2011-05-15

三茶小の話8

観音堂と平和パンの十字路に三茶小の校庭門があり、そこはいつも閉まっていた。ここから帰ると近道でここを抜けようと脇の生垣の破れ目から出て、それを中西君にみつけられ、三上先生に告げ口され、叱られたことがあった。その校庭門には直線状の道路が続き、突き当たりが林になっていた。その右側に曽根君の家があった。
校門からの道路の途中に宇田川君の大きな植木置き場があり、背丈の違う植木が出番を待っていた。その道路は砂利道でニコヨンがコールタールを敷いて歩いた。その作業小屋が三茶小の近くに建てられ、その破れ目から中がのぞけた。
好奇心旺盛で中になにがあるかと瞳をこらすと、キャンバスを立てた青年が、つぎはぎのモンペを着た痩せた中年女を描いていた。モデルの中年女は視線をまっすぐに顎を引いて、尊厳なる時間を味わっているように見えた。青年は画学生でもあるのか、こんなところで仕事が終って何がしかの金を手にし、余暇をこうした絵を描く時間に費やしているのを見て、人生の難しさを感じた。
中西君は絵が上手で、子供の我々も、この人は将来、そうした道に進むことを予感させるだけの力量があった。おそらく、この青年もそうだったのだろうが、世間の経済状況からニコヨンをして身過ぎ世過ぎをしなければならなかったのだろう。その絵は決して下手ではなかった。しかし、魂を揺さぶるようなものではなかった。
同じクラスに麻生さんがいて、この子の家は丸山公園の近くだった。お父さんが絵描きで、家を訪ねたことがあった。大きなキャンバスに母子像が描かれていて、その迫力に押された。お父さんが選挙投票で三茶小に来たとき、廊下に張り出された絵に私の名前をみつけ、家に遊びに来るようにと、麻生さんに言付け、それででかけた。
麻生さんの家のアトリエは絵の具の臭いが充満して、眉が濃く口元の締まった意志の強そうなお父さんが絵について色々教えてくれた。本気で絵を勉強してみないか、教えてあげるよと言われたが、私なんかではなく中西君が相応しいと思った。それでも、子供扱いせず、真剣に絵のことを語ってくださったことは貴重な時間で、今でも鮮明に覚えている。
お父さんは、その母子像に大層思い入れがあるようだった。そして私に、感想を聞かれた。私はこのお母さんの足が大きいと言った。おとうさんは笑いながら大きいか、大きいんだよと言われた。その意味がわかったのはそれから二十年もしてからだった。
竹橋の国立近代美術館で、その絵に出逢った。麻生さんのお父さんの絵が、買い上げられたのだ。人生の辛酸を舐めた私にはその母親の足の大きさの意味が理解できた。地に足がつくという言葉がある。画学生の多くが職業画家として立てるかが不安であり、限られた時間のなかで誰もが成し得ていない表現、構図、色使いを模索する。まして、戦火の中を生き残り、暗い戦争からやっと明るい人生の兆しを見つけ、生きる喜び、そして画家として立てる自信が湧いてこられた時期だったのだろう。それが母親像の足の大きさとして現れていたのだ。人生を堂々と歩む、まして自身の感覚を絵筆に託して渡って行くには相当な困難と呻吟があったことだろう。ところが、麻生だんのお父さんはそんな隘路を抜けて、何かをその母子像でつかまれたのだ。そして天下に名をとどろかせる画家、麻生三郎になられた。三軒茶屋、山の手の下町、そんな狭隘な貧乏人がかりが住むような町中に、こうした才能を夜空にサーチライトの如く光らせることの出来た人が住んでおられた。それが同級生の父君であったことは、長く生きてきた人生の、まるで勲章のように大事な話でもあった。その麻生画伯は美大の教授として後進を育てられ、生涯を現役の画家としておくられた。その功績は見あげる山の如くに思える。人生を思うままに己の才能を信じて渡る、誰にでも許されることではなかった。