2011-06-05

駒中の話9

ラジオにかじりついて音楽を聴いた。そのうち歌謡曲より小坂一也に興味を持つようになり、ウエスタンという曲種があるのを知る。つまりアメリカの民謡だ。小坂一也に導かれるようにウエスタンを唄った。抑揚に独特なものがあり、これがアメリカの風だと思った。ハンクウイリアムスは泣き節といわれるほどに、男心の泣きを言う。偽りの心は何度聞いても心に刺さる。日本で言えば森進一、声の調子はまったく違うが、この曲にはしびれた。この男は昭和28年に29歳で死んだ。
しかし、小坂一也はウエスタンからロカビリーへと流れる。時代がアメリカ民謡からリズムの激しいものに変化していた。
日劇は毎年2月がヒマ、そこを埋めようとナベプロの渡辺美佐が1958年に「ウエスタンカーニバル」を開催、これに若い娘が押しかけてワイワイきゃあきゃあ、それを見た評論家の大宅壮一が、あんなところで騒いでいる娘の親の顔が見たい。ところが、その大宅の娘がそこにいた。それが映子、白髪頭でテレビに出てる。我々より三つ下。駒場高校へ進学した人は知っているはず。
ロカビリーは元はウエスタンであったことの証明がこれ、日本では小坂一也の動きと軌を一にする。このカーニバルにキンゴロウの倅が出た。それが山下敬二郎、ミッキーカーチスなどといい加減な歌を適当に唄っていたもんだ。そこから平尾昌明など実力派も誕生し、和製ポップスの火がチョロチョロと点き始める。
昔はアチャラカの歌を真似して唄っていた。それでもテレビやラジオが取り上げた。早いもの勝ちの世の中、デーオの浜村美智子はカリプソ娘、時代は日本人が日本語で自分たちの心を歌い上げる方向へと少しずつ変わっていった。
その流れに乗り切れず小阪一也は相変わらず腹の出たのをギターで隠し、ウエスタンやロカビリーを唄っていた。若者からは遠くなり、中年・老年の懐かしの番組でお茶を濁した。
時代の潮先から落ちこぼれ、波は渚めがけてまっしぐら、それに乗れずに落ちて、ポチャポチャと次の波を待つ間に、次第に老いぼれて泳ぐ力も失せてしまうのだ。
時代の先端をまがりなりにも走った人々、我々のように先端にも出れず、それをただ星の如くに見上げて人生を終る庶民、これが楽しいんだ。可もなく不可もないような人生だが、落ち目になった悲哀を味わうこともないが、絶頂もしらない。それでも毎日ワイワイ騒いだ。山内君は自分のラジオを持っていた。彼は無線に興味を持ち、竹棹を立て電波を拾っていた。大きな家で養鶏場を経営、その臭いのはたまらなかったが、広島君の家の前、そこに出かけて電蓄をかけた。ヤマコウというあだ名で、精悍な顔つき、ひとえまぶたが薄情にみえた。この人が陸上の長距離をやらせると敏捷に飛ぶ。須山君や原君、水上君などがいい走りをした。一学年上に萩原さんがいて、この人の走りは凄かった。この人が一緒に走ろうと誘うのが玉井君、色あさぐろくスポーツマン丸出し、この人が萩原さんを負かすような走りをする。それだけに萩原さんが珍重したのだろう。
ヤマコウは石原裕次郎にいかれていた。格好がいいよな、オレ似てるかなと本気のような冗談のような話をした。そして、レコードを擦り切れるまで廻した。
ヤマコウはロックンロールにも興味を示した。バルコニーに座ってのエディーコクランはいいと、鼻歌を唄った。
そのエディーはアメリカでロカビリーの熱が冷めイギリスに渡り交通事故で死んだ。21歳だった。ヤマコウも交通事故で死んだ。谷先生らと渋谷で逢ったあとだそうだ。いい奴だった。二十歳代だったろうか。