った。煌めいた眼の賢い子だったが、その後をどうすごされたかを知らない。三年間押し込められた駒中をそれぞれが信ずる方向に飛び出していった。放された鳩か、猟犬のように、そして、今は人生の最終コーナー、どれもこれも懐かしく、あれもこれも知らないことだらけだ。

2011-06-08

駒中の話12

三年生の時、牧山君の担任は辻先生、数学の教師で指導熱心、いつも物事を正しく見ておられた。生徒の能力をいかに高めるかに苦心をされていたように見えた。三年生の時、私の担任は大国先生、このクラスに庄子君がいた。数学の得意な人で試験が終ると早速辻先生のところに行き、自分の採点結果を訊いていた。私は数学も得意でなう、気後れしながら庄子君に誘われるまま職員室に向かった。
得手不得手を見定め、それを伸ばす努力を庄子君はされ、横浜国立大の造船に進み、自衛隊に入られ大佐まで昇進したのを見た。それは同期会で知ったのだが、その後は知らない。オームのサリン事件の時だった。庄子君の父君も海軍に行かれた。戦争で亡くなり美人の母親と祖母に育てられた。立派な屋敷で長押に槍がかかっていた。
学問で身を立てる、この言葉を見るたび庄子君を思い出す。自身の得手を伸ばし、それを持って世に出て、駆逐艦を設計し、それを海に浮かべた。造船技師としては最高な栄誉。
若い頃から自分の才能を信じまっしぐらにそれに向かった庄子君は立派だった。
そして、数学好きな生徒を育てられた辻先生の教育熱心に脱帽する。この先生も戸田先生と同じく生徒に気配り目配り心配りをされた。
学校は楽しくはなかったが、こうした先生を見ることができたのは幸せであった。だから卒業しても、戸田先生にお目にかかったとき、先生は立派な先生でしたと礼の言葉が言えた。これもありがたいことだ。
人生は多くの人に支えられてある。自分一人で勝手にやってきたような気になるが、それは間違いだ。その世話になった一人ひとりに私たちはありがとうの感謝の言葉を伝えることができたのだろうか。
先生方もご高齢におなりで、同期会にお呼びすることを憚るようになった。しかし、ありがとうの言葉は伝えなくてはならない。それが直接口から出ずとも、文章につづればそれでもいい。嫌な教師も確かにいたが、それはサラリーマン教師で、心から生徒のことを考えていない。それを敏感に中学生が感じていたのだ。
高安軍治君は眼のクリクリとした利発そうな子で、いつも笑顔を絶やさなかった。この人はどういう不遇の風の下にいたのか、天理教の教会におられた。中学を卒業して四年目だかに、秋葉原に友人とでかけたことがあった。そのとき不二家だと思うが喫茶店に入った。背の伸びた高安君が銀のお盆を持っていらっしゃいませと客を迎えていた。すると、高安君がそこの勘定を代払いしてくれた。つまり高安君におごってもらった。それっきり、あれから五十年も経って、借りがそのまま残っている。去年、土屋さんに高安君の住所を教えてもらいはがきを書いた。借金が残っているので、おごってお返しをしたいので連絡下さいと。しかし、妙なことをされるのではなかろうかと警戒したのか、返事はなかった。これもまた借りになったままだ。
小さな親切が忘れられないのだ。高安君とて高給をとっていた訳もなく、たまたま顔見知りが入店し、気をつかって金まで使ったわけだが、それが今でも心に残る借金となった。

