2011-06-13

駒中の話16

ラジオに齧りついていた頃、東京放送で竹脇昌作ってアナウンサーが独特な語り口で「東京ダイヤル」のパーソナリティーをしていた。これに痺れたのが生駒君、竹脇は渋谷のパンテオンの地下に10円で観れるニュースだけを見せる映画館があり、同じフィルムを何度も見た。そのニュースのアナに竹脇がでると、途端に観衆がどっと沸く。それほど絶大な人気を得た人。
この人の倅が竹脇無我、温厚な感じで森繁と親子競演のテレビが人気になった。この無我氏は鬱病を患いしばらく仕事を休んでいた。親の昌作氏は48歳で自殺された。体調が思わしくなく、マダムキラーと呼ばれた看板番組も芥川隆行と交替、復帰も考えていたが、無収入で税金が支払えずそれを苦にしたと言われる。
インターネットで竹脇昌作の声を探した。あった、名調子を共に味わっていただきます。生駒君が見てくれると嬉しいのだが…。
あの埃くさい駒中の渡り廊下ですれ違うたびに「東京ダイヤル、竹脇昌作です」と言い合ったのを思い出す。
ラジオなしに中学時代を語れない。ラジオこそ世間を繋ぐ一筋道、いいことも悪いこともラジオから学んだ。エルビスの歌もダイアナのポールアンカも、皆、このラジオから飛び出してきた。音声だけだったが、それでも充分に楽しかった。それが、昨今は映像までインターネットで見られる。長生きはするもんだ。毛利君という駒中きっての秀才がいた。人品骨柄まことに供わった人、新宿高校から東大、そして朝日新聞、柳君が中学の時代に毛利君が書いた作文を見せてくれた。それは立派なもので大学生でも書けるだろうかと思うほど、まことに秀才の名に恥じぬ人、多くの同級生の女子の心をときめかせた。
色男で優秀、それも人も羨むような一流会社、さぞかしおもしろおかしい人生を送ったと思うが、世の中は不思議、ソ連が崩壊したとき、前途を悲観して自殺された。余りに頭のいい人物の考えることは凡人には理解しがたい。
中学生のとき、毛利君と擦れ違った。後ろに護衛の菊池君がついていた。「オイ、毛利」と声をかえたら、菊池君が割って入り、「毛利さんと言え、毛利さんと」と凄んだ。何を言っているのかと顔を見ていると、毛利君が「いいんだ、こいつはいいんだ」と声をかけた。菊池君は不承不承、渋面をつくったがそれきりだった。あんなに慕われていた毛利君が死んだ。牧山君は葬儀に出たという。惜しい人材だった。