2011-03-29

昭和30年ごろの三茶商店街5


下高井戸行きの駅側の紹介

三茶の思い出8

世田谷通りの地図をアーチャンが驚異的記憶力で詳細に記してくれた。それを見ると大英堂は茶沢通りの角から7軒目にあたる。ビンゴ店、文華デパート、たばこや、喫茶店エバタン、ペコちゃんのフジヤ、?、乾物屋、大英堂となる。この店は大正十一年に福井県丹生郡出身の和菓子職人・上野巍氏が開いた。三宿に砲兵連隊(十三部隊)ができ御用パンやになった。また、昭和十七年、池尻に三菱電機世田谷工場ができ、そこにもパンを納入と時代に乗り順調に業績を伸ばした。渋谷、四谷、大崎の明電舎内、経堂、不動前と続々と出店。不動前からは下北沢、馬込、明大前にのれん分けと大英堂全盛の時期を迎えたが経営者の高齢化、コンビニの出現で衰退、今は下北沢、馬込、明大前の三店のみ。我々が二十二、三のころだろうか、大英堂の二階にコンコルドっていう喫茶店があり、そこのマスターが高橋さん、なかなか粋な人、そこにアーチャンがバーテンで働いていた、アーチャンは中学出て三茶の小林紙業に勤めた、小林紙業は中里寄り、映画館の二三軒先、綿元の近くにあった。
 ここを辞めてコンコルドで働いていたのサ、そのマスターが唄の上手いアバタ面の痩せた娘といつも一緒だ。その娘を売り出したいと言うのがマスターの口癖。コンコルドは一日で七万円も売り上げる店、昭和三十九年の頃の七万円だ、当時のアーチャンの給料は月一万円、その盛況ぶりが判ろうもの。このマスターは横浜の人、電話局のそばの二階建てのアパートにその子と一緒に住んでいた。
 その子は昭和三十五年に日本コロンビア全国歌謡コンクールで2位、デビューを待ち構えている。録音すること十一曲、が、レコード化できるのは1位の人だけ。じりじりしながら機会を待つ、それを手助けし地方巡業、歌謡ショーなどの公演チケットをマスターは必死に売りさばく。アーチャンやチーフバーテンの関根さんたちにも割り当てがきて客や知人を拝み倒す。
 ところが、昭和三十八年、コロンビアに反旗をひるがえしたのが常務の伊藤正憲、これに美空ひばり、北島三郎、作詞家の星野哲郎、作曲家は米山正夫が付いた。その子も好機到来とばかり、この新会社、日本クラウンに移籍。ところが世の中は幸運というものが巡ってくるもんだ。一緒に移籍するはずだった畠山みどりがコロンビアに残った。当時、畠山は「恋をしましょう恋をして、浮いた浮いたで暮らしましょう」と恋は神代の昔からで昭和三十七年にデビユー、扇を片手に袴姿で大当たり、翌年の紅白歌合戦にも出演。この畠山が移籍しなかったため、星野哲郎が用意していた曲がこの子に当てられた。畠山の曲のためキーが高い、それをこの子が必死になって歌った。それがひたむきだと好評、人間はわからないものだ。どこにチャンスが転がっているかも知れない。死ぬまで前向きに生きることが正しいのサ。
 その曲の名かい? それは『涙を抱いた渡り鳥』。エッ? そうさ、そのアバタ面の痩せた娘は皆様ご存知の水前寺清子サ。そしてあれよあれよという間にビッグな存在になり、マスターの高橋さんの割り当てチケットも高額となる。こうなるとアーチャンも売れない額になった。今まで六百円のチケットが二千円だヨ。そして水前寺は紅白に出た。それが昭和四十年。そして年が明けた四十一年の寒々とした風が三茶を駆け抜け、商店街のシャッターを揺らすころ、高橋マスターは夜逃げサ、それを察知していたチーフの関根さんとアーチャンは新宿歌舞伎町コマ劇場近くのベネチアという店に鞍替え。アーチャンもそれ以来、水前寺とは逢っていないそうだ。今や大御所のチータも、その昔、九州熊本の商店街で化粧品店を経営していた父親が事業に失敗、夜逃げ同然で東京に、水前寺は洗足学園中学校に林田民子の名前で通ったのサ。それがどうして高橋マスターとできたのかはアーチャンも知らない。そしてマスターがその後水前寺と逢ったか、どう暮らしているか、今も生きているかも誰もしらない。成功する者、失敗する者、世の中は様々だネ。いいことも長続きはしないもの、悪いこともどこかで切れるものヨ。一喜一憂しないのが人生のコツ。でも、それが判った頃は高齢者になっちまったヨ。
 まるで高橋マスターが夜逃げした頃の、あの寒々しい月が冴え冴えとする大寒の頃が今の我々の年だネ。それでも、眼を閉じるとあの頃の三茶が浮かんでくるのサ。大英堂の隣は肉やで、通りを挟んで下駄屋、大●屋、今川焼き屋、又路地があって電話局だったネ。懐かしいナア。昨日のことはすぐ忘れるけど、あの小学生の頃の町並みは今でもはっきり思い出すと思わず呟くひとりごと。それに聞き耳立てた女房、「それはアンタが年取った証拠です」とは、ごもっともさまなれども腹が立つ。