2011-04-30

上馬の思い出25 ラジオの話1

中野義高さんはメイド・イン・タモツのことを覚えていたが、ただ、タモツという子がいたとしか記憶になく、メイド・インの名は知らないという。メイド・イン・ジャパンの言葉をタモツが英語にあこがれて勝手につけたのだろう。そして、子分にメイド・インと呼べと命じたのかもしれない。こ改正道路は広くて快適だったらしく、待田 京介(日活俳優)がオープンカーで上馬から若林に向かって走り、中野さんの家の反対側が毎回テレビのオープニングシーンに使われたことがあった。待田は空手の大山倍達の一番弟子、触ると切れそうな顔をした役者、それが探偵だかの役で改正道路を疾駆する。当時としては珍しいほどの良い道路だったのだろう。
テレビのプロレスにしびれたのは大人ばかりでなく、我々悪ガキも同じで、生駒さんや勝比古さんは詳しく、ルーテーズ、コワルスキー、シュナーベル、プリモカルネラなどの外人レスラーも頭に入っていた。何と言っても力道山の空手チョップが凄かった。黒のタイツで格好もよかった。レフリーの真似をして友達同士でプロレスごっこが大流行だった。
プロレスに人々が集まる街頭テレビも、その他の時間はまるで閑古鳥だった。そんな時間に流れていたのが第二次世界大戦の記録映画、ナチスが負けて日本が降参する話で、見ていて面白いわけもない。このころアニメの広告が開始になった。パール歯磨きは昭和28年に資生堂が売り出した。歯ブラシに半分つけてが売り文句、泡が出るのが人気となり結構売れた。野沢の商店街に八百屋があり、大場金物店の側だったと思うが、ここに小さなテレビがあり、皇太子(今上天皇)が外国に船ででかけるシーンを放送していた。ここのテレビは時代の先取りで、ヘーエーとびっくりした。それから石橋酒屋の街頭テレビとなる。読売新聞の社主、正力松太郎が民間放送のテレビの生みの親、電通に吉田という社長がいて、民間放送ラジオをやらないかと正力に話を持ちかけると、正力はラジオよりテレビだと、その話に乗らなかった。
平成の御世になり東日本大震災が発生、関東大震災がおきたときには日本にラジオ放送はなかった。ために、流言蜚語で朝鮮人が井戸に毒を入れたと、自警団が朝鮮人狩りを行い、多くの人々が裁判もなくリンチにあった。この流言蜚語の元は正力松太郎であった。当時、彼は警視庁に勤務し警視庁も灰燼に帰す中、一部朝鮮人に不逞な動きありと策動し朝鮮人虐殺のもといになる発言をした。これが、電話で伝わり軍、警察関係から情報が流され大虐殺事件となった。
今となっては陳腐化したようなラジオメディアではあるが、この登場期は文明の利器の最先端、高価なものであった。このラジオは第一次世界大戦が終了した大正九年、アメリカ、ペンシルベニア・ピッツバーグで世界初のラジオ局、KDKA局・民間放送が開始になった。当時、真空管メーカーのウエスティングハウス社が、戦争が終って軍に納入していた無線機用の真空管が大量に余ってしまった。戦争中は前線の兵士との連絡に、無線機が使われ、その便利さに着目した軍が無線機製造に力をいれたが、終戦でこれが不要、メーカーのウエスティングハウスは頭が痛い。すると、その会社にいたコンラッド技師が、第一次世界大戦で禁止されていた、アマチュア無線局を再開、世の中平和になったんだから、無線機で方々の人とおしゃべりを楽しもう、世の中、どこにでもこうしたヒョウキンな人がいるもんで、この男のお喋りが、軽妙で頓知にたけており、時宜にあった話が評判となり、次第に多くの人に聞かれるようになった。これがラジオメディアの始まりで、わが国には大正十四年三月二十六日、日曜日午前九時三十分、温度六度五分と少々肌寒い東京上空に電波が発射された。国民が同じ情報を同時に共有する幕開け、関東大震災の二年後だった。続

2011-04-29

上馬の思い出24

渋谷行きの玉電の停留所前に西沢という本屋があった。石橋酒屋、ウガパーの家の隣だ。二子玉川を昨今の人はニコタマと呼ぶそうだ。玉が二個とはどっかで聞いたような話だとニヤリ、玉川は多摩川でもあり丸子多摩川の呼称もある。この呼び名を解明した者はなく、なんとなくそうだというだけ。二子塚というのがあったからなどの話もあるが不明。
その昔、玉電はジャリ電と呼ばれたと三茶小の三上先生がいわれた。私も玉電が貨車を曳き、砂利を運搬していたのを目撃した。二子玉川から砂利を採取したのだろう。小学生のころは二子玉川に行くなと言われた。業者が砂利を採取し、穴をそのままにして、子供がその穴にはまって死ぬ事故が絶えなかった。
西沢書店のおかみさんはズケズケ物を言う人で、立ち読みしていると、子供は汚い手で本を見るなと叫ぶ。イヤなばばあだと思っていた。追われてももどる五月蠅のように、それでも西沢書店には通った。なにしろ、手塚治虫のマンガが見たくてたまらなかった。マンガの上手な勝比古さんは巧いだけではなく、マンガ界についても詳しかった。イガグリ君というマンガが、これは大ヒットすると第一回が出た時に予言した。作家は福井英一、この人はすぐに亡くなった。イガグリくんは柔道漫画、そして、後年少年たちの血を熱くした、あの名作「赤胴鈴之助」の剣道漫画の第一作を描き急逝、わずか33歳だった。
その後を引き続いて描いたのが武内つなよし、この人は赤胴で売れっ子作家になった。福井は東京都の産、惜しい才能だった。スポコン漫画(スポーツ根性)の元祖。
勝比古さんは自分が漫画をかくだけでなく、漫画界にまでアンテナを広げていたのは、漫画家を目指していたのだろう。ところが、自分の好きなことで生涯を送れるものは少ない。この勝比古さんも漫画界に投じた話を聞かなかった。これも惜しいことだった。
さて、二子玉川で子供が砂利採取の穴に落ち込んで死ぬと書いたが、この西沢書店の子が友達と二子玉川にでかけ、その子が見えなくなったので一人で帰ってきた。その子は死体で見つかり、その母親が嘆いて、店番をしている嫌なおかみさんに電話をかけてきた。丁度、そこへ立ち読みにでかけた。長電話でおかみさんが叩きをかけにこないので、いい塩梅だと漫画を見ていたが、次第に電話の応対が急を告げてきたので、今度は漫画そっちのけで耳が次第に大きくなった。おかみさんは自分の子どもは悪くないと自己弁護、ところが命を失った方は治まらない。日頃、我々悪ガキを叩きを持って追い回すにっくきばばあがやりこめられているので、それは痛快至極、日頃の溜飲を大きく下げた。それでもにっくきばばあは自己正当を繰り返していたが、誰の目にも非があった。
その西沢書店も今は無くなってしまった。新刊本はインキの臭いが店内に充満し、これが文化の匂いだと思った。

2011-04-28

上馬の思い出23

ドリアンの隣に貸し本屋ができた。ドリアンは二階建て長屋で、貸し本屋に貸した家にはノブ公という子供がいた。この貸本屋で怪人二十面相などの本を借りた。貸し本屋で食える時代があった。この貸本屋は兄弟で経営していて、弟は早稲田大に行っていたが、ほどなくして死んだ。その後、この本屋はカメラ屋に商売替えをした。カメラなど高価で高値の花だった。その並びにオグラ時計店があり、若くて元気な兄弟がいたように思う。そこでレンズを買って望遠鏡を作ったことがあった。
この家に嫁いだ美人がいて、島村イクコと言った。三人姉妹の二番目、関西から移転してきて、私の家で姉妹三人が働いていた。その二番目は卓球が上手く和泉屋の先、デカシさんの近くに卓球場が出来て、そこに遊びに来たオグラ時計店の若い経営者と知り合い結婚した。私が中学二年生の頃だった。
合縁奇縁の言葉があるが、人生はちょっとした出会いで人生が大きく変わる。良きにつけ悪しきにつけだ。このオグラ時計店は現在でも上馬に存在し、昔より大きく立派になったような気がする。一度も訪ねたこともないが、長い風雪をくぐりぬけて現存することは立派としか言いようがない。時代は激しく移り変わり、昔の子供も今は老人となった。色々なことを見聞してきたが、時代は少しも休むことなく変化を繰り返して見せる。これもまた不思議なものだ。
オグラ時計店の並びに松の木瀬戸物店があった。やる気のない姉妹が経営していたが、ある日店じまいをした。その並びに毛塚の今川焼き、赤井おもちゃ屋、その店のおばあさんは赤井花子と言った。そして進藤肉屋になり野沢商店街へと切り込んで行った。野沢商店街には大場金物屋があり、釘から鍋釜と種々雑多なものが並んでいて、見ているだけでもめまいがしそうだった。今のようにホームセンターで何でも自由に見たり触ったりができる時代ではなく、店員に○○が欲しいというとそこに案内してくれた。釘などは目方で売っていた。大塚という洋品店、旭デパートだかマーケットが出来て、その二階に大坪というボディービル道場があった。そこには相撲の鳴門海が来たことがあった。力道山のプロレスブームが世の中を大きく変化させた。
ともかくプロレスが見たかった。玉電通りの千田歯科医の近くにそろばん塾があり、そこにテレビがあり、通ってもいないのにプロレス見たさに押しかけた。シャープ兄弟と力道山の試合はラジオじゃわからない迫力があった。柔道の木村との戦いも凄かった。ともかく、聞く楽しさもさることながら、見たいという欲求のほうが強かった。石橋酒店の街頭テレビには多くの人が詰め掛けた。昔は今のように四六時中テレビは放映されていない。昼などはテレビは見れなかったもんだ。
その街頭テレビを置いている石橋酒屋に同い年の子供がいて、言葉が不自由だった。それでも運動神経は敏捷で走るとやたら早かった。改正道路で軍艦ごっこなどをやると、ルールも理解して巧みだった。何か喋ろうとすると、吐くようにウングと言ってからパーと続けるので、皆がウガパーと呼んだ。彼もまたそれに反応して振り返ったので、耳は機能していたのだろう。ある日、彼と遊ぼうということになり、あたりを探したが見当たらない。家にいるのじゃないかと、酒屋に入り込み、店番の母親にウガパーいる?と聞いたら、「まあひどい、うちの子は○○という名前があるんです」とひどく強く言われた。泣きそうな顔をして言ったところを見ると、本気で怒ったのだろう。しかし、ウガパーはウガパーだと気にもしなかった。駒沢中学に宇佐美という焼き過ぎた黒パンのようなでかい顔をした国語の教師がいて、聾学校の教師になりたかったが、頬がふくらんでいると、生徒が頬の動きで言葉を察するので、不向きだと採用されなかった話を聞かせた。その時に、聾学校に入ると最初に子供を椅子に座らせ、顔を上に向かせて口に水を注ぎ込む、すると苦しくなって、ウガという、そして、その水をパーっと吐き出す。言葉は口から空気を出す訓練の第一歩がウガパーだと言った。なるほど、それでウガパーだったんだと理解した。
そのウガパーの店の横に空になった味噌樽が並んでいて、冬の寒い日は、それに入り込んでヘリについた味噌を舐めた。するとウガパーが我々を酒屋の物置に連れて行った。袋の破けた塩や砂糖などがあり、塩は舐めなかったが砂糖は舐めて残りはポケットに入れた。横に缶詰があり魚の絵が描いてあった。それは缶詰が太っていてはちきれそうになっていた。よほど美味い物が入っているんだろうと、松ノ木精米店のヒロシさんに言うと、それは腐っていて中にガスが溜まっているから食うと死ぬぞとおどかされた。食べなくてよかったと思った。ウガパーは長じてワイシャツの店を経営したと聞いた。

