2011-04-29

上馬の思い出24

渋谷行きの玉電の停留所前に西沢という本屋があった。石橋酒屋、ウガパーの家の隣だ。二子玉川を昨今の人はニコタマと呼ぶそうだ。玉が二個とはどっかで聞いたような話だとニヤリ、玉川は多摩川でもあり丸子多摩川の呼称もある。この呼び名を解明した者はなく、なんとなくそうだというだけ。二子塚というのがあったからなどの話もあるが不明。
その昔、玉電はジャリ電と呼ばれたと三茶小の三上先生がいわれた。私も玉電が貨車を曳き、砂利を運搬していたのを目撃した。二子玉川から砂利を採取したのだろう。小学生のころは二子玉川に行くなと言われた。業者が砂利を採取し、穴をそのままにして、子供がその穴にはまって死ぬ事故が絶えなかった。
西沢書店のおかみさんはズケズケ物を言う人で、立ち読みしていると、子供は汚い手で本を見るなと叫ぶ。イヤなばばあだと思っていた。追われてももどる五月蠅のように、それでも西沢書店には通った。なにしろ、手塚治虫のマンガが見たくてたまらなかった。マンガの上手な勝比古さんは巧いだけではなく、マンガ界についても詳しかった。イガグリ君というマンガが、これは大ヒットすると第一回が出た時に予言した。作家は福井英一、この人はすぐに亡くなった。イガグリくんは柔道漫画、そして、後年少年たちの血を熱くした、あの名作「赤胴鈴之助」の剣道漫画の第一作を描き急逝、わずか33歳だった。
その後を引き続いて描いたのが武内つなよし、この人は赤胴で売れっ子作家になった。福井は東京都の産、惜しい才能だった。スポコン漫画(スポーツ根性)の元祖。
勝比古さんは自分が漫画をかくだけでなく、漫画界にまでアンテナを広げていたのは、漫画家を目指していたのだろう。ところが、自分の好きなことで生涯を送れるものは少ない。この勝比古さんも漫画界に投じた話を聞かなかった。これも惜しいことだった。
さて、二子玉川で子供が砂利採取の穴に落ち込んで死ぬと書いたが、この西沢書店の子が友達と二子玉川にでかけ、その子が見えなくなったので一人で帰ってきた。その子は死体で見つかり、その母親が嘆いて、店番をしている嫌なおかみさんに電話をかけてきた。丁度、そこへ立ち読みにでかけた。長電話でおかみさんが叩きをかけにこないので、いい塩梅だと漫画を見ていたが、次第に電話の応対が急を告げてきたので、今度は漫画そっちのけで耳が次第に大きくなった。おかみさんは自分の子どもは悪くないと自己弁護、ところが命を失った方は治まらない。日頃、我々悪ガキを叩きを持って追い回すにっくきばばあがやりこめられているので、それは痛快至極、日頃の溜飲を大きく下げた。それでもにっくきばばあは自己正当を繰り返していたが、誰の目にも非があった。
その西沢書店も今は無くなってしまった。新刊本はインキの臭いが店内に充満し、これが文化の匂いだと思った。