2011-06-07

駒中の話11

ヤマコウは石原裕次郎が大好きで、レコードを買ってきては一日中それを聞いていた。電蓄などは高くて手が出ない、それをヤマコウは持っていた。レコードも何枚も買い込んでくるのだから、ヤマコウは小遣いを豊富に持っていたのだろう。
電気以外のことは余り興味を示さず、放課後は陸上競技に汗を流した。ヤマコウは英語の時間が嫌いでいつも大人しくしていた。ヤマコウと同じクラスになったのは二年生の時、英語の教師は茶々若だった。小柄で青山学院の英文科を出てきた。発音をうるさく教える教師、この頃英語の動詞の不規則変化を習っていた。
同じクラスに牧山君がいた。この人の人間としての大きさには、今でも敬服する。何がどうしたというのではないが、ともかく物の見方が正しく、細かなことより幹を見ろと教えるタイプ、それも説教臭くなく、いかにも親切にこうではないのかなと諭すタイプ。
長いこと生きてきて、知り合いが総理大臣になったのも見た。それは小泉総理、この人は人物的には牧山君の半分にも満たない。が、時世時節でするすると登った。この人より人物的には秘書の飯島勲氏のほうが大きい。物事の筋目を通す眼力を備えておられる。しかし、飯島氏にどんなに力があっても、首相の座はめぐってこない。
牧山君も立脚する足場が違っていれば、この人は大物になったことだろう、それも歴史の一ページに名を残すような大きな仕事をされたことだろう。しかし、世の中はどんなに力量があろうとも、その発揮する場を間違えればあたら、その才、人物の大きさを発揮できずに終るもんだ。
生涯に二人と出会わぬ人物の大きさを持つ牧山君は第一生命に骨を埋められた。が、まだ人生が終ったわけではないので、どこかの時代が彼を要求しないとも限らない。惜しい人材だ。今回の震災復興などの大役をふれば、彼は目覚しい仕事をしたろう。ところが時の政府は牧山君の存在をしらない。有能な人材を野に埋もれさすのももったいない。
この牧山テルオ君は恰幅がよく、背も高く人品骨柄とも申し分ない。
中学の頃からそうで、そのことを「テル・フトール・フトール」と私が囃していた。
告げるという英語のテル・トールド・トールドを揶揄したものだが、ヤマコウが茶々若に指された。テルの活用を言え、すかさずヤマコウが答えた。「テル・フトール・フトール」。
声が小さかったので茶々若はワマコウを誉めた。「やればできる」
授業が終ってヤマコウが私を見てニヤリと笑った。
牧山君もヤマコウを見ていた。ヤマコウは石原裕次郎が大好き、牧山君は成績優秀、高校から慶応に進学するほど、エルビス・プレスリーがいいと熱をこめる。なんたって真剣に唄っているからいい、丁度プレスリーが飛び出してきたころ、牧山君が予言したように、エルビスは世界のエルビスにジャンプアップした。
牧山君を思い出すとエルビスがついて来る。エルビスの歌を聞くと牧山君を思い出す。私にとっては切っても切れない仲に思える。

2011-06-06

駒中の話10

ヤマコウのことはいつまでも忘れない。気のいい奴だった。養鶏場の中に小屋を持っていて、無線室にしていた。ヤマコウに刺激され鉱石ラジオを作ってみたがうまく鳴らなかった。ヤマコウはハンダこてを起用に使い、ラジオをこともなく作成する。能力の高さに驚いたもんだ。ヤマコウには姉さんがいて、時折小屋に菓子やゆで卵を運んでくれた。ヤマコウは取り立ての卵を呑めというが、何だか悪い気がして呑めなかった。
ヤマコウは運動神経抜群で、爽やかな風が吹いているような感じだった。ある日ヤマコウがこんなことを言った。男で一番いい男の出るのは何処だろう、アメリカかよ、男らしいのはアイヌだなと言うと、俺は今日からアイヌだと言い出した。
ヤマコウは電気のことなら何でも知っていて、戸田先生が電気の授業をして、黒板に電気抵抗を書き始めた。皆がわからないというと、ヤマコウを指して、「山内、これを解いてみろ」、普段は授業というと下ばかり見ているヤマコウが、黒板の前で、考えもせずにサラサラ。難しい電気抵抗の問題を見事に解いた。
嬉しそうな顔もせずヤマコウは自分の席に戻った。戸田先生が「山内は大したもんだ、やればできるんだから、何でも電気と同じだと思ってやる気を出しなさい、お前は出世するんだから」と言われた。戸田先生は東北大、実にいい先生で、生徒の誰彼ということなく声をかけ、どうだ、やっているかと訊かれる。どれほど、この先生の言葉に背中を押していただいたことであったか。後年、駒中の同期会で先生にお逢いして、礼を述べた。そのとき先生は「俺は良い教師だったのかな」と自戒の言葉を言われた。私は即座に牧山テルオ君を呼んで、「戸田先生は素晴らしい先生だったよな」と同調を求めた。
牧山君は「そうですよ、先生ほど、生徒に声をかけてくれた人はいませんでした」。すると先生は「そうかな、そういわれると少しは自信を持っていいのかな」と言われた。
戸田先生ほど素晴らしい教師には、その後、二度と逢わなかった自分を不幸だと思いながら、戸田先生と逢えたことを深い喜びとした。
死んだヤマコウも戸田先生を好きだった。先生の姿をみただけで、何やら嬉しくなるような存在であった。こんな充実した存在感を示す先生は他にはいなかった。人は誰かに何かを伝える。それがいいことでもあれば悪しきことでもある。戸田先生は生徒にとって見上げる星のような存在であった。
ヤマコウは吹き抜ける爽やかな風、高校に行ってからヤマコウの家は上町の方に移転、三軒茶屋の停留所で立ち話をしたことがあった。ヤマコウは白いワイシャツ、糊が利いてうかにも伊達男だった。精悍な顔立ちは変らず、何処かの高校の帽子を阿弥陀に被っていた。それが彼を見た最後だった。
ヤマコウの小屋で聞いた石原裕次郎の「錆びたナイフ」、ヤマコウの声と共に心の中から消えることはない。