2011-04-27

上馬の思い出22

酒場ドリアンはどりあんと書いたのかも知れない。ともかく60年も前のことだけに、定かではない。玉電という路面電車がのんびりと走り、その両側に所々に商店が立ち並ぶ、ごく貧弱な町並みだった。渋谷から上通りにかけて玉電は専用軌道敷を爪先あがりに上る。大橋、池尻、三茶と続くわけだが、この廃線になった玉電の駅名を渋谷から二子玉川までいまだに言える。幼い頃に記憶は鮮明だが、年取ってくると昨日の晩飯がなんだったか忘れてしまうのも不思議。
あおの玉電の中心になる所から上馬の次が真ん中で真中(まなか)と言った。安全地帯などもなく、電信柱に赤い行灯看板に真中とかかれていた。雨が降るとジイジイと爺さんが恋しくて泣く孫のような音を立てた。また、良く雨が降ったもんだ。夏になると夕立が降って通る人を嘆かせたが、雨宿りをしたくとも改正道路にそんな洒落た店はなく、皆、ひたすら歩いたもんだ。夕立がやむと赤とんぼが湧くように青空を自由に飛び、悪ガキはそれを箒を持って追いかけた。とんぼなどどれほど採っても腹の足しにはならないが、それでも反射的に追いかけた。
玉電に乗って砧の池で釣りをしに行った。松の木精米店のヒロシさんは釣りが上手で、鮒などを釣り上げたが、私はいつも一匹も釣れなかった。真中に釣具屋があった。丸い東海林太郎のような眼鏡をかけた主人が客と釣り談義でもしているのか、客が絶えなかった。
そこで鮒をバケツに入れて売っていた。それを甕に入れて飼ったが、次第に大きくなり、甕が小さく見えるようになったが、その鮒をどう始末したのかは覚えていない。
釣りにはヒロシさんの外に勝比古さんも行った。砧の池で釣っていると、蛇がとぐろを巻いているのを見つけ、勝比古さんに教えた。青大将ではなくやまかがしだという、それを勝比古さんがつかもうとして噛まれた。毒はないかれ平気だと言っていたが、蛇を上手に扱えると思っていたのに噛み付かれてショックのようだった。
砧には二子玉川で乗り換えるのだが、そこから先は単線で歩いて行ったこともある。鉄橋を線路に従って歩くと途中に蛇の死骸があったりした。国太床屋のタケシさんが親戚が溝口にいるそうで、砧は隣村だけに良く知っていた。砧駅の前にワカモト製薬の社長のデカイ洋館があった。田圃が続くのんびりとしたところだった。
その田圃の横には狭い流れがあり、そこをボテという手に持つ網でガサガサとかき回すとどじょうや小魚が一杯とれた。それをタケシさんは得意にしていた。駒中のタンチ山に霞み網をしかけて小鳥をとっていた。霞み網はやってはいけないと言いながらとっていた。私はその後についていったが、一回も網にかかったのを見たことがなかった。タンチ山というのは昔、そこにタンチという乞食が住んでいたそうだ。今のホームレス、昔は山ごと自分のねぐらにしていたから、現今の駅の近くの通路に寝るのとは訳がちがう。乞食の名が山の名になるのだから大したもの。もっとも渋谷の道玄坂も道玄という夜盗・強盗の大和田太郎道玄の名からきたそうだ。昔の武士なんてのも押し借りゆすりは武士の習いというほどで、理屈ぬき理不尽なんてのは当たり前、土台、働かなくして飯を食うのだから、どこからか融通しなければ食えない。強盗などは朝飯前だ。
勝比古さんのドリアンは母親が経営、父親は裏で雀荘をやっていたが、小男で風采が上がらなかった。ところが世の中はどういうところか、この小男が若い女とできて駆け落ちしたと風の噂が伝えた。それは私が駒沢中学の二年生だか、三年の頃だった。勝比古さんは父親を見つけたら殺してやると、飛び出しナイフを持って歩いているそうだと友人が教えてくれた。色の道ばかりは道理や条理のつかないところで隠花のようにひっそりと妙な臭いと共に咲く。そんなことが判るようになるのは、それから十年もあとのことだった。勝比古さんの母親は急に老け込んだと、これも噂で知った。

2011-04-26

上馬の思い出21

メイド・イン・タモツ親分のおかげでセンミツと呼ばれた。千に三つしか本当のことを言わないという、つまり0.3%、子供の頃は紙芝居が来て、5円も持っていけば充分に何か買えた。紙芝居というとガマさん、明治大の夜間に行っている若い人、それとフライパンだった。紙芝居は下北沢の貸し出し元から借りて、自転車に駄菓子の入った引き出し、その上に紙芝居のセット、さらにその上に大太鼓を置いて、町の辻辻で、大太鼓を胸にかけて、叩いて近所を廻ると、どこからともなく子供が湧いて出る。
定番の黄金バットは人気がなかった。怖いのもあった。墓場から生き返って出て来るのなんかは夜中に小便に行くのが嫌だった。
紙芝居も読み癖があり、その口調に子供ながらも巧拙があると思った。明大生のは朗読調、ガマさんのは芝居風、フライパンのは軽演劇のような軽さとアドリブにあった。フライパンの持ってくる紙芝居は滑稽ものが多く、それが子供に受けた。フライパンは太鼓が買えないので代用品としてフライパンを叩いていた。それが故にフライパンという。フライパンの守備範囲は広く三茶のあたりまで廻っていたようで、アーチャンも紙芝居を見たという。このフライパンは酒癖が悪く、後年三茶で飲んでケンカをして目青不動のところで刺し殺された。目青不動は江戸の五不動の一つで目が青いからその名がある。もとは麻布谷町、今の六本木あたりにあったが、明治41年に三茶の太子堂に移転してきた。
フライパンはお調子者だったけど悪人ではなかったように思うが、それも子供の視点、本当のことはわからない。
刺されて死んだ話は後年、私の知り合いでそれをみた。大井町で質流れ品を販売していたアライさんはいつも黒い顔つきをしていて、何か不思議な感じがあった。私が東京質屋組合の手伝いをして、組合会報の連載を書いていたころ、アライさんの主人筋の上総屋のことを記した。そのときに城南の質屋の雄、上総屋の旦那と知り合ったが、このアライさんの店に泥棒が入り、多額な被害にあった。その保険金の請求を東京海上にしたが、敵はなかなか払わない。その交渉を依頼されかけあったことがあった。無事に保険金は支払われアライさんい感謝されたが、中国人の泥棒のようで、大井町あたりは物騒だった。セコムにも加入してアラームが鳴る装置もつけていたが、ある日、開店のシャッターを開けたら、中に泥棒がいて刺し殺された。このアライさんと同じ顔つきのコックを見たことがあった。アライさんと同じだな、きっとまがまがしいことが起きるぞと思っていたら、このコックの家が丸焼けになった。その後、このコックの顔つきから黒いのが消えた。不思議な経験をしたもんだ。それ以来、人相には特に気を配るようにしている。
さて、隣の家の電気屋の長男ケンチャンが玉電通りを改正道路に渡ろうとして車に撥ねられた。腕に大怪我を負った、撥ねたのは外国人だった。なんでも納豆を買いに行き、その帰りに撥ねられたという。野沢の通りに乾物屋が何軒もあった。新倉屋という乾物屋だと土屋さんが教えてくれるが、どうも、上馬から野沢へかけての商店が思い出せない。駒中の原君は家が近いので野沢の商店街の地図が書けるかもしれない。折があれば頼んでみたいものだ。その頃の野沢は改正道路から見ると狭く、せせこましい感じがした。若林の交番まで改正道路が広く、その先はまた狭まっていた。私の家はメリヤス屋で駒沢に鈴木という仲間がいた。そして若林の狭くなった通りの左側に北条というメリヤス屋も同業で知り合いだった。そこの長男が私より一つ上で、ボロ市で露天商の親分を刺し殺した。中学を出て間もなくだったような気がする。その頃は安藤組が渋谷で幅をきかせていた。子供をそそのかして相手を殺させるのは人非人のすることだ。フランスの詩人アラゴンはこういう、若者に教えることは希望を持たせること、学ばせることは誠実を胸に刻み込ませること。私たちも老人になり、若者のために今日一日、何か努力をしただろうか、そんな問いかけも大事、このブログも若い人の夢と希望を掻き立てられるもとに、少しでも役立てばと思って書いている。多くの三茶界隈を舞台とした話に時代を超えた何かを感じてもらえれば望外の喜び。どの道、好き勝手に生きても一生は一生、不幸だ、つまらないと思っても、これもまた一生、それなら、今日も楽しかった、今日も面白かったと笑って暮らせる人こそ、真の人生の王者だ。銭・金を超越したところにこそ、人生の本質があるのさ。

2011-04-25

上馬の思い出20 メイド・イン・タモツ後編

メイド・イン・タモツって変な名前の中学生がいて、洟垂れを子分にした。自分の弁当を子分に食わせて親分を気取った。三茶をシマだと言って中央劇場の裏あたりが原っぱだった。そこにラーメン屋台のリヤカーがあり、そこでシンチャンにストリップを強要した。音楽を担当させられ、私が歌を唄ったが勝比古さんの酒場ドリアンで聞いた外国の歌のメロディーを適当に唄った。ジョンウェインの黄色いリボンも、湯の町エレジーも歌ったが、シンチャンが雨が降るのに裸にさせられ、エンエンと声をあげて泣き出した。雨は音を立てて振り出した。すると近所のおばさんとおぼしき人が傘をさして通りかかり、「あらやだ、この子は裸になってどうしたんだろう」とシンチャンを覗きこんだ。得たり賢しとばかり、シンチャンが大声を上げて泣き出すと、おばさんはシンチャンに服を着せ始めた。
「なんで裸にしたの」とメイド・イン・タモツは叱られた。私が「ストリップやれってメイド・イン・タモツが言ったんだ」と告げ口すると、「嫌だね、子供のくせにもうそんなことを考えて、まったくロクなもんにならないよ」と言いながらすっかりシンチャンに服を着させた。「早く帰るんだよ」と言っておばさんは消えた。
シンチャンは泣きながら歩きだした。私もシンチャンの手を引いて雨の中を移動する。メイド・イン・タモツも仕方がないので後からノタノタとついてくる。中里へ向かう専用軌道敷まで来るとシンチャンは道がわかったのか、泣き声もたてなくなり、ただひたすら雨の中を上馬めざして歩く。また、専用軌道敷が切れて、天皇陛下のムチを作るデカシさんの家の前を通ると、シンチャンは自分の家の近いのを知って、声を上げはじめた。私とつないでいた手を放し、両手で双眼鏡を作り声を上げて泣きまねだ。目をふさぐと歩けないので双眼鏡を作って泣きまねしたのには利口だなと感心した。
和泉屋の角に来て、私は右に折れた、そのままシンチャンといると泣かせたと思われるのが嫌だった。メイド・イン・タモツが後ろから声をかけてきたが、知らぬふりで家に帰った。メイド・イン・タモツと一緒にいると何か悪いことが起こりそうな雰囲気だった。
私の家に交番の巡査が時折顔を見せ、四方山話を聞かせていた。祖母は太りぎみで余り外に出ない。そのため巡査の話をよろこんで聞いていた。そんな日、コロシがあってね、と耳寄りな話をはじめた。どこで、とか女なのかとか、私が口を挟むと、祖母は子供は外で遊べと私を追い出した。今聞いたばかりの話を生駒さんの家に駈けていって話した。するとタケヒサさんの兄のカズオさんが出てきて、「どこで」、「あっち」、「誰が殺した」、「ウーン」、「どこで、誰が殺したの」と詰められ、苦し紛れに「メイド・イン・タモツ」と言ってしまった。メイド・イン・タモツが殺すわけはないだろう、途端に嘘つき、センミツのあだ名を頂戴することになった。う・に・しの法則が小学校入学前の子供にもあてはまった。
これを言い出したのは警視庁捜査二課の刑事で、最近になって図書館で借りた本にでていた。犯罪者は必ずこのう・に・しの線をたどるそうだ。メイド・イン・タモツの家はパチンコの機械を作っていた。中野義高さんに確認したところ、間違いなくパチンコの機械が家の前に並んでいたという。昨今はパチンコ機械メーカーが大儲けをする。メイド・イン・タモツもその後、パチンコ機械を作っていたら大金持ちになったのかもしれない。パチンコ屋の前を通ると六十年も前のメイド・イン・タモツを思い出す。

2011-04-24

上馬の思い出19 メイド・イン・タモツ前編

三茶小で原田君が横山先生に廊下に立たされたとき、脱走をした話を記したが、これも立派な解決方法、人生は所詮、自分の気に入るようなものではなく、嫌だなと思うような方向に連れていかれるようなもの、まるで、子供の時に他所の家で食事に招かれたとき、嫌いな物が出る、嫌だから先に何とか口に押し込み、好きな順に食べ始めると、最初に食べた嫌いな物を皿に山盛りで出されたようなもの、余りおいしそうに食べているので、サア、どうぞで、泣きたくなるようなことだらけが人生だ。
そうしたとき、う・に・しの順が待ち受けるもんだ。先頭のうは嘘、追及されると誰でも嘘をいう、次が厳しく問い詰められると逃げる、最後のしは死だ。インドの諺にこんなのがある、立っているより座っているほうが楽だ、座っているより寝ているほうが楽だ、寝ているより死んだほうが楽だというけど本当か? 一度死んで戻ってきた奴がいないから、本当かどうかはわからない。
さて、上馬にメイド・イン・タモツって中学生がいた。学校に行きたくなくて、カバンを持って駒留神社の脇の公園や池の周りをウロウロしていた。私が小学校に入る前だった。生駒さんの隣の家が大平キエちゃんの家、この人は同級生だった。弟が二人いて、下の子はおかあさんにおぶさっていた。上の弟はシンチャンと言って、三歳か四歳だったろう、私のあとについて駒留公園のブランコで遊んでいると、メイド・イン・タモツが近づいてきて、「弁当を食わせてやる」という。喜んでシンチャンと一緒に駒留神社の木陰で弁当を食べた。また明日も来いヨ、弁当を食わせてやるからと言われ、翌日も食わせてもらった。おかずが少ししかなく、四角い弁当箱に飯がぎっしり詰め込まれていた。まだ、ほんのり温かかった。メイド・イン・タモツは原田君と同じように、学校に行くのを拒否して、公園でブラブラしていたのだ。
登校拒否のはしりかも知れない。試験がなければ学校ほど面白いところはないと思うが、学校が苦手だったのだろう。毎日弁当を食わせてもらっていると、メイド・イン・タモツがお前たち、オレの子分になれという。コブは食ったことあるけど美味くないというと、コブじゃない子分だ、オレが親分でお前たちは子分だという。何だかわからないけどウンというと、一宿一飯が仁義だから、お前たちは親分の言うことをきかなきゃいけないという、三宿は玉電の駅で三軒茶屋の先だけど、一宿はしらなかった。
お前たちと親分子分の盃を交わすから、あさって、オレの家に来いといわれた。メイド・イン・タモツの家は中野義高さんの斜め前の方にある。つまり、辻井水道工事屋さんの上馬駅よりだ。その家はパチンコの台を作っていたように思う。メイド・イン・タモツが公園で遊んでいる私とシンチャンを連れてタモツの家に行くと、小学校へ入る前の洟垂れが何人か並んでいた。家人は留守のようで、その留守を見計らって洟垂れを集めたようだった。六畳ほどの部屋の畳に座布団が敷かれ、上座にメイド・イン・タモツが座り、座布団の前におちょこが揃えてあった。タモツがそれを手にしろと告げて、そのおちょこにザラメを入れて廻った。タモツが入れて歩いている間に、それを舐めてしまった。皆、盃に酒が入ったなとタモツが言ったので、もう舐めたと私がいうと、しょうがない奴だと舌打ちしながら、もう一杯くれた。そして、揃いました、それでは固めの盃ですと言ってタモツが舐めて、皆も舐めた。舐め終わったのでさっさと帰ってきた。
「しょうがねえな、ザラメを舐めたら帰るのかよ」というので、お菓子はないんでしょと訊いてやった。ねえ、と答えたので帰る足が急に速くなった。
ある、雨が降りそうな日だった。丁度今頃の季節だったか、親分のメイド・イン・タモツが公園で子分の私とシンチャンに飯を食わせると、これからシマに行くと言い出した。シマって縦か横かと訊いたら、着物の柄じゃねえって力んでいた。メイド・イン・タモツのシマは三茶だという、ヤクザもんの話をどこかで仕込んできて、それを真似して、自分がメイド・イン・タモツ一家の大親分だと力んでいたのだろう。タモツは小柄だった。先頭に親分が歩いて、その後に私がヨタヨタ、シンチャンはヨチヨチ歩いていた。
何処をどう歩いたのか、三茶の裏にバクダンアラレを作っているところがあり、そこいら一帯は焼け跡のような感じで、屋台のリヤカーが何台も並んでいた。愚図っていた空がにわかに泣き出して、我々は屋台のリヤカーに潜り込んだ。板が敷いてありそこに大きな穴が空いていた。ラーメン屋台でもあったのか、釜をそこに嵌めこんだのだろうか、メイド・イン・タモツと私はその下にいて、シンチャンは上にいた。何を思ったのかメイド・イン・タモツがシンチャンにストリップをしろと命じて、私に歌を唄えという。勝比古さんのドリアンで覚えた青いカナリア、これもダイナショアの歌だ、これを唄うと、曲に合わせて一枚づつ服を脱げと三歳の男の子のシンチャンに言う。メイド・イン・タモツはどこでそんなことを覚えてきたのだろう。身体は小柄でもチンチンに毛でも生え初めていたのだろうか。続

