2011-04-07

上馬の思い出8

フタバ電気のご主人はワカセさんと言って昔は憲兵だった。長男のケンイチさんが父の憲兵手帳を持ち出して、それを眺めておそれいった。子供心に憲兵は恐ろしかった。巡査も悪い人間を捕まえるので恐ろしかったが、大人からそんなことをするとおまわりさんに連れていかれるからと言われていたのが身に染みていたのだろう。
どのみち、子供のすることだから大したことではないのだが、こうした記憶が心の底にあるから、何とか生きてこれたような気もする。
そのワカセさんに昔の仲間の憲兵が尋ねてきたことがあった。やはり目つきの鋭い人だった。ワカセさんの女房、つまりケンチャンの母はビックリするほどの美人だった。グラビアの写真でもあんな美人はいまだに見たことが無い。この美人は松の木精米店の隣の和泉屋というパンや和菓子を作る店から嫁ついできた。
このパン屋は美人美男の塊だった。私より一つ上に女の人がいたが、この人も綺麗だった。宝塚にも出れるほど、三茶小の同級生に中西ヨシオさんがいたが、この人の姉が宝塚に行かれた。その人より和泉屋姉妹は美人ぞろいだった。
人生はチョットした縁、つまづく石も縁の端なんて言い方もあるけど、和泉屋姉妹が芸能界に縁があればきっとピンクレディーよりも凄かったろう。
その美人のワカセさんのかみさんは美人薄命で若くして亡くなった。背が高くてすらっとしていて、今でもその容姿を思い浮かべることができる。
玉電通りを上馬の改正道路から三茶に向かって記すと、角が小島屋、国太床屋、根岸酒屋、自転車屋、上馬メトロ(映画館)、松の木精米店、そして和泉屋となる。
小島屋は呉服店、娘さんが同級生だった。カヨちゃんという名だったと思う。夏になると団扇に浴衣で隣の国太さんとの間の通路で夕涼みをしながら線香花火をしていた。大人しい女の子だった。
国太さんの家にはタケシさんという一つ上の人がいて、この人は運動神経抜群で空中回転、つまり歌舞伎で言えばトンボウをきることができた。弟のタモツさんも同様に機敏。物静かだが、なかなかきかない兄弟だった。でも、好んで喧嘩をするような人ではなかった。国太さんは小金井に引っ越された。床屋の親爺さんは恰幅のいい人、人付き合いもよく如才ない、もっとも床屋で愛想のないのは好まれないが。
床屋の親爺は黙って頭を刈るタイプと何だか訳のわからないとりとめのない話をする人もいる。国太の親爺さんは後者で、ある日、浜畑賢吉さんと同級の高原さんのお父さんが国太床屋に行ったと思いなさい。
「旦那、最近面白いことを私が始めましてん、結構、これが楽しいんでネ」
「何ですか、それは」
「ええ、旦那もご存知でしょ、チンチロリン」
「それは知らないな」
「丼ばちにサイコロを入れてチンチロリンて音がしてね、それで勝負するんで」
「ホー、それがおもしろいんですか」
「面白いもなにも、病み付きになりますよ、どうです旦那も」
「いやあ、それは結構ですよ」
「そうですか、そりゃ残念ですな、ところで旦那のご商売は?」
「え、うん、警察官です」
「だは、今のはご内密に願います」
嘘のような本当の話だ。子供のころ聞いた話だがいまだに忘れない。
商店街の人たちが仮装行列ならぬトラックの荷台に菊人形ならぬ人間人形で、街中を流して歩いたことがあった。上馬には駒沢寄りに神谷という布団屋さんがあった、その娘さんが一級下で駒中で共に学んだ。利発な娘さんだった。眼がきらきらと輝いていた。野沢の商店街に庄司布団店があり、その主人が菊人形ならぬ人間人形で、お富さんの与三郎を扮してトラックの上で見得を切った。顔は三木のり平が眼鏡を外したようだった。
それでも結構義理の拍手を貰っていた。辻辻に知り合いでもいたのだろう。そのトラック行列も遠く霞んで消えた。あの頃の元気な商店主たちも皆滅びたことだろう。遠く霞んだトラックのように、二度と戻らないのがあの頃。