2011-05-29

駒中の話3

1年C組に大石君という笑い顔に特徴のある、いかにも人の良さそうで、いつも頬の横に手のある人がいた。優しい喋りで顔とピッタリしていた。この人の家に学校の帰りに寄ったことがあった。大人しそうな妹さんがいて、水上君の結婚式だかに同席したとき、その妹さんのことを訊いた。すると声を落とし、顔をくもらせ、「妹のことを覚えていてくれたの、そうか、ありがとう、でもね、妹は死んだんだよ」と淋しそうに言った。まだ二十歳代だっただけに、落胆は大きかった。その大石君の顔を同期会で探したが、見当たらず友人に聞いたところ、大石君は車を運転中に心筋梗塞で亡くなったという。それも道端にキチンと車を停めてだ。いかにも彼らしい死に方だと納得しながら悲しかった。
中学生の頃から妙に大人びて、ネクタイ姿を想像させるような優しい喋りが、いまでも後ろから「元気かい」と声をかけてくるような錯覚にとらわれる。
人は誰でも死ぬ、これは摂理でどうしようもないが、短い長いが問題ではなく、どれほど真剣に生きたかが問われる。大石君の人生は短かったけど、爽やかな印象を与えた人だった。
このクラスに源玲子さんという、これまたこぼれんばかりの笑顔の綺麗な人がいた。ライオンというあだ名の美術の先生がいて、喋る言葉が「ウオー、ウオー」というまるで訳がわからない人がいて、いつもボサボサ頭だった。この先生は芸大出で腕は優秀だったおだろうが、絵を描かれているのを見たことがなかった。この先生が状差しを作れと言った。手紙入れのことだ。彫刻刀を使い思い思いの作品を作る。隣のクラスを校庭から覗いたとき、源さんが真剣に彫刻刀をたくみに使い、鎌倉彫ばりの牡丹花を見事にえぐり出した。その冴えの良さ、大胆な構図に息を呑んだ。中学一年生でこうした作品をものすることが出来る人がいるんだと、感心を通り越して、その才能を妬んだ。
自分の作品とくらべると天と地、月とすっぽんで、世の中は広い、素晴らしい人がいるものだと頭が下がった。
この人は女子美高校に進学された。どんな作品を作られたのかは知らないが、才能を開花されたのではと推測するばかり。ライオンは佐野先生と言った。この人の審美眼は実に面白く、好きだった。先生はプラタナスの幹の皮が剥げるのをしげしげと見つめ、美しい、一つひとつが違っていて、同じものがないと、実に嬉しそうに教えてくださった。
あんなつまらない物がどうして美しいのかと不思議に思ったが、今となっては先生の言われた意味がわかるようになった。
佐野先生は長く駒中におられたようだ。卒業して一度もお眼にかからなかったが、実に印象深い先生だ。
美術の先生には樋口先生がおられたが、若くやはり芸大出で、自分でも制作に励んでおられた。夕陽にカラスの絵を描かれ日展に出すんだと、張り切っておられ、その大きなキャンバスを山内君と上馬の駅まで運ばされたことがあった。その絵は日展に通って、先生は満面の笑みをこぼされたが、運んだ人物のことはすっかり忘れておられた。