2011-06-05

駒中の話9

ラジオにかじりついて音楽を聴いた。そのうち歌謡曲より小坂一也に興味を持つようになり、ウエスタンという曲種があるのを知る。つまりアメリカの民謡だ。小坂一也に導かれるようにウエスタンを唄った。抑揚に独特なものがあり、これがアメリカの風だと思った。ハンクウイリアムスは泣き節といわれるほどに、男心の泣きを言う。偽りの心は何度聞いても心に刺さる。日本で言えば森進一、声の調子はまったく違うが、この曲にはしびれた。この男は昭和28年に29歳で死んだ。
しかし、小坂一也はウエスタンからロカビリーへと流れる。時代がアメリカ民謡からリズムの激しいものに変化していた。
日劇は毎年2月がヒマ、そこを埋めようとナベプロの渡辺美佐が1958年に「ウエスタンカーニバル」を開催、これに若い娘が押しかけてワイワイきゃあきゃあ、それを見た評論家の大宅壮一が、あんなところで騒いでいる娘の親の顔が見たい。ところが、その大宅の娘がそこにいた。それが映子、白髪頭でテレビに出てる。我々より三つ下。駒場高校へ進学した人は知っているはず。
ロカビリーは元はウエスタンであったことの証明がこれ、日本では小坂一也の動きと軌を一にする。このカーニバルにキンゴロウの倅が出た。それが山下敬二郎、ミッキーカーチスなどといい加減な歌を適当に唄っていたもんだ。そこから平尾昌明など実力派も誕生し、和製ポップスの火がチョロチョロと点き始める。
昔はアチャラカの歌を真似して唄っていた。それでもテレビやラジオが取り上げた。早いもの勝ちの世の中、デーオの浜村美智子はカリプソ娘、時代は日本人が日本語で自分たちの心を歌い上げる方向へと少しずつ変わっていった。
その流れに乗り切れず小阪一也は相変わらず腹の出たのをギターで隠し、ウエスタンやロカビリーを唄っていた。若者からは遠くなり、中年・老年の懐かしの番組でお茶を濁した。
時代の潮先から落ちこぼれ、波は渚めがけてまっしぐら、それに乗れずに落ちて、ポチャポチャと次の波を待つ間に、次第に老いぼれて泳ぐ力も失せてしまうのだ。
時代の先端をまがりなりにも走った人々、我々のように先端にも出れず、それをただ星の如くに見上げて人生を終る庶民、これが楽しいんだ。可もなく不可もないような人生だが、落ち目になった悲哀を味わうこともないが、絶頂もしらない。それでも毎日ワイワイ騒いだ。山内君は自分のラジオを持っていた。彼は無線に興味を持ち、竹棹を立て電波を拾っていた。大きな家で養鶏場を経営、その臭いのはたまらなかったが、広島君の家の前、そこに出かけて電蓄をかけた。ヤマコウというあだ名で、精悍な顔つき、ひとえまぶたが薄情にみえた。この人が陸上の長距離をやらせると敏捷に飛ぶ。須山君や原君、水上君などがいい走りをした。一学年上に萩原さんがいて、この人の走りは凄かった。この人が一緒に走ろうと誘うのが玉井君、色あさぐろくスポーツマン丸出し、この人が萩原さんを負かすような走りをする。それだけに萩原さんが珍重したのだろう。
ヤマコウは石原裕次郎にいかれていた。格好がいいよな、オレ似てるかなと本気のような冗談のような話をした。そして、レコードを擦り切れるまで廻した。
ヤマコウはロックンロールにも興味を示した。バルコニーに座ってのエディーコクランはいいと、鼻歌を唄った。
そのエディーはアメリカでロカビリーの熱が冷めイギリスに渡り交通事故で死んだ。21歳だった。ヤマコウも交通事故で死んだ。谷先生らと渋谷で逢ったあとだそうだ。いい奴だった。二十歳代だったろうか。

