2011-04-04

昭和30年ごろの三茶商店街8


文華デパート側

上馬の思い出5

美空ひばり2
美空ひばりを世に出したのが川田晴久、この人は52歳で亡くなった。昔は短命な人が多く、六十歳になると皆で長寿を祝ったものだ。上馬には横溝という地主がおられ、生駒さんの路地を入った先に大きな家を持っておられた。
そこの御爺さんが還暦になってお祝いをしたと聞いた。六十の御爺さんはどんな人かと垣根から覗いたことがあった。
広い縁側で陽光を浴びて背中の丸まった赤いチャンチャンコを着た人が座っていた。我々はその歳をとっくに過ぎた。いまだにそういう境涯には恵まれていないのは有難いような情けのないような気もする。あくせくしながら死んでしまうのだろう。
その横溝さんのご隠居の家作に三茶小の横山先生が居住されていたことがある。この先生に三、四。五年の三年間を教えていただいた。背の高い物腰の柔らかい人で、顎を撫でる癖がおありだった。三茶小の徽章は横山先生が考案されたもの。先生は没したが徽章はいまでも燦然と輝いている。
あの頃の六十歳は戦争も潜り関東大震災もかわして、ようよう六十を迎えたの感慨があったのだろう。我々世代は戦後の混乱の中でもがきながら生きてきた。それがいまだに抜けないのか、どうも品格に欠ける世代のような気がする。
さて、川田晴久のことだが、脊椎カリエスで動けなくなり、三島でお灸でそれを治療中に戦争が終り、こうしちゃいられないと芸能界に復帰、復員してきた兵隊の頭には慰問にきた浪花節が残っていて、戦後しばらくは浪花節全盛、これを巧みに取り入れてギターを抱えてのボーイズ、この向こうをはったのがガールズ、これがかしまし娘、ひばりは一本で売れる芸人、一人では売れないのは二人で一組として売れる。売れる売れないというのは興行先に使ってもらえるか否か、それで売れる売れないとなる。りんごも一個幾らと一山幾らの差だ。二人でも売れないのがボーイズ、ガールズとなる。
川田晴久が属していたあきれたぼーいずには坊屋三郎、益田喜頓がいた。これが解散して川田晴久とミルクブラザースになり戦争が激化、川田もお灸に明け暮れたが、ギター抱えてダイナブラザースで復活、それに美空を加えたとなる。美空ひばりは母親が売り出そうとのど自慢にも出演させるが鐘がならない。戦後一大ブームを巻き起こした笠置シズコのブギ、これを美空が歌ったのが子供らしくないと酷評、実力はあれど審査員など一部の大人が足を引っ張った。
ところが川田は実力のある者が世の中に出るのは当然と、世間の批評をどこ吹く風、美空を舞台に引き上げた。それを美空は終生恩義に感じた。川田は時代の波に乗った人、美空は時代を作った人、この差は歴然としている。