2011-06-12

駒中の話15

中根君と一年生の時同じクラスだった。少し向こう気の強い子で負けん気を見せる。それでも決して嫌な印象を与えることはなかった。綿貫真也君という中学校の脇にある都営住宅に住む子が級長、その子はハキハキとして利発、運動神経も良く200メートル走で良い成績を出した。三軒茶屋の仲見世に天麩羅屋があり、そこに中村君という一塁手がいた。この子は名手で帝京高校へ進学、その後がどうなったかを野球の原君に訊いてもサッパリだ。にこっとすると正に破顔一笑で、この笑顔に勝てる者はいなかった。狭い店の二階から顔を出し、仲見世を歩く人を眺め、友達に手を振った。
三茶を通ると中村君の店とおぼしきあたりに立つが、本当にここだったかと疑問になる。時間は流れ、確かに居た中村君の消息もわからない。戦後間もなくの頃、NHKのラジオが「尋ね人の時間」を放送、陸軍○○部隊の▲さんをご存知の方は…と流れていた。
戦争もなかったが、一度離れ離れになると、なかなか逢えないものだ。この様な放送があればとも思うが、インターネットがその役を果せそうな気にもなるが、それは無理。年寄りはインターネットをしない。
そうすると、このもどかしさは我々どまりかも、というのは、若い子は達者にパソコンを操作、ブログを利用し知りたい情報を手に入れることだろう。
三茶商店街の天麩羅屋の倅、中村文夫さんをご存知の方は連絡願いますで、直ぐに消息が知れることだろう。わからないからこそ、恋しいのかも知れない。逢ったとて、何を語らなければならぬのでもないが、とにかく逢いたい気持ちが先に出る。おかしなものだ。
三茶の商店街で油にまみれて働いた親たち、あんなに賑やかだった仲見世も中村君の店が見えなくなって寂れてきた。
葛飾区に立石というところがあり、駅前商店街が鉄路の左右にあるが、仲見世の方はすっかり灯が消えたようになった。まるで三茶のようだと嘆いている。
さて、中根君の家は世田谷通りの若林交差点の近くだったような気がする。柳文房具店の裏手だったようだが、アーチャン、土屋さんい訊いてもわからないという。柳君夫婦に訊けばわかるのだが、最近は顔出しをしていない。柳君は駒中の同窓会の幹事をされており、その同窓会は来年開かれるという。同窓会には多くの人が集まりそうだが、そうでもない。何か企画がなければ全員がそれっと集まることは難しい。年代・世代を超えて熱くなるような仕掛というのを考案するのは難しい。
中根君の家は質屋を営業していた。「お金の中根」だ。中根君は性能のいい写真機を持っていた。林間学校で日光に行ったとき、綿貫君と中根君と共に写真におさまったことがあった。その写真も持っているはずだが、度重なる転居で見当たらない。確かにあったのだが、今はない。まるで三茶仲見世の商店街だ。
中村君は綿貫君の名をメンカン・シンセイと読んで「この人は中国人だと思った」と語ったことがあった。中学一年生だもの、こうした間違いもある。その中根君も亡くなったという。四十代とも聞こえてきた。