2011-04-16

中里の思い出5

中里から上馬に向かう専用軌道の右手は崖になっていた。その上り坂を電車が進むとすぐ右手の高い所には犬舎があり、大きなシェパードが何匹もいた、警察犬の訓練をしていたと言う。その隣が大川さんの家で、目が大きく丸顔で色白、まるで少女雑誌に載る蕗谷虹児の挿絵のようだった。
季節が廻ってくると、また、あの花に逢えると人は心待ちにする。桜がそうだ。花は桜木、人は武士と歌われるように、散り際の潔さを言うが、人も花のようなものだ。年年歳歳花あい似たり、歳歳年々人また同じからずというが、同期会を開くのは、その人に逢いたい、あの人と話してみたいという願望が足を運ばせる。
大川さんは挿絵画家の描く可憐で楚々とした雰囲気があった。その大川さんは長じて女史美術大学に進学された。同期会で逢ったとき、以前と同じ雰囲気で、人は変らないものだと遠くから眺めた。
次の会で逢ったとき、最近耳が遠くなったのと言っておられた、ほどなくして訃報を聞いた。人は突然散る、それも何の前触れもなく。美少女の大川さんは久子さんと言われた。蕗谷虹児の絵をみるたびに大川さんを思い出す。あの大川さんの花には二度と会えないけど、挿絵はいつでもみることができる。蕗谷虹児は新潟県新発田の産、十二歳で二十七の母を亡くす、美人として有名な人、貧苦のうち新潟市の印刷会社につとめ、夜間画学校に通い、新潟市長に才を見出され十四歳で日本画家尾竹に弟子入り、放浪の後、東京に出て知人の紹介で日米図案社に入社、そこで竹久夢二と知り合う。それが機運を得て一流挿絵家の名を得た。「花嫁人形」の作詞でも知られるが作詞家が間に合わなかったので、急遽蕗谷が走り書きしたものを採用、これが大当たり、さらに戦後の混乱の時、この歌がアメリカで流行し多額な印税が入り込み、貧乏生活の蕗谷を助けたという。人は何が待ち受けるかわからないもの。
この大川さんの家の近くに須永君、佐藤君、小沼君が居住していた。小沼君は現在でも住んでおられる。地球が回るように我々も時代を回っている。その回転から放り出される者、しがみついていられるものに分れる。小沼君は回転するコマの中心におられたのだろう。今でも中里、須永君は神奈川の津久井湖のほうに行かれたが、その後が判明しない。きっとどこかの空の下で旧友を懐かしんでおられることだろう。
変る時代、変る世の中、でも人情だけは変って欲しくはないもの。故人を偲び先人を尊ぶという素朴ではあるが大事なものを。
花嫁人形
きんらんどんすの 帯しめながら
花嫁御寮(はなよめごりょう)は なぜ泣くのだろ

文金島田(ぶんきんしまだ)に 髪(かみ)結(ゆ)いながら
花嫁御寮は なぜ泣くのだろ

あねさんごっこの 花嫁人形は
赤い鹿(か)の子の 振袖(ふりそで)着てる

泣けば鹿の子の たもとがきれる
涙(なみだ)で鹿の子の 赤い紅(べに)にじむ

泣くに泣かれぬ 花嫁人形は
赤い鹿の子の 千代紙衣装(ちよがみいしょう)