2011-04-23

上馬の思い出18

酒場ドリアンには多くの客が来た。その中に来須野君の二階に下宿していた金子という玉電の運転手もいた。ドリアンではネコと呼ばれていた。指が太くてマージャン牌が小さく見えた。アルシャルマージャンだといっていた。これはマージャンの原点のようなもので、リーチマージャンとは違っているそうだ。毎晩飽きもせずにマージャンの客がきて、そのうち来なくなる。その人は借金が嵩んだためで、その借金は雀荘の主人、つまり、ドリアンが立て替えた。そのため、借金取りの仕事が勝比古さんい割り振られた。小学校へ入ったばかりの子供が借金取りに来るのだから、来られるほうはたまらない。なにがしかの金を握らせることになる。うまいやりかたに見えるが苦肉の策だったのだろう。もともと博打の金、請求できる筋合いでもないが、雀荘がほかになければ何とか都合しなければならない。勝比古さんも行き難いものだから私をさそった。行くと塩でもまかれそうな雰囲気のところもあった。それでもいつも一緒について回った。今でも借金取りに行った場所を夢に見る。博打の負けた金を払うのは嫌だっただろう。
博打は賭博と言う。賭博は博技と賭技に分かれる、博技は花札、マージャン、トランプなど自分が本気になってやる技、賭技は自分はしない、つまり競輪、競馬など自分は馬や自転車に乗って本気になって走るのではない。走る選手の一番、二番を当てるものを指す。両方一緒にして賭博行為という。床屋の国太の親爺がやっていたチンチロリンは博技で、国が博打を禁止したので違法行為になるが、ヤクザという商売があり、昔はこれで渡世していた人種がいた。彼等は賭場を開いて、そのカスリ、つまり掛け金の中から一定割合を開催料としてハネて残りを当てた人に分配する。一回ごとに計算をするため、相当に数字に強くないと勤まらないが、大学なんて行かない人がこれをやる。普段はぼんやりしているように見えても、博打場に入るといきなり顔つきが変わるような人もいた。神経が足の先から頭の先まで稲光しているような面構えになる。それでいて、普段は買い物してても釣銭を貰うのを忘れたりする。妙なものだ。
ヤクザの仕事を国が法律で奪い、自分たちが競輪場や競馬場を経営、宝くじも禁止しながら特定の銀行にさせる。矛盾だらけだが現実だ。こうした許認可には必ず裏があり、目こぼし料としてヤクザならぬ警官がカスリを取る。悪いことを助長するようなところが警察にはあり、どうも世の中は一筋縄ではいかない。時代が変り、子供のあそびだったパチンコが朝鮮人たちの手で遊戯となり堂々とパチンコ屋が乱立するようになり、これまた警察が介入し、警察とパチンコ屋の癒着を見る。さらに、パチスロなるものまで登場し、賭博行為はエスカレート、こうした賭博行為の横行の裏でヤクザ、正確に言えば博徒が生活の基盤を失った。ヤクザには二種類あり博徒と香具師、これはテキヤとも呼ばれタカマチで物を販売する。つまり行商人、タカマチと言うのは市で、全国の市日のカレンダーを売っているところもある。世田谷のボロ市なども大きなタカマチだ。
勝比古さんのモグリ雀荘もそれなりの面倒な借金取立ての作業があった。それでも客は入れ替わりながらも来て繁盛していた。そのマージャンの部屋にはガラスの箱に入れられた蛇がとぐろを巻いていた。青大将だという。それを勝比古さんは平気な顔で触っていたが、とても気持ちが悪くてさわれなかった。ある日、それが逃げ出して騒ぎになったが、二、三日したら、腹を大きくして台所のところで動かないのを見つけた。ネズミでも食ったのだろうと、吉田家は平気な顔、商売の神様だと、時折お神酒を飲ませていた。
勝比古さんのお父さんは昔ボクシングの選手だったそうで、グラブをつけた写真が何枚もあった。プロの選手だったというが、寡黙な人でめったに笑い顔を見せなかった。目が小さくて細かったが、女房はその逆で大きな目の人だった。勝比古さんはお母さんに似て目が大きかったが姉二人は父親に似ていた。
ある晩、ドリアンの店で皿の割れる音がして、客が怒鳴っていた。ドアを開けて、おかあさんが、「お父さん交番に行ってきてください、お客さんが乱暴しているんです」と声をかけた。お父さんは小柄だったが、頑丈そうな身体を起こして、直ぐにでかけようとした。木戸を開けて出ようとするのに、「おじさん、やっつけちゃいなヨ」と声をかけたが、情けないような顔を作って、そのまま交番へと走って行った。
上馬メトロで見た西部劇のようにはいかないのだと、半分わかって半分、面白くなかった。だって、おじさんはボクシングの選手だったんだろ、それなのになんたることかと、世間知らずの小学生は思ったのだ。おじさんの走る影に、ラジオからバッテンボーの曲が流れた。これは腰抜け二丁拳銃でボブ・ホープが歌ったが、ラジオから流れるたのはダイナ・ショアの甘い声だった。ボブは喜劇俳優として有名だった。この人は長生きで百歳で死んだ。バッテンボーはボタンとボウ(リボン)だ。が、こどもにはバッテンボーに聞こえた。ダイナも77まで生きた。

2011-04-22

上馬の思い出17

酒場ドリアンは上馬の文化的象徴のように思えた。家にいても食うものもロクになかったので、方々の家に顔をだした。中でも松の木精米店では正月のお供えのデカイのを作るので、鏡開きが楽しみだった。自分の家のは小さく、ほんの申しわけ程度、ところが松の木精米店のはでかい、また、この家の人たちは食べ物が豊富だからそんなものを食べようともしない。が、鏡開きだけは祝うので、ひびの充分に入った大判のお供えを包丁や金槌で叩いたり割ったりと忙しい。そして、優しいお母さんがしるこを作ってくれた。松の木精米店のお母さんは品の良い人だった。末っ子のクニオさんを可愛がっていた。また、この子が実に子供こどもしていて愛らしかった。背がひょろひょろっとしていて、足が長く弱そうにみえたが、しっかりした子だった。
松の木精米店の横丁、和泉屋パン屋の間にリヤカーを何台も並べていた。昔は米をリヤカーで配達した。自転車で引っ張るのだから、それは大変な力がいる。昔は糖尿病などかかる者がいない。朝から晩まで人力で頑張るから栄養を蓄積するひまがなかった。昨今は自動車の普及率と糖尿病患者の増加率の曲線が等しい。それだけ、内燃機関に依存し歩くことが少なくなった。だから病気になる、もっと足腰を鍛えなければいけない。子供のころは毎朝学校に徒歩通学、足腰は嫌でも鍛えられた。学校に通うことで丈夫になる。
ひょろひょろのクニオさんも、酒場ドリアンで梅酒を飲んで酔っ払った。酒場に入り込んだのは国太タケシ、松の木精米店のヒロシ、クニオ、生駒タケヒサ、それと私に勝比古さんだ。クニオさんの兄貴のヒロシさんはお母さんに叱られたそうだ。子供の癖に大人の真似をして酒を飲んで、その上、クニオさんにまで飲ませてと、だから、もうドリアンには行かないと外人の子供の風貌のヒロシさんが言った。
でも、私はドリアンに毎晩いた。ここには文化があったからだ。ドリアンの店はカウンターだけ、が、奥に部屋があり、そこでは毎日マージャンが開かれていた。上馬には雀荘がなかったように思う。毎晩牌をかき混ぜる音がして、チーだのポンだの掛け声がかかった。卓は一つしかなく、負けた者が出て、待ち人がそこにはいる。頭をポマードで固めたアニイたちが卓の廻りに何人もいた。そこにギターがあり、アコーデオンもあった。時折、待ち人の客がギターをかき鳴らしていた。
壁には鳩時計があり鎖を引いてゼンマイを巻いた。毎、正時刻に鳩が飛び出すのが面白くて真剣に見たもんだ。
レコードでよく聞いたのは「上海帰りのリル」、日本国家が欧米の真似をして植民地を作り、多くの日本人を送りだした。そんな戦争の被害者がリルだった。そんなことは無論知らないが津村謙のベルベットボイスに痺れた。実にいい声で、これ以上の美声は後に黒人歌手のナット・キング・コールだけだった。
この津村謙は早死にした。富山県の産、江口夜詩(えぐちよし)に師事、昭和18年テイチクからデビューするも戦時中で不発、徴兵され昭和21年に再スタートするも不遇、それが昭和26年の「上海帰りのリル」で大ヒット、映画にもなり水島道太郎、香川京子、森茂久弥が出演するなか、津村も唄っている。この人は昭和36年、マージャンで遅く帰り、杉並区の自宅車庫の中で寝込み一酸化炭素中毒で死んだ。人生は何があるかわからないものだ。我々はそうした危険のなかをなんとかすり抜けて、今日を迎えたのだが、ああでもないこうでもないと不平と不満の中で棲息してやしまいか、もっと生きてることをありがたいと思うべき。
さて、こうした酒場ドリアンの雰囲気の中で毎晩を過ごしたから、差し詰めのんべいになったと思うでしょ、ところが酒とは無縁の生活をいまだに続けている。毎晩酒場に通っていて覚えたのが流行歌、「湯の町エレジー」、マージャンの順番の待ち人がギターを手にすると必ず弾いた。
この曲は東京産の近江俊郎が歌った。作曲は古賀政男、この曲は霧島昇用に用意されたが、古賀が近江を使った。近江の兄は大蔵映画(新東宝)を作った貢、近江は骨っぽいところがあり、武蔵野音楽学校で教授と対立し中退、タイヘイレコードを振り出しに方々転々、ポリドールで幾つもヒット、ところが酒席で社長と喧嘩して、飛び出し古賀を拝み倒して門下生となる。昭和21年に「悲しき竹笛」で奈良光枝とデユエットしヒット、翌年、昔の仲間米山正夫がシベリアから復員。抑留中に作曲した「山小舎の灯」を持ち込み、この曲に感動した近江が強力なプッシュでNHKのラジオ歌謡に採用させ、大ヒットとなった。
そして近江が昭和23年に大ヒットさせたのが、「湯の町エレジー」全国津々浦々まで響いた。そして、上馬の酒場ドリアンの隠れ雀荘で、ポマード兄いがさかんに奏でるほど。近江は73歳で没。

2011-04-21

上馬の思い出16

ドリアンは果物の名前、とても臭い食べ物だが根強いファンがいる。個性の強さに魅かれるのだろう。酒場ドリアンの勝比古さんの兄さんもなんとか比古と言った。海幸・山幸の海彦・山彦も本当の名は比古だそうだ。男は昔は比古をつけたと吉田家は言う。
勝比古さんの母親は少々ならずくたびれた風情だった。どこか身体が悪かったのかもしれないが、大層言葉の綺麗な人だった。言葉は教養を表すから大事だ。でも、三茶近辺の悪ガキにはそんな洒落たのはいなかった。自分勝手に親が使う言葉をそのまま使った。私の祖母は新潟県長岡の出だった。高等女学校に行ったのが自慢で、時折、スコットランド民謡などを唄っていた。女学校で習ったんだと得意げだったが、女学校すら知らない悪ガキに、それを吹聴しなければならない境遇境涯だった。
祖母は長岡の資産家の娘だったそうだ。親戚もそう言っていたので、本当なのかもしれないが、私の家は貧乏神の御殿のようなもので、神様が居ついて離れなかった。なにしろ御殿で社だから、神様が住んでいて当然だった。世の中自体が戦後の混乱で、食うのが精一杯で、時折洩らす祖母の愚痴を聞いて、銀シャリの握り飯を運んだくらいだ。自分より人を喜ばせたいと本気で思っていた。今ではそんな気にはならない、他人に自分が食ったことのないものを貢ぐ気にはなれはしない。自分の胃袋に収めてしまう。それが本心なのだが、あの子供の時はどうしてそんな気になったのか、今でも不思議だが、そうした純真な心を子供は誰でも持つのかもしれない。
勝比古さんの母親も繕いものをしながらスコットランド民謡を歌っていた。昔は洗濯機などなかったから母親は洗濯物と戦っていたものだ。それを拡げたりたたんだり、そして破れ目、ほどけ目を繕っていた。そんな仕種がどこの家でも当たり前の光景だった。
勝比古さんの母親に、「おばさんも女学校に行ったの」と歌を聴いて訊いた。針仕事の手を止めて、「どうして判ったの」「だって、スコットランド民謡は女学校に行かなきゃ習わないでしょ」
おばさんの顔が西日が射したように紅潮した。「ええ、楽しかったわ、でも遠い昔になってしまった」と、針仕事の手を動かしながら涙ぐんでいるように見えた。悪いことを訊いたのかなと思った。そして、また、歌を細い声で唄いはじめた。人は悲しいとき、嬉しいときに歌を唄い気をまぎらせる。歌にそんな力があるのを知ったのは、それからずっと後、悪ガキが人生の落とし穴に落ちてからだった。

