2011-03-27

昭和30年ごろの三茶商店街3


駒の湯からの続きです

三茶の思い出6


八十過ぎの爺さんと友達になって、時折その蕎麦屋に立ち寄って昔噺の聞き役になりますけど、爺さんの話を倅夫婦はロクに聞こうともしやしません。商売が忙しいのもあるけれど、また同じ話を始めやがっての気持ちが先に立つ。貴方が寄らないで寂しがっていますと嫁さんに町で出会って言われちまえば、面倒なことだと思っても気の毒なこともあり、ついつい運ぶのは足。
昔ネ、高峰秀子って女優の若い頃、プロ野球、その頃は職業野球がありましてネ、後楽園に野球を見に来る人がいない。そこで高峰秀子と一緒に写真を撮るっていう企画で、写真を一緒に撮りたくて野球見に行きましたヨ、でもね、そのことを思い出して、それを確かめようと図書館へ行って調べてもないんです。すると、人間妙なもので、あれは幻だったか、それとも自分が作った嘘だったかと奇妙な感覚にとらわれましてね、とうとう私もボケが来たかと不安になりまして、エッ? 仲間に確かめろですか、一緒に野球を見た、ええ、皆死にました、長生きすると妙に不安になるんですヨ。
三茶に豆やがあって、その先に剣舞を演ずる源なんとかと言う親子の一杯飲み屋がありました。中村くんの天ぷらやの横をこちょこちょと入ったところです。小さな店が寄り添うように建つ町が三茶です。いったん火事でも出れば命さえ危ういような所でして、それでもときどき火事を出しましたとも。
斉藤呉服店の火事はもの凄くて、玉電も止まりました。太子堂の駅まで線路を歩いて行きました。絵のうまい中西くんが、どういう訳か線路に落ちてたビール瓶を拾います。電車はもちろん動いていません、そのビールは家の人が飲んだそうです。中西くんの兄貴は大学生、姉さんがいて綺麗な人、その人は宝塚劇団に行ったそうです。
中西くんは図画の根津先生にいつも誉められました。全生徒の絵を並べてどれが上手いかと生徒一人一人が聞かれたことがありました。生徒たちの鑑賞眼を養うつもりだったのでしょう。中西くんのは図抜けて上手い、でも、私は永島節子という子の絵の奥に静かに拡がる物を感じて惹かれました。この子がその後どのような路をたどったかを知りません。中西くんは駒場高校から美大へ進みソニーの広告を扱う東急エージェンシーに入社し実力発揮。
ここまでは自分の眼で確かめたんです。でも、三茶の火事になりますと、どうも確かじゃないんです。というのもアーチャンや土屋さんの話では、火事は文化デパート、それも二回あったがいずれも小学生の時じゃない、大人になってからだと言うんです、「お母さん、あの麦わら帽子はどうなったでしょうか」じゃないけれど、蕎麦屋の隠居の言うように、あれは事実だったんでしょうか。それとも妄想でしょうかと、しきりに今様のインターネットを叩いて見ても、世田谷三茶の火事の歴史はどこかに埋没し、「中西くん、あの三茶の斉藤呉服店の火事はどうなったでしょうか」と、我と我が身の存在をかけて聞く以外に方法とてありません。ああ、明日待たるるこの宝船の大高源吾は橋の上で、早く同期会が開かれて、あの三茶の仲間に逢いたいもんです。
自分の記憶違いか聞き違い、間違いキチガイ何処にでもあるで、人間の証明をしなけりゃなりません。消防の記録がなけりゃ記憶が頼り、それでも世田谷通りの写真屋の倅、高田稔くんは二十歳代で亡くなりました。相撲がとっても強かったんです。テレビで力士の取り組み見れば、何とはなしに思い出す……。心の底に高田くん、若いままの顔が浮かんで消えて、あれは確かにあったはず、でも、今となっちまうと心の中にしかいないもの、まるで世田谷の空に弧を描く澄んだ空気のいっぱいにあった、あの六十年も前の頃、夕焼け空に一番星を見つけたように遠く近くに瞬いて、まるで人の命のはかなさのように、あると思えば確かにあるし、ないと思うといや増すさびしさ……。