2011-04-22

上馬の思い出17

酒場ドリアンは上馬の文化的象徴のように思えた。家にいても食うものもロクになかったので、方々の家に顔をだした。中でも松の木精米店では正月のお供えのデカイのを作るので、鏡開きが楽しみだった。自分の家のは小さく、ほんの申しわけ程度、ところが松の木精米店のはでかい、また、この家の人たちは食べ物が豊富だからそんなものを食べようともしない。が、鏡開きだけは祝うので、ひびの充分に入った大判のお供えを包丁や金槌で叩いたり割ったりと忙しい。そして、優しいお母さんがしるこを作ってくれた。松の木精米店のお母さんは品の良い人だった。末っ子のクニオさんを可愛がっていた。また、この子が実に子供こどもしていて愛らしかった。背がひょろひょろっとしていて、足が長く弱そうにみえたが、しっかりした子だった。
松の木精米店の横丁、和泉屋パン屋の間にリヤカーを何台も並べていた。昔は米をリヤカーで配達した。自転車で引っ張るのだから、それは大変な力がいる。昔は糖尿病などかかる者がいない。朝から晩まで人力で頑張るから栄養を蓄積するひまがなかった。昨今は自動車の普及率と糖尿病患者の増加率の曲線が等しい。それだけ、内燃機関に依存し歩くことが少なくなった。だから病気になる、もっと足腰を鍛えなければいけない。子供のころは毎朝学校に徒歩通学、足腰は嫌でも鍛えられた。学校に通うことで丈夫になる。
ひょろひょろのクニオさんも、酒場ドリアンで梅酒を飲んで酔っ払った。酒場に入り込んだのは国太タケシ、松の木精米店のヒロシ、クニオ、生駒タケヒサ、それと私に勝比古さんだ。クニオさんの兄貴のヒロシさんはお母さんに叱られたそうだ。子供の癖に大人の真似をして酒を飲んで、その上、クニオさんにまで飲ませてと、だから、もうドリアンには行かないと外人の子供の風貌のヒロシさんが言った。
でも、私はドリアンに毎晩いた。ここには文化があったからだ。ドリアンの店はカウンターだけ、が、奥に部屋があり、そこでは毎日マージャンが開かれていた。上馬には雀荘がなかったように思う。毎晩牌をかき混ぜる音がして、チーだのポンだの掛け声がかかった。卓は一つしかなく、負けた者が出て、待ち人がそこにはいる。頭をポマードで固めたアニイたちが卓の廻りに何人もいた。そこにギターがあり、アコーデオンもあった。時折、待ち人の客がギターをかき鳴らしていた。
壁には鳩時計があり鎖を引いてゼンマイを巻いた。毎、正時刻に鳩が飛び出すのが面白くて真剣に見たもんだ。
レコードでよく聞いたのは「上海帰りのリル」、日本国家が欧米の真似をして植民地を作り、多くの日本人を送りだした。そんな戦争の被害者がリルだった。そんなことは無論知らないが津村謙のベルベットボイスに痺れた。実にいい声で、これ以上の美声は後に黒人歌手のナット・キング・コールだけだった。
この津村謙は早死にした。富山県の産、江口夜詩(えぐちよし)に師事、昭和18年テイチクからデビューするも戦時中で不発、徴兵され昭和21年に再スタートするも不遇、それが昭和26年の「上海帰りのリル」で大ヒット、映画にもなり水島道太郎、香川京子、森茂久弥が出演するなか、津村も唄っている。この人は昭和36年、マージャンで遅く帰り、杉並区の自宅車庫の中で寝込み一酸化炭素中毒で死んだ。人生は何があるかわからないものだ。我々はそうした危険のなかをなんとかすり抜けて、今日を迎えたのだが、ああでもないこうでもないと不平と不満の中で棲息してやしまいか、もっと生きてることをありがたいと思うべき。
さて、こうした酒場ドリアンの雰囲気の中で毎晩を過ごしたから、差し詰めのんべいになったと思うでしょ、ところが酒とは無縁の生活をいまだに続けている。毎晩酒場に通っていて覚えたのが流行歌、「湯の町エレジー」、マージャンの順番の待ち人がギターを手にすると必ず弾いた。
この曲は東京産の近江俊郎が歌った。作曲は古賀政男、この曲は霧島昇用に用意されたが、古賀が近江を使った。近江の兄は大蔵映画(新東宝)を作った貢、近江は骨っぽいところがあり、武蔵野音楽学校で教授と対立し中退、タイヘイレコードを振り出しに方々転々、ポリドールで幾つもヒット、ところが酒席で社長と喧嘩して、飛び出し古賀を拝み倒して門下生となる。昭和21年に「悲しき竹笛」で奈良光枝とデユエットしヒット、翌年、昔の仲間米山正夫がシベリアから復員。抑留中に作曲した「山小舎の灯」を持ち込み、この曲に感動した近江が強力なプッシュでNHKのラジオ歌謡に採用させ、大ヒットとなった。
そして近江が昭和23年に大ヒットさせたのが、「湯の町エレジー」全国津々浦々まで響いた。そして、上馬の酒場ドリアンの隠れ雀荘で、ポマード兄いがさかんに奏でるほど。近江は73歳で没。