2011-04-02

昭和30年ごろの三茶商店街7


斉藤米屋からカトータイヤまで

上馬の思い出3

上馬は上馬引き沢の上の二字を読んだもの。下馬も同じく下馬引き沢、駒沢、駒留など馬に由来する名前が多い。駒留神社は八幡太郎義家が馬を留めたからと伝えられた。駒繋神社も同様だそうだ。私ら子供はカミンマ、シモンマと読んだ。
歩ける範囲が冒険の場で蛇崩川は格好の遊び場だった。
環七になった改正道路は上馬駅から野沢に向けて狭くなった。野沢は商店が稠密した賑やかなところだった。野沢の入り口に旭橋交番があった。
野沢の商店街は龍雲寺にかけて左側がドブ川で、商店に入るにも橋を渡るようになっていた。その一つが旭橋だった。旭橋交番の隣は津軽青果で唐牛という人が経営したいた、東京には珍しい名だが津軽に行くと結構多い名だ。からうしともかろうじとも呼ぶ。かみんま、しもんまの類だ。
紅いりんごが店頭に並び季節を明るく映し出していたが、一個幾らのりんごはとても高くて買えなかった。一山○円しか買ったことがなかった。
上馬駅は安全地帯がなかった。三茶駅の玉川寄りにも安全地帯はなかった。今思うと随分と危険だが当時はそれが当たり前だった。
野沢の入り口に進藤という肉屋があった。白い上っ張りを着たおかみさんが汗を流して働いていた。ひき肉が出てくるのが面白くていつも眺めていた。どうっていうことでもないが、子供にとっては面白かったのだ。忙しい店で夕方になると買い物客で行列を作った。
改正道路の入り口は左に小島屋という呉服屋、大きな店で隆盛を極めた。右の角が石橋酒店、ここも大きな店で後年、ここに街頭テレビが置かれプロレスが見れるようになった。
当時はラジオがあったが、紅孔雀も笛吹き童子も面白かったが聞くより見る喜びの方が大きかった。
人間の欲望は子供でも大人でも同じだ。改正道路には栃の木の並木があり、そこに上って遊んだ。その木に大人の親指の太さもある毛虫がわく。そんな毛虫とも遊んだ。なにしろ遊べるものなら何でもいい。秋になると栃の実がなったが、食べられないと教わったが縄文人はこれをすりおろしてアクを抜いて食べたそうだ。
石橋酒屋の隣は日の丸薬局、ここには美人のベティさんのような朗らかなおかみさんがいた。戦争未亡人だったような気がした。ここに美人姉妹がいて加納さんと言ったと思う。妹の方が浜畑賢吉さんと中学校で同期だと思うが定かでない。ここの娘が連れ立って歩くと野原に一斉にたんぽぽの花が咲いたような華やかさがあった。
この日の丸薬局はエスエス製薬の薬を売っていた。野沢には大正製薬の薬屋があり、値段は高いが大正製薬の方が効くと言われた。
日の丸薬局の脇に横丁があり、磯崎さんの家の方に続いた。その角にあるのが熱海湯で片田さんが経営していた。郵便夫が我々ガキ共に聞いた。この家何処だか知らない?
熱海湯が片田さんとは我々ガキ共は知らなかった。風呂屋は熱海湯で片田さんとは知らない。子供はそんなもので知らなくとも何の痛痒もなかった。犬と同じで見えるもの、触れるものが全てだった。