2011-06-04

駒中の話8

タマキという蛤女王のような音楽の教師がいた。グラマーな女性で芸大を出てきたと思う。この人の授業を停めたことがあった。何だか気に入らずに大騒ぎをして授業にならないほど、あまりにひどさに泣きながら校長室に走った。そして校長と教頭を従えて戻ってきた。形勢逆転で生徒は静かになった。校長の名は静夫といった。効き目があった。
タンチ山に音楽室があったように思う、土屋さんもそう言っていた。昔の高校受験では9教科の試験があり、音楽も無論含まれていた。馬鹿な話だが本当のことだ。タマキ先生もプリントを作成し、それを配った。つまり、タマキ先生に音楽を習ったのは三年生の時となる。そのプリントを試験問題だと思い込み持ち帰ろうとした奴がいて、ただのプリントと知ってがっかりしていた。
この先生を後年府中で遠望した。相変わらずのグラマーな姿、手に買い物袋を持っておられたので、近くにお住まいだったのだろう。声もかけなかった。嫌な思い出しかないだろうからと遠慮。どうも学校の授業はどれも面白くなかった。家庭にそろそろとテレビがしのびこみ、ラジオからばかりでなくテレビもコマーシャルソングを流した。
明るいナショナル、暗いマツダ、東芝の電球はマツダという。何故マツダなのかを最近知った。「マツダランプ」 は1910から1962年頃まで使われた株式会社東芝の電球の呼称です。現在は「東芝ランプ」で東芝ライテック株式会社に引継がれています。
丸の中に「マツダ」のマークは、その後は傘マークのToshibaをへてTOSHIBAになっています。例外として光を計測する元になる東芝標準電球には「マツダ」のマークを引続き使用。「マツダ」は「MAZDA」からきており、ゾロアスター教の光の神様「アフラ・マズダ」で元はインドの「阿修羅」が各地に伝えられ名前が変化したといわれています。
このようなことからMAZDAは、Edison MAZDA Lampなど欧米の電球にも使用されていた時期があります。
インターネットの力でこれを知った。私たちも時の潮騒に押し流され、たった三年間の駒中生活から叩き出されて、それぞれの道を歩んだ。好むと好まざるに関わらず。そして、あのほろ酸っぱい時間は二度と戻らない。でも、このインターネットのように、長生きしているうちに時の潮騒が大きく変り、その恩恵に浴することができる。多くの人に共有する時間、共通する知識などを印刷媒体なしに届けることができるようになった。昨日の小坂一也の歌入り、映像入りで。これが現代なのだ。間もなく我々もご先祖様の仲間入り、それでも、私たちはくした時間の中を旅行してきました。当時に駒中はこんなところでしたと、今を生きる同じ駒中の生徒たちに、興味もなかろうが記録しておけば、どこかで役に立つような気がして毎日記録。
それにつけても歌はいい。それも学校で教えないような歌は。愛ちゃんはお嫁には鈴木三重子、この人の父親は民謡の大家、鈴木正夫、新相馬節で知られる。実に朗々としていて聞いてて涙がこぼれるほど、この三重子が歌ったがヒットせず、ペギー葉山にとられた歌が「南国土佐をあとにして」、人間運不運、どこに幸せがあるとも限らないから精々宝くじでも買うことだ。嫌気を起こさず。

