2011-05-23

三茶小の話14

桜井君という身体に障害のある子がいた。三軒茶屋の大和銀行近くで母親が三味線を教えていたそうだ。桜井君は筝曲を勉強、そして晴れの舞台が我々の卒業式の日にあった。桜井君が琴を演奏してくれた。日頃は身体が弱いせいもあり、運動などはせずいつも校庭の隅にいた。それがこの日は和服を着込みお辞儀をして琴の前で、その日頃の修練の冴えをみせた。我々は感動し惜しみの無い拍手をいつまでも続けた。桜井君は照れながらも笑顔を絶やさなかった。
駒中に行っても桜井君はいつも静かで大人しかった。琴の練習してるのと訊くと、ニヤリと笑うだけで言葉を発しなかった。駒中の卒業式では桜井君の手練の技は披露されなかった。駒中の先生は桜井君が琴の名手だということを知らなかったのかもしれない。
三茶小は五組しかなかったから、先生の眼も届き、駒中は十クラスもあったので、それができなかったのかも、でも、駒中の先生にはそうした優しさが欠如していたようにも思える。学芸会がなかった。講堂もなかったので学芸会もないと短絡すれば理解ができないわけでもないが、図書館を新設するより講堂の方が先だったような気にもなる。無論、教育委員会が決めることで駒中の職員がどうこうできる問題ではないのだが、それにつけても三茶小での桜井君の筝曲演奏はいつまでも心に残った。
その桜井君とは二言三言、こちらから一方的に話をしただけで、彼も若くして亡くなったそうだ。もっと色々と話をしてみたかった。ニヤリと片頬で笑う仕種が今でも心に残っている。私のクラスに長岡レイコさんがいた。この人はいつも居るんだか居ないんだかわからないような静かな人、ある日他校の先生が社会科を教えに来た。三茶小の職員も詰めかけその授業を参観していた。
その先生が気になることを作文にしろと命じ、長岡さんが自宅近くの下水の話を書き、それを発表した。すると堂々と言葉を巧みにつなぎ、主語と述語の脈絡もしっかりして、わかりやすい話だった。不断はあんなに存在の薄い人がと驚いたことがあった。人は何か事があると、その表には現れない能力を示すもの、桜井君の筝曲も長岡さんの発表も実に素晴らしいものだった。その長岡さんにも中学を卒業して一度も会ったことがない。こうして振り返ってみると、中学卒業しサヨナラの言葉も交わすことなく一度も会わない人が多数いることに驚く。
真中の停留所の前に真中パンがあり、その娘さんが中学で同期、黒目のクリクリとした人、話すときにエクボができる綱島さん、名前も忘れてしまったが、同じクラスの松井チエさんの仲の良い友達、その真中パンも今はなく、松井さんも遠くに移転、同期会でお逢いしたのも、もう十年も前になるだろうか、それにつけても、あの駒中の空の下でサヨナラした人たちは今でも元気でいるのだろうか。