2011-04-20

上馬の思い出15

生駒さんの裏に原っぱがあり、そこで三角ベースの野球をやって遊んだ。テニスボールを手で打って走るだけの遊びだが、いっぱし野球をしているつもりだった。その土地は小島屋のものだったようで、ある日売られてしまった。我々のグランド、それを凸凹グランドと呼んだが無くなってしまった。その後、高野という人が家を建てて住んでいた。
まだ、その凸凹グランドがあるころ、斜め前に増田という病院勤務医が開業した。耳鼻科だったと思うが、その医師が薬ビンを荒縄で縛って持ち込んできた。その医師が新築中の家の裏手にそれがあるのを、国太さんのタケシさんが見つけて、工事現場の板にそれを並べパチンコでそれを射的だ。西部劇の真似だ、なかなかあたるもんじゃない。毎日、それをやっていたら、ある日、その医師に見つかりトンカチを持って我々悪ガキを追い回した。
 無論、捕まるようなドジはいるはずもなく、蜘蛛の子を散らすがごとくにトンズラをきめこんだ。そして改正道路に医師の似顔絵を書いて、トンカチを持って追いかける図を大書、また、マンガの巧い子がいた。
玉電の電車通りの向こう側、駒中の同期生、千田さんの家のも少し上馬停留所寄りにドリアンという酒場があった。ここは吉田という人が経営していた。その下の息子に勝比古(かつひこ)というのがいて、この子が抜群にマンガが上手だった。少年という雑誌が光文社から発刊されていて、その中に手塚治虫が「鉄腕アトム」を連載しだした。昭和27年のことだ。我々が三年生になった時で、この勝比古さんが子供とは思えないマンガを描いた。
手塚そっくりの線を描き、ことにランプという登場人物などは手塚より巧かった。こうした才能を持った人物が登場するから、後世おそるべしの言葉がある。改正道路にローセキで描くマンガも大人が足を止めるほど。
将来はマンガ家になりたいと言っていた。ところが人生はどう展開するかがわからない所で、この子がマンガ家になったかどうかは判らない。というのも私が引っ越したのもあるが、家族が瓦解してしまったからだ。
それは、少しく後年の話で、そのころは至極平和な家庭だった。母親がドリアンという酒場を経営していたが、カウンターしかない小さな店だった。そこに日中入り込み、西部劇のバーのように、カウンターにウイスキーグラスを滑らせて送るが、なかなか目の前にピタリとは止らない。蓄音機を廻してレコードをかけた。「津村謙の上海帰りのリル」、この作曲家が後に「お富さん」を作った渡久地政信、無論、その当時はそんなことは知らないが、この曲は大流行した、何枚もレコードをかけているうちに、酒を飲もうと言い出し、棚にあった梅酒をウイスキーグラスで飲んだ。皆、顔を赤くして電車通りを渡り、上馬メトロの前で歩けなくなった。酒が足にきたのだ。
皆、赤い顔をしてふうふう言っていると、近所のオバサンが来て、「あら、このこらお酒飲んで赤い顔してるよ、しょうがないねえ」と嘆いた。そんなことはどうでもいい、ともかく空がぐるぐる回って何だかしらないけど楽しかった。大人はこんなことをして毎日遊んでいるんだなと思うと、早く大人になりたいと心底思ったもんだ。

2011-04-19

上馬の思い出14

駒留神社の鳥居は大きかった。見あげるような高さで立派だったが、この中のご神体は石だと知ってがっかりした。後年、釈迦の舎利を分骨して方々に塔を建てたが、その分骨はルビーだったと知った時、駒留神社もそれに則ったものだと悟った。先人の智恵は確かなものだった。駒留神社のお祭りは十月の十四、十五だったか、まだ東京は暖かくランニングシャツでお神輿を担いだ。悪ガキが担ぎ賃の握り飯欲しさに、神輿の担ぎ棒にしがみついた。飯は銀シャリだった。普段家では麦の入った飯しか食えなかった。
改正道路の谷の所に駒留神社はあったが、その近くの三角に道路が弦巻と駒中に分れるところに修理工場があり、そこが神輿の置き場になり宮元と書かれてあった。半紙に近所の有志が寄付をしたのが張り出されてあり、それにハーレーの辻井さんの名があった。
小学校に入る前、昭和24年のことで、食糧事情が悪く、改正道路に上馬駅から生駒さんの家の前まで俵に入ったさつま芋が山積みにされた。配給と言って食糧は米屋に行くと配られた。ともかく毎日腹がへっていて、そのさつま芋の俵に手を突っ込み中の芋を何本か失敬して熱海湯の前で食った。まだ、熱海湯は爆弾で破壊されたままだった。
アメリカが風呂屋を工場と間違えて爆弾を落としたのだ。駒中の近くに高射砲陣地があった。そこも見に行ったことがあったが、高射砲は取り払われてタダの原っぱだった。
さつま芋を失敬して生で食っていたが、美味くはなかった。食いきれないで家に持ち帰ったら、盗むんじゃないとしかられたが、茹でて食べたら美味かった。何でも茹でなきゃダメだと知った。
その歳の十月の駒留神社のお祭りに宮元まで神輿を担ぎに行った。近所の誰かが銀シャリが出ると言ったからだ。担ぎながら酒屋の前にくると、「酒屋のケチンボ、塩まいておくれ
と怒鳴った。その怒鳴るのが痛快だった。世話役の大人たちは酒屋の主人に詫びていた。
町内を一回りすると臨時社務所の神輿置き場で担ぎ賃の握り飯が出た。やっぱり銀シャリだった。
松の木精米店のヒロシさんが「やっぱり銀シャリだ」と言いながら食べていた。私はそれを持って家に走って帰った。祖母が「嫌な時代だね、銀シャリが食べられないご時世は情けないと言っていたからだ。息せき切って家に戻り、祖母に銀シャリを差し出した。
「おばあちゃん食べなよ、今神輿を担いでもらったんだ、銀シャリだよ」
差し出すと涙を流しながら、「いいよ、お前がお食べ」と横を向いて袖で涙をぬぐった。
「せっかく持ってきたんだから、おばあさん食べてよ」
そう言葉をつなぐと、「ありがとう」といって唇をにぎりめしにつけて、「あとはお前がお食べ」と言った。面白くなかった。外に出て改正道路の縁石に腰を下ろしてにぎりめしを食べた。美味くなかった、年歯もいかぬ子供から、そうされれば今の私たちでも同じようにしただろう。でも、その時は面白くなかった。空は抜けるように青く、そして高かった。

2011-04-18

上馬の思い出13

改正道路を若林の方にだらだらとバケツを持って降りていくと、丁度谷になったところに蛇崩川があった。駒留神社の手前にあたる。両岸は土で川幅もかなりあるように思えたが、今行ってみると狭いので驚く。もっとも今は暗渠になっているので、往時の面影は全くない。ここにバケツを持って流れに入り込み、土手の川面近くの穴に手をつっこむとアメリカザリガニが両手のはさみを拡げて威嚇してくるが、遠慮も会釈もなく、どんどんバケツに突っ込む。日本ザリガニは小さく、こいつらに脅かされて小さくなっていた。丁度進駐軍に追いまくられた日本人のようなものだ。
アーチャンはその大きなアメリカザリガニを選んでとって、家に持ち帰って煮て食った。海老と同じ味だったという。あんな美味いものがタダで山ほどとれたんだから、いい時代だったよとしみじみ。
私は日本ザリガニをとって洗面器で飼っていた。えさになにをするかで困ったが煮干を砕いてやった。暫くすると赤ん坊のエビガニが沢山出てきた。ちっこくって可愛かった。少し大きくなって、駒留神社の前にひょうたんのような池があり、そこに放した。大きくなったらまた遊ぼうと小さな声で言った。
アメリカザリガニは赤くて大きく、その中でも特に大きいのをマッカチと呼んだ。アーチャンも同じようにマッカチと言っていたから、皆がそう言っていたのかもしれない。マッカチは偉そうに大きなはさみを振上げる。持ち上げて腹を見ると、尻尾の内側に丸い玉があり、それをマッカチのちんぼこだと言う。それを押すと痛がるのか、余計にはさみを振上げた。面白くて何度もやったが、やられたアメリカザリガニは困った小僧だと嘆いていたのかも知れない。
ひょうたん池には亀がいた。結構大きかった。大人の手のひらより大きかった。ある日をれをとって生駒さんの家に行ったら、神様の御使いだから返してやらなければいけないと、お酒を飲まして、また池に返してやった。昔の人は神様のいることを信じていたのだ。
でも、駒留神社に神様はいないのを知っていた。
毎日のように蛇崩川とひょうたん池をうろうろしているうちに、駒留神社の神主の子供と仲良しになった。なんでも、この神社のほかにも神社を守っていて、神主の父親は忙しいんだという。丁度その日は父親が帰ってくるのが遅い日だから、ご神体を拝ませてやるという。喜んで社殿にあがり、奥のほうに連れてってもらった。階段の奥に三方に乗った白木の箱があり、その蓋を開けた。覗き込んだが、子供のげんこ程の大きさの石が入っているだけだった。がっかりした。あんなもののためにわに口を鳴らして拍手を打ったのかと思うと急に馬鹿らしくなった。神主の子供は偉そうに、「いいものを見ただろう」と言ったので、「うん」とだけ応えて家に急いで帰り、祖母にご神体は石だぞと告げたら、「そういうことは言うもんじゃない」と叱られた。「でも、馬鹿馬鹿しいだろ、あんなものを拝むなんて」と更に足すと、「皆知ってるんだよ、でも、神様は皆の一人ひとりの心のなかにあるもんで、ご神体が石だろうと木だろうと、何でもいいんだよ、信ずる力のある人にとって、形はなんでもいいもんだ」それでも納得できなかった。大人は馬鹿だと思ったが、この歳になってそれが判るようになった。

2011-04-17

中里の思い出6

少年探偵団ならぬ老人探偵団がウロウロと三茶あたりを徘徊、ウロウロよりヨタヨタ、オロオロの方が正しいのかも、宇田川君と仲が良かったのが生駒君、染物屋の次男、この人の家には文化があった。それも江戸の名残の、講談・落語・浪曲の日本の伝統話芸などは、生駒君の家で自然と身についた。もっとも、染物自体が江戸の風を示すもの、当然のことだったのだろう。
その生駒君と宇田川君が渋谷に切手を買いに行くというので付いていったことがある。中学に入った頃に切手ブームがあり、それに興味を持ったが貧乏人には無縁の代物、すぐに飽きたというか買えなくて脱落した。後年、これは切手商が金集めの手段として生み出したものだと悟った。生きて行くには金が必要になるが、あまりこれにこだわると守銭奴となり、人から奇人変人のそしりを受ける。
切手が幾らで売買されているかを示す冊子があり、売りもしないのに、これで幾ら儲かったと得意そうに話す中学生もいた。
成人してコイン商と知り合いになったが、昔は皆、切手商だったそうだ。ところが切手が売買できないことを素人が知って、それが瓦解してコイン商に転じた。秋葉原のシントク電気の上に貸しホールがあり、そこで交換会が開かれていた。オリンピックの千円玉が一万円で売れた。大儲けをした人が出たの触れ込みがあり、連れて行ってもらったが、そこもダマシの世界のようだった。外国人の顔も見えた。
小学生にそんな世界があるとは知らないのだが、金がないから切手の蒐集が出来なかっただけだが、蒐集家が財を成した話を聞かないことからも、後年知ったダマシ・詐欺師の手口だったことは間違いない。秋葉原のコイン交換会を開いていた男は、銀が大相場になったとき、百円玉を溶かして大儲けをした。無論これは犯罪ではあるが、そんなことはおかまいなしでやる奴ばらが世の中には紳士面して横行している。そのころ滝本君という駒中の同期生と逢ったことがある。エノケンに苦労させられたと話していた。エノケンは仇名で、本名は忘れたが、上馬駅の駒沢寄りで板金屋の倅だ。父親は鼻筋の通った面長で、曲げ物に出てくるようなイナセな感じの美男子だった。かっぱからげて三度笠の似合う人だなと思っていた。エノケンはせせこましい感じのとっぽい少年だったが、人生誰しも落とし穴が待ち受ける大人の世界、女・酒・バクチの三悪のうちのどれとどれに足を突っ込んで抜けなくなったのか、金に窮して友人を踏みつけたようだ。そのことを滝本君が言ったのだろうが詳しくは語らなかった。
金は便利なようで扱いが難しく、この使い方や概念について日本人は子供に教えないが中国人は金銭感覚について厳しくしこむ。どれが良くてどれが悪いわけでもないが、人生の並木道を踏み迷うことのないように最低限の知識は持つべき。そうした誘惑にも負けず、落とし穴にも落ち込まずになんとかこの歳まできたが、いやあ御同輩、簡単容易な道ではありませんでしたな、お互いに。
人生は良いことばかりではなく、悪いことばかりでもないが、どんな歳になっても希望とか生きることに飽きてはいけないと格言にもありますぞ。森進一って歌手がいて、泣き節といわれるけど、ディック・ミネの人生の並木道を歌わせると抜群の味を出す。苦労の度合いが大きかっただけに、歌にこめる哀感が人を打つのだろう。宇田川君の家の近くには飯塚新太郎君、島田源太郎君などがいた。その島田君も数年前に亡くなった。いつもにこにこした少年だった。

