2011-05-26

弦巻の話2

柳家金語楼の家があり和風の玄関引き戸は格子、ところが、それが何処にあったかが判然とじない。アーチャンにも訊いたが駒中の近くだよと、これまた心もとない。中野さんは存在すら知らなかった。金語楼は山下敬太郎が本名、陸軍の兵隊になった話を得得手とした。映画にも出て爆笑王、テレビのジェスチャーで水の江瀧子と名進行、この金ちゃんは発明家としても有名、どんなものを発明したかといえば、くだらないものだったが、フーンと言って忘れるようなものばかり、学童が体育の授業時に被る「赤白帽」など、子にロカビリーの山下敬二郎がいた。
駒中の際に画家の向井潤吉がいて、この人は農家ばかりを描いて有名、その居宅は美術館になった。駒中にはタンチ山があり、校庭はその山に半分占領されていた。学校の中に山があるなんてのは、知らない人は信じられないだろう。その山に図書館ができ、校長が「無音館」と名づけた。洒落た建物だったが、これももうない。山の上に道路があり、山坂の多い地形、弦巻あたりが地形的には高く、駒留神社に向け下がっていった。蛇崩川は三茶小をかすめるように流れていった。
三茶小の近くにくると、松原君の家の前を通り、ここらがアーチャンのザリガニとりの場、皆がてんでに自分の縄張りをもっていた。
改正道路の駒留神社寄りの道を弦巻に上がっていくと、駒中で同級生の飯田君の家があった。道路の右側にあり、飯田君は実に折り目正しい人、サラリーマンになって成功したのではなかろうか、爽やかな印象を与える、言葉使いの丁寧な人だった。あまり正確な記憶ではないが、建築関係の仕事をされたようにおもう。もう何十年もお眼にかかっていない。改正道路に鈴木君の食料品の店があり母親が店番をしていた、父親は勤め人だったように思う。鈴木君も賢い人だったが、背が低かったが、その後身長が伸びたのだろうか、同期会にも出てこなかったので、中学卒業してそれっきりになってしまった。鈴木君も飯田君も移転されて、今は、ここら辺が彼の家だったけどなあと、実にこころもとないこと甚だしい。
上馬にも、さあ行くぞと心を決めないとなかなか行かれなくなってしまった。昔と同じところに居住されている人もおられる。塙さんがそうだ。この人はもの静かな美人、知性溢れるという表現がピッタリだった。飯川君も同じところで暮らしておられる。駒沢にマンションを持っておられた。そこでビデオを大きな音を立てて見せてもらった。飯川君の母親は三茶小の音楽の先生、その血で彼は歌が上手、それもポップスを得意とし、横文字の歌を好んで唄われる。エルビスやポールアンカなどのオールデイズ、これがまた楽しい。
あの頃は歌謡曲ファンとポップスとに二分され、ヒットチャートやS盤アワーなどを楽しみとした。生駒君は歌謡曲を好まれ、三橋美智也がいいと言っておられた。高音の伸びがなんとも言えない味を出した。この三橋は明大中野高校に通った。東横線の綱島の温泉でボイラーマンをしながら高校に通った。歳は同級生より多い、それでも卒業までこぎつける。その学生服でキングレコードに通っていた。なんとか一発あてようと頑張っていたのだ。その頃同様に作曲で当てようとキングに入り浸っていたのが船山徹、この人は別れの一本杉で当てる。作詞家の友達はそのヒットを見ずに死んだ。苦楽をともにしただけ、船山はがっかりした。三橋は昭和30年、「おんな船頭唄」で飛び出す。力のある者は報われる見本。