2011-06-03

駒中の話7

吉川という音楽の教師がいた。この人も新人教師、ピアノを得手とされたのか、作曲をしてみろと言い出した。おおくの生徒は尻込み、それはそうだ、音楽とは唄うこと、楽器を鳴らすことくらいしかできない受身の授業、それを作曲とは論理の飛躍ははなはだしい。でも、松本アッチチのように、詩を見て曲を想像できる人物もいたが、それを譜面に落とすのは難しい仕事、それを無理強いをするのだから生徒は困惑。作曲のイロハ教えずどうして出来るのかと不思議に思った。それが教師にも伝わり、それは沙汰やみになった。ほっとしたもんだ。
この頃の中学は古い教科書を順送りにし、新しい教科書を買わずに父兄の負担を減らす方法、その音楽の教科書にフォスターの曲が載っていた。黒人霊歌をベースに置く「おお、スザンナ」は爆発的に人口に膾炙され、彼の才能を示したが、貧困から抜け出すことはできず、「金髪のジェニー」「オールドブラックジョー」と名作を幾つも残すが、経済的な不安から脱却できず、37歳で没した。名曲、「おお、スザンナ」はわずかな金で出版社に渡り、作曲家としての生活は確保できなかった。
吉川という教師が、このフォスターの歌を教えた。三茶小の飯川先生のように作曲家の解説もなくいきなり歌に入ったような気がする。アメリカ音楽の祖とも言われるフォスター、幾つもの解説・説明があってもよかったとおもう。あるいはされたのかもしれないが、おそらく判り易いものではなかったのだろう。
少し赤ら顔の若い先生は作曲家を目指していたのかもしれない。それが成せず教師の道を選んだのかもしれない。芸術の道は難しく、そこで成功することは渚に落としたブローチを探すようなもので、なかなか手にすることは難い。それゆえ、二足のわらじの教師生活に片足を置くが、それが本業になるのは堕落、しかし生徒の側からはこれは迷惑な話、いやいや教師、でもしか教師に巡り合うのはまさに不幸以外の何物でもない。
先生の弾くピアノに合わせていやいや歌ったもんだ。どれもつまらない音楽に聞こえた。草競馬のような軽快な曲ではなく、つまらない歌だった。それでも一年生の音楽の時間は確実に来て、そして、それも通り過ぎた。
音楽室が何処であったかも忘れた。土屋さんの話だと校門を入って左の校舎の二階ではないかとの話。そんな気もする今夜の私だ。学校の音楽の時間はつまらなかったが、ラジオから流れてくる曲目にしびれた。歌謡曲全盛の時代を迎え、あまたの歌手が虎視眈々、我こそはキングにクイーンにと折りあらばの姿勢、まだテレビが家庭に入り込む前、ラジオだけがメディア、なかなか自分のラジオが持てない時代。それでもラジオから流れ来る曲目に耳を澄ませた。
小坂一也という成城高校の不良が歌手になり、これがロカビリーと転じ世間を騒がせた。ウエスタンの「ワゴンマスター」で大当たりをとり、十朱幸代と結婚するも破局、62歳で没、和製プレスリーと呼ばれた。染物屋の生駒さんの親戚に、この小坂に似た人がいて、タケちゃんと指差して似てる似てると言ったことがある。

2011-06-02

駒中の話6

一生のうち新築の家に入居できるということは、そう滅多にあることではない。気概を持ち自分の力で家を新築する、できるは男子一生の本懐。まあ、こうしたことは運命の巡り会わせもあり、そう簡単ではないが、駒中で図書館の新築にでくあわした。
タンチ山のてっぺんに図書館が建ち、それはモダンな建物、ガラス部位が多く、外光をふんだんに取り入れたもので、林校長が無音館の名を冠した。得意満面であったことだろう。
三茶小の三上先生が駒小の百周年で校長になっておられ、その栄誉を拝した。こうしたことはなかなか巡りあわないもの。
世の中の金と女のようなもので、太田蜀山人が言う。「世の中は金と女は仇なり、どうぞ仇に巡り会いたい」
それに巡り会ったのだから、これは少々ならず得意の絶頂、しかし、こうしたことも長く生きてきたからこそ理解できるが、当時の中学生にはさっぱりわからぬことでもあった。
今井ムツオ君という短距離で滅法早い人がいた。この人はフライング気味に走り出す。アレレ、でもセーフかという走りで、見ているほうは気が気ではない。
この人が世田谷区の中学対抗陸上競技のリレーの選手、アンカーが原君、野球の名手、今井君がスタートをフライング気味に出て、一回目の警告、二回目もやらかしファウル失格、それを知らないリレーの選手、号砲一発、各ランナーが一斉に勢いよく、放たれた犬のようにまっしぐら、ところが今井君がそこにイマイで、唖然・呆然と立ちつくす、結局オジャン。
図書館が新築なったので、珍しく早く学校に行く気になった。新築の建物が気になっていたのだ。私が一番先に来たと信じていたら、今井君が芝生で足を投げ出し、本を読んでいた。人の気配を感じて読んでいた本を閉じた。声をかけると何やら恥ずかしそうにしている。読んでいた本は分厚い聖書だった。クリスチャンでもあったのか、それを訊くのがはばかれて、その場を退散したことがあった。
この今井君と三十代の終わりに偶然、新大久保で逢った。彼は中村屋のスーパーの店長をされていた。いつも店先で商品を並べたり販売したりと忙しそうだった。顔を見るたびに声をかけたが、相変わらず人の良さそうな笑顔をみせてくれた。
私も新大久保に疎遠となり、今井君のその後は知らない。新大久保の名を聞くと、今井君のことが思い浮かぶ、駒中でもなく山手線の新大久保が今井君との接点になったのも、妙なものだ。
人生は色々なことに出くわし、様々なことに振り回される。都度、泣いたり喚いたりするけれども、過ぎ去ってみるとほろ酸っぱい味がする。今井君とはそれ以来逢っていないけど、何処かの空の下で、ぽっと又会えるような気がする。