2011-04-16

中里の思い出5

中里から上馬に向かう専用軌道の右手は崖になっていた。その上り坂を電車が進むとすぐ右手の高い所には犬舎があり、大きなシェパードが何匹もいた、警察犬の訓練をしていたと言う。その隣が大川さんの家で、目が大きく丸顔で色白、まるで少女雑誌に載る蕗谷虹児の挿絵のようだった。
季節が廻ってくると、また、あの花に逢えると人は心待ちにする。桜がそうだ。花は桜木、人は武士と歌われるように、散り際の潔さを言うが、人も花のようなものだ。年年歳歳花あい似たり、歳歳年々人また同じからずというが、同期会を開くのは、その人に逢いたい、あの人と話してみたいという願望が足を運ばせる。
大川さんは挿絵画家の描く可憐で楚々とした雰囲気があった。その大川さんは長じて女史美術大学に進学された。同期会で逢ったとき、以前と同じ雰囲気で、人は変らないものだと遠くから眺めた。
次の会で逢ったとき、最近耳が遠くなったのと言っておられた、ほどなくして訃報を聞いた。人は突然散る、それも何の前触れもなく。美少女の大川さんは久子さんと言われた。蕗谷虹児の絵をみるたびに大川さんを思い出す。あの大川さんの花には二度と会えないけど、挿絵はいつでもみることができる。蕗谷虹児は新潟県新発田の産、十二歳で二十七の母を亡くす、美人として有名な人、貧苦のうち新潟市の印刷会社につとめ、夜間画学校に通い、新潟市長に才を見出され十四歳で日本画家尾竹に弟子入り、放浪の後、東京に出て知人の紹介で日米図案社に入社、そこで竹久夢二と知り合う。それが機運を得て一流挿絵家の名を得た。「花嫁人形」の作詞でも知られるが作詞家が間に合わなかったので、急遽蕗谷が走り書きしたものを採用、これが大当たり、さらに戦後の混乱の時、この歌がアメリカで流行し多額な印税が入り込み、貧乏生活の蕗谷を助けたという。人は何が待ち受けるかわからないもの。
この大川さんの家の近くに須永君、佐藤君、小沼君が居住していた。小沼君は現在でも住んでおられる。地球が回るように我々も時代を回っている。その回転から放り出される者、しがみついていられるものに分れる。小沼君は回転するコマの中心におられたのだろう。今でも中里、須永君は神奈川の津久井湖のほうに行かれたが、その後が判明しない。きっとどこかの空の下で旧友を懐かしんでおられることだろう。
変る時代、変る世の中、でも人情だけは変って欲しくはないもの。故人を偲び先人を尊ぶという素朴ではあるが大事なものを。
花嫁人形
きんらんどんすの 帯しめながら
花嫁御寮(はなよめごりょう)は なぜ泣くのだろ

文金島田(ぶんきんしまだ)に 髪(かみ)結(ゆ)いながら
花嫁御寮は なぜ泣くのだろ

あねさんごっこの 花嫁人形は
赤い鹿(か)の子の 振袖(ふりそで)着てる

泣けば鹿の子の たもとがきれる
涙(なみだ)で鹿の子の 赤い紅(べに)にじむ

泣くに泣かれぬ 花嫁人形は
赤い鹿の子の 千代紙衣装(ちよがみいしょう)

2011-04-15

中里の思い出4

商店街を抜けると民家が列なり、やがて宇田川君の所に行き着く。宇田川園という造園家で地番のひと区画を所有しておられた。大きな家では堀口さんも大きかった。キューピー人形のような大きな目の女の子で、家に入るには鉄扉があり、門柱も大きく立派でたまげたもんだ。宇田川君の植木が立ち並ぶのを横目に三茶小に通ったが、セセコマシイ自分の家と違って、どうしたらこんな大きな屋敷をもてるのかと不思議に思った。そして、その不思議は六十年経っても解けない謎、あいも変わらぬ狭い家で呻吟しているのも妙。貧乏人は生涯変る事がないのかもしれない。
宇田川君の一族もどう滑って転んだのか、その土地を手放されたそうだ。お兄さんが長く世田谷区議会議員をされていた。もっとも、今の日本の税制では三代続く金持ちはいないそうだ。一億国民細分化され、皆貧乏人になっちまう。これも妙な話だ。
この宇田川君の家の近くに高砂湯という銭湯があった。上馬の話でも記したが熱海湯ができるまでは高砂湯にでかけた。石川さんの家の前を抜けて、曽根君の家の角を曲がって行った。曽根君の家の前角に大きな楠が生えている。
アーチャンが言った。「この木は六十年は経っている」「アーチャン、おれたちが子供の頃も大木だったよ、あれから六十年も経ったから、この木は百年は超えているよ」「そうか、そうかもしれない」
アーチャンは自分の歳を忘れている。年取ってくると昨日のことは今日になりゃ忘れる。ところが子供の頃のことは、昨日のように思い出す。もう、六十年も経っているのに。人間てのは不思議だ。まして、その場所に行けば、ありあり、まざまざと思い浮かべるけど、あの可愛い少女の大川さんは逢いたくとも逢えない所に行ってしまわれた。
黒人霊歌に「オールド・ブラック・ジョー」というのがある。我も行かん、はや、老いたれば、かすかに我を呼ぶ…
まだ、呼ばれる前にしなければならないことがある、六十年前のことどもを忘れないうちに記さねばならない。私たちの子供の頃の三茶はこんな時代、こんな町でしたと、それが我々年寄りの務めなのだ。
だから、少年探偵団の歌を唄いながら三茶界隈を歩いている。駒中の修学旅行のときだったか、大里君と生駒君が少年探偵団の替え歌を歌って歩いていた。ぼ、ぼ、ぼくらは少年愚連隊、このもと歌は勿論、ぼ、ぼ、ぼくらは少年探偵団だが、愚連隊ってのが渋谷で幅をきかせた時代があった。それを巧みに替え歌にしたのだが、面白くて思わず笑ったことを覚えている。この少年探偵団に怪人20面相が出てきて、昨今これがK20という名の映画になった。これは江戸川乱歩の小説だが、ラジオで放送されたことがあった。昭和25年の四月からNHK第二放送で毎週金曜日に放送された。我々が丁度一年生の頃、明智探偵と小林少年、胸がドキドキしたのを思い出しただろうか。その後民放が誕生し、方々の局でも放送する人気番組、江戸川乱歩はマイナーな推理作家だったが、これで一躍桧舞台に飛び出し、光文社が少年探偵団シリーズを発刊し莫大な利を上げた。後年、乱歩が地主に土地の買い上げを迫り、困った乱歩が光文社に相談、一年分の印税前払いをしてもらい急場をしのいだ。乱歩は終生これを恩義に感じたという。

2011-04-14

中里の思い出3


原田君の八百屋はデブチン八百屋と呼ばれた。父親の体格が良かったからだ。この八百屋の店先の猿が人気者で商品のバナナを内緒で猿に食べさせたのはアーチャン。アーチャンと原田君は仲が良く、成人してからも交流があった。原田君も体格が良く少林寺拳法を習っていたという。アーチャンと路上でボクシングをして汗をかいたあと、野沢の町を歩いていた。すると三人連れが因縁をつけてきた。アーチャンが何を!って言う間に、原田君が一人の襟首を摑んだかと思うと投げ飛ばした。続く二人目も同様に宙に浮いた。それを見た三人目は逃げ出した。原田君は三人ぐらいは屁でもなく投げ飛ばす。四人だとちょっと困る程度。
この原田君が三茶小の五年のとき、横山先生に廊下に立たされた。何か悪ふざけでもしたのだろう。横山先生の名は横山隆一で、漫画家と同姓同名、我々が六年生になるとき、教育委員会に転じられた。視聴覚の担当をされた。授業にも録音機などを導入し、それが役立つかの実験をされたこともあった。
その原田君が廊下から消えた。横山先生は青くなった。皆で手分けして探したが何処にもいない。学校の外だろうと見当をつけそれぞれが探しに行った。結局、横山先生が見つけたのだが、諸君、原田君は何処に居たと思う? 三茶の映画館に入り込んでいたのだ。
我々悪ガキは金なんてなくとも映画館に入り込む手立ては知っているのだ。それから、原田君もアーチャンも廊下には立たされなくなった。先生が懲りて教室の中に立たせた。昔はこうした体罰は日常茶飯事、誰もそれが悪いとも思わなかった。廊下に立たされてもめげない原田君は立派だった。
その原田君の八百屋を訪ねたらアパートになっていた。日本の税制が悪く、同じ土地を三代持ち続けるのが難しい。相続税が過酷だから。原田君の家はそれを耐え忍んでアパート経営で立派だ。そこで写真を撮ったが、昔我々は少年探偵団、ところが今はヨレヨレの老人探偵団、懐かしさに尻押しされてあっちでパチリ、こっちで休むと、なかなか昔のようには歩けませんヤ。

2011-04-13

中里の思い出2

中里の駅から三茶小に向かってダラダラ坂を下りていくと、右手に久住君の家があった。ここは洋服屋さん、注文服の店、昔は身体に合わせて作ってもらい、既製品は吊るしと呼ばれ、一等下に見られていた。久住君の家のガラス戸に白く久住洋服店と書かれてあった。大きなアイロンと蒸気を上げるスチームの機械があったような気がする。
この中里は上馬と異なり、狭い道の両側に店が列なり、なんとなく家庭的な雰囲気だった。高橋孝明君は同級生、敏捷な動きをするいかにも少年の持つ初々しさに溢れた子供だった。この家はブリキ屋さんで、壁に消防服が懸かっていた。大きなヘルメットもあり、兄さんが消防署か消防団にでも属していたのだろう。
左手に山田瞳さんの家があり、その隣がデブチン八百屋の原田君の家、新聞に中里商店街のチラシが入ってきた。そこには原田君の八百屋の広告に「一銭を笑う者は一銭に泣く」と書かれてあった。その意味を母親に訊くと、「お金を大事にしろということ」だと教えてもらった。原田君の父親は偉い人だなと思った。原田君には姉がいて、キヨコさんと言うらしく、三上先生が時折、清子さん元気にしているかと原田君に尋ねていた。
原田君はがっしりとした体格で相撲が強かった。六年五組で相撲が一番強かったのは世田谷通りの河野お茶屋の傍の高田写真館の息子、この人は強いばかりではなく、相撲の技も知っていた。あの頃の横綱は千代の山、高田君は相撲のラジオ解説の口調を真似て、「顔面紅潮若乃花などと言っていたのを思い出す。高田君の家は写真館の前は古本屋をしていたと教えてくれた。いつの時代でも生きていくのが精一杯だ。その高田君は二十歳代で亡くなった。中西ヨシオ君が渋谷の駅で高田君とすれちがった。その時、「俺、もうすぐ死ぬんだよ」と告げたそうだ。告げるほうも辛かっただろう。告げられるほうは困惑して言葉も出なかった。
それはそうだ、青春の入り口をくぐったばかりの頃、死ぬなんてことを全く気にせず、明日に続く今日を微塵も疑わなかった。ところが、もうそこで人生スゴロクを降りなければならなかった。気の毒だ、可哀想な話だ。我々はどうのこうの言いながらも、なんとかこの歳まで生き延びた。それが良いのやら悪いのやらは誰も知らない、また、個々人の心持一つで良くもあれば悪しくもある。人生道場とは不思議な場所だ。
さて、原田君の家には店先に猿がいたそうだ。それが有名だったと多くの人が教えてくれたが、私は知らなかった。原田君の隣に山田さんの家があり、この人は大人しい人で、物言いが静かだった。この家に上がりこんでお菓子をご馳走になった。家の中もシンとして静かだった。大人しい人は大人しい家に育つのかと、子供心にも納得した。大場そろばん塾があり、そこに多くの子供たちが集まった。クリーニング屋の路地を入ったところだった。昔は子供が多く、そろばん塾も初等から高等までいつも賑わっていた。
そろばん塾に通う子供は直ぐにわかった。歩くたびにそろばんの珠がカチャカチャと鳴ったからだ。そろばん塾でもケンカがあった。手にしたそろばんで相手を殴り、そろばんが壊れて珠が飛び出し、たまげたことがあった。

