2011-06-23

上馬の三奇人 タマエさん

玉電通り真中寄りに立石という氷屋があり、冬には壷やきいもを売っていた。あの頃はやきいもは高級なおやつだった。三茶小で同級の中西君は「お前の家にはもう行かない、やきいもしか出さないから」と言った。やきいもの美味さを知らないのだと思った。実際やきいもは高かったが、中西君には粗末なものと見えたのだろう。それでも我が家では最高のもてなしだった。
その手前に平河屋のそばやがあり良く手入れされた調度品が黒光りしていた。ここのそばは滅多に食べられなかった。両親がメリヤスの仕事で忙しく食事を作る時間を惜しんで作業すると、この平河屋で食べてきなさいと、妹と共になにがしかの金を渡され、その範囲のなかで品書きの木の札の中から食べたことのないものを選んだ。妹は小学校に入ったかそこらで、椅子によじのぼって座った。外食券食堂などの文字が並んでいた。
平河屋は文化の臭いがした。かつお節と醤油のなかに、食べる楽しみを教える文化の臭いがあった。
この平河屋の横を入ったところにタマエさんの家があり、通りを覗いているぎょろぎょろとした眼に出くわす。鞍馬山の義経が登り、そこで剣術の稽古をしたと言われる。六韜三略(りくとうさんりゃく・中国の兵法書)を覚日阿闍梨から学んだといわれる。その剣術の稽古をつけたのがからす天狗。眼ばかりぎょろぎょろして色浅黒い、この風貌がタマエさん。アーチャンも彼女を知っていて、買い物袋を手にして、中から石を取り出してぶつけてくるんだよ、嫌なばばあだったという。土屋さんに「あんたがいじめるからだよ」といわれブツクサ。
タマエさんの名誉にかけて言うが、あの人はそんな凶暴な人間ではなかった。毎日上馬から三茶方面を流して歩いているため、土方人足、駕篭かきのように日焼け、何をして食っていたのかは不明だが、泥棒かっぱらいの話も聞かない。それなりに暮らしておられたのだろう。あのころはこうした上馬ウロチョロ族が結構いた。ロケットしんちゃん、背の高い襟付き学生服に名前を書いた聾唖者、指先の溶けた男、吟遊詩人、鍋欠けつぎ、傘の骨直し、金魚売りに雑貨や、これはリヤカーに骨組みして、鍋、釜、大根おろしの板、湯呑など、今の百円均一のような行商、これの若い衆が泣きながらオバサン連に聞いている。錦糸町は遠いですかね、売れるからってんでお客さんがあっちへ行け、こっちへ来いというので、ウロウロしているうちに、此処まで来ちゃったんですけど、此処はどこですか、私は誰? そうは言わなかったが、今日中に錦糸町に帰れますかネって聞くけど、帰れるわけはないよね。
昔はこうして歩いて方々で歩いたもんだ。糖尿病患者なんてのは極マレ、歩いていりゃ糖尿病なんてのとはおさらばだ。私もヘモグロビンA1cが10もあったときは心筋梗塞で倒れた。豆食って歩いて今は5・2だ。糖尿病増加率と車の増加率が同じ、楽して車に乗ってガソリンと税金、車検に保険に車代金と金を使って病気になって、挙句に心筋梗塞じゃ馬鹿の見本だ。車は処分し歩くのが一番。毎日二時間ウロウロしている。タマエさんのように歩いているが、あれれ、タマエさんも糖尿病だったのかな、そんなわけもなかろうに、ハイ、お退屈様。第一話はこれで終了。第二話をするかどうか、26日の会合で決定します。しばらくお休み、さよなら、さよなら、さよなら。