2011-04-03

上馬の思い出4

美空ひばり
昭和12年横浜生まれの美空ひばりが売れ出したのは昭和23年、川田晴久が横浜国際劇場公演に使ったのが初め。川田晴久は川田義雄と名乗り、吉本興業であきれたぼーいずに参加、この人は東京根津の印刷屋の倅、テノールの美声、ぼーいずというのは楽器を持って登場し、こ洒落た文句を随所に入れて笑いをとるボードビリアン(寄席芸人)、伝統の落語・浪曲とは違うアチャラカで浅草がこの本場。
こうした芸能に詳しかったのが生駒さん、彼の家には講談全集があり、その面白さにひき込まれた。生駒さんの家は染物屋で熱海湯の前にあり、大きな家だった。染物は天日に曝すため、雨が苦手、そのため雨になると染物の反物をしまいこむ、それが屋根つきのひっぱりこみ。
学校の渡り廊下のようなもので、雨天でも遊べるガキ共の遊び場になった。生駒さんの店には長いカウンターがあり、そこに反物を拡げて染め具合を調べていた。大きなガラス戸があり、下半分が曇りガラスになっていた。
生駒さんの家には伝統の文化の臭いがあった。染物は着物、講談全集は芸能、また、道中差しが一本あった。これは幕末に武士ではない博徒や旅をする素人も持ったそうだ。大刀ほど長くなく脇差より長いものだ。
同様に刀があったのは米屋の松の木精米店、ここは中村さんと言う豪商の家、玉電通りにあった。いつもにこにこした痩せたお父さん、それから頭に丸い饅頭を載せた髪型のお母さん、この人は優しい人だった。見ている私らガキ共にも、「うちのクニオちゃんと遊んでくれてありがとう」と声をかけてくれた。
生活にゆとりがあったからだろう。実に品のいい笑顔の絶えない人だった。そんな中村さんのお父さんが亡くなった。
長男は青山学院に行っていたエイチャン、姉がソノコさん、ヒロシさんとクニオさんと4人兄弟だった。エイチャンはラグビーの選手だった。敏捷な体つきでいつもラグビーボールを抱えていた。私らには凄い兄貴分に見えたもんだ。
生駒さんのひっぱりこみの隣が白鳥さんの裏にあたり、空き地になっていた。晴れるとそこで何ということなしに遊んだ。
痩せたひょろひょろしたクルミの木が一本生えていた。三角ベースで野球をしたのを思い出す。毎日遊ぶのが仕事だった。自分のことしか考えていない。誰しも子供は皆同じだ。時代がどのように移ろうとも、自分のことだけ考えている時間は楽しいもんだ。長じて学校や勉強、就職に仕事と面倒なことが波のように襲ってくる。
それも定年退職した今となると、昔のあの子供の頃と同じで自分のことだけ考えていればいい。少し違うのは、あの頃は銭がなくても面白かったが、今は銭がないと時間つぶしができない。でも、これも発想の転換で図書館やゲートボールで遊べば、銭なくしても楽しめる、でも大きく違うのは木登りが出来ない、走れないと肉体の衰えが我が身の歳を教える。めっきり皺と白髪が増えたもんだ。
エイチャンにねだって空き地でラグビーボールを蹴ってもらった。蹴れば改正道路まで飛ぶといわれた。拾いに行くからと渋るエイチャンに更にねだった。
エイチャンが蹴った。ボールはすぐに見えなくなった。生駒さんの屋根を飛び越えた。皆でボールを探しに行った。熱海湯の前にボールはあった。
エイチャンはぼくらの英雄になった。エイチャンは美男子で鼻筋の通った人、弟のヒロシさんも白人のような鼻筋が高かった。一番下のクニオさんも男前だった。一人娘のソノコさんも宵闇に咲く月見草のような風情があった。
中村一族、松の木精米店、いつも玄米を精米するさらさらという音が店内に響いて活況を示していた。
それが小泉総理の時に規制緩和で誰でもが米と酒を売ることができるようになり、酒屋と米屋は金持ちの代名詞から廃業店へと変えさせられた。
世の中は悪くなっているのではないのだろうか。
我々は孫子に誇れる町を引き渡しているのだろうか。
生駒さんのタケちゃんは芸能に詳しかった。兄さんがいてカズオさんと言った。中学に入って猛勉強し青山高校に進学した。タケちゃんの家にある画報で世の中のことが少しずつ判った。美空ひばりのことも川田晴久のことも教えてもらった。
川田晴久の「地球の上に朝が来る」は浪曲の文句を真似したんだと言われて、ヘー、浪曲の三味線がギターにとびっくりした。ラジオから流れる川田の声に耳を傾けた。
蜂ぶどう酒が提供のラジオの時間をエーイ楽しみにと言う文句に、なるほどタケちゃんが言う通り、これは浪花節だと思った。