2011-04-12

中里の思い出1



中里には浜畑賢吉さんが駆け出しの頃住んでおられたそうで、私の家に下宿してたのよなんてオバサンがいた。玉電中里は丁度馬の背のような場所で、三茶に向かって左右にダラダラと下がるようになっていた。
その左側が三茶小の学区になり、多くの子供たちがここで蠢いていた。土屋さんに当時の地図を描いてもらった。
玉電中里の駅舎があった。ここは世田谷線と同様に専用軌道があり、車とは区別されていた。上馬寄りの天皇陛下の乗馬用ムチを製造したデカシさんの家の前あたりから専用軌道に入り、三茶の手前あたりから車と一緒になる。途中、蛇崩川を渡る小さな鉄橋があるが誰も知らないだろう。
この駅に土屋さんに思い入れがある。土屋さんの父君が玉電で渋谷に出て、品川から東神奈川の日本鋼管に勤務、早暁、冬だとまだ星の出ている道を中里駅に歩む、この人は山梨県の産、甲府で名産の水晶研磨工場を経営していた倅に生まれるが、跡継ぎ問題などで東京に働く、日本鋼管では南極探検船の宗谷の建造修理にあたられた。
その父君を小学生の土屋さんが中里駅で傘をさしてお迎えだ。精励を旨とした人で務めを休まないどころか仕事開始の一時間前には会社に居るほど、こうした職人が昔はいたものだ。会話は得手としないが、機械と対話の出来るのが職人、今日の機械は機嫌がいいとか悪いとか、音の出方でそれがわかったそうだ。
中里駅にはポンプがあって冷たい水で喉を潤すことができた。昔の世田谷は水が綺麗だった。蛇崩川には大きなエビガニがたくさんいて、腹がすいた悪ガキはそれを茹でて食べたほど爽やかな場所だった。
世田谷区立郷土資料館の写真にポンプと売店が写っている。中里名物は古本屋の時代や書店、この店は中里駅を挟んで両側にあった。左側が三茶小、右側は中里小の学区だった。
この古本屋は古い、菰池さんという方が三代だか四代に渡って経営、江戸物、明治物の文献を得手とされる。奇書骨董の類と思えば間違いがない。
ここで父君を待つ土屋さんは晴れている日は車止めの鉄柵につかまり逆上がりをした。子供はじっとしていないもんだ。騒いで遊ぶのが仕事、怪我をしなければ何をしていてもいい、昨今の親は実に神経過敏で、もう少し黙って見ていろといいたいほど、ああでもないこうでもないとやかましい。子供は親の道具じゃない、子供は遊ぶのを業とする、事業、学業と同じで遊業なのだ。だから好きなようにさせろ。
土屋さんは父君と手をつないでダラダラ坂を下り商店街を抜けた。その商店街の地図がこれ。

2011-04-11

上馬の思い出12



昔、遠山の金さんてのがいて、大岡越前守忠相と向こうを張り合う、金さんは北町奉行、大岡は南町、一月ごとに交替で奉行所を開いた。今のように方々に警察署はなく、民事も刑事も裁いたから忙しい。質屋の数はそばやの数ほどあった。大質屋と小質屋があって、小質屋は近所の品を扱う、必ず質入人に保証人を立てる。小質屋は蔵なんかなくて、質入された品物を持って大質屋に入れに行く。大質屋は小質屋に金を貸し、蔵に荷を入れる。他人様の物を預かるから蔵は頑丈に出来ていて、防火対策も講じてある。大質屋は小質屋を子分にしていると思えば判りやすい。
そんな時代に腕に桜のほりものをしたのが遠山の金さん。本当は桜吹雪じゃない。腕に一つだけ桜を彫った。ところが侍でそんなヤクザなことをする者はいないから大げさに取り沙汰され、テレビでもろ肌脱いでの大見得となるが、あれは嘘。
遠山の金さんと同じように、世田谷にも金さんがいた。
上馬の駅から改正道路を若林に向かい中野さんの家を過ぎると左側に辻井金三郎商店があった。この人が辻金、泣く子も黙るほど、それは少し違うんだけど、警察官が交通事故の処理に困ると頭を下げて教えを請いにきた。交通事件の示談屋? ちがう、保険屋? ちがう、ここは水道工事の店でいつもハーレー・ダビッドソンがとまっていた。ハーレーのバイクは格好が良く、誰彼の別なくそれを眺めたもんだ。昭和二十五年ごろのオートバイは外車しかない。国産だとメグロ、陸王などがあったが、やはり外車は格好が良かった。三共製薬が当初、ハーレーダビッドソンから許可を得て日本国内のみ製造販売、これは戦前も昭和9年の話で、このハーレーをもとにして陸軍にサイドカー付きのバイクを納入したのが陸王。当初は750CCだった。
メグロは品川区桐ヶ谷火葬場の近くで昭和25年に250ccのバイクを生産。当然ハーレーの人気が高いが関税が高く目の玉が飛び出るほどの値段。ところが、この辻金さんはそれを所有しておられた。仲間の愛好家が時に何十台もハーレーを辻金さんの前に並べ、ツーリングに出かける。
中野さんの話ではハーレー愛好会の会長をしておられて、交通法規や事故などのことに精通、だから警察官が頼りにした。さらに、この人は腕相撲のチャンピオン、腕に荒縄を巻いて力を入れるとブツリと切れる。うーん、物凄い腕の力だ。まるで日本版スターローンだ。皆が一目も二目も置いた人。こうした人だけに商売も順調、店を方々に広げられた。我々悪ガキが知っているのはここまで、私たちより年上だけに亡くなったことだろうが会社は今でも大きいままで盛業中。
遠山の金さんのほりものの話は生駒さんから教えてもらった。刺青とは言わない、刺青は島送りの人間や牢屋に入れられた人が腕にした。背中のくりからもんもんは彫り物と言った。倶利伽羅もんもんは雲の沸き立つところというアイヌ語。これは自分で勉強したから間違いない。

2011-04-10

上馬の思い出11

和泉屋のパン屋は三木(みつき)さんと言った。美人美男の家系で、どの人も格好が良かった。朝早くパンを焼く職人をお兄さんがこなしていた。昔はヤマザキパンなどがないから、どこのパン屋も自前の窯を持って朝早くから働いていた。
松の木精米店と和泉屋の間の通りを抜けるとパンの焼けるいい匂いがしたもんだ。昔はパンは高級な食べ物だった。今のように色々な調理パンがあるが、昔は食パンとコッペパンしかなかった。アマショクってお菓子のようなパンのようなものがあったが、これはかなり高かったような気がする。手のひらにのる程度の大きさなのに値がはった。めったに食べられない代物だった。
和泉屋にケーキが並んでいた。美味そうだが高くて食べたことがなかった。デコレーションケーキっていうものを初めて見たのも和泉屋だった。クリスマスの時期になると、幾つもの大ぶりのデコレーションケーキが並んだ。一度食べてみたいと念じていたが、四人兄弟、祖母も同居していたので家計が逼迫で、それどころではなかった。歳末になると商店街が福引売り出しをする。買い物をすると金額に応じてクジがひけた。その当時に手回しの抽選機があり赤球ははずれ、白は残念賞などとランクに応じて景品が引き換えられた。
弟が抽選機を廻すと商品券があたり、それもまあまあの金額、早速家族会議で何と交換するかを相談。ああでもないこうでもないと勝手な熱を吹いてなかなか決まらない。結句、当てた弟の好きなものを交換しろとなり、喜び勇んで弟が走りだしたと思ってください。
さて、何と交換してくるかと心待ちにしていると、和泉屋のデコレーションケーキの図抜け一番。美味かったのと、タダで食べられたので弟に感謝しながら初めて食べたケーキの味、どんなだったって? もう昔のことだから忘れてしまったけど、大ぶりのケーキを見るたびに貧しかったけど楽しかった上馬のことを思い出す。
和泉屋の娘さんが隣の電気屋のおかみさんになったけど、その子供たちも血筋で目鼻立ちが整っていた。長男がケンイチさん、次男がトシミさんと言っただろうか、この子を生駒さんが見て、「将来映画俳優になれる」と断言。たしかに幼い子供ながらも品格があった。この子が父親がスピーカーの修理を店先でしているとき、外したスピーカーの木箱に頭を突っ込んで抜けなくなって泣き始めた。我々が色々と手立てをこうじるが、痛がって泣くばかり、それを聞きつけた父親が、足を持って逆さにした。なるほど、この手だで、難無く抜けた。その子はケロリとして又遊び始めた。
私は駒中を卒業すると移転をしたので、その後、この子がどう成長したのかを知らない。きっと良い男になったことだろう。家系なのだから。


2011-04-09

上馬の思い出10

もう半世紀も前のことを思い出して記しているため、時々記憶が繋がらなくなり、都度、中野義高さんに電話をする。互いに高齢でああでもないこうでもないと並べていくらか薄ボンヤリ当時が浮かんでくる。このブログに動画が貼り付けてあるが、古いパソコンをお持ちの方だと見れないけど、当時の流行り歌やプロレス中継など話に合わせたものを選んでいる。昔の小説の挿絵だと思えばいい。現代は進歩の結果、印刷する紙もインクも不要、新聞や郵便のような配達費も不要という、まことに結構な時代だが、我々年代はパソコンを駆使しインターネットを自由に操作する人が少なく、まったく長生きの効用を使いきっていない。ただの耄碌爺やババアになるまえにすることがあるんだが、はてさて、そんな嘆きは置いて、毎日ブログを更新し続ける。
上馬メトロで夏になると林屋正蔵や一龍斎なんて寄席芸人が怪談を演じに来た。映画館の前の玉電通りに映画のスチール写真が飾ってあった。金はない、暇だらけだから飽きもせずにその写真を眺めたもんだ、洋画だと画面右上に○が出る。それがスチール写真と同じ場面、ジョン・ウエイン、タイロン・パワーなどの名前をさかんに覚えたものだ。
松の木精米店のヒロシさんは外人の子供のように色白だった。鼻筋も通ってなかなかの好男子、隣の映画館に来るのが講談師、米屋の次男も好男子。
左隣の自転車屋に同級生がいた。佐藤フミエさん、活発な子で眼がくりくりとしていた。そこにあにさんがいて、この人は佐田啓二ばりの男前、近くの色気づいた娘が用事もないのに店先をウロツクほど、この人が実に親切な人でパンクの修理でもスポークの折れでも、何を頼まれても嫌と言わずにニコニコとしてくれる。店は土間で土が油で光っていた。腰高の床が奥にあり、畳敷きになっていた。
昔は今のように、どんな路地に入り込んでも舗装などされていないから、釘を拾ってパンクばかりしていた。家に古い黒塗りの自転車があり、それを三角乗りしたいた。まだ背が低くってサドルに座れない。そのため腰掛けずにペダルをこぐと、丁度自転車のフレームの三角に足を突っ込むことから三角乗りと呼んだ。もちろん転べば怪我をするので、大人からは危ないと注意されるが、するなと言われるともっとやりたくなるのが性分。それでも怪我もせずに頼まれたお使いをこなしたもんだ。
パンクするたびに自転車に行った。色男のあにさんが直してくれた。ある日、これはパンクじゃないから直らない、タイヤごと交換だよと言われた。よく見るとタイヤに穴があいて中のチューブがはみ出している。
金がないので取替えられないと言うと、チョット乗りにくいかもしれないけどと、絆創膏を貼るように穴を別の古タイヤを切って貼り付けてくれた。ありがとうと礼を言って乗り出すと、その継ぎ目が来るたびにカクン、カクンと体がゆれた。その揺れを感じながら、心優しい自転車屋のあにさんを思い出した。世の中全体が戦争の痛手に泣きながら、ようよう回復の兆しの中、誰彼かまわず互いに助けあって生きてきたのだ。自転車屋のあにさんも戦争に行ったという。戦争のことは思い出したくないよと、修理の手を休めずに言った。そんなあにさんが突然死んだ。胃癌だとか大人がヒソヒソ喋っていたのを聞いたとき、何故だかしらないけど涙が出た。あんな優しい色男が死ななければならないのかと腹立たしい思いがこみあげてきた。世の中には死んだほうがいいような人を幾人もみた。死なないほうがいい人が死んで、死んだほうがいいような人間が、根岸酒屋でコップ酒を飲んでわけのわからないことを大声でしゃべって赤い顔をしていた。それを横目でみて自転車をこいだ。継ぎ目が来るたび情けない思いがこみあげてきた。

2011-04-08

上馬の思い出9

上馬メトロに自転車でフイルムを運んでくるあにさんがいた。軽快な自転車にフィルムの入った進駐軍のギア(袋)を積んでくる。いつも赤い顔をしていたのは、運んでくるフィルムの重さより、下北沢を出るときに一杯ひっかけていたのだろう。今のように車が頻繁に走っているわけでもなく、ひどくのんびりした時代だった。
映画館は箱で、中にあるのは映写機とステージ、そこに銀色の幕があり、よくみると点々と穴があいている。その後ろに大きなスピーカーが鎮座していた。そこから黒いコードが出ていて、それが途中で中継のコンセントがある。それが何かと不思議に思って、それを引き抜いたことがあった。途端に客席から声が聞こえないゾと大声、慌てて又接続した。悪ガキだった。就学前でも映画館に入るのに金をとられた。
金なんかあるわけもないから、入り口で切符をもぎる女性の前を通過しさえすればいい。そこで智恵を絞って知らないオジサンの袖につかまるフリをしてマンマと入場。利用されたオジサンは袂を振って、つかまるなの合図、勿論こちらとて中に入ればサヨウナラだ。
バンジュン、アチャコ、エノケンなどのドタバタが面白かった。
映画館に入るのにはもう一つの手口があった。昔のことだから冷房がない。休憩時間になると非常口を開放、そこに自転車屋側で待ち構えていて、中に入り込む。冬はダメ、寒いから非常口なんて固く閉ざされている。
自転車屋は玉電通りの上馬メトロと若林交番近く、改正道路三茶小側にあった。小学校に入って自転車に乗りたかった。近所のアニキ連は巧みに自転車を乗り回している。若林寄りの自転車屋に貸し子供自転車があり、それを借りに行った。乗れないから歩いて押してくる。途中で近所のアニキ連に会えば、自転車の後ろを押えてもらって自転車乗りの稽古、ヨロヨロしながらも前に走れるようになった。アニキ連が走り出すと押えていた手を放す。押えてもらっているから大丈夫だと思っていたが、「うまいじゃなか、一人で乗れてるゾ」と言われてヨロヨロして歩道の縁石に当り転んだ。
「ブレーキ、ブレーキ」とアニキ連が教えてくれたが、ブレーキの使い方を知らなかった。小学校三年生の夏のことだった。改正道路の歩道は大きく広く、車も通らないから悪ガキどもには天国のようだった。
街路樹の栃の木は上馬駅から若林交番の世田谷通りまで列なり、天狗の葉団扇のような大きな葉が路上に大きな影をやなしていた。アブラ蝉が激しく啼きだし、暑さを一層感じさせた。栃の木の木陰は涼しさを感じさせた。それでも夏の盛り、四万六千日、皆が大汗をかいたころ、夕立が襲ってきて、誰彼の別なく白く路上に立てる雨脚のなかを逃げ惑った。
あのころは毎日のように夕立ああったもんだ。
三茶小の図画の先生は根津画伯、味のある絵をおかきになった。この先生が栃の木の写生の時に、影を黒く塗ったとき、このように教えてくださった。
「影というと黒と思うだろ、よくよく見てごらん、ブルーの濃いのとか、葉が風にあおられたときは、影のなかにピンク色までも混ざっているよ」
この根津画伯の言葉は終生忘れられない。ものごとを一面からしか見てはいけない、固定観念が自分を小さくすると、写生の中で教えられた。素晴らしい先生だった。このことは礼の言葉として伝えようと思っていたが、二十二年前の同期会に先生が来られて、壇上からこの話をさせていただく機会に恵まれた。画伯はありがとうとおっしゃられた。積年の思いが果せて満足したが、ほどなく先生は亡くなられた。いい先生だった。
忌野清志郎って歌手が「ぼくの好きな先生」という歌を残した。この歌手は56歳で亡くなった。実に言いえて妙な歌が、これ、根津画伯を言い表しているような気がして、聞くたびに思い出す。でも、この曲のことを先生に伝えられなかった。感性、これは文字には出せないものだが、心の中に厳然としてある。

