2011-05-05

上馬の思い出30 ラジオの話6

飯川先生の家は改正道路を駒沢中学の方に入ったところにあった。ここは駒沢小の学区で、飯川君は越境入学であった。三茶小はもともとは駒留中だったものを子供が増えたので小学校に改造、形はコの字で、その上の辺の突き当たりに音楽室があった。音楽室の壁にはバッハ・ヘンデル・ベートーベンなどの名前の下に、長い羊羹のような線があり、その長さが生きた年数を現していた。川名君という飯川先生と同様に改正道路の駒沢小の学区にいた子が、それを眺めて短いのは嫌だなと洩らした。人生はあのような羊羹型なのかと思ったとき、この音楽家たちのように、後世に名を残すような仕事が出来るのだろうかと心配になった。
食糧事情が悪いころで、満足に楽器もなく、生徒が器楽合奏をするなどということは考えられなかった。私の家の近くに安田道子さんがいて、この人は賢そうな眼に力のある人で、和泉屋と松の木精米店の通りに筝曲を教えるところがあり、そこに通っておられた。江戸の名残がまだかすかに庶民の中に移り香のようにたゆとうていたのだ。その後、西洋音楽に興味をもたれてピアノに転じたような気がするが、音楽を良く解する人だった。この人に駒中の同期会でお逢いしたとき、息子さんが管楽器をされていると聞いた。やはり血かと思ったが、その後、息子さんが芸術家になったかは定かではない。
好きな道で生涯を送るということは、なかなか難しい。まして、芸術のようなものは景気が良くて人心にゆとりがなくては、なかなか音楽会に足を運ぶようにはならない。折角習得した技術も世俗の垢に塗りこめられてしまう。勿体無いことだ。
かつて浅草にエノケンを主体とした軽演劇があったころ、映画がまだ無声だった頃は、楽器を手にした演奏家が巷をウロウロできた。映画館や劇場が稼ぎの場だった。このころの話は永井荷風、高見順、そしてガス管を加えて自殺された川端康成の作品に散見できる。
アメリカでは今でもジャズハウスがあり、それなりに音楽家も飯が食えるが、日本人はどうしたものか、こうした文化を放擲してしまった。テレビ一辺倒の安直な喜びを手に入れたことで、ナマ演奏、ナマ舞台の楽しさを忘れてしまっている。拍手をすれば演じ手がそれに答えて会釈する、あるいははりきって演奏する、リクエストがいれられるなど、ナマの楽しさは芸人たちとの共感共鳴でしか味わえない。
それを忘れてテレビだけを見て、テレビに出ない芸人を卑下し売れていないと断定するが、ナマの面白さにはかなわない。天と地ほどの差があるが、現代人は金の使い方を知らないから生きている楽しみを半分も理解できない。芸人を大事にする風、これは江戸の昔から伝わってきたものだ。演劇・落語・浪曲・講談に限らず音曲・切子など工芸などの職人文化も同じ、どうも古いものを粗末にし、マスコミのお仕着せに慣れすぎている。
飯川先生は子供たちに音楽の楽しさを教えられた。「箱根八里」の解説をされたことを昨日のように思い出す。
この曲は明治34年に中学唱歌として発表、作詞は鳥居まこと、作曲は瀧廉太郎、鳥居は三河武士、山形22万石の大名家の子孫で安政二年東京産、東京音楽学校の教授を務めた。
瀧は明治12年東京の生まれ、父は日出藩の家老職、維新後は内務省官僚、廉太郎は15歳で東京芸大に進学、荒城の月、箱根八里、花、4曲からなる組曲『四季』の第1曲である。「お正月」、「鳩ぽっぽ」、「雪やこんこん」を作曲、明治34年欧州留学生となりドイツに渡るが肺結核を患い帰国、明治36年23歳で死去。惜しい才能だった。
この箱根八里の詩は漢詩を理解しないとわからない、それを子供たちにわかりやすく飯川先生は説かれた。武士をもののふということも、先生から教えていただいた。行進曲のように勇壮で歌っていて元気がでる。いまでも、この曲を唄うとき、飯川先生が傍らで鍵盤を押されているような温かな気になる。