2011-03-24

昭和30年ごろの三茶商店街2


お茶の梅原園からの続きです

三茶の思い出 3


五十嵐公利さん
五十嵐さんは植木先生のクラスで三組。いつもこざっぱりした服のかわいらしい子だったがきかない。アーチャンの家の傍で勉強家の兄がいた。この兄は東大から京大の医学部に進学し脳だか心臓を学んだ。
 アーチャンの家族はがっさつな職人集団、バイクを止めてエンジン吹かして大騒ぎ、五十嵐さんの兄貴に怒られた。五十嵐さんの親戚が山田風太郎、同じ三茶に居住。この山田風太郎も医者になるべく東京医専に進学するも作家になった。
 明治物を書かせると一風変わった味があった。この山田のもとに原稿を取りにきていた若者が後年、阿佐田哲也としてマージャン小説で一世風靡、当時は小説倶楽部の編集者として山田宅に通うが、ある日、書き上げた原稿を靴紐結んだ山田宅の玄関に置き忘れ大騒ぎとなる。三茶にも多彩な人物が埋没していた。
 五十嵐さんは新宿高校から東大、NHK。今でも夕方のラジオで元気な声を聞かせる。あの好男子、アラン・ドロンも真っ青な美男子も頭ずりむけのハゲにおなりだ。我々も歳をとりました。
 五十嵐さんの家は永井君の店の裏、永井君の店が判らない? それは私の家の隣だよ。へへ、世田谷通りの伊勢屋、これは川村さんの家、餅菓子屋だった。その近くに永井君の店があり土砂、セメントを販売、この店の倉庫で遊んでいてセメントの袋を踏み破り、永井君の兄貴にこっぴどく叱られたことがあった。永井君の隣にコロッケ屋があって、ここのは美味かった。
 思い出ってのはなんとなく懐かしくって甘酸っぱいような湿ったような、まるで母親の懐で甘えていたような、ほんのわずかな幸せな時なのだろう。
 確かにあったような無かったような、まるで夕焼け空に一番星を見つけたような、はかなげで遠くを眺めるようなもの、でも、あったよね、たしかに、私たちの記憶のなかに、いつまでも。