2011-04-07

上馬の思い出8

フタバ電気のご主人はワカセさんと言って昔は憲兵だった。長男のケンイチさんが父の憲兵手帳を持ち出して、それを眺めておそれいった。子供心に憲兵は恐ろしかった。巡査も悪い人間を捕まえるので恐ろしかったが、大人からそんなことをするとおまわりさんに連れていかれるからと言われていたのが身に染みていたのだろう。
どのみち、子供のすることだから大したことではないのだが、こうした記憶が心の底にあるから、何とか生きてこれたような気もする。
そのワカセさんに昔の仲間の憲兵が尋ねてきたことがあった。やはり目つきの鋭い人だった。ワカセさんの女房、つまりケンチャンの母はビックリするほどの美人だった。グラビアの写真でもあんな美人はいまだに見たことが無い。この美人は松の木精米店の隣の和泉屋というパンや和菓子を作る店から嫁ついできた。
このパン屋は美人美男の塊だった。私より一つ上に女の人がいたが、この人も綺麗だった。宝塚にも出れるほど、三茶小の同級生に中西ヨシオさんがいたが、この人の姉が宝塚に行かれた。その人より和泉屋姉妹は美人ぞろいだった。
人生はチョットした縁、つまづく石も縁の端なんて言い方もあるけど、和泉屋姉妹が芸能界に縁があればきっとピンクレディーよりも凄かったろう。
その美人のワカセさんのかみさんは美人薄命で若くして亡くなった。背が高くてすらっとしていて、今でもその容姿を思い浮かべることができる。
玉電通りを上馬の改正道路から三茶に向かって記すと、角が小島屋、国太床屋、根岸酒屋、自転車屋、上馬メトロ(映画館)、松の木精米店、そして和泉屋となる。
小島屋は呉服店、娘さんが同級生だった。カヨちゃんという名だったと思う。夏になると団扇に浴衣で隣の国太さんとの間の通路で夕涼みをしながら線香花火をしていた。大人しい女の子だった。
国太さんの家にはタケシさんという一つ上の人がいて、この人は運動神経抜群で空中回転、つまり歌舞伎で言えばトンボウをきることができた。弟のタモツさんも同様に機敏。物静かだが、なかなかきかない兄弟だった。でも、好んで喧嘩をするような人ではなかった。国太さんは小金井に引っ越された。床屋の親爺さんは恰幅のいい人、人付き合いもよく如才ない、もっとも床屋で愛想のないのは好まれないが。
床屋の親爺は黙って頭を刈るタイプと何だか訳のわからないとりとめのない話をする人もいる。国太の親爺さんは後者で、ある日、浜畑賢吉さんと同級の高原さんのお父さんが国太床屋に行ったと思いなさい。
「旦那、最近面白いことを私が始めましてん、結構、これが楽しいんでネ」
「何ですか、それは」
「ええ、旦那もご存知でしょ、チンチロリン」
「それは知らないな」
「丼ばちにサイコロを入れてチンチロリンて音がしてね、それで勝負するんで」
「ホー、それがおもしろいんですか」
「面白いもなにも、病み付きになりますよ、どうです旦那も」
「いやあ、それは結構ですよ」
「そうですか、そりゃ残念ですな、ところで旦那のご商売は?」
「え、うん、警察官です」
「だは、今のはご内密に願います」
嘘のような本当の話だ。子供のころ聞いた話だがいまだに忘れない。
商店街の人たちが仮装行列ならぬトラックの荷台に菊人形ならぬ人間人形で、街中を流して歩いたことがあった。上馬には駒沢寄りに神谷という布団屋さんがあった、その娘さんが一級下で駒中で共に学んだ。利発な娘さんだった。眼がきらきらと輝いていた。野沢の商店街に庄司布団店があり、その主人が菊人形ならぬ人間人形で、お富さんの与三郎を扮してトラックの上で見得を切った。顔は三木のり平が眼鏡を外したようだった。
それでも結構義理の拍手を貰っていた。辻辻に知り合いでもいたのだろう。そのトラック行列も遠く霞んで消えた。あの頃の元気な商店主たちも皆滅びたことだろう。遠く霞んだトラックのように、二度と戻らないのがあの頃。

2011-04-06

上馬の思い出7

子供だけに毎日何か面白いことはないかと探した。お祭りの露天商も楽しかったが銭がないとつまらない。商店街の催しの演芸はタダだけに始まる前から終るまでしがみついて見物した。
隣のフタバ電気のご主人が拡声器の設置からマイクのテストなどをしていた。「本日は晴天なり、ただいまマイクのテスト中」昔から変わらない音声試験、それを遠くで聞いて腕で○を作って知らせた。いっぱし役に立っている気分になれた。
SPレコードが回転し春日八郎のお富さんを繰り返し流した。針は鉄製だった。春日八郎は福島県会津坂下町の産、東洋音楽学校から江口夜詩(よし)に師事し昭和27年に、『赤いランプの終列車』で登場、昭和29年に飛ばしたのが「お富さん」、これは山崎正が作詞、作曲は渡久地政信、沖縄の産、最初歌手志望だったがキング(講談社)に移籍し作曲家として上海帰りのリルで爆発的ヒット、ディレクターの机の引き出しにしまいこまれたお富さんに作曲、これが空前の大ホームラン、春日八郎を知らないものはいないほどにさせた。その春日は67歳で死んだ。
生駒さんは春日八郎、三橋美智也のファンで、よく鼻歌を唄っていた。商店街の演芸に出た芸人で今でも覚えているのが暁伸とミスハワイ、これは夫婦漫才、売れないので易者に見てもらうと改名しろ、それで暁伸、それから当たりだすが、1951年、砂川捨丸・中村春代一座のアメリカ巡業に加えられ、立ち寄り先のハワイで見たフラやハワイアン・ミュージックからヒントを得て、独特の浪漫リズムを創案、帰国後コンビ名も『暁伸・ミスハワイ』に改めた。因みに、凱旋巡業では英単語混じりの浪曲漫才で売れ出すが、伸が喉を傷め大声を出せなくなったため、苦肉の策として、合いの手役のハワイが前にしゃしゃり出るスタイルに転向。ど派手なムームーに金髪パーマのカツラで、ヘチマ型のギロをこすり上げ、「行け!」、「いい声で歌わんかい!」と、伸をけしかけながら舞台狭しと立ち回り、甲高い声で「アイヤー、アイヤー」(ハワイ語で「さあ、行くぞ」の意味)を連発したところ、これが大受けを取るようになった。
恰幅の良いハワイが腰を振りつつ右往左往すれば、伸がその容姿を「♪立てばポストで、座ればだるま…」とこき下ろしながら、やおら「奥さん、明日も雨でンな」等と客いじりに移る、ペーソス溢れる芸風で一世を風靡した。オチは伸が「寝ぐらへ帰るダンプカー…」で締めた。
これは文句なしに面白かった。後年テレビに出るようになり、やはり誰が見ても面白い芸だと納得、暁が持つギターはアメリカ・テネシー州ナッシュビルのギブソン、世界のアーティスト垂涎の代物。

2011-04-05

上馬の思い出6

私の家は二軒長屋の二階建て、遠く瀬田まで眺めることができた。上馬の玉電停留所から6つ先の駅になる。一区間400㍍としても2キロも先だ。西日の当たる家で夕陽が富士山を照らし瀬田の森を黒々と映し出す。悪魔のような木だと思っていたもんだ。
隣の長屋には加藤さんという技工士がいた。慶応を出たと言っていたから慶応大学に歯学部があり技工師を養成したのだろう。
戦争で医師も歯科医師も不足して、技工師を短期養成して歯科医になった。あぶない歯科医の誕生だが、国家がそれを認めた。八戸に来て同様に衛生兵が外科医になったのを見た、あぶない医者だが結構はやっていた。世の中が落ち着くとその外科医もはやらなくなった。
私が生まれたのは昭和18年、小学校入学は昭和25年朝鮮動乱勃発の新聞を見た。何のことかわからなかった。
駒沢小学校によちよち通ったが、徒歩通学が辛くて玉電に無賃乗車をしてとっ捕まった話を書いたが、学校は楽しかった。子供の数が私たちから急激に増える、学校の施設が狭隘で生徒が入りきらない。どうしたかと言うと二部授業で、午前に登校するものと午後から登校するものに分れ、教室の有効活用。定時制授業のようなもの。
子供の頭は混乱する。近くの女の子が午後からの授業なのに、熱海湯の角を曲がって学校に行こうとする。生駒さんの家で遊んでいて、それを見つけて、大声で今日は午後からだよと教えたが、すたすたと歩いて行った。小さな身体に荷物が大きかった。
暫くするとヨタヨタしながら帰ってきた。その女の子は暫くして亡くなった。渡辺先生が葬式に行った話を子どもたちに聞かせた。空襲で死なずに生き残り、学校に行って死んでしまった。人生は何があるのかさっぱりわからないものだ。
右隣がフタバ電気で電気屋さん、お祭りがあると改正道路の歩道に小屋がけして商店街が芸人を集めた。芸人は商店街に買われたのだ。
その俄か小屋は近くのとび職、横溝さんが丸太を巧みに荒縄で縛って組み立てた。観客は改正道路に溢れて見るのだが、我々洟垂れは舞台の下に陣取って聞いていた。生意気にこの芸人は面白くないなどの批評をしていた。
その中には落語家の小金馬がいて、下手な腹話術などをしたもんだ、それが大看板の金馬を継いだ。もっともテレビ時代でNHKのお笑い三人組に出て名が売れ出した。生駒さんは小金馬をみて、こいつの兄弟子に凄いのがいたと教えてくれた。それが戦後間もなく一斉風靡した三遊亭 歌笑、笑いの水爆なんて珍奇な名前の持ち主、この人は進駐軍のジープにひかれてあっけなく死んだ。爆笑王の名を欲しいままにした。三平なんてのは大したことがない。この歌笑が創作した綴り方教室が柳亭痴楽に伝わり、これまた大ブームを呼んだ。この人の恋の山手線は傑作、上野をあとに池袋、走る電車は内回り、私は近頃外回り、彼女は綺麗なうウグイス芸者、ニッポリ笑ったあのエクボ、タバタを売っても命懸け、思うはあの子の事ばかり、我が胸の内コマゴメと、愛のスガモへ伝えたい、オオツカなびっくり度胸を定め、彼女に会いにイケブクロ、行けば男がメジロ押し、そんな女は駄目だよと、タカタノババァや新大久保のおじさん達の意見でも、シンジク聞いてはいられません、ヨヨギになったら家を出て、ハラジュク減ったとシブヤ顔、彼女に会えればエビス顔、親父が生きててメグロい内は、私もいくらかゴウタンダ、オオサキ真っ暗恋の鳥、彼女に贈るプレゼント、どんなシナガワ良いのやら、タマチィも宙に踊るよな、色良い返事をハママツチョウ、その事ばかりがシンバシで、誰に悩みをユウラクチョウ、思った私がすっトンキョウ、何だカンダの行き違い、彼女はとうにアキハバラ、ほんとにオカチな事ばかり、ヤマテは消えゆく恋でした、痴楽綴り方教室、この原型を作った歌笑のは豚の親子のキャベツ畑の夢、この人の活躍の頃を知らないがラジオで世間を大いに沸かせたという。生駒さんは良く知っていて、その解説はわかりやすく今でも覚えている。ラジオもNHKしかなく民放の開始は昭和26年12月東京放送が第一声を発した。

