2011-04-28

上馬の思い出23

ドリアンの隣に貸し本屋ができた。ドリアンは二階建て長屋で、貸し本屋に貸した家にはノブ公という子供がいた。この貸本屋で怪人二十面相などの本を借りた。貸し本屋で食える時代があった。この貸本屋は兄弟で経営していて、弟は早稲田大に行っていたが、ほどなくして死んだ。その後、この本屋はカメラ屋に商売替えをした。カメラなど高価で高値の花だった。その並びにオグラ時計店があり、若くて元気な兄弟がいたように思う。そこでレンズを買って望遠鏡を作ったことがあった。
この家に嫁いだ美人がいて、島村イクコと言った。三人姉妹の二番目、関西から移転してきて、私の家で姉妹三人が働いていた。その二番目は卓球が上手く和泉屋の先、デカシさんの近くに卓球場が出来て、そこに遊びに来たオグラ時計店の若い経営者と知り合い結婚した。私が中学二年生の頃だった。
合縁奇縁の言葉があるが、人生はちょっとした出会いで人生が大きく変わる。良きにつけ悪しきにつけだ。このオグラ時計店は現在でも上馬に存在し、昔より大きく立派になったような気がする。一度も訪ねたこともないが、長い風雪をくぐりぬけて現存することは立派としか言いようがない。時代は激しく移り変わり、昔の子供も今は老人となった。色々なことを見聞してきたが、時代は少しも休むことなく変化を繰り返して見せる。これもまた不思議なものだ。
オグラ時計店の並びに松の木瀬戸物店があった。やる気のない姉妹が経営していたが、ある日店じまいをした。その並びに毛塚の今川焼き、赤井おもちゃ屋、その店のおばあさんは赤井花子と言った。そして進藤肉屋になり野沢商店街へと切り込んで行った。野沢商店街には大場金物屋があり、釘から鍋釜と種々雑多なものが並んでいて、見ているだけでもめまいがしそうだった。今のようにホームセンターで何でも自由に見たり触ったりができる時代ではなく、店員に○○が欲しいというとそこに案内してくれた。釘などは目方で売っていた。大塚という洋品店、旭デパートだかマーケットが出来て、その二階に大坪というボディービル道場があった。そこには相撲の鳴門海が来たことがあった。力道山のプロレスブームが世の中を大きく変化させた。
ともかくプロレスが見たかった。玉電通りの千田歯科医の近くにそろばん塾があり、そこにテレビがあり、通ってもいないのにプロレス見たさに押しかけた。シャープ兄弟と力道山の試合はラジオじゃわからない迫力があった。柔道の木村との戦いも凄かった。ともかく、聞く楽しさもさることながら、見たいという欲求のほうが強かった。石橋酒店の街頭テレビには多くの人が詰め掛けた。昔は今のように四六時中テレビは放映されていない。昼などはテレビは見れなかったもんだ。
その街頭テレビを置いている石橋酒屋に同い年の子供がいて、言葉が不自由だった。それでも運動神経は敏捷で走るとやたら早かった。改正道路で軍艦ごっこなどをやると、ルールも理解して巧みだった。何か喋ろうとすると、吐くようにウングと言ってからパーと続けるので、皆がウガパーと呼んだ。彼もまたそれに反応して振り返ったので、耳は機能していたのだろう。ある日、彼と遊ぼうということになり、あたりを探したが見当たらない。家にいるのじゃないかと、酒屋に入り込み、店番の母親にウガパーいる?と聞いたら、「まあひどい、うちの子は○○という名前があるんです」とひどく強く言われた。泣きそうな顔をして言ったところを見ると、本気で怒ったのだろう。しかし、ウガパーはウガパーだと気にもしなかった。駒沢中学に宇佐美という焼き過ぎた黒パンのようなでかい顔をした国語の教師がいて、聾学校の教師になりたかったが、頬がふくらんでいると、生徒が頬の動きで言葉を察するので、不向きだと採用されなかった話を聞かせた。その時に、聾学校に入ると最初に子供を椅子に座らせ、顔を上に向かせて口に水を注ぎ込む、すると苦しくなって、ウガという、そして、その水をパーっと吐き出す。言葉は口から空気を出す訓練の第一歩がウガパーだと言った。なるほど、それでウガパーだったんだと理解した。
そのウガパーの店の横に空になった味噌樽が並んでいて、冬の寒い日は、それに入り込んでヘリについた味噌を舐めた。するとウガパーが我々を酒屋の物置に連れて行った。袋の破けた塩や砂糖などがあり、塩は舐めなかったが砂糖は舐めて残りはポケットに入れた。横に缶詰があり魚の絵が描いてあった。それは缶詰が太っていてはちきれそうになっていた。よほど美味い物が入っているんだろうと、松ノ木精米店のヒロシさんに言うと、それは腐っていて中にガスが溜まっているから食うと死ぬぞとおどかされた。食べなくてよかったと思った。ウガパーは長じてワイシャツの店を経営したと聞いた。