2011-05-28

駒中の話2

陸上カバのあだ名の先生のクラスに三茶小から来た宮坂みさおという女の子がいた。この子は活き活きとした瞳の顎がほっそりとした利発な人で、中学生だというのに、ほのかな色気があり、この人は大人になったら男を悩ます存在になると思った。何で見たのか日本妖婦伝のようなものに、高橋お伝というのがあった。その挿絵が宮坂さんに良く似た美人、これだと思って学校で友達に話した。多分、小林ヒロシゲ君だとおもうが、一決して「お伝」の仇名となった。「何であたしがお伝ばのよ」と怒っておられたが、誰もが「お伝」と呼ぶようになり定着した。
高橋お伝は嘉永3年、群馬県みなかみの産、仮名垣 魯文が高橋阿伝夜叉譚(たかはしおでんやしゃものがたり)として書いて大当たり、芝居でも大当たりとなった。墓は南千住の小塚原、鼠小僧次郎吉の隣、また、谷中の墓地にも芝居で大当たりをとった礼として守田勘彌、尾上菊五郎らが寄付者となり建立。
この宮坂さんは成人して、そんな浮名の立つこととは全く無関係で、堅実な良妻賢母となられて、中学生の推察するような人生は歩まれなかった。
この1年D組に松本アッチチがいた。この人はアキユキという名で、小学生の頃、自分の名前がはっきり言えず、アッチチのあだ名になった。国語の時間、宇佐美先生が詩の解説をされ、「からたちの花」からたちの花が咲いたよ、白い白い花が咲いたよ、からたちのとげはいたいよ、青い青い針のとげだよ。
北原白秋のことを教えていただいた。福岡県柳川の人、早稲田大英文科に進学、新詩社に参加。与謝野鉄幹、与謝野晶子、木下杢太郎、石川啄木らと知り合う。『明星』で発表した詩は、上田敏、蒲原有明、薄田泣菫らの賞賛を得た。この詩に曲をつけたのが山田耕筰、東京本郷の産、東京芸大卒、岩崎小弥太の支援でドイツに留学、日本語の抑揚を活かしたメロディーで多くの作品を残した。
この「からたちの花」も山田が作曲、この歌を唄える人がいますかと宇佐美先生がきいたとき、松本君が手を揚げて、しきりに恥ずかしいなを連発しながら唄ったのは、聞いたことのない歌。彼はこの歌を知らずに自作の曲をつけていた。歌が違うと批難の声が生徒から上がるも、「え、これに曲があったの?」とケロリ。松本君の無知を笑うより、その才に驚いた。どのように作曲しようとしたのかはわからないけど、詩をみて、これに曲があればもっといいと思ったのだろう。そして自作の曲を発表、だから恥ずかしかったのだ。
しかし、彼はその才を生かすような道には進まれず、福島県の飯坂温泉に居住されている。何故福島県に行かれたのかは知らない。片雲の風に誘われ流浪の旅の表現もあり、私も人のことを云々できず、青森県八戸の片田舎にいる。懐かしい東京世田谷に継続して居住の出来なかった人々にとって、三茶や駒沢は郷愁の地、長谷川伸の「瞼の母」、番場の忠太郎ではないけれど、遠くにいても瞼をとじれば、あの駒中の誇り臭い古い校舎、友の呼ぶ声が今も聞こえる。