2011-04-04

昭和30年ごろの三茶商店街8


文華デパート側

上馬の思い出5

美空ひばり2
美空ひばりを世に出したのが川田晴久、この人は52歳で亡くなった。昔は短命な人が多く、六十歳になると皆で長寿を祝ったものだ。上馬には横溝という地主がおられ、生駒さんの路地を入った先に大きな家を持っておられた。
そこの御爺さんが還暦になってお祝いをしたと聞いた。六十の御爺さんはどんな人かと垣根から覗いたことがあった。
広い縁側で陽光を浴びて背中の丸まった赤いチャンチャンコを着た人が座っていた。我々はその歳をとっくに過ぎた。いまだにそういう境涯には恵まれていないのは有難いような情けのないような気もする。あくせくしながら死んでしまうのだろう。
その横溝さんのご隠居の家作に三茶小の横山先生が居住されていたことがある。この先生に三、四。五年の三年間を教えていただいた。背の高い物腰の柔らかい人で、顎を撫でる癖がおありだった。三茶小の徽章は横山先生が考案されたもの。先生は没したが徽章はいまでも燦然と輝いている。
あの頃の六十歳は戦争も潜り関東大震災もかわして、ようよう六十を迎えたの感慨があったのだろう。我々世代は戦後の混乱の中でもがきながら生きてきた。それがいまだに抜けないのか、どうも品格に欠ける世代のような気がする。
さて、川田晴久のことだが、脊椎カリエスで動けなくなり、三島でお灸でそれを治療中に戦争が終り、こうしちゃいられないと芸能界に復帰、復員してきた兵隊の頭には慰問にきた浪花節が残っていて、戦後しばらくは浪花節全盛、これを巧みに取り入れてギターを抱えてのボーイズ、この向こうをはったのがガールズ、これがかしまし娘、ひばりは一本で売れる芸人、一人では売れないのは二人で一組として売れる。売れる売れないというのは興行先に使ってもらえるか否か、それで売れる売れないとなる。りんごも一個幾らと一山幾らの差だ。二人でも売れないのがボーイズ、ガールズとなる。
川田晴久が属していたあきれたぼーいずには坊屋三郎、益田喜頓がいた。これが解散して川田晴久とミルクブラザースになり戦争が激化、川田もお灸に明け暮れたが、ギター抱えてダイナブラザースで復活、それに美空を加えたとなる。美空ひばりは母親が売り出そうとのど自慢にも出演させるが鐘がならない。戦後一大ブームを巻き起こした笠置シズコのブギ、これを美空が歌ったのが子供らしくないと酷評、実力はあれど審査員など一部の大人が足を引っ張った。
ところが川田は実力のある者が世の中に出るのは当然と、世間の批評をどこ吹く風、美空を舞台に引き上げた。それを美空は終生恩義に感じた。川田は時代の波に乗った人、美空は時代を作った人、この差は歴然としている。

2011-04-03

上馬の思い出4

美空ひばり
昭和12年横浜生まれの美空ひばりが売れ出したのは昭和23年、川田晴久が横浜国際劇場公演に使ったのが初め。川田晴久は川田義雄と名乗り、吉本興業であきれたぼーいずに参加、この人は東京根津の印刷屋の倅、テノールの美声、ぼーいずというのは楽器を持って登場し、こ洒落た文句を随所に入れて笑いをとるボードビリアン(寄席芸人)、伝統の落語・浪曲とは違うアチャラカで浅草がこの本場。
こうした芸能に詳しかったのが生駒さん、彼の家には講談全集があり、その面白さにひき込まれた。生駒さんの家は染物屋で熱海湯の前にあり、大きな家だった。染物は天日に曝すため、雨が苦手、そのため雨になると染物の反物をしまいこむ、それが屋根つきのひっぱりこみ。
学校の渡り廊下のようなもので、雨天でも遊べるガキ共の遊び場になった。生駒さんの店には長いカウンターがあり、そこに反物を拡げて染め具合を調べていた。大きなガラス戸があり、下半分が曇りガラスになっていた。
生駒さんの家には伝統の文化の臭いがあった。染物は着物、講談全集は芸能、また、道中差しが一本あった。これは幕末に武士ではない博徒や旅をする素人も持ったそうだ。大刀ほど長くなく脇差より長いものだ。
同様に刀があったのは米屋の松の木精米店、ここは中村さんと言う豪商の家、玉電通りにあった。いつもにこにこした痩せたお父さん、それから頭に丸い饅頭を載せた髪型のお母さん、この人は優しい人だった。見ている私らガキ共にも、「うちのクニオちゃんと遊んでくれてありがとう」と声をかけてくれた。
生活にゆとりがあったからだろう。実に品のいい笑顔の絶えない人だった。そんな中村さんのお父さんが亡くなった。
長男は青山学院に行っていたエイチャン、姉がソノコさん、ヒロシさんとクニオさんと4人兄弟だった。エイチャンはラグビーの選手だった。敏捷な体つきでいつもラグビーボールを抱えていた。私らには凄い兄貴分に見えたもんだ。
生駒さんのひっぱりこみの隣が白鳥さんの裏にあたり、空き地になっていた。晴れるとそこで何ということなしに遊んだ。
痩せたひょろひょろしたクルミの木が一本生えていた。三角ベースで野球をしたのを思い出す。毎日遊ぶのが仕事だった。自分のことしか考えていない。誰しも子供は皆同じだ。時代がどのように移ろうとも、自分のことだけ考えている時間は楽しいもんだ。長じて学校や勉強、就職に仕事と面倒なことが波のように襲ってくる。
それも定年退職した今となると、昔のあの子供の頃と同じで自分のことだけ考えていればいい。少し違うのは、あの頃は銭がなくても面白かったが、今は銭がないと時間つぶしができない。でも、これも発想の転換で図書館やゲートボールで遊べば、銭なくしても楽しめる、でも大きく違うのは木登りが出来ない、走れないと肉体の衰えが我が身の歳を教える。めっきり皺と白髪が増えたもんだ。
エイチャンにねだって空き地でラグビーボールを蹴ってもらった。蹴れば改正道路まで飛ぶといわれた。拾いに行くからと渋るエイチャンに更にねだった。
エイチャンが蹴った。ボールはすぐに見えなくなった。生駒さんの屋根を飛び越えた。皆でボールを探しに行った。熱海湯の前にボールはあった。
エイチャンはぼくらの英雄になった。エイチャンは美男子で鼻筋の通った人、弟のヒロシさんも白人のような鼻筋が高かった。一番下のクニオさんも男前だった。一人娘のソノコさんも宵闇に咲く月見草のような風情があった。
中村一族、松の木精米店、いつも玄米を精米するさらさらという音が店内に響いて活況を示していた。
それが小泉総理の時に規制緩和で誰でもが米と酒を売ることができるようになり、酒屋と米屋は金持ちの代名詞から廃業店へと変えさせられた。
世の中は悪くなっているのではないのだろうか。
我々は孫子に誇れる町を引き渡しているのだろうか。
生駒さんのタケちゃんは芸能に詳しかった。兄さんがいてカズオさんと言った。中学に入って猛勉強し青山高校に進学した。タケちゃんの家にある画報で世の中のことが少しずつ判った。美空ひばりのことも川田晴久のことも教えてもらった。
川田晴久の「地球の上に朝が来る」は浪曲の文句を真似したんだと言われて、ヘー、浪曲の三味線がギターにとびっくりした。ラジオから流れる川田の声に耳を傾けた。
蜂ぶどう酒が提供のラジオの時間をエーイ楽しみにと言う文句に、なるほどタケちゃんが言う通り、これは浪花節だと思った。

2011-04-02

昭和30年ごろの三茶商店街7


斉藤米屋からカトータイヤまで

上馬の思い出3

上馬は上馬引き沢の上の二字を読んだもの。下馬も同じく下馬引き沢、駒沢、駒留など馬に由来する名前が多い。駒留神社は八幡太郎義家が馬を留めたからと伝えられた。駒繋神社も同様だそうだ。私ら子供はカミンマ、シモンマと読んだ。
歩ける範囲が冒険の場で蛇崩川は格好の遊び場だった。
環七になった改正道路は上馬駅から野沢に向けて狭くなった。野沢は商店が稠密した賑やかなところだった。野沢の入り口に旭橋交番があった。
野沢の商店街は龍雲寺にかけて左側がドブ川で、商店に入るにも橋を渡るようになっていた。その一つが旭橋だった。旭橋交番の隣は津軽青果で唐牛という人が経営したいた、東京には珍しい名だが津軽に行くと結構多い名だ。からうしともかろうじとも呼ぶ。かみんま、しもんまの類だ。
紅いりんごが店頭に並び季節を明るく映し出していたが、一個幾らのりんごはとても高くて買えなかった。一山○円しか買ったことがなかった。
上馬駅は安全地帯がなかった。三茶駅の玉川寄りにも安全地帯はなかった。今思うと随分と危険だが当時はそれが当たり前だった。
野沢の入り口に進藤という肉屋があった。白い上っ張りを着たおかみさんが汗を流して働いていた。ひき肉が出てくるのが面白くていつも眺めていた。どうっていうことでもないが、子供にとっては面白かったのだ。忙しい店で夕方になると買い物客で行列を作った。
改正道路の入り口は左に小島屋という呉服屋、大きな店で隆盛を極めた。右の角が石橋酒店、ここも大きな店で後年、ここに街頭テレビが置かれプロレスが見れるようになった。
当時はラジオがあったが、紅孔雀も笛吹き童子も面白かったが聞くより見る喜びの方が大きかった。
人間の欲望は子供でも大人でも同じだ。改正道路には栃の木の並木があり、そこに上って遊んだ。その木に大人の親指の太さもある毛虫がわく。そんな毛虫とも遊んだ。なにしろ遊べるものなら何でもいい。秋になると栃の実がなったが、食べられないと教わったが縄文人はこれをすりおろしてアクを抜いて食べたそうだ。
石橋酒屋の隣は日の丸薬局、ここには美人のベティさんのような朗らかなおかみさんがいた。戦争未亡人だったような気がした。ここに美人姉妹がいて加納さんと言ったと思う。妹の方が浜畑賢吉さんと中学校で同期だと思うが定かでない。ここの娘が連れ立って歩くと野原に一斉にたんぽぽの花が咲いたような華やかさがあった。
この日の丸薬局はエスエス製薬の薬を売っていた。野沢には大正製薬の薬屋があり、値段は高いが大正製薬の方が効くと言われた。
日の丸薬局の脇に横丁があり、磯崎さんの家の方に続いた。その角にあるのが熱海湯で片田さんが経営していた。郵便夫が我々ガキ共に聞いた。この家何処だか知らない?
熱海湯が片田さんとは我々ガキ共は知らなかった。風呂屋は熱海湯で片田さんとは知らない。子供はそんなもので知らなくとも何の痛痒もなかった。犬と同じで見えるもの、触れるものが全てだった。

2011-04-01

上馬の思い出2

三軒茶屋小学校の学区
三軒茶屋小学校は駒留中学校を改装したもの。階段に刻みを小学生並に低くする工事をみたことがあった。
新設された学校だけに方々の小学校から子供を移した。中里小学校、太子堂、駒沢、旭小からも来たのかもしれない。
三茶の交差点、世田谷通りから若林の改正道路まで、それに玉電を境として、世田谷通り寄りが含まれた。改正道路を境として三軒茶屋寄り全て、玉電上馬の駅から三茶駅までの世田谷通り寄りが全て包含された。
五年生が一番上で、四年生には浜畑賢吉さんがおられた。私たちは三年生で三茶小の生徒になった。
上馬の駅から真中、駒沢と二駅先に駒沢小学校があり、そこに通って行くのが遠くて嫌だった。電車道をノコノコ歩くのだが、電車に乗ろうと歩いている仲間を誘って玉電に乗り込んだ。勿論銭はない。上馬の駅に着いて真っ先に飛び降りた。無論無賃乗車だ。
あとから降りる大平さんや生駒くんが車掌にとっ捕まった。
どこの学校だが始まって、翌日先生に叱られた。
誰が電車に乗ろうと言い出したのかに、私の名が当然あがり、担任の渡辺先生に嘆かれた。
先生は叱りはしなかった。子供の足では少し遠いことを理解されていたのだろう。
だが、電車のタダ乗りはしてはいけないと諭された。
渡辺先生の家は中里にあった。山田瞳さんの近くだった。先生はどうも戦争未亡人のようだったが定かではない。もともとは家庭科の教師のようだった。駒沢小学校で佐藤先生というクラスにいたが、直ぐに一クラスを増やして、渡辺先生が担任になった。各クラスから少しずつ生徒が集められた。
渡辺先生の母親が中里駅から三茶小に向かうだらだら坂の右側、駅のごく隣でタバコ屋を営んでいた。このタバコ屋のことを土屋さんい聞くが、覚えておられないと言われる。
アーチャンに訊ねてもわからないと言う。先生にはご兄弟がおられ、妹さんは桜町高校に進学しておられた。桜町高校は駒場高校よりお嬢様学校だった。優秀な娘さんをたくさん輩出された。吉永小百合さんや加藤登紀子さんが出て、駒場の名が高まったが桜町高校の方が良家の子女が多かったように思う。
最近、中野義高さんと電話で話をする。それは上馬の地図を思い浮かべるために。私の家は上馬駅から改正道路を若林に向かい右側、生駒くんの並び、隣がフタバ電気、その先が安田道子さん、びわの木のある若林さん、江口さん、そして中野さん、樋口さんと並ぶ。改正道路は東京五輪で拡張され、中野さんの家も区画で削られた。
中野さんは24歳までそこにおられた。だから良く覚えておられる。樋口さんの家が今はガソリンスタンドになった。
中野さんも昔を思い出して、時折、三茶小界隈を歩くそうだ。年取ってくると昔恋しい銀座の柳、あだな年増を誰が知ろの西条八十の東京行進曲。
隣の江口さんは文部大臣賞だかを得た美術の上手な人、身体が弱かったのを長じて空手で鍛えたと中野さんが教えてくれた。
アーチャンは山本高義という。中野さんは義高、それがどういう縁かで山本さんに養子に行かれた。そして山本義高、アーチャンは山本高義、同じようなものだ。もともと小学校の仲間、似たりよったりだ。