2011-06-01

駒中の話5

小学生の時は担任が全ての教科を指導、ところが中学校は専門分野の先生が指導。小学校は家庭の延長上のようなもので、父親なり母親が指導しているようなものだが、中学校は世間と同じで大人の世界をかいまみるようなもので、実にこれが新鮮だった。
雷魚の木村という体育の教師は、後年クラス会に呼ばれ、そこで長生き体操の話を一席ぶった。当時、木村の雷魚先生はどこだかの体育大学教授、これは大した出世、話の呼吸も飲み込んだ先生だけに、実に生徒に受けたそうだ。ところが、すぐに亡くなった。長生き体操をしても効果がなかった。おかしいけど事実。
人の生き死にだけは誰も決めることはできないものだ。人見君という実に真面目な子がいた。成績も優秀で教師になったそうだ。佐藤君と仲が良く、店に遊びに来たそうだ。佐藤君は駒沢停留所のそばで瀬戸物屋をしていた。結婚して中目黒で果物屋を営んだ。そこに、人見君が顔を出した。なんでも勤務先がその近くだったようだ。
いつも談笑するのが、なんだかろくに話もしないで返ったそうで、その後に自殺したという。生きていることに飽きてしまったのだろう。ロマン・ローランが言う。「ねえ、君、人生ってのはね、生きたり望んだりすることに飽きてはいけないのさ」と。
長生きも芸のうちの言葉もある。無芸大食漢でも長生きできれば芸があったということだ。どんなにつまらなく、面白味のない人生でも、過ぎてしまえば短い。それをネエ君、ことさら短くすることもなかろうヨとロマン・ローランが言いそうだ。
体操の先生に沖という女性がおられた。旅行好きな先生で夏休みを利用して各地を飛び回る。立山というところでトロッコ列車に乗ったのヨ、その切符の裏に命保証せずって書いてあるの、凄いところもあるものよ、ネエ。授業の合間にそんな話をされた。その先生も若くして亡くなった。
世田谷の深沢に日体大があり、そこから講師が来た。坂口という筋骨隆々で苦みばしったいい男、体操が終って深呼吸するとき、腕を大きく上から下に下ろし、それを左右に拡げて呼吸を整える、その時に「隣のを握るなヨ」という。皆が笑うと受けたとニヤリ。隣の人の金玉を握るなという意味。何度言われても皆が笑ったもんだ。性に目覚める頃だけに、そんな話は馬鹿うけだ。その坂口先生も若くして死んだ。体操の先生は早死になのだろうか。三茶小の石塚先生もそうだった。血の気が多いのは何となく理解できるが、生き死には実に不思議なものだ。
駒中に金子という憎めない顔の好青年が教師として赴任してきた。元気の塊のような人で人気もあった。この人は髪の毛を気にされて、いつもポマードで固めておられた。ところがほどなくして河童はげになられた。世の中は一字違えば大違い、はけに毛があり、ハゲに毛が無し。生き死にと同じに毛のあるなしも自分で決めることが出来ないのも妙。
大見川先生という職業家庭科だったかの教師がおられ、この先生は実に包容力のある先生で、駒中の近くに部屋を借りておられ、そこに遊びに行った。リンゴ箱を利用して窓から出入りしておられた。住宅事情の悪い頃で、アパートが借りられず、普通の家の一部屋を借りておられたのだ。玄関は大家の部屋に近かったのだろう。皆、苦労しながら生活されたものだ。あの頃と今とでは天と地ほどの開きがあり、住宅事情も改善され、どの家も水洗便所になった。その分人間関係も希薄になり、何でも水に